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黒いふさふさ
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それは部屋の隅にいた。狭いアパートの畳の上に転がっている何か。黒い毛がふさふさと生えていて、目が二つあった。口は大きく裂けていて、つららのように尖った歯を剥き出しにしていた。拳ほどの大きさなのに、存在感の強いそれは、絵夢の目を惹きつけた。それは最初、父親に怒鳴られた時に現れていたが、そのうち何もない時でも出現するようになった。
不思議なカタマリ。絵夢が中学校で黒いそれの話をしたら、クラスメイトたちに笑われるだけだった。嘘ではなくても、見ていないものを信じる者はおらず。いつしか絵夢は孤立するようになった。
今日も絵夢は学校から帰るなり、学ランを脱ぐと、父親が着古したトレーナーとズボンを着込んだ。ボロ切れのような服だったが、裸よりはマシだろう。そう思って着ていた。
着替えている間も、その黒いふさふさはずっと部屋の隅にいた。絵夢を威嚇するような目で、じっと見ていることにも気づいている。だから、絵夢は夕食にとっておいたパンの耳を差し出して、近づいてみる。黒いふさふさはますます怒った顔をする。
絵夢はどうして黒いふさふさが怒っているのかわからなかった。そのうち絵夢の腹が鳴き、仕方なくパンの耳を頬張る。砂糖すらない家なので、そのまま食べるしかなかった。アパートの下がパン屋なので、お腹が空いた時はパンの耳をもらうことにした。
父親は食事代をくれないので、もう十年くらいはまともな食事をしていない。今は学校の給食があるので、なんとか食事にありつくことができるが、高校に上がることを考えるとゾッとした。
絵夢の成績であれば、奨学生として授業料を免除してもらえると、先生は言っていたが、高校生になって必要なのは授業料だけではないことを絵夢は知っている。
何にどれだけお金がかかるかもわからないので、バイトしてもおいそれと使うわけにもいかないだろう。昼食代も節約しなければいけないかもしれない。そうなると、どうやって生きていけばいいのか、絵夢にはわからなかった。
「高校には行かない方がいいのかな」
ふと、絵夢は黒いふさふさに声をかけてみる。だがそれは、怒るばかりで、何もしなかった。ひたすらじっと耐えているように見えるそれに、絵夢は自分を重ねて見るようになる。
そしてそれからも絵夢は黒いふさふさを家族のように扱うようになるが——ある日のことだった。
絵夢が学校から帰ると、いつもほとんど家にいない父親が酒を呑んでいた。儲け話があるとかで、機嫌が良く。なぜか弁当を用意してくれていた。
絵夢は少し不安に思いながらも、弁当を食べた。すると、食べたことのない優しい味がした。
「どうだ、絵夢。うまいか?」
「……うん」
「それ食ったら、行くぞ」
突然穏やかな様子で話しかけてきた父親に、絵夢は驚いて見開く。なんだか嫌な予感がして、すぐには頷けなかった。
「行くって、どこに?」
「お前が知る必要はない」
「……いやだ」
「あ?」
「僕はどこにも行かない」
「お前、父親に逆らうのか⁉︎」
中学生にもなると、父親がどれだけろくでもない人間かがわかる。そして父親がどこに連れていこうとしているのかはわからないが、決して良い場所ではないだろう。そう悟った時、絵夢はアパートから逃げ出していた。
「こら! 待て!」
父親は酒でおぼつかない足では追いかけることができず。絵夢はあてもなく走った。走って走って、たどり着いたのは、母親の実家だった。
決して行ってはいけない場所。そう父親に言われていたが、どうしても会いたい人がいた。きっと自分のことなど忘れているだろうと思ったが、その人は絵夢を見るなり、大きく見開いた。
「まあ、どうして絵夢ちゃんがここに?」
「おばあちゃん、助けて」
母親が亡くなってから、祖母とは年に一度しか会えなかった。それでも絵夢のことを気にかけてくれていることを、絵夢は知っていた。本当は迷惑をかけたくなかったが、子供の絵夢には他にどうすることもできなかった。
「絵夢ちゃん、あなた——」
「逃げたらどうなるか、わかっているだろうな!」
背中で怒鳴り声を聞いた。
振り返れば、父親がいた。絵夢の行動を読んだのだろう。祖母の顔を見て、忌々しく吐き捨てた。
「裁判で負けたババアを頼っても、逃げられねぇんだよ」
「絵夢ちゃん、家に入ってなさい」
「でも」
「いいから早く!」
祖母に言われて、絵夢は実家のドアを開ける。一人暮らしの祖母の家には、猫が二匹いて、そしてなぜか黒いふさふさもいた。ふさふさはいつも以上に怒った顔をして、絵夢を睨んでいる。今にも噛みつきそうなふさふさに、絵夢は固唾を呑んだ。
そして外からは怒鳴り合う声が聞こえた。本当は、心臓の悪い祖母に負担をかけたくはなかった。だが、絵夢にはどうすることもできず。ただ、耳を塞いで居間で縮こまっていたが——突然、悲鳴が聞こえた。
絵夢は慌てて家の外に出る。すると、祖母が倒れていた。父親が狼狽える中、近所の人が祖母を介抱していた。どうやら、心臓の発作を起こしたらしい。それを見た絵夢は初めて怒りというものを感じた。歯をギリギリと噛み合わせ、まるであの黒いふさふさのように目を鈍く光らせた絵夢は、とうとう爆発する。
「お前のせいだ!」
怒りを燃やして睨みつける絵夢に、父親は珍しく狼狽えた。絵夢がこれほど怒ったのは初めてだった。
「警察に父さんが祖母を脅したと言います!」
絵夢が怒鳴ると、父親は忌々しげな顔をしながらも、その場を立ち去った。それから絵夢が何をしたかは覚えていなかったが——近所の人が救急車と警察を呼び、事情を伝えたのだった。そしてそのことがきっかけで、絵夢は父親から隔離されることになった。
結局、祖母と暮らすことはできなかったが、それでも成人するまでは、施設でまともな生活を送れるようになったのだ。
「お前、まだいたのか」
施設の二人部屋で生活をするようになっても、黒いふさふさはついてきた。部屋の隅にいるそれを見つけた絵夢は、苦笑する。すると、黒いふさふさは眠りについたのだった。
不思議なカタマリ。絵夢が中学校で黒いそれの話をしたら、クラスメイトたちに笑われるだけだった。嘘ではなくても、見ていないものを信じる者はおらず。いつしか絵夢は孤立するようになった。
今日も絵夢は学校から帰るなり、学ランを脱ぐと、父親が着古したトレーナーとズボンを着込んだ。ボロ切れのような服だったが、裸よりはマシだろう。そう思って着ていた。
着替えている間も、その黒いふさふさはずっと部屋の隅にいた。絵夢を威嚇するような目で、じっと見ていることにも気づいている。だから、絵夢は夕食にとっておいたパンの耳を差し出して、近づいてみる。黒いふさふさはますます怒った顔をする。
絵夢はどうして黒いふさふさが怒っているのかわからなかった。そのうち絵夢の腹が鳴き、仕方なくパンの耳を頬張る。砂糖すらない家なので、そのまま食べるしかなかった。アパートの下がパン屋なので、お腹が空いた時はパンの耳をもらうことにした。
父親は食事代をくれないので、もう十年くらいはまともな食事をしていない。今は学校の給食があるので、なんとか食事にありつくことができるが、高校に上がることを考えるとゾッとした。
絵夢の成績であれば、奨学生として授業料を免除してもらえると、先生は言っていたが、高校生になって必要なのは授業料だけではないことを絵夢は知っている。
何にどれだけお金がかかるかもわからないので、バイトしてもおいそれと使うわけにもいかないだろう。昼食代も節約しなければいけないかもしれない。そうなると、どうやって生きていけばいいのか、絵夢にはわからなかった。
「高校には行かない方がいいのかな」
ふと、絵夢は黒いふさふさに声をかけてみる。だがそれは、怒るばかりで、何もしなかった。ひたすらじっと耐えているように見えるそれに、絵夢は自分を重ねて見るようになる。
そしてそれからも絵夢は黒いふさふさを家族のように扱うようになるが——ある日のことだった。
絵夢が学校から帰ると、いつもほとんど家にいない父親が酒を呑んでいた。儲け話があるとかで、機嫌が良く。なぜか弁当を用意してくれていた。
絵夢は少し不安に思いながらも、弁当を食べた。すると、食べたことのない優しい味がした。
「どうだ、絵夢。うまいか?」
「……うん」
「それ食ったら、行くぞ」
突然穏やかな様子で話しかけてきた父親に、絵夢は驚いて見開く。なんだか嫌な予感がして、すぐには頷けなかった。
「行くって、どこに?」
「お前が知る必要はない」
「……いやだ」
「あ?」
「僕はどこにも行かない」
「お前、父親に逆らうのか⁉︎」
中学生にもなると、父親がどれだけろくでもない人間かがわかる。そして父親がどこに連れていこうとしているのかはわからないが、決して良い場所ではないだろう。そう悟った時、絵夢はアパートから逃げ出していた。
「こら! 待て!」
父親は酒でおぼつかない足では追いかけることができず。絵夢はあてもなく走った。走って走って、たどり着いたのは、母親の実家だった。
決して行ってはいけない場所。そう父親に言われていたが、どうしても会いたい人がいた。きっと自分のことなど忘れているだろうと思ったが、その人は絵夢を見るなり、大きく見開いた。
「まあ、どうして絵夢ちゃんがここに?」
「おばあちゃん、助けて」
母親が亡くなってから、祖母とは年に一度しか会えなかった。それでも絵夢のことを気にかけてくれていることを、絵夢は知っていた。本当は迷惑をかけたくなかったが、子供の絵夢には他にどうすることもできなかった。
「絵夢ちゃん、あなた——」
「逃げたらどうなるか、わかっているだろうな!」
背中で怒鳴り声を聞いた。
振り返れば、父親がいた。絵夢の行動を読んだのだろう。祖母の顔を見て、忌々しく吐き捨てた。
「裁判で負けたババアを頼っても、逃げられねぇんだよ」
「絵夢ちゃん、家に入ってなさい」
「でも」
「いいから早く!」
祖母に言われて、絵夢は実家のドアを開ける。一人暮らしの祖母の家には、猫が二匹いて、そしてなぜか黒いふさふさもいた。ふさふさはいつも以上に怒った顔をして、絵夢を睨んでいる。今にも噛みつきそうなふさふさに、絵夢は固唾を呑んだ。
そして外からは怒鳴り合う声が聞こえた。本当は、心臓の悪い祖母に負担をかけたくはなかった。だが、絵夢にはどうすることもできず。ただ、耳を塞いで居間で縮こまっていたが——突然、悲鳴が聞こえた。
絵夢は慌てて家の外に出る。すると、祖母が倒れていた。父親が狼狽える中、近所の人が祖母を介抱していた。どうやら、心臓の発作を起こしたらしい。それを見た絵夢は初めて怒りというものを感じた。歯をギリギリと噛み合わせ、まるであの黒いふさふさのように目を鈍く光らせた絵夢は、とうとう爆発する。
「お前のせいだ!」
怒りを燃やして睨みつける絵夢に、父親は珍しく狼狽えた。絵夢がこれほど怒ったのは初めてだった。
「警察に父さんが祖母を脅したと言います!」
絵夢が怒鳴ると、父親は忌々しげな顔をしながらも、その場を立ち去った。それから絵夢が何をしたかは覚えていなかったが——近所の人が救急車と警察を呼び、事情を伝えたのだった。そしてそのことがきっかけで、絵夢は父親から隔離されることになった。
結局、祖母と暮らすことはできなかったが、それでも成人するまでは、施設でまともな生活を送れるようになったのだ。
「お前、まだいたのか」
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