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12章
呪いの終焉
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「失礼いたします」
大広間に招き入れられた彼女は、肩に力を入れたまま、ずっとうつむいていた。
「顔を上げてください」
アルネリアの言葉に、女官が顔を上げると。
「メリーサ!」
ガリマーロが声を上げた。
「なんだおまえ、知らなかったのか? 父上が推薦したんだよ」
レオニールが冷たく言った。
「フィラーロ、レオニール様、なぜここに!?」
メリーサは、口に手を当ててその場に立ち尽くした。
「ああ、あなただったのですか。メリーサさんとおっしゃるのですね。いつぞやはヤスリをありがとうございました」
「は、はい……?」
メリーサは、突然外国の王女に礼を言われ、戸惑っている。青の間で世話をした客人の少年であるとは、すぐにはわからないようだ。
「さて。あなたに質問したいことがあります。あなたはどういういきさつで王宮で働くことになったのですか?」
「前の大神官のオーリヤス様が、紹介してくださったのです。その……父亡き後、天涯孤独になった私を哀れんで……」
「最初から王太子付でしたか?」
「いいえ、でもあのときには、寝ずの番ができるような若い女官がいなくて……夜だけ、王太子様のお世話をしていました」
「ではメリーサさん。この仮面をご存じですか?」
アルネリアが手にしているのは、王子の仮面の複製である。
「は、……はい……」
見る間に、メリーサの顔が青ざめた。
「ねえ、もしかしてあなた。10年前くらいに、だれかに脅されたか、そそのかされたかして、仮面を渡されたことがありませんでしたか? ちょっとだけ悪戯するだけでいいからと」
「…………」
「もしかしたら、想い人のことかもしれませんねえ。お願いを聞いてくれたら、って言われたのかも……ひどい人がいますねぇ。いじらしい女心をもて遊ぶなんて」
メリーサの肩が震えている。向こうで、パウラがいやそうに顔をしかめていた。また悪党のような顔になっていたのかもしれないと、アルネリアは顔の筋肉を動かした。
「ひょっとしたら戦いでお父様を奪われたあなたの心の隙間に入り込んだ人物が、こんなことを言ったのかもしれません……。『眠っている王太子の顔に、そっと仮面を置いてくれないか? 戦争には勝ったが、あの王様のせいで、この国はめちゃめちゃだ。それにあなたの人生も狂わされてしまった。少しだけ懲らしめたいだけだから』……そんなことを……」
「…………」
「あのとき、国民の多くがそんな気持ちになっていたかもしれません。大神官や王、そういった人に懲罰を与えたいような気分。報われない人がそう思うのも無理はないでしょう」
固く閉じたメリーサの瞼から涙があふれ、彼女は両手で顔を覆った。
「しかしその夜、王太子は泣き叫び、翌日から美しかった少年が変な顔になってしまった。取り返しがつかないことをしてしまったと気づきました。けれども、自分の罪を告白することも、王宮を去ることもできなくなった。なぜならあなたをそそのかしたその人物が、とてつもない権力の座についてしまったから……そうではないのですか?」
メリーサは手を離して涙にむせんだまま、アルネリアを見つめてから……そしてバレムイーダに目を向け、答えた。
「はい」
「それだけで十分です、ありがとうございました。今まで、お辛かったでしょう」
メリーサはゆっくりと首を左右に振った。まだ涙で濡れているが、その顔は穏やかだった。長年の罪を告白した実感は、おそらくこれからわいてくるのだろう。
アルネリアはパウラから水を受け取り、唇と喉を潤してから、ヴァレリウスに向き直った。
「おそらくその仮面には前もって術式が書き込まれていたようですね。そして王宮の外で、その人は夜の闇の中に紛れて、こっそりと詠唱を唱えていたのでしょう。窓の下あたりにいたかもしれませんね。そっと王太子の顔の上に置かれた仮面は、そのとき呪われた仮面に変貌し、以後10年もの間、あなたと陛下を苦しめ続けてきたのです」
ヴァレリウスは、苦痛に満ちたうめき声をあげると、バレムイーダを向いた。
「なぜ……私の教育官であったあなたが。自然の美しさと、この国への愛を教えてくれたあなたが」
バレムイーダは、右手で髭を撫でると、静かな声で答えた。
「自然を愛し、この国を愛し、大地の精と共にあるからこそですよ」
「しかし、黒の力も大地から与えられた魔法です」
バレムイーダは右手を差し出し、ヴァレリウスの言葉を止めた。
「黒の力は人の心を萎縮させ、喜びを奪い、人を苦しめるもの。そんなものはあってはなりませぬ。だから私は、王にも、王太子にも、魂を込めて教育をしてきました。黒の汚れた心から離れ、清らかに保ちなさいと。けれども、ツニヤーダを罷免し、魔法を奪う黒の魔法を王がかけたとき。私は見たのですよ。レルニリウス王の顔が、破壊の喜びの光に満たされていたことを。それでも私はまだ信じたのです。きっと悔い改めてくれるものだと。けれども、それは誤りでした。11年前の戦のとき。敵軍から病に抗う力を下げる黒の魔法を担当していた王の目は、おぞましいことに、邪悪な喜びで輝いていたのですよ!」
「それで私を……」
ヴァレリウスの声は震えていた。
「そのとき私は悟りました。ああ、この一族を滅ぼすことこそが、私の使命、私が生きる証であると!」
誰も言葉を発することができず、大広間の中は、凍り付いたように静まりかえっていた。
「バレムイーダ大神官」
ふらふらと歩み寄ったのは、パストレーユ神官だった。
「顔から取れない仮面だなんて。魔法会議を通さない呪いの魔法を使いましたね」
「この国を守るため、大神官の権限で使いました。先の大神官もそうなされたであろう」
「いや、神官ならあなたもご存じのはず。王族への呪詛が決して許されない大罪であることを」
「無論。それでも私は悔いてはおりませぬ。大地の精の御心に従ったまで」
「では、私も大地の精の御心に従おう」
聞き慣れない声に皆が振り向くと、レルニリウス王が目をらんらんと輝かせて、バレムイーダを凝視していた。
「ち、父上……」
ヴァレリウスがつぶやく間に。王はバレムイーダに歩み寄り、その目の前に立ちはだかった。
「我が一族に与えられた力は、大地の恩寵。正統な黒の力を受け継ぐ者を守ることもまた、大地の精のご意志!」
レルニリウス王は右手を開いて前に差し出し、バレムイーダに向けた。
「やるならやってみなされ! そしてまた12年前の愚かな所業を繰り返しなされ!」
だが、レルニリウス王は、煽り続けるバレムイーダに耳を貸さなかった。
「大地の精よ。我に賜った王権に従い、バレムイーダの白の力をお返しいたします!」
レルニリウス王とバレムイーダの間で、空気が振動する。その気配を感じたアルネリアは、思わずパウラにしがみついた。
「う……ぐっ……」
バレムイーダは胸を押さえてよろめき、一度首をのけぞらせると、そのまま膝から崩れ落ちた。
外見的には全く変化が見られない。だがそれまで彼を包み込んでいた偉容が薄れて、一回り小さくなったようだ。
「苦しいか。だがこの10年間の余の苦しみ、および我が子の涙は、そなたの苦しみに勝る」
レルニリウスの言葉で、バレムイーダが顔を上げた。
「これで勝ったと思いなさるな。あのおぞましい作戦に加担した罪、そしてこの独断に走った所業と、己の感情で独走する浅ましさは、消えることがありませんぞ。後々までも白の魔法使いの間に語り継がれることでしょう……」
床の上にうずくまりながら、バレムイーダは憎しみのこもった目で、レルニリウス王をにらみつけていた。
「あーあ、やっちゃった……」
ティリアーノが右手で額を押さえる。
「確かに悪手だ。議会を通さない私的制裁と見なされるかもしれない……いや、見ろ!」
渋面になっていたレオーニスが、驚いた顔を王太子に顔を向けた。
「仮面……が……」
ヴァレリウスは両手で顔を押さえながら、腰から身体を折った。
その指の間から、ほろほろと黒い粉がこぼれて、床の上に降り落ちる……。
「ヴァレリウス!」
「待ちなさい」
駆け寄ろうとした王妃を、王が止めた。
ヴァレリウスは顔を押さえたまま、しばらく震えていたが、やがてゆっくりと顔から手を離した。そしてゆっくりと背筋を伸ばした瞬間、皆が息をのんだ。
透き通るような青白い肌の、目鼻立ちがはっきりした、気品ある青年の顔がそこにあったからだ。
「スースーする……」
ヴァレリウスは、指でなんども、自分の頬を撫でた。
「ヴァレリウス!」
「殿下ぁ……」
感極まった声の王妃とティリアーノが王太子に駆け寄った。
「よかったです、信じてましたけど、こんな日が来るなんて!」
ティリアーノは王太子の首にしがみつき、わんわん泣いていた。
アルネリアは、パウラの手を取って、ぶんぶん揺さぶった。
「やった、やったよ、解けたよ、パウラ!」
「そうか! 魔法をかけていた人が、魔法使いでなくなったから、魔法が解けたんですね!」
パウラとアルネリアは手を取り合って、ぴょんぴょん床をはねた。
「兄上……!」
ガリマーロも感極まった顔で、レオーニスを見つめた。
「そういえば、兄上はなぜここに私を?」
するとレオーニスはめったに見せない微笑みを浮かべて、ガリマーロの背中をぽん、と叩いた。
「意味はない。俺の弟だからだ」
レオーニスははしゃいでいる人たちを一瞥すると、静かに大広間から出て行った。
◆◆◆‡◆◆◆‡◆◆◆
ヴァレリウスの呪いが解けてから、これまでの事情は国民に公表された。
ソレイヤール国内は、当惑する者と「よくわからないが、めでたいことならそれでいい」と、お祭り気分に便乗する者の真っ二つに分かれた。
バレムイーダの処分はまだ決まっていない。メリーサは恩赦の対象になり、人手も足りないことからこれから先も、ベルヴィール宮で働くことになった。彼女は辞退しようとしたが、それが罪を償う手段だと、王からもレオーニスからも言われ、彼女も納得したようだ。
そして3日後。ベルヴィール宮の大広間では、祝いの宴が開かれていた。
「ヴァレリウスさま」
「王太子殿下」
着飾った女性たちが、ヴァレリウスを取り囲み、きらびやかな声で語りかけている。それに応じる王太子は極めて紳士的で、一挙手一投足も優雅である。変わらないのはしぐさも声だが、顔立ちの変化と、彼自身の自信が印象を完全に変えてしまっている。
「現金なものですね。今まで寄り付きもしなかったのに。今はソレイヤールの太陽とか、白々しいこと言ってますよ」
騎士の正装姿で、パウラがアルネリアに飲み物を運んできた。
「まったくだ。この前まで『ぬれたネズミみたいな鬱陶しい顔』とか言ってたくせに」
「さすがにそこまでは言ってないんじゃないですか」
「だが、殿下の相手はすでに決まっている。フロレーテ姉上が恋敵では勝負になるまい。フフフ……」
「ほらほら、また悪党の顔になってますよ」
そんなアルネリアは、今日もドレスである。それではせっかくのご馳走が思う存分食べられない。しかも晩餐には、ソースをかけた鶏肉の丸焼き、羊の串焼き、花をかたどったパテ、シチュー、山盛りのチーズ、蜂蜜酒などが並ぶ予定である。そう強く抗議したが、ビルギッタにこってり叱られ、仕方なく承諾した。
「よろしいでしょうか、アルネリア姫様」
メリーサが女官の服装のまま、おずおずと声をかけた。
「差し出がましくこのような場で申し訳ありません。ただ一言お礼が申し上げたくて。姫様のお力で、私は救われました。恥ずかしながら、ご慧眼の通り、あの人は『レオーニス様との縁をまとめてやる』とかいって近づき、そしてすっかり信じ込んだ頃に、あの申し出をしてきたのです。レオーニス様は私など眼中にないというのに、おろかですね……」
「そんな、人の気持ちはわからないものですよ」
「いえ、いいのです。あの方は、女性よりも仕事に夢中なのですから。それよりも、10年間の良心の痛みから解放されただけでじゅうぶんです」
「それでも人には幸せになる権利がありますよ。幸せになってください」
アルネリアは手を差し伸べ、メリーサと握手をした。
そのレオーニスは、気難しい顔でヴァレリウスの前に歩み寄ると、周りの女性たちを蹴散らした。
女性たちは「ああん」と不満そうな声を上げていたが、レオーニスの剣幕におののき、足早に散って行った。
「どうしました、レオーニス立法司祭」
「鼻の下を伸ばしている場合じゃありません。まだまだやることがあるはずだ。魔法に頼り切って国民は働かない。今は、ひとりの神官が100人の国民を支えているような状態です。もはや神官の不満は爆発寸前、またバレムイーダ派の反乱も予想されます。その連中によって王が突き上げられるでしょう。さらに大神官は空位のままだ。次の大神官を選出しなければならない。いいかげん目を覚ましてください!」
「はい。これからは私も陛下も、きちんと問題と向き合っていきます。そのためにも力を貸してください」
ヴァレリウスがぺこりと頭を下げたので、勢いをそがれたレオーニスはバツが悪そうにその場から引き下がる。
いつの間にかいなくなったパウラを探して、アルネリアがキョロキョロと周りを見回すと、国王がまっしぐらにこちらを目指して来るところが見えた。
「陛下」
膝を折って腰をかがめようとするアルネリアを、レルニリウスがとどめた。
「いや、そのままでいい。それよりも本当にあなたには世話になった。礼を言います」
「両国の平和のため、尽くせたことは私の喜びです」
アルネリアは胸に両手を当て、ノルデスラムト流の敬意を示した。
「これを両国がともに発展していくよい契機にしたいものですな。しかし、これからは忙しくなりますぞ。国のこともですが、アレにも妃を迎えなくては」
アレと言いながら、顔を向けた先にはヴァレリウスがいた。また女性たちに取り囲まれている。
アルネリアは姉の話を持ちかけようとしたが、ふと思い出して話を変えた。
「殿下の結婚といえば、国元に結婚話が届いたことがありましたが、どうやらそれは虚偽だったらしく、まだ犯人がわかっていないのです」
「ほほう。それはまた剣呑な……いったいどのようなことが?」
「ヴァレリウス殿下の肖像画が3枚も届いたのです。1枚はしょぼしょぼしたさえない中年顔、次は脂ぎってテラテラした若い男と、それから不気味な悪魔顔の男なんですよ。いくらなんでも怪しすぎで……て、陛下?」
見ると、ぽかんとした顔で王がアルネリアを見つめている。
「あれは、余が送った」
「ええええええっ!? なんでー!?」
アルネリアは、思わずのけぞった。
「呪いのことで10年間努力をしたが、なにをしても手詰まりだっただろう。そこで、助けを求める手紙を送ったのだよ」
「手紙? 王太子の結婚がどーのこーのという挨拶文ならありましたが、それのことですか?」
「違う。額縁を開けてみなかったのか? 中に密書が入っていたろう?」
密書?
アルネリアは閉じた扇をぎゅううっと握りしめた。そんなこと誰も言っていなかった。確認もしなかった。降ってわいた結婚話で、揃いも揃って初歩的な失態を演じていたらしい。
「姉上としたことがなんといううかつなことを!」
「余はてっきり、送った密書を読んで来てくれたものだとばかり思っていたぞ。そなたに会ったときに、くれぐれもよろしく頼むと申したであろう」
「密書に気づかなかったのは、私どもの落ち度でございます。ですが、なぜそのような大役に私たちを選んだのです?」
「そりゃあそなた。アーレンベルクといえば、黒の魔法使いの名前でしょう。そなたらはミッテルスラムトで仲間割れをして、北に帰って行った黒の魔法使いの末裔ではないか……もしかして、それもご存じない?」
驚きすぎてもうアルネリアは声も出ない。
「黒の魔法使いはね、魔法が効きにくいのだよ。ほれ、だからヤツが王太子に直接魔法をかけず、呪いを仮面をかけていたのもそういうわけ」
「では……私に仮面が見えたのも……額に刻んだという防御魔法が効かなかったのも」
「そう。自覚があるなしにかかわらず、そなたらの中には、我々とは違う家系の、黒の魔法使いの血が流れているのだよ。まあそういうわけでな。今後とも黒の血筋同士、仲良くやっていこうではないか」
レルニリウスは豪快に笑いながら、あっけにとられるアルネリを残して、広間の中央に向かって歩いて行った。
◆◆◆‡◆◆◆‡◆◆◆
長い日も西に傾き、東側から深い青が空に広がり始めている。
バルコニーで、パウラは手すりに肘をかけて、宮殿の庭を眺めていた。その背後からティリアーノがそっと近づき、肩越しに声をかけた。
「君は、アルネリア姫のようにドレスを着ないの?」
「私の正装は騎士のいでたちですから」
ティリアーノはパウラと並んで手すりにもたれると、彼女を優しく眺めた。
「きっと似合うと思うよ。ドレスにする魔法をかけてあげようか」
「母がスカートをはいたとき、違和感しかなかったので、いいです」
「殿下は、どうして君にもドレスを着ろって言わないのだろう」
「あの方はバカ正直ですから、『君には騎士のいでたちが似合う』とおっしゃいました」
「ごめんね、あんな人で」
「でも姫のことを見破った眼力には驚きました」
「ああ見えてほんとうは賢いんだ。ただずっと夢の中に逃げていたんだよ。呪いのせいで、王太子なのに神官にも国民にもあざ笑われてきた。そんな中、当たるかどうかわからない占いを信じ、真実の愛を夢見続けたんだよ。それで暗黒面に心を引きずられることなく、心を折られることもなく、踏みとどまって生きてこられたんだね」
それを聞いたパウラは、短く息を吐いて空を仰いだ。
「姫も、ユシドーラ様の教えに従い、ほんとうに幼い頃からずっと国際政治の駒として生きる覚悟を貫いてきたのです。フロレーテ様のように若い娘らしい夢を抱くことも、未来を夢見ることも許されない毎日の中、ただ唯一人間らしい楽しみが、食べることだけだったのです」
ティリアーノは、切ないような、やさしいような、どちらともつかない表情を浮かべた。
「僕らくらい、わかってあげてる人いないよね。苦労させられてるよね」
「それだけ主人のことが大事で、大好きで、目が離せないってことですよ」
パウラがティリアーノに横顔を見せて、髪をかき上げる。
夏を感じる風が吹いていた。
「もし……」
ティリアーノは、なにかをいいかけて、口を閉ざした。
「なんですか?」
パウラが尋ねると、ティリアーノは広間に目を走らせて、意味ありげに微笑んだ。
「いや、たぶん僕たち、同じことを考えていると思うよ」
◆◆◆‡◆◆◆‡◆◆◆
そしてガリマーロは、ひとりボレムの街外れにいた。
長い間果たせなかった、父の墓参をするためであった。
国民は皆祭りに興じていたので、墓地を訪れる人は誰もいない。
「父上。フィラーロです」
ガリマーロは途中で買い求めたネクタル酒の封を切り、墓石に注いだ。
「あの頃。俺は愚かで、本当に子供で、あなたや兄のことが理解できませんでした。今ようやく、あの頃の父上がどんなお気持ちだったのか、わかる気がします」
ネクタル酒の瓶が空になり、ガリマーロは鞄の中に瓶を戻した。
「団長やみんなのことを思うと、あなたがやったことは許しがたいし、やっぱり今も気分が悪い。あの魔法とあの作戦は、人としてどうかと思うものだ。だが、どうすればよかったのかといわれたら、俺には答えられない。カイヤンスでむごたらしく殺された人々を俺は見た。あれがソレイヤール全土に広がったかもしれないのだから」
ガリマーロが言葉を切ると、墓地の中には静寂だけがある。
「起こったことは変えられない。俺の人生も、やり直すことはできないし、そうしたいとも思っていません。だから父上。俺は、これからも、俺の人生を生きていきます」
ガリマーロは墓石の前で剣を捧げた。
大広間に招き入れられた彼女は、肩に力を入れたまま、ずっとうつむいていた。
「顔を上げてください」
アルネリアの言葉に、女官が顔を上げると。
「メリーサ!」
ガリマーロが声を上げた。
「なんだおまえ、知らなかったのか? 父上が推薦したんだよ」
レオニールが冷たく言った。
「フィラーロ、レオニール様、なぜここに!?」
メリーサは、口に手を当ててその場に立ち尽くした。
「ああ、あなただったのですか。メリーサさんとおっしゃるのですね。いつぞやはヤスリをありがとうございました」
「は、はい……?」
メリーサは、突然外国の王女に礼を言われ、戸惑っている。青の間で世話をした客人の少年であるとは、すぐにはわからないようだ。
「さて。あなたに質問したいことがあります。あなたはどういういきさつで王宮で働くことになったのですか?」
「前の大神官のオーリヤス様が、紹介してくださったのです。その……父亡き後、天涯孤独になった私を哀れんで……」
「最初から王太子付でしたか?」
「いいえ、でもあのときには、寝ずの番ができるような若い女官がいなくて……夜だけ、王太子様のお世話をしていました」
「ではメリーサさん。この仮面をご存じですか?」
アルネリアが手にしているのは、王子の仮面の複製である。
「は、……はい……」
見る間に、メリーサの顔が青ざめた。
「ねえ、もしかしてあなた。10年前くらいに、だれかに脅されたか、そそのかされたかして、仮面を渡されたことがありませんでしたか? ちょっとだけ悪戯するだけでいいからと」
「…………」
「もしかしたら、想い人のことかもしれませんねえ。お願いを聞いてくれたら、って言われたのかも……ひどい人がいますねぇ。いじらしい女心をもて遊ぶなんて」
メリーサの肩が震えている。向こうで、パウラがいやそうに顔をしかめていた。また悪党のような顔になっていたのかもしれないと、アルネリアは顔の筋肉を動かした。
「ひょっとしたら戦いでお父様を奪われたあなたの心の隙間に入り込んだ人物が、こんなことを言ったのかもしれません……。『眠っている王太子の顔に、そっと仮面を置いてくれないか? 戦争には勝ったが、あの王様のせいで、この国はめちゃめちゃだ。それにあなたの人生も狂わされてしまった。少しだけ懲らしめたいだけだから』……そんなことを……」
「…………」
「あのとき、国民の多くがそんな気持ちになっていたかもしれません。大神官や王、そういった人に懲罰を与えたいような気分。報われない人がそう思うのも無理はないでしょう」
固く閉じたメリーサの瞼から涙があふれ、彼女は両手で顔を覆った。
「しかしその夜、王太子は泣き叫び、翌日から美しかった少年が変な顔になってしまった。取り返しがつかないことをしてしまったと気づきました。けれども、自分の罪を告白することも、王宮を去ることもできなくなった。なぜならあなたをそそのかしたその人物が、とてつもない権力の座についてしまったから……そうではないのですか?」
メリーサは手を離して涙にむせんだまま、アルネリアを見つめてから……そしてバレムイーダに目を向け、答えた。
「はい」
「それだけで十分です、ありがとうございました。今まで、お辛かったでしょう」
メリーサはゆっくりと首を左右に振った。まだ涙で濡れているが、その顔は穏やかだった。長年の罪を告白した実感は、おそらくこれからわいてくるのだろう。
アルネリアはパウラから水を受け取り、唇と喉を潤してから、ヴァレリウスに向き直った。
「おそらくその仮面には前もって術式が書き込まれていたようですね。そして王宮の外で、その人は夜の闇の中に紛れて、こっそりと詠唱を唱えていたのでしょう。窓の下あたりにいたかもしれませんね。そっと王太子の顔の上に置かれた仮面は、そのとき呪われた仮面に変貌し、以後10年もの間、あなたと陛下を苦しめ続けてきたのです」
ヴァレリウスは、苦痛に満ちたうめき声をあげると、バレムイーダを向いた。
「なぜ……私の教育官であったあなたが。自然の美しさと、この国への愛を教えてくれたあなたが」
バレムイーダは、右手で髭を撫でると、静かな声で答えた。
「自然を愛し、この国を愛し、大地の精と共にあるからこそですよ」
「しかし、黒の力も大地から与えられた魔法です」
バレムイーダは右手を差し出し、ヴァレリウスの言葉を止めた。
「黒の力は人の心を萎縮させ、喜びを奪い、人を苦しめるもの。そんなものはあってはなりませぬ。だから私は、王にも、王太子にも、魂を込めて教育をしてきました。黒の汚れた心から離れ、清らかに保ちなさいと。けれども、ツニヤーダを罷免し、魔法を奪う黒の魔法を王がかけたとき。私は見たのですよ。レルニリウス王の顔が、破壊の喜びの光に満たされていたことを。それでも私はまだ信じたのです。きっと悔い改めてくれるものだと。けれども、それは誤りでした。11年前の戦のとき。敵軍から病に抗う力を下げる黒の魔法を担当していた王の目は、おぞましいことに、邪悪な喜びで輝いていたのですよ!」
「それで私を……」
ヴァレリウスの声は震えていた。
「そのとき私は悟りました。ああ、この一族を滅ぼすことこそが、私の使命、私が生きる証であると!」
誰も言葉を発することができず、大広間の中は、凍り付いたように静まりかえっていた。
「バレムイーダ大神官」
ふらふらと歩み寄ったのは、パストレーユ神官だった。
「顔から取れない仮面だなんて。魔法会議を通さない呪いの魔法を使いましたね」
「この国を守るため、大神官の権限で使いました。先の大神官もそうなされたであろう」
「いや、神官ならあなたもご存じのはず。王族への呪詛が決して許されない大罪であることを」
「無論。それでも私は悔いてはおりませぬ。大地の精の御心に従ったまで」
「では、私も大地の精の御心に従おう」
聞き慣れない声に皆が振り向くと、レルニリウス王が目をらんらんと輝かせて、バレムイーダを凝視していた。
「ち、父上……」
ヴァレリウスがつぶやく間に。王はバレムイーダに歩み寄り、その目の前に立ちはだかった。
「我が一族に与えられた力は、大地の恩寵。正統な黒の力を受け継ぐ者を守ることもまた、大地の精のご意志!」
レルニリウス王は右手を開いて前に差し出し、バレムイーダに向けた。
「やるならやってみなされ! そしてまた12年前の愚かな所業を繰り返しなされ!」
だが、レルニリウス王は、煽り続けるバレムイーダに耳を貸さなかった。
「大地の精よ。我に賜った王権に従い、バレムイーダの白の力をお返しいたします!」
レルニリウス王とバレムイーダの間で、空気が振動する。その気配を感じたアルネリアは、思わずパウラにしがみついた。
「う……ぐっ……」
バレムイーダは胸を押さえてよろめき、一度首をのけぞらせると、そのまま膝から崩れ落ちた。
外見的には全く変化が見られない。だがそれまで彼を包み込んでいた偉容が薄れて、一回り小さくなったようだ。
「苦しいか。だがこの10年間の余の苦しみ、および我が子の涙は、そなたの苦しみに勝る」
レルニリウスの言葉で、バレムイーダが顔を上げた。
「これで勝ったと思いなさるな。あのおぞましい作戦に加担した罪、そしてこの独断に走った所業と、己の感情で独走する浅ましさは、消えることがありませんぞ。後々までも白の魔法使いの間に語り継がれることでしょう……」
床の上にうずくまりながら、バレムイーダは憎しみのこもった目で、レルニリウス王をにらみつけていた。
「あーあ、やっちゃった……」
ティリアーノが右手で額を押さえる。
「確かに悪手だ。議会を通さない私的制裁と見なされるかもしれない……いや、見ろ!」
渋面になっていたレオーニスが、驚いた顔を王太子に顔を向けた。
「仮面……が……」
ヴァレリウスは両手で顔を押さえながら、腰から身体を折った。
その指の間から、ほろほろと黒い粉がこぼれて、床の上に降り落ちる……。
「ヴァレリウス!」
「待ちなさい」
駆け寄ろうとした王妃を、王が止めた。
ヴァレリウスは顔を押さえたまま、しばらく震えていたが、やがてゆっくりと顔から手を離した。そしてゆっくりと背筋を伸ばした瞬間、皆が息をのんだ。
透き通るような青白い肌の、目鼻立ちがはっきりした、気品ある青年の顔がそこにあったからだ。
「スースーする……」
ヴァレリウスは、指でなんども、自分の頬を撫でた。
「ヴァレリウス!」
「殿下ぁ……」
感極まった声の王妃とティリアーノが王太子に駆け寄った。
「よかったです、信じてましたけど、こんな日が来るなんて!」
ティリアーノは王太子の首にしがみつき、わんわん泣いていた。
アルネリアは、パウラの手を取って、ぶんぶん揺さぶった。
「やった、やったよ、解けたよ、パウラ!」
「そうか! 魔法をかけていた人が、魔法使いでなくなったから、魔法が解けたんですね!」
パウラとアルネリアは手を取り合って、ぴょんぴょん床をはねた。
「兄上……!」
ガリマーロも感極まった顔で、レオーニスを見つめた。
「そういえば、兄上はなぜここに私を?」
するとレオーニスはめったに見せない微笑みを浮かべて、ガリマーロの背中をぽん、と叩いた。
「意味はない。俺の弟だからだ」
レオーニスははしゃいでいる人たちを一瞥すると、静かに大広間から出て行った。
◆◆◆‡◆◆◆‡◆◆◆
ヴァレリウスの呪いが解けてから、これまでの事情は国民に公表された。
ソレイヤール国内は、当惑する者と「よくわからないが、めでたいことならそれでいい」と、お祭り気分に便乗する者の真っ二つに分かれた。
バレムイーダの処分はまだ決まっていない。メリーサは恩赦の対象になり、人手も足りないことからこれから先も、ベルヴィール宮で働くことになった。彼女は辞退しようとしたが、それが罪を償う手段だと、王からもレオーニスからも言われ、彼女も納得したようだ。
そして3日後。ベルヴィール宮の大広間では、祝いの宴が開かれていた。
「ヴァレリウスさま」
「王太子殿下」
着飾った女性たちが、ヴァレリウスを取り囲み、きらびやかな声で語りかけている。それに応じる王太子は極めて紳士的で、一挙手一投足も優雅である。変わらないのはしぐさも声だが、顔立ちの変化と、彼自身の自信が印象を完全に変えてしまっている。
「現金なものですね。今まで寄り付きもしなかったのに。今はソレイヤールの太陽とか、白々しいこと言ってますよ」
騎士の正装姿で、パウラがアルネリアに飲み物を運んできた。
「まったくだ。この前まで『ぬれたネズミみたいな鬱陶しい顔』とか言ってたくせに」
「さすがにそこまでは言ってないんじゃないですか」
「だが、殿下の相手はすでに決まっている。フロレーテ姉上が恋敵では勝負になるまい。フフフ……」
「ほらほら、また悪党の顔になってますよ」
そんなアルネリアは、今日もドレスである。それではせっかくのご馳走が思う存分食べられない。しかも晩餐には、ソースをかけた鶏肉の丸焼き、羊の串焼き、花をかたどったパテ、シチュー、山盛りのチーズ、蜂蜜酒などが並ぶ予定である。そう強く抗議したが、ビルギッタにこってり叱られ、仕方なく承諾した。
「よろしいでしょうか、アルネリア姫様」
メリーサが女官の服装のまま、おずおずと声をかけた。
「差し出がましくこのような場で申し訳ありません。ただ一言お礼が申し上げたくて。姫様のお力で、私は救われました。恥ずかしながら、ご慧眼の通り、あの人は『レオーニス様との縁をまとめてやる』とかいって近づき、そしてすっかり信じ込んだ頃に、あの申し出をしてきたのです。レオーニス様は私など眼中にないというのに、おろかですね……」
「そんな、人の気持ちはわからないものですよ」
「いえ、いいのです。あの方は、女性よりも仕事に夢中なのですから。それよりも、10年間の良心の痛みから解放されただけでじゅうぶんです」
「それでも人には幸せになる権利がありますよ。幸せになってください」
アルネリアは手を差し伸べ、メリーサと握手をした。
そのレオーニスは、気難しい顔でヴァレリウスの前に歩み寄ると、周りの女性たちを蹴散らした。
女性たちは「ああん」と不満そうな声を上げていたが、レオーニスの剣幕におののき、足早に散って行った。
「どうしました、レオーニス立法司祭」
「鼻の下を伸ばしている場合じゃありません。まだまだやることがあるはずだ。魔法に頼り切って国民は働かない。今は、ひとりの神官が100人の国民を支えているような状態です。もはや神官の不満は爆発寸前、またバレムイーダ派の反乱も予想されます。その連中によって王が突き上げられるでしょう。さらに大神官は空位のままだ。次の大神官を選出しなければならない。いいかげん目を覚ましてください!」
「はい。これからは私も陛下も、きちんと問題と向き合っていきます。そのためにも力を貸してください」
ヴァレリウスがぺこりと頭を下げたので、勢いをそがれたレオーニスはバツが悪そうにその場から引き下がる。
いつの間にかいなくなったパウラを探して、アルネリアがキョロキョロと周りを見回すと、国王がまっしぐらにこちらを目指して来るところが見えた。
「陛下」
膝を折って腰をかがめようとするアルネリアを、レルニリウスがとどめた。
「いや、そのままでいい。それよりも本当にあなたには世話になった。礼を言います」
「両国の平和のため、尽くせたことは私の喜びです」
アルネリアは胸に両手を当て、ノルデスラムト流の敬意を示した。
「これを両国がともに発展していくよい契機にしたいものですな。しかし、これからは忙しくなりますぞ。国のこともですが、アレにも妃を迎えなくては」
アレと言いながら、顔を向けた先にはヴァレリウスがいた。また女性たちに取り囲まれている。
アルネリアは姉の話を持ちかけようとしたが、ふと思い出して話を変えた。
「殿下の結婚といえば、国元に結婚話が届いたことがありましたが、どうやらそれは虚偽だったらしく、まだ犯人がわかっていないのです」
「ほほう。それはまた剣呑な……いったいどのようなことが?」
「ヴァレリウス殿下の肖像画が3枚も届いたのです。1枚はしょぼしょぼしたさえない中年顔、次は脂ぎってテラテラした若い男と、それから不気味な悪魔顔の男なんですよ。いくらなんでも怪しすぎで……て、陛下?」
見ると、ぽかんとした顔で王がアルネリアを見つめている。
「あれは、余が送った」
「ええええええっ!? なんでー!?」
アルネリアは、思わずのけぞった。
「呪いのことで10年間努力をしたが、なにをしても手詰まりだっただろう。そこで、助けを求める手紙を送ったのだよ」
「手紙? 王太子の結婚がどーのこーのという挨拶文ならありましたが、それのことですか?」
「違う。額縁を開けてみなかったのか? 中に密書が入っていたろう?」
密書?
アルネリアは閉じた扇をぎゅううっと握りしめた。そんなこと誰も言っていなかった。確認もしなかった。降ってわいた結婚話で、揃いも揃って初歩的な失態を演じていたらしい。
「姉上としたことがなんといううかつなことを!」
「余はてっきり、送った密書を読んで来てくれたものだとばかり思っていたぞ。そなたに会ったときに、くれぐれもよろしく頼むと申したであろう」
「密書に気づかなかったのは、私どもの落ち度でございます。ですが、なぜそのような大役に私たちを選んだのです?」
「そりゃあそなた。アーレンベルクといえば、黒の魔法使いの名前でしょう。そなたらはミッテルスラムトで仲間割れをして、北に帰って行った黒の魔法使いの末裔ではないか……もしかして、それもご存じない?」
驚きすぎてもうアルネリアは声も出ない。
「黒の魔法使いはね、魔法が効きにくいのだよ。ほれ、だからヤツが王太子に直接魔法をかけず、呪いを仮面をかけていたのもそういうわけ」
「では……私に仮面が見えたのも……額に刻んだという防御魔法が効かなかったのも」
「そう。自覚があるなしにかかわらず、そなたらの中には、我々とは違う家系の、黒の魔法使いの血が流れているのだよ。まあそういうわけでな。今後とも黒の血筋同士、仲良くやっていこうではないか」
レルニリウスは豪快に笑いながら、あっけにとられるアルネリを残して、広間の中央に向かって歩いて行った。
◆◆◆‡◆◆◆‡◆◆◆
長い日も西に傾き、東側から深い青が空に広がり始めている。
バルコニーで、パウラは手すりに肘をかけて、宮殿の庭を眺めていた。その背後からティリアーノがそっと近づき、肩越しに声をかけた。
「君は、アルネリア姫のようにドレスを着ないの?」
「私の正装は騎士のいでたちですから」
ティリアーノはパウラと並んで手すりにもたれると、彼女を優しく眺めた。
「きっと似合うと思うよ。ドレスにする魔法をかけてあげようか」
「母がスカートをはいたとき、違和感しかなかったので、いいです」
「殿下は、どうして君にもドレスを着ろって言わないのだろう」
「あの方はバカ正直ですから、『君には騎士のいでたちが似合う』とおっしゃいました」
「ごめんね、あんな人で」
「でも姫のことを見破った眼力には驚きました」
「ああ見えてほんとうは賢いんだ。ただずっと夢の中に逃げていたんだよ。呪いのせいで、王太子なのに神官にも国民にもあざ笑われてきた。そんな中、当たるかどうかわからない占いを信じ、真実の愛を夢見続けたんだよ。それで暗黒面に心を引きずられることなく、心を折られることもなく、踏みとどまって生きてこられたんだね」
それを聞いたパウラは、短く息を吐いて空を仰いだ。
「姫も、ユシドーラ様の教えに従い、ほんとうに幼い頃からずっと国際政治の駒として生きる覚悟を貫いてきたのです。フロレーテ様のように若い娘らしい夢を抱くことも、未来を夢見ることも許されない毎日の中、ただ唯一人間らしい楽しみが、食べることだけだったのです」
ティリアーノは、切ないような、やさしいような、どちらともつかない表情を浮かべた。
「僕らくらい、わかってあげてる人いないよね。苦労させられてるよね」
「それだけ主人のことが大事で、大好きで、目が離せないってことですよ」
パウラがティリアーノに横顔を見せて、髪をかき上げる。
夏を感じる風が吹いていた。
「もし……」
ティリアーノは、なにかをいいかけて、口を閉ざした。
「なんですか?」
パウラが尋ねると、ティリアーノは広間に目を走らせて、意味ありげに微笑んだ。
「いや、たぶん僕たち、同じことを考えていると思うよ」
◆◆◆‡◆◆◆‡◆◆◆
そしてガリマーロは、ひとりボレムの街外れにいた。
長い間果たせなかった、父の墓参をするためであった。
国民は皆祭りに興じていたので、墓地を訪れる人は誰もいない。
「父上。フィラーロです」
ガリマーロは途中で買い求めたネクタル酒の封を切り、墓石に注いだ。
「あの頃。俺は愚かで、本当に子供で、あなたや兄のことが理解できませんでした。今ようやく、あの頃の父上がどんなお気持ちだったのか、わかる気がします」
ネクタル酒の瓶が空になり、ガリマーロは鞄の中に瓶を戻した。
「団長やみんなのことを思うと、あなたがやったことは許しがたいし、やっぱり今も気分が悪い。あの魔法とあの作戦は、人としてどうかと思うものだ。だが、どうすればよかったのかといわれたら、俺には答えられない。カイヤンスでむごたらしく殺された人々を俺は見た。あれがソレイヤール全土に広がったかもしれないのだから」
ガリマーロが言葉を切ると、墓地の中には静寂だけがある。
「起こったことは変えられない。俺の人生も、やり直すことはできないし、そうしたいとも思っていません。だから父上。俺は、これからも、俺の人生を生きていきます」
ガリマーロは墓石の前で剣を捧げた。
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