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42.好きのしるし(2)
しおりを挟む卒業まであと十一日。
相変わらず人の少ない学校にやってきた私——彩弓は、音楽室に直行する。
もしかしたら、伊利亜がいるかと思ったが、案の定、あいつがいるはずもなかった。
「あれ、彩弓? どうしたの? 暗い顔して……」
音楽室にいたのは、健だけだった。
尚人がいないことに、なんとなくほっとした私だが、健はそんな私を見て不思議そうな顔をしていた。
「実は、伊利亜を怒らせてしまったんだ」
「ああ、いつものことだね」
「いつもと同じじゃない。今回はもう三日も口を聞いていない」
「彩弓、何したの? まさか尚人とデートしたから?」
「ああ、そうだ。健の言う通り、言わない方が良かったのかもしれない」
「でもいつかはバレることだから(尚人が言いふらすし)、黙ってるのも良くないかもね」
「じゃあ、私はどうすれば良かったんだ?」
尚人にしょぼい団長と言われて、黙っていられず、売り言葉に買い言葉でデートしたわけだが、何が悪いのかよくわからなかった。
「そりゃあ、彩弓が尚人とデートしなければ怒られることもなかったと思うけど……彩弓は脳筋だから仕方ないよね」
「でも、健と二人で映画に行った時は怒られなかったぞ」
「僕って本当に眼中にないよね。いいけどさ」
「もうすぐ卒業だというのに、このまま終わってしまうのか……?」
「せっかくここまで我慢したのに、こんな形で別れるのは伊利亜も不本意だと思うけどな」
「我慢? 何を我慢しているんだ?」
「さすがにもうわかってるでしょ?」
「わからないから聞いているんだ」
「そういうことは、ルアちゃんにでも教えてもらうといいよ」
「我慢……か」
「我慢とは、いったいなんのことだろう——あ、伊利亜を発見!」
ルアのいる教室に向かうため廊下を歩いていたところ、伊利亜に遭遇した。
私は慌てて声をかけるが、伊利亜は相変わらず知らない顔をして去ろうとする。
「伊利亜!」
「……」
「無視はいかんぞ! そういうのは喧嘩じゃなくてイジメと言うんだ」
「話しかけてくるな」
足を止めない伊利亜と、私は並行して歩く。足の長さの差か、やや私の方が小走りになった。
「尚人とデートすることは、そんなに悪いことなのか?」
「俺はもう嫌なんだよ」
「何がだ」
「お前が別の男と笑っている姿を見るのは」
「なら、笑わなければいいのか?」
「そうじゃない。俺はお前が思っているほど寛容な人間じゃないんだ。このままだと、本気でお前を縛り付けたくなるから……一緒にいない方がいいのかもしれない」
「一緒にいない方がいいとはどういうことだ? 私は伊利亜と一緒にいたいぞ。なんでも言うことを聞くから、無視だけはやめてくれ」
「なんでも言うことを聞くとか言うな。そんな簡単に自分を差し出すようなお前は好きじゃない」
「じゃあ、どうすればいいんだ? どうすれば伊利亜は笑ってくれるんだ?」
「もう俺にもわからない」
立ち止まった伊利亜の顔を、私は思わず覗き込む。
伊利亜はなんだか辛そうな顔をしていた。
「伊利亜?」
「俺たちはいったん、距離を置いた方がいいのかもしれない」
「どうしてそんなことを言うんだ?」
「俺はお前に自由でいてほしいからだ」
「私はいつだって自由だぞ? 尚人とのことは謝るから、許してくれ」
「違う。全てがお前のせいじゃないんだ。俺は最低だ……お前を自由にしたいと言いながら、本当は——」
「彩弓」
伊利亜が言いかけた時、ふいに後ろから馴染みの声がする。
「尚人」
振り返ると、尚人がこちらに向かって手を上げていた。
喧嘩の発端が尚人とのデートだったこともあり、なんとなく私が気まずくなる中——何も知らない尚人はこちらに駆け寄ってくる。
「どうしたの? こんなところで二人とも」
「あ、待ってくれ、伊利亜! まだ話は終わってないぞ!」
尚人の顔も見ずに去ってゆく伊利亜の背中に手を伸ばすもの、伊利亜はあっという間に廊下の先へと消えていった。
「ごめん、俺が邪魔しちゃった?」
「いや、私のせいなんだ」
「何があったの?」
「……なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないよ」
「私は帰る」
「彩弓?」
「すまない、尚人。伊利亜と仲直りするまでは、尚人とは一緒にいられない」
「どうして? もしかして俺のせいで喧嘩してるの?」
「……そうじゃない」
「そうなんだね?」
「……」
「彩弓は伊利亜のことが本当に好きなの?」
「ああ、もちろんだ」
「じゃあ、なんで俺とデートしたの?」
まっすぐ目を見て問われて、私は少しだけ気後れしてしまう。
「そ、それは……サシで勝負と言われたから」
「こんなことくらいで怒るようなら、彩弓はこの先も苦労すると思うよ」
「苦労も乗り越えてこその愛だ」
「彩弓がそう思っても、伊利亜は無理じゃない?」
「どうしてだ?」
「伊利亜の気持ちは、俺にもわかるから」
「尚人にはわかるのか? 伊利亜の気持ちが?」
「ああ、この分だと、卒業してもあいつは彩弓のことを汚すことができないかもね。あいつは彩弓を束縛することもできないくらい、彩弓のことを考えてるから」
「私のことを考える?」
「恋愛って、多少身勝手でも我儘でもいいと思うんだよね、俺は」
「……私にはわからない」
「だろうね。だったらさ、こういうのはどう?」
「なんだ?」
「俺と付き合ってるふりをするんだ」
「な、なんてことを言うんだ? 二股なんて私にはできんぞ」
「二股はジュニアとすでにしてるでしょ?」
「そ、それは……」
「いなくなって初めてその大切さがわかるんじゃない? 伊利亜も」
「……なるほど。言いたいことはわかるが、あまり気持ちの良い作戦ではないな」
「伊利亜の目を覚まさせたいなら、そうするしかないよ」
「……本当に上手くいくのか?」
「俺に任せてよ」
***
「それで、つきあうと言っても……私は何をすればいいんだ?」
学校帰り。尚人と一緒に帰り道を歩く私は、伊利亜を振り向かせる作戦に躍起になっていた。
「いつも通りでいいんじゃない? 俺も自由な彩弓が好きだし」
「だったら、新しい衣装を作ったから着てくれないか? たくさんあるんだ」
「彩弓も好きだね」
「伊利亜はいつもたくさん着てくれたんだ」
「じゃあ、俺も着るよ」
「よし、ならうちに来るか? 今日は姉もいないし、着替えし放題だ」
もうすぐ決算期ということもあって、姉が残業で遅くなることを思い出した私は、そう提案するが、尚人はなぜか驚いた顔をしていた。
「お姉さんがいないってことは、二人きりなの?」
「ああ、いつものことだ」
「それで伊利亜は今まで手を出さなかったんでしょ? えらいよね」
「そういえば、あいつ以外の異性と二人きりになるのはマズイな」
「俺とつきあってるふりをしてるんだから、二人でいてもおかしくないよ」
「そうか?」
そしてうちのマンションに尚人を招待した私は、新しく仕入れたぬいぐるみを尚人に自慢した後、戦って遊ぶようお願いしたのだった。
「現れたな! 怪盗RJ、今度こそ私が捕まえてやるぞ!」
「俺は簡単には捕まらないよ」
「くそう、こいつ……すばしっこいやつめ!」
「俺を捕まえられるなら、捕まえてみなよ」
「なら変身だ!」
「え? ジュニアって変身するの?」
「ああ、ジュニアは変身したら、空を飛べるし、超能力も使えて、百万馬力になるんだ」
「それってなんかずるくない?」
「ずるくなんかないぞ! ジュニアの真の力だからな」
「へー」
「さあ、変身したぞ! これで私の勝ちだな」
「それはどうかな?」
尚人はそう言うと、正面から私を抱きしめた。
「な、なんだ!?」
「こうすれば、ジュニアは何もできないでしょ?」
「こ、これは反則だぞ!」
「ねぇ、つきあってるふりはどこまでOKなの?」
「どこまでとは…?」
「キスしてもいいかな?」
ダメだ、と言う前に唇を寄せてきた尚人に、私は思い切り頭突きした。
「いてて……頭突きなんてひどいよ」
「今は人形で真剣勝負しているんだ! そんなことをしている場合じゃないぞ」
「彩弓、震えてるね。怖かったの?」
「私はしょぼい団長じゃないからな。震えてなどいない」
「彩弓ってしょぼい団長って言葉に弱いよね」
「な、なんのことだ」
「健から聞いたよ。一緒に映画に行った時、『しょぼい団長なんかじゃない』ってうなされながら寝てたって」
「……私はそんな寝言を言っていたのか?」
「もしかして、誰かに言われたの?」
「いや、夢でよく言われるんだ。伊利亜に」
「伊利亜はそんなこと言わなそうだけどね」
「だからこそ、怖いんだ。いつか私がしょぼい団長だということがバレてしまいそうで」
「え?」
「な、なんでもない」
「大丈夫、彩弓はしょぼい団長なんかじゃないよ」
「だが、ダメなんだ……伊利亜を前にすると、私は……」
「彩弓は伊利亜が怖いの?」
「そんなことはない。私はしょぼい団長なんかじゃないからな」
「今は伊利亜もいないし、素直になってもいいんだよ?」
「だが……」
「彩弓は伊利亜がどう怖いの?」
「……触れたいけど、触れたくないんだ」
「触れたいけど、触れたくない?」
「そうだ。触れてしまったら、何かが壊れてしまいそうで」
「そっか…彩弓は大人になるのが怖いんだね」
「私は最初から大人だ」
「伊利亜もそんな彩弓の気持ちを理解してるから、手が出せないんじゃなくて、出さないのか……」
「え?」
「ほんと、おかしな二人だね。だからこそ、つけいる隙があるんだけど」
「尚人?」
「ねぇ、触れたその先に何があるか、俺と試してみない?」
「触れたその先?」
「そうだよ。きっと素晴らしい何かが待ってるよ」
「素晴らしい何かとは、なんだ?」
「それは触れてからのお楽しみだよ」
そう言って、尚人は不意打ちのキスをした。
思わず狼狽えて、逃げようとする私を、尚人は掴んで離さなかった。
「……っ、何をする!」
「彩弓、他人のぬくもりを知るって素敵なことだと思わない? 俺は、彩弓に触れられて幸せだよ」
「わ、私は……」
「今度は伊利亜に見せつけてやろうよ」
「何を言うんだ!」
「そのくらいしないと、伊利亜はきっと気づかないよ。彩弓の優しさにあぐらをかいて、悲しませるようじゃ、恋人として失格だよ」
そう言って笑みを浮かべる尚人に、なんだか寒気がした私は、着せ替えをやめて解散することにした。
最初は帰るのをしぶった尚人だが、私が本気で怒っていることを伝えると、仕方なさそうにマンションを出た。
***
「……あんた、どうしてここに?」
彩弓の家から追い出された尚人は、エントランスを出たところで伊利亜に遭遇した。
伊利亜はあからさまに警戒していたが、尚人はふっと息を吐くように笑って言い返す。
「俺は彩弓と一緒に遊んだだけだよ。それより、伊利亜こそどうしたの? もしかして、彩弓に謝りに来たの?」
「……」
「図星だね。けど残念だったね。今日は俺が彩弓をもらったから」
「それはどういう意味だよ」
「さあ、どういう意味だろうね」
「あら二人とも、こんなところでどうしたの?」
拳を握る伊利亜の横を、尚人が何食わぬ顔で通り過ぎる中——予定より早く帰ってきた友梨香を見て、伊利亜もマンションから離れたのだった。
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