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18.君を想う
しおりを挟むおよそ九百年ほど前の遠い昔。
地図上の北に位置する小さな王国。
彼はその国の第五王子として生まれた。
豊かな国の象徴とも言える王城での生活に、保身のことしか考えない臣下たち。
環境に恵まれすぎたせいか、その頃の彼にとって日常の全てが退屈でつまらないものだった。
不満はなかったもの、常に何か物足りない気がしていた。
だが嵐は突然やってくるもので──彼女との出会いから世界は急激に形を変えていった。
「あの、私の顔に何かついていますか?」
彼女と初めて会ったのは、お忍びで町に出た時のこと。
容姿には自信があったので、王子という肩書きを伏せても女は寄ってきたが──彼女だけは、最初から違っていた。
「お花はいりませんか?」
城の召使いよりもずっと粗末な服を着た、ただの花売り娘。
一目惚れだった。
「花と一緒に君を持ち帰りたいんだけど」
「残念ながら、私はただの花売りです。そういう目的なら、そこのパン屋の角を曲がった路地裏でお探しください」
真面目に返されて、王子は思わず笑ってしまった。
お忍びで軽装とはいえ、汚れひとつない服を見れば身分の高さがわかるのだろう。
少女は緊張した様子で、顔を伏せていた。
その控えめな姿にますます好感を持った王子は、彼女が安心できる距離感を保ちながら告げる。
「君がいいんだ」
「無理です。お貴族様が満足するようなことはできません」
「じゃあ、花を全部買うから、僕と一日一緒にいてくれないかな?」
「一緒に……?」
彼女は警戒心が強かった。
それもそうだろう。
薄汚れた服を着ていても、彼女は目立つ容姿をしていた。
今まで言い寄られることも多かったはずだ。
それでも純粋な彼女は、王子の誘いの意味がわからないらしく、真っ直ぐな目で訊ねた。
「一緒にいて、どうするんですか?」
「とりあえず、一緒に食事がしたいな」
「私と食事をして、何が楽しいんですか?」
はっきり物を言う人だった。普通の男なら、生意気だと思うかもしれないが、王子にとっては、そのサッパリとした物言いも好ましかった。
「僕には友達がいないから、食事をしながら一緒に話がしたいんだ」
「なるほど……それなら少しわかります」
しっかりしている、かと思えば意外なほど無垢な彼女。
穢れを知らない少女だということは、すぐにわかった。
「花をすべて買ってくださるなら、食事をしましょう。ただし、食事は私が作ります」
「君が作るの?」
「私のような者が作る食事はお嫌ですか?」
「いや……高級料理店に連れていけとは言わないんだね」
「私のような身なりの者が、高級料理店になんて行けません。マナーも知りませんし」
「だったら、服も買ってあげよう」
「いえ、けっこうです。一度きりの食事のために、服なんていりません」
「なるほど」
一度きり、という言葉が王子の胸に刺さった。
彼は一度きりにするつもりなどなかった。
この時すでに王子が恋に落ちていることに、花売り娘は気づいていないだろう。
なかなか手強い相手だとは思ったが、手に入りにくいものほど燃えた。
どうすれば彼女の心を掴めるのか、そんなことばかり考えていた。
他人のことをこれほど長く考えたことなど、今まで一度もなかった。
それから王子は、花売り娘に会うため、町におりることが多くなった。
最初は隙を見せなかった彼女も日毎に打ち解けて、笑顔を見せてくれるようになった。
「——やあ、今日も会ったね」
「またあなたですか。毎日毎日よく花を買いますね」
「今日も食事はできる?」
「あなたは本当に寂しがり屋さんなんですね」
鈍感な彼女は、毎日食事に誘ったところで、彼の気持ちには気づかなかった。
だからといって、無理やりものにしようなどとも思わなかった。
そんなことをして、彼女の心に傷を作りたくはなかった。
だから彼女の知り合いすべてを懐柔した。すると、周りも王子のことを応援した。
そして長い時間をかけて彼女の懐に入った王子は、ようやくそれを告げた。
よく晴れた冬の日。
その日も彼女は町の片隅で花を売っていた。
王子は城から持ってきたコートを彼女にかけながら、その耳にそっと囁く。
「僕は君が好きだ」
「……え?」
「今日は持っている花だけでなく、君という花も手に入れたい」
「私は……花というほど良いものでもないと思いますが」
「いや、僕には君しかいないんだ」
「それは、あなたには私しか友達がいないからでしょう?」
「違うよ。僕は君を愛しているんだ」
目を見てハッキリ言えば、彼女は頬を赤らめて俯いた。
──ああ、可愛い人。早く僕のものになってほしい。
「返事はすぐじゃなくていい」
そう言うと、彼女は少しだけホッとした顔をしていた。
それから彼女は色んな人に相談したようだが、皆彼と一緒になることをすすめてくれた。いや、すすめるように仕向けた。
おかげで彼女の決心は固まり、ほどなくして良い返事をくれたが、ここにきて一つ問題があった。
彼はまだ、自分の素性を彼女に伝えていなかった。
だが王子はすぐには告げなかった。
それから彼女と甘い時間が過ごせるようになるまで時間がかかった。
男というものを知らない彼女は、王子と触れ合うことに戸惑っていたが、徐々に慣らしてから奪った。
そこからは、何かと言い訳を作って彼女と睦み合った。
これでうまく彼女を手にいれたと思っていた。
だが、王子は甘かった。
「あなたは王子様だったのですね」
その日は突然やってきた。
「……どうしてそれを?」
「王子様の生誕パレードを見かけたんです。あなたそっくりな人が手を振っていました」
「だから嫌だと言ったのに……」
派手好きのナルムート宰相が立案したパレードだった。
宰相も彼女との恋を応援してくれたが、詰めの甘い男だった。
「私のような平民をからかって楽しかったですか?」
「からかったわけじゃない」
「じゃあ、なんなんですか?」
「言っただろう? 僕は君を愛しているんだ」
「でも、身分が違いすぎます……」
彼女は実に現実的な人だった。普通の少女なら王子様と聞けばおとぎ話のような結末を想像して喜ぶものだが、彼女は違っていた。
「きっと国王陛下は私を邪魔に思うでしょう」
「あ、それは大丈夫だよ」
「何が大丈夫なんですか?」
「君のことを気に入ってるみたいだから」
「どうしてそんなことがわかるんですか?」
「それは、お忍びで君に会いに来たからだよ。覚えてない? 四角い顔で髭の長いおじさん」
「え? あの人は薪売りのゲンさんじゃ……」
「というのは仮の姿で、僕の父上だよ」
「えええ!?」
「僕が王子でも君は何も心配しなくていいんだよ」
「……でも、私が王子様と一緒にいることで、不満に思う人もいるんじゃないでしょうか」
「そういった人間は僕が潰すから、問題ないよ」
「潰すって……」
「だから君は、僕と愛し合うことだけ考えていればいいんだ」
王子は彼女を安心させるよう、優しく抱きしめた。
その後、恐ろしい事件が起きるとも知らずに──
***
前世の王子は、本当に浅はかな人間だった。
まさか彼女が殺されるなんて、予想もしていなかったのだから。
そして今度こそ守りぬくと決めたはずが、現世のリアは秋斗から離れようとしていた。
「やっぱり秋斗とは付き合えない」
その言葉を聞いた時、秋斗は目の前が真っ暗になった。
絶対にそれだけは言わせないように必死で彼女を守っていたつもりだった。
リアは近いようで、いつも遠い場所にいた。
常に秋斗を遠ざけようとしていたことは、秋斗もわかっていた。
それなのに、秋斗自身が彼女を怖がらせた。
次にどんな顔をして彼女と会えばいいのかもわからなかった。
(──こんなに愛しているのに、どうすれば届くのだろう)
自室の小窓から夜空を見上げながら、秋斗は儚い顔で笑った。
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