闇鍋という名の短編集

悠木全(#zen)

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歌声

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 僕には密かな楽しみがある。家の近くを通る度に聞こえてくる、柔らかくて高い声。歌を歌うのが好きなのだろう。いつもいつも、学校帰りに聞こえてきたのは、ピアノの弾き語りらしき声だった。

 初めて聞いたのは、失恋の時だった。中学三年生になったタイミングで、幼馴染に告白した。だけど、現実はラノベのようにはうまくいかなくて、あっさり玉砕してしまった。それからは以前のような付き合いもできなくなって、彼女とは疎遠になってしまったのだが。
 そんな時だった。帰宅途中、夕暮れ時の住宅地から聞こえてきたのは、なんとも甘い声だった。
 その優しくて、力強い声に落ちたと思った頃には、もう夢中になっていて。こっそりスマホに録音して持って帰って、そして毎日のように歌声を聴いていた。ピアノの腕は、今ひとつという感じだったけど、きっと発展途上というところだろう。僕は音楽に決して明るいわけではないけど、きっとこれから上手くなるだろうと、なぜか確信していた。

 そして今日も彼女が歌う住宅地の道を通っていると、ふいにランドセルの小学生とぶつかった。その子はとてもガタイのよい男の子で、六年生くらいだろうか。一六八センチの僕とそう変わらなかった。

「ぶつかってごめんね。君、大丈夫?」

 僕が微笑みかけると、少年は腕を組んでそっぽを向いた。人見知りなのかもしれない。
 するとその時、ちょうど僕の手からスマホが滑り落ちて、音楽が流れた。イヤホンのブルートゥースが外れたらしい。流れたのは彼女の歌声だった。その声を聞くなり、少年はぎょっとした顔をする。

「これ……お——ねぇちゃんの」

「え? もしかして、君はこの歌声を知っているの?」

「お前、盗聴したのか⁉︎」

 そう言って少年は僕に詰め寄った。その恐ろしいほどの形相に、僕はごくりと固唾を呑むけど、でも彼の泣きそうな顔を見て苦笑してしまう。

「いつもここを通ると聴こえてきたから、録音したんだ。あまりに綺麗な声だったから、もう一度聴きたくなって」

「……そうか。また聴きたいのか?」

「うん。すごく素敵な声だよね。君の——お姉さん、なのかな?」

「……そうだよ。俺のねぇちゃんの声は誰よりも綺麗なんだ」

 胸を張って言う姿を見ていると、体は大きくてもやはり小学生だと思う。お姉さんのことがよほど好きなのだろう。まるで自分のことのように喜んだ顔をしていた。

 そしてそれから彼とは道を通る度に、話すようになった。どうやらお姉さんは病弱で家からほとんど出られないらしい。そのため、彼——ツヨシくんが学校の話をしたり、外のことを教えてあげるんだとか。
 とても姉想いの良い子だった。しかもあの弾き語りと思っていたピアノは、ツヨシくんが弾いているのだとか。ツヨシくんの曲に合わせて、お姉さんが歌っているらしい。なんとなく腑に落ちた気がした。

 それから何ヶ月か経ったある日のこと。
 声を聴く度に高まるこの恋心を終わらせるために、ツヨシくんにお姉さんとの面会をお願いすることにした。なぜ終わらせようと思ったのかって、それは、彼女が病気だからとかそういうわけじゃなくて、一方的に知らない人間に好かれるのは気味が悪いだろうと思ったからだ。
 そして一度気持ちをリセットして、あらためてお近づきになれた時には、段階を踏んでまた告白したいと思った。
 僕はよく真面目すぎると言われるけど、それでもツヨシくんという大きな番犬もいることだし、段階を踏むのは当然のことだろう。

 僕は公園に呼び出したツヨシくんに、アイスを奢った後、さっそくお願いした。

「ツヨシくん……一度でいいから、お姉さんに会わせてくれないかな?」

「それでアイスかよ。悪いけど、ねえちゃんには会わせられないよ」

「どうして?」

「どうしても。お前みたいな狼に会わせられるかよ!」

「そんなぁ」

「諦めることだな」

 ツヨシくんはちゃっかりアイスだけは食べながらそう言うと、ブランコを漕ぎ始めるが——その時だった。

「あら? ツヨシじゃない」

 長い髪を一つに束ねた女性が、こちらに駆け寄ってくる。買い物袋をたくさん下げているのを見ると、買い物帰りなのだろう。ツヨシは彼女の顔を見るなり、げんなりしていた。

「なんだよ、母さん」

「なんだよ、じゃないわよ。あんた、もしかしてお友達にたかったりしてないわよね?」

 ツヨシくんの母親らしき女性は、僕を見て挨拶をする。どうやら、同年代だと思われているらしい。ツヨシくんは体格が良いから仕方ないか。

「こんにちは、ツヨシくんのお母さんですか? いつも、ツヨシくんにお世話になってます」

「まあ、礼儀正しい子ね。ツヨシのお友達とは思えないわ」

「あの、これでも中学三年生なんですが……」

「あら? そうなの? じゃあ、もしかしてエリコのお友達かしら?」

「エリコさん? いつも歌を歌ってるツヨシくんのお姉さんのことですか?」

「あら、やっぱり。エリコの知り合いなのね? 生前はお世話になりました」

「せいぜん……?」

「……知らなかったのかしら? エリコは……もう二年ほど前に亡くなっているのよ。お友達はみんな知らせたと思っていたけど」

 亡くなった、と聞いて僕は大きく見開く。
 そして何気なく視線をツヨシくんに向けると、彼は気まずそうな顔をしていた。けど、勘違いしたままにするわけにもいかないし。僕は正直にツヨシくんのお母さんに話した。
 
「いえ、そうじゃないんです。僕はツヨシくんの友達で、エリコさんとは友達じゃないんです。ただ、いつも家の近くを通ると聴こえてくる歌声が、お姉さんのものだと聞いていたので」

「ああ、あれね。ツヨシはお姉ちゃん子だったから、いまだにエリコの録音した声を流して、一緒にピアノを弾くのよね。本当に、仲が良かったから……」

 ツヨシくんのお母さんは少しだけ声を詰まらせると、そのあと「それじゃあ」と言って、その場を去った。
 残された僕は大きく息を吐くと、ツヨシくんを見る。すると、彼はやはり気まずそうな顔をしていた。

「……もしかして、怒ったか?」

「ううん。怒ってないよ。でも、教えてほしかった」

「ごめん……なんだかお前が恋をしているように見えて、言うに言えなかった」

「生意気だな。大人みたいな気の使い方して。……でも、そっか。もういないんだ」

 僕は冬空を見上げる。空は曇っているけど、なんだか気持ちが晴れた気がした。そう、僕は恋に恋をしていただけだったんだ。
 その事実を知った時、なんだか全部がバカバカしくなって——何もかも吹っ切れたような気がした。
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