クロスター王国中興記

聖庵

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第二章 王者(二)

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 次の日の朝、アランとカレルは馬を仕立てた。
 ライプニッツ侯爵の領地は、アランの居城から見て北西にある。
 途中、北の海へ注ぐ大河を渡り、行程は片道四日というところだろう。

「あのベッカーが王都に着くのも距離から見て四日。
 それを受けてゼルギウスがどれだけ早く動くか分かりませんが、こちらも急がなければなりません。
 アラン殿たちが老侯のところへ向かっている間に、東部の貴族に結集を呼び掛け、我々も西のエリク殿の領地まで兵を動かしておきます。
 老侯との交渉がうまく運んだら、北部の軍は老侯の領地から南下して、アルト湖の北岸まで兵を進めさせてください。そこで合流しましょう」

 ヴァレンティンは、アランとカレルにそう伝えた。

「分かりました。できるだけ急いでみます。
 しかし、東部の諸侯は一致団結してくれるでしょうか?
 もし、それができなければ、我々は前にも後ろにも敵を抱えることに……」

 アランの言うことも最もである。
 北の貴族をこちらの味方につけることも大事だが、その前に東部の諸侯が不協和音を起こしては元も子もない。

「任せてください。腹案があります。
 あなたにも危険な旅をしてもらうのですから、私も期待に応えるよう全力を尽くして、後顧の憂いを断っておいてみせましょう。
 くれぐれも気をつけて」

 父が遺してくれた剣を帯びたアラン、愛用の槍を携えたカレルのふたりに、ヴァレンティンは笑みを向けて送り出す。
 アランとカレルは、主従それぞれの果たすべき任務を噛み締めるように、口元を固く結んで一気に馬の腹を蹴って駆け出した。

 アランは諸侯連合の盟主として、ヴァレンティンはその軍師として動き出したのだ。

 ふたりを見送った後、ヴァレンティンはエリクにも指示を出した。
 いまここにいる一万を超える将兵に、今後の動きを伝え、いつでも動かせるようにしておいてほしいと。

 エリクは生来、アランのようなのんびりとした穏やかさより、血が躍るような刺激を好む。
 戦場に臨めば、誰に言われることもなく、先陣を切って勇敢に戦うだろう。
 実際、アランと違って、エリクには多少の実戦経験があった。
 初陣は十八の歳、野盗が組織化して三百人ほどの集団となり、王国内の村々を荒らし回り、それがケルゼン伯爵の領内にも入って、略奪の被害が続発した時のことである。
 無論、それは今回ほど大規模な戦争ではない。
 しかし、エリクにとって自ら剣を手にし、人の生命を初めて奪った戦いであった。
 王都に伺候して留守であった父に代わり、千人の兵を率いて野盗の群れを殲滅したエリクの武勇は国内でも評判となった。
 ヴァレンティンは、そんな彼に一軍の将たる才を認めていた。
 またそうした活躍の場を与えてやることが、エリクの能力を活かし、成長させるだろうとも考えている。
 だが、まだ若いだけに血気に逸れば道を誤り、ただ血を好むような人格にもなり兼ねない。
 そうならないためにも、将兵を率い、それに信頼される将才を身に着けられるように、経験を積ませなくてはならなかった。
 数多くいる将兵に的確に指示を出し、それを徹底させ、号令をかけて動かす。これは決して楽なことではない。
 未だ戦場に至らぬ内から、それができるようになっていなくては、肝心の時には一兵とて意の如くならないだろう。

「頼みましたよ、エリク殿。
 宣戦布告したからには、すでに戦は始まっています」

「分かった……」

 珍しく軽口を叩くこともなく、エリクは神妙な面持ちで応じる。
 昨晩のアランとヴァレンティンとのやりとりが、彼の心にも響いているのだろう。
 この若者には、あまり理屈ばかりで物を言わず、ある程度は好きに動ける自由さを与え、自ら考えて行動するようにさせてやったほうがいいとヴァレンティンは思っている。





 その後、ヴァレンティンはコンラートの居る部屋に足を向けた。
 山積みになった書類に目を通し、それに細かな書き込みをしたり、家人に忙しく指図をしている老人は、ヴァレンティンの姿を見て手を止める。

「お茶でもお淹れしましょうか? 伯爵もお疲れでしょう」

「いや、気になさらずに。
 少しよろしいですか? 今後のことで話をしておきたいのですが」

「もちろんですとも。
 私も少し書類から目を離しませんと、どうも目が霞んでいけません。
 寄る年波には勝てませんな」

 そう言って笑いながら、コンラートは椅子を勧め、壁際の棚に向かった。
 銀盆の上にカップをふたつ置き、慣れた手つきで紅茶を淹れる老人の背を見ながら、ヴァレンティンは少し物憂げな顔をしていた。

「砂糖を少しだけお入れしました」

 ヴァレンティンの前に芳しい香りを立てるカップを差し出し、コンラートも近くの椅子に腰掛ける。
 疲れているのを察して甘味をつけた紅茶を出す行き届いた心配りにヴァレンティンは軽く頭を下げた。

 身分の上ではヴァレンティンは歴とした貴族、コンラートは騎士階級に過ぎない。
 これが主人と家臣ならば、一緒に茶を飲みながら談笑することも、茶を淹れてもらった貴族のほうが頭を下げることもないだろうが、コンラートはアランの家臣であり、ヴァレンティンの臣下ではない。
 王侯貴族の家臣、特に騎士階級の人間が忠誠を誓い、こうべを垂れるのは自分が叙任を受けた唯一の主君、その家に対してであり、それ以外の他家の貴族には相応の礼儀こそ示さなくてはならないが、その家来のように従う必要はないというのが貴族やそれに仕える騎士階級の人間たちが生きる社会での観念である。

『騎士にとって主君はひとり、陪臣ばいしん直臣じきしんにあらず』

 そうした言葉もあるように、コンラートやカレルのいまの主人はアイヴァス公爵の忘れ形見であるアランだけなのだ。
 そうした強い主従関係があるからこそ、貴族は領地を治め、私兵を組織して自衛する武力を保持できる。
 ヴァレンティンもそれを良く承知しているから、こだわりなく老人に頭を下げ、年長者に対する態度を弁えて接していた。

「アラン殿は、良い御主君になるでしょうね」

 ヴァレンティンはそう言い、コンラートは嬉しそうに微笑んだ。

「公爵様も良き御主君でした。その父上、私を騎士に叙してくださったアラン様のお祖父様も……」

 カップに目を落とすと、琥珀色の水鏡にいままでのことが走馬灯のように甦る。
 騎士の多くは、まだ子供の時分に領主の家に小姓として奉公し始め、成人を迎える頃には従騎士という見習いとなり、やがて二十歳頃に正式な騎士に叙される。
 コンラートは六十年以上も、この家に仕えてきたのだ。

「アラン様には酷なことです。
 まだまだお若いのに突然のことで、公爵家のみならず、国の命運を左右するお立場になられて……。
 しかし、それもあの方が負うべき運命さだめなのでしょうな。
 我々家臣がお支えして差し上げなくては」

 老人はゆっくりとカップを口元に運んだ。

「とは言っても、私もこの通りの老いぼれになりましたからな。孫のカレルに頑張ってもらわねば。
 せめて、あれの父や弟が生きておれば、もう少しお役にも立ちましょうに」

 皺が刻まれた顔に憂いが浮かぶ。
 ヴァレンティンは老人の話を黙って聞いていた。

「私の息子、カレルの父もこちらにお仕えする騎士でした。
 カレルの弟もカレルと共に小姓としてお仕えし始め、親子孫の三代、四人でお仕えできることは、本当に誇らしいことでございました。
 ですが、カレルが二十歳で騎士に、その弟も従騎士に取り立てて頂いた年……もう五年前になりますか、東の国境からあちら側の領主が攻め寄せましてな、カレルの父と弟は戦死したのでございますよ。
 息子は冷たい身体になって帰ってきました。カレルの弟は乱戦の中、行方も遺骸いがいも見つけられぬ有り様でした」

「そうですか、ではカレル殿は、あなたにとって唯一残った大事な跡取りなのですね。
 アイヴァス公が残されたアラン殿のように」

 ヴァレンティンの言葉に、悲しく微笑むコンラートの姿は痛々しかった。

「アラン殿も、カレル殿も、良い若者です。
 私も彼らの行く末が良いものになるように力添えしましょう」

「ありがとうございます。
 伯爵のような方ならば、安心してお頼りできます。
 昨日の若様への言葉で、そう思いました」

 老人は頭を下げ、若い主君と孫のことを思った。

「そう言えば、伯爵は亡き公爵様とは親しくなされておられたのですか?」

 コンラートは自分の感傷的な気持ちを切り替えるように話題を変えた。
 その問いにヴァレンティンは紅茶を一口すすり、話し始めた。

「いえ、それほど親しかったわけではないのです。
 ただ、何年か前、王都の私の屋敷に訪ねてこられたことがありまして……」

 王都での貴族の交流は盛んだった。
 各地の諸侯は王都にも邸宅を構え、定期的に領地と王都を行き来している。
 貴族たちにとって、領地での経営はもちろん大事な仕事であったが、国王の居る王都は中央政権や国中の貴族の情報、他国の動静が集まる場所であり、そこで知り得た事柄は重要な政治的材料になった。
 ヴァレンティンは、そうした情報収集について、その重要性はよく分かってはいたが、ほかの貴族たちのように煩わしい付き合いや世辞のやりとりをしてまで王都で長い時間を費やすよりも、自分の足で各地を旅し、見聞を広げるほうが性に合っていた。
 どうしても王都へ足を運ばなければならない時も、無駄なことに時間を割くことは避け、さっさと用事を済ませて立ち去ることが多く、それが貴族社会では変わり者との風評を呼ぶ要因だったらしい。
 そんなヴァレンティンに興味を持って訪ねてきたのが、アランの父であるアイヴァス公爵であった。

「その時、私は自室で本を書いていましてね。
 アイヴァス公は、それを御覧になって、面白がってくださったのです。
 私も変わり者だが、その私に興味を持たれる公も貴族にしてはなかなか珍しい変わったお方だと思いました」

 その日、ふたりの貴族はいろいろなことを話し合った。
 この国の歴史のこと、王侯貴族から庶民のこと、政治や軍事の話、そして互いのことを。

 アイヴァス公爵家は建国王に連なる名門で、七百年余を誇る歴史の中で常に存在感を持ち、王家とも婚姻を繰り返すような家柄だった。
 対して、ファル伯爵家は比較的歴史の浅い新興貴族である。
 いまから百数十年前、騎士であった祖先が武勲を立てて貴族に列せられたことが始まりで、代を重ねてヴァレンティンの父や祖父らは学者肌の貴族となり、学問と平穏を好む家風となった。
 家柄や文武の功を競い、融和と牽制を巧みに使い分けながら、宮廷での権力争いや互いの優劣を意識し合う貴族社会で、ふたつの家は実に対照的な存在だった。

 そんなふたりの貴族が出会い、不思議と打ち解けて、ここに至る交流を持てたのは、あの日に触れたアイヴァス公爵のほかの貴族とは違う飾らない人柄と、普段なら煩わしい貴族の面談など断るはずの自分が気紛れに受け入れた偶然の賜物だと、ヴァレンティンは思っていた。

「帰り際に公がどうしても私の書いたものを欲しいと仰るので、後に何冊かの本をお贈りしたのです。
 しばらくしてから丁寧に書評を記した手紙を頂きましてね。
 それからは、お互いに何度か手紙のやりとりをしました」

「なるほど、それでその本が残されていたのですな。
 若様も、それを読んで伯爵に興味を持たれたのです。やはり親子ですな」

 微笑ましく笑うコンラートに、ヴァレンティンも頷いていた。
 しかし、その深緑の瞳の奥には、何か物思いにふけるような陰がある。

「そう言えば、アラン殿の母上は、どういったお方だったのですか?
 彼を産んですぐに亡くなられたと聞きましたが……」

 ヴァレンティンの問いに、コンラートは少し困ったような顔をした。

「実を言いますと、私もよくは存じ上げぬのです。
 アラン様のお母上は、王都の商家の出らしいのですが、公爵様とは正式に御結婚もなさらずに若様をお産みになり、この御領地には一度もお越しにならぬまま、亡くなられましたのでな」

「そうでしたか……」

 そこで会話は止まり、ふたりはしばらく沈黙のまま、紅茶を口に運んだ。
 やがてアランが不在中の対応に話は移り、時折雑談を交えながら昼が過ぎた。





 ヴァレンティンは書斎を借りて、机の上に紙の束を置き、勢いよく羽筆を走らせた。
 同じ文章を何枚、何十枚と書き上げていく。
 それは王国各地の貴族に向けた連合を呼び掛ける檄文げきぶんであった。

『敬愛する王国の諸侯諸卿しょこうしょきょうに願う。
 過日、王都に於いて謀反人ゼルギウスは国王陛下を弑逆しいぎゃくし、王家を滅ぼし、我等の同胞を殺害せしめた。
 彼の謀反人はマヌエル四世陛下の庶子を名乗り、自らを新王と僭称せんしょうして憚らず、玉座を私して王都を無法に占拠している。
 この悪逆非道の行いによって、いま我等の愛すべき祖国は建国以来の未曾有みぞうの危機に直面し、手をこまねいていては内乱と外憂によって国は亡ぶであろう。
 王家亡き今、国家と国民を救い、無法な大逆人を征伐せしめ、秩序を取り戻すことは貴族たる身の責務である。
 また諸侯諸卿の係累けいるいの生命を無慈悲に奪い、残された我等の権能と尊厳までも侵そうとする者を見過ごしにしてはならない。
 各地に送られた謀反人からの使いにある身分や所領の保障などは何ら信用に足るものではない。
 彼の謀反人の狡猾にして残忍な行いが、それを証明している。
 甘言に惑わされて僭王に屈する者の末路は、国王陛下の最期の時の如く裏切りによって報いられるであろう。
 我等を侮り、奸詐かんさを弄する厚顔無恥なゼルギウスを討ち、正義と秩序を我等自身の手で取り戻すことこそ急務である。
 我等はここに気高き誇りと憂国の志を持つ諸侯諸卿の結集を願い、共に大悪人ゼルギウスを討ち倒す栄光ある戦いに参陣を乞うものである。

 アイヴァス公爵家継嗣アラン。
 ファル伯爵ヴァレンティン。
 ケルゼン伯爵家継嗣エリク。
 共に結盟し、諸侯諸卿の御出馬をこいねがう』

 書状を書き終えたヴァレンティンは、これを読み返したが、特に感慨もなく淡々と紙を丸め、飾り紐を結びつけていく。

「我ながら陳腐な檄文だな。だが、まあ、これでいいだろう……仕掛けはこれからだ」

 そうひとりごちると、ヴァレンティンはコンラートを呼んだ。

「使者と馬の用意はできております。これを持たせれば、よろしいので?」

 そう言って書状の束を預かろうとするコンラートを静止して、ヴァレンティンは笑みを浮かべた。
 差し出した書状の一通を読むように老人へ促し、その後にこう言う。

「これは決まり通りの檄文に過ぎません。
 ゼルギウスの罪を糾弾し、諸侯の良心と自尊心に訴え、協力を仰ぐ。
 こんなものと言えば、こんなものですが、これだけでは海千山千の貴族たちを巧く動かせるか心許ない。
 焼いただけの肉は味気ないものです。塩を振り、香辛料を利かせて、日和見の心を動かすような垂涎すいぜんの御馳走に仕立ててやらねば……」

 いかにも意地の悪そうな言葉を柔和な顔で口にしながら、戸惑う老人に耳打ちした。
 コンラートの垂れた瞼が上がり、目を剥いてヴァレンティンを見つめる。

「いや、しかし、そのようなことを……本当によろしいので?」

「ええ、いいのです。アラン殿にも、ほかの方にも御迷惑はかけません。問題があれば、すべては私が責任を持ちます。
 ただし、くれぐれも使いの者たちには言い含めておいてください。
 書状を受け取って協力を渋るような相手にだけ、必ず人払いをさせてから、それを伝えるようにと」

「分かりました。仰る通りに致しましょう」

 コンラートは意を決したように、改めて書状の束を腕の中に抱えた。

「伯爵……私のような者には、伯爵の深いお考えは分かり兼ねます。
 しかし、御主君であるアラン様が伯爵を信頼なさるのと同じように、私も貴方様を御信頼申し上げておりますぞ」

 老人から策士に向けられた言葉には、決してヴァレンティンに対する疑念はない。
 その眼差しに感じられるのは、ただ一途に若い主君と目の前にいる男を心配している愛情だった。
 その老人の気持ちに、ヴァレンティンもいつものように和やかな表情で頷いた。

「ええ、そう思ってもらえて嬉しいですよ。
 その信頼を裏切るようなことは、決して致しません」

 互いに向けた視線には、強い思いが宿っていた。

 その日の内に使者が王国各地に飛んだ。
 いまはまだヴァレンティンしか知らない思惑を乗せて……。
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