闇鍋という名の短編集

悠木全(#zen)

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人魚の罠

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 茉莉奈まりなは堤防で海を眺めていた。
 舞台役者として一緒に働いている人を好きになって、毎日来るようになった海。彼は海が好きで、堤防から海を見ていると、どうしようもなく胸が騒ぐと言った。茉莉奈はむしろ見ていて穏やかな気持ちになるのだが、彼が言った意味が知りたくて一緒に通うようになった。

 だがそれも、もう終わりだろう。彼は茉莉奈ではない人にプロポーズしたという。いつも海を見て寂しそうにしていた彼が、誰かと付き合っていたことに驚きだが、茉莉奈をこんなにも好きにさせておいて、他の人のところに行くのは狡いと思った。毎日海に誘っていたのは、なぜだったのか。彼も同じように茉莉奈に気持ちがあったのだと思っていたのに、予想は外れて、独りよがりな悲しさが残っただけだった。

「おめでとう、海斗かいとさん」

 悔しいながらも、ふっきれるために祝福の言葉を口にする。
 すると、誰もいないはずの海から、声が聞こえた。

「やあ、お嬢さん。なんだか悲しそうな声をしているね」

 声は、テトラポットの後ろから。
 海の中にいるのだろうか? こんな冬の海に潜るなんて、とんでもない人間がいたものだと思っていると、男の声はさらに言った。

「もしかして、失恋かな? 辛い恋をしているんだね」

「どうしてそんなことがわかるの?」

 図星をつかれて、茉莉奈は思わず見開いた。海から声が聞こえるだけでも不思議だというのに、茉莉奈の心を読まれたのは、もっと不思議だった。

「そりゃ、ここに来る人は、たいてい恋で悩む人ばかりだから」

「そっか……そうだよね。一人で海に来るなんて、変よね」

 クスクスと小さな声で笑えば、海にいる何者かも笑った。ヒヒヒ、と変な笑い方をしていたが、茉莉奈は気にしなかった。茉莉奈の大好きだった彼も同じような笑い方をしていたから。きっとそういう笑い方をする人も、世の中にはいるだろうと、その程度に思っていた。

 そしてテトラポットの裏にいる彼のことが気になった茉莉奈は、堤防でかがみ込むと、逆に聞いてみることにした。

「あなたは、どうしてそんなところにいるの?」

「そりゃ、俺の家がこの下にあるからだよ」

「この下? どういうこと? 下は海よね?」

「そうだよ。この下には人魚の巣があるんだ」

「え? 人魚?」

 そこまで聞いて、さすがの茉莉奈も噴き出す。面白い人だと思った。大好きな彼のことも忘れて、その人に興味を持ち始めた茉莉奈は、テトラポットに話しかける。

「ねぇ、姿を見せて」

「いいよ」

 意外にもあっさりと答えた彼は、すぐに出てくるかと思えば、そうではなかった。テトラポットから手だけ出して、振ってみせる。

「見せるから、近くに来て。マリナ」

「どうして私の名前を知っているの?」

 茉莉奈は不思議に思いながら、テトラポットに近づく。そして、テトラポットに足を運ぼうとした、その時だった。

「——茉莉奈!」

 後ろから強く腕を掴まれた茉莉奈は、堤防に引き戻された。振り返れば、焦った顔をする大好きな人——海斗がいた。
 海斗は走ってきたのだろうか。息をきらしていたが、そのうちテトラポットを睨みつける。

「マリナに何をするつもりなんだ」

「ヒヒヒ、やあ海斗くん。君の大事な人は、とてもかわいいね」

 テトラポットから笑い声が聞こえる。すると、海斗はみるみる青ざめていく。

「まさか、茉莉奈を連れていくつもりなのか?」

「さあ、どうだろう」

「やめてくれ! 茉莉奈は……俺の大事な人なんだ!」

 海斗が予想外の言葉を放つと、茉莉奈は両手で口を覆って見開いた。他の人にプロポーズをしておきながら、茉莉奈を大事な人と呼んだ彼を、ますます憎らしいと思う反面、嬉しかった。
 すると、海斗は自分の失言に気づいた様子で、茉莉奈から顔を背けた。

「まさか、こんなことを……言ってしまうなんて」

 海斗が後悔した顔をしていることに、茉莉奈は衝撃を受ける。
 海斗は本気で茉莉奈のことが好きなのだろう。その事実を知って、狼狽えずにいられなかった。
 そしてしばらく悩んでいた海斗だが、ようやく茉莉奈の顔をみたかと思えば、悲しい目をして告げる。

「やっぱり、気持ちを隠すというのは難しいね。ごめん、これから悲しい思いをさせるけど許してほしい」

 きっと、今の彼女と別れられないからそんなことを言うのだろう——そう思っていた茉莉奈だが。海斗の言う意味をすぐに理解することになる。
 なぜなら海斗は、そのすぐ後に泡になって消えてしまったからだ。
 まるでシャボン玉のように儚く消えた大好きな人。

 突然のことに、恐怖を感じた茉莉奈が悲鳴をあげる中、またもやヒヒヒ、と笑い声が聞こえた。そしてテトラポットの裏から、さらに声が聞こえる。

「バカだな……海斗は。恋を成就させれば泡になると、何度も忠告したのにな」

 テトラポットの裏から、ポチャンと水が跳ねる音がする。それ以降、声が聞こえることはなかった。
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