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零話 深淵を覗く
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童貞を失ったのは小学五年の時で、相手は母だった。
生臭い精液の匂いと、男達の下卑た笑い声を、よく覚えている。
事の発端は両親の離婚だった。
理由は父の不倫だ。
発覚したのは、相手方が妊娠してしまったから。
母は父を深く愛していたから、だからこそ、母はそれが分かると深く心を病んでしまった。
おかしくなったのは、それからだ。
母はほとんど家に姿を現さなくなった。
空いた部屋の虚無感と、孤独と、母を案ずる気持ちは一層と深まるなかで、母は男と酒に金を食い潰していた。
容姿のいい人だったから────たまに帰ってくる母は決まって見知らぬ男を連れていて、俺を早く寝かせた。
母はどんどんおかしくなっていった。
テーブルの上にはいつも何か粉のようなものが置いてあって、母は独りぶつぶつと何かを呟いていた。
たまに狂ったように叫びながら俺を殴る時もあった。
その後はきまって泣きながら謝るのだが、いつも構ってくれない母がその時は俺に構ってくれて、おかしくなっているのをわかっていながらも、俺はそれがとても嬉しかった。
小学五年になると、怖い顔をした男達が家によく訪れるようになった。
来る度に男達は母を怒鳴り、殴り、そうして凶暴に、一方的に母を犯して、それを俺は、泣きながら見ていた。
俺の童貞が失われたのは、そんな男達の悪ふざけだった。
母は俺に跨り、狂ったような嬌声をあげていた。
その時俺はどうしていたのだろうか──あの時の事は、もうあまり覚えていない。
小学校を卒業して数日後──母はリビングで首を吊っていた。
幼い頃の記憶はいつだって仄暗く、粘着質な闇に覆われている。
その全体像を掴むことはできず、細かに思い出すことは出来ない。
だが、この夢だけは、鮮明にその記憶を見せつけてくる。
夢ではいつもこれらが繰り返され、俺はいつもその光景を眺めている。
あまい女の香りと、濁った白と、狂ったような矯声は、視界に映る景色を暗色に染めて、或いは自分の内側に、深い闇として存在し続けている。
それらを見終わった頃、俺の心を占めるのは、果てしない空虚と途方も無い諦観だ。
夢が終わる────景色が暗転して、何も見えなくなる。
次第に体の感覚が現実的なものになって、音が変わっていく。
外をはしる車の音と鳥の鳴き声──眠りはとっくに終わっていて、俺は瞼を開いた。
「......もう、10時か」
背中はじんわりと汗ばんでいるのに、体は冷たい。
頭も少しくらくらする。まるでまだ、闇の中にいるみたいだ。
ベッドから降りる。
床は冷たく、足の裏がひやりとした。
四月頃の気温は厄介だ。
昼はもう暖かいくせに、朝はまだ、肌寒い。
飛び跳ねた頭を掻いて、立ち上がる。
せっかくの日曜だというのに、寝起きの気分は最悪だ。
ふらついた足取りのままに台所に立つと、コップに水道水を注いで一気に呷った。
湿った口元を手の甲で拭うと、思わず顔を顰める。
生温い液体がゆっくりと身体を通る感覚は、嘔吐を堪える感覚とよく似ていた。
憂鬱な気分のままに洗面所の鏡の前に立つと、義務的に顔を洗う。
切れ長な瞳、すらりと通った鼻筋、薄く色を帯びた唇に、ニキビ一つない白い肌。だが、それらは目の下の隈と、野暮ったくて長い髪と、蒼白な色に阻害されている。
鏡に映る整った顔は、酷い顔色の悪さで台無しになっていた。
リビングに戻って珈琲を作り、食パンにスライスチーズを乗せて焼く。珈琲の芳ばしい香りが鼻腔に漂い、疲労のたまっている脳を柔く癒す。少し、昨日は無理をし過ぎたのかもしれない、と白い簡素なデスクテーブルに目をやった。
その上には、開いたままのノートパソコンと、紙の束と、マグカップが放置されている。
紙の束は小説のプロットだ。
昨夜やっと設定が固まり、執筆を始めたら、いつの間にか三時を回っていた。
だが、設定は出来上がったにしても、調子は芳しくなかった。
昨夜は表現に頭を悩ませたままに、眠りについたのだ。
「......気晴らしに出掛けるのも、悪くはないかな」
窓の外を見て、そう呟く。
重く垂れこめる曇天どんてんには雨の気配が漂っている。
雨の下での散歩だって、きっと悪くは無いだろう。
外の空気は湿気っていて、生温い。
古ぼけた小さなアパートから出ると、深く息を吸って、吐いた。
雨前の淀んだ空気は、夢を見たあとの暗い気配に似ている。
傘を片手に、馴染みの古書店に向かって歩き出す。
特に買いたいものの目星もないのだが、あの空間はこの東京の街とは掛け離れた雰囲気を持っていて、落ち着くのだ。
煩わしく横を通り過ぎる人や車に気を張って歩く。
東京の街は物と人に溢れているから、常に閉塞感を感じる。
元来東京に住んでいるものには分からないのだろうが、田舎のようなところから来た俺にとっては、息苦しくて仕方が無い。
丁度小雨が振り出した頃、古書店に着いた。
見た目は古ぼけていて、新しいものに溢れる東京の街には、似合わない佇まいだ。
少し重たいドアを開けて、中に入る。
────森の匂いが、ドアから漏れて自身を包み込む。
静謐に包まれた、雨上がりの森の匂いだ。
本は一本の木。頁は木の葉。
齢の深いものもいれば、若々しいものも、傷だらけに朽ちそうなものもある。
だがそのどれもが味わい深く、気高い。
「いらっしゃい──おや、柊哉君じゃないか」
齢にして七十くらいだろうか。まるで図書館の受付のようなカウンターに座る、長い白髪を後ろに結んだ男の老人が、こちらに気づくと声を掛けた。
とても柔らかい表情をしている。その声音は、深いものを堪えているように、低い。
「暇なので遊びに来ました、青藤さん──もとい、藍本和樹先生?」
「おいおい、ペンネームはよしておくれよ。 蒼谷猫介君?」
お互い様ですよ──と、俺は小さく笑った。
目の前の老人、藍本和樹──もとい、青藤鷲梧は作家だ。
ミステリーと恋愛の二つのジャンルの小説を書き、それなりに売れている、尊敬する師でもある。
特に彼は濃密な心理描写が得意であり、その技をもって書かれる文には、何度自身も酔い痴れたことか。
彼と知り合えたのは、彼の孫娘と俺が友人でで あるからである。
孫娘──青藤紗奈衣というが、その祖父が作家と彼女から聞いた自身は、作家を目指す身としてあまりに興奮してしまい、押し入るようにして彼と知り合った。
人の心理をあまりに深く明瞭に書く彼の性質は、その筆と同様であり、しばしば確信を突くようなことを言ってみせる。
その筆は自身の経験から来てるのか、末恐ろしいところもあるが、彼とは親しい関係を築いている。
「今日はこれから随分雨が降るらしい。 こんな古ぼけた古書店に足を運ぶ者は今日はおらんと思っとったが……」
「少し、気晴らしに」
雨の日の外で、気晴らし。
自分が言ったことだが、なんだか矛盾しているなと、少し自嘲気味な笑みがこぼれた。
雨脚は勢いを増したか。雨粒が屋根を叩く音が、徐々に大きくなる。
「ふむ──今日は随分と暗い顔をしておるの。 どうかしたか?」
顎を摩り、こちらを窺うように、彼は俺の瞳を覗き込む。
彼の瞳は深い色をしている。
目を合わせていると、まるで底の見えない深淵を覗いているような感覚を受ける。
『深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちら側を覗き込んでいるのだ』
どこかで聞いたそんな言葉を、ふと思い出す。
「小説、あまり上手くいっていないんですよ。 表現に悩みまして、だから気晴らしです」
俺はそういって少しだけ微笑む。
だが、そんな俺を見た彼は、その眉根をピクリと動かした。
「ふむ、嘘じゃな」
「えっ…………?」
淡々とした声音で彼は言い切った。
別に嘘を吐いたつもりはないのだが、彼の声音と表情は何か自分も知らない自分すら見透かされているようで、おかしな説得力があった。
「或いは、嘘ではないのじゃろう。 君は小説に『も』悩んでいるが、それには大して気をまわしていない」
淡々と、語るように彼は言葉を続ける。
深い瞳に見据えられた俺は、言葉を待つ他ない。
じんわりと背中が汗ばむ。体が冷たい。
「君は『欠落』しとる。 それが何かまでは、私には読み取れないのだが、少なくとも君自身は気付いているはずじゃ。 見ないふりをしているだけで」
「欠落……ですか」
「性格の悪い小説ばかり書いていると、変なことにばかり気が付く。 君は私が書いた作品の人物によく似ている。 深い闇を堪えて、溜め込んでいる。 満たされないものに心を焦らしている。 或いは、それを書いた私と同じように」
それを言う彼の瞳には、どこか哀れみのようなものが浮かんでいるような気がして、俺は思わず俯いた。
彼の顔を見ることができない。
これ以上見透かされたくないと──そう思ったとき、気付いた。
目を逸らしている。現に今も。
拒んでいる。自分の内側に入り込む者を。
それがたとえ、自分自身であっても。
「──まあ、君が違うというなら、そうなのかもしれないが。 人を知るということは終わりのない無限廻廊を彷徨うことと同義じゃ。 私の全くの見当違いで君の気を害したなら、老人の戯言だと思ってくれて構わんよ。
ただし──その答えが君自身にも分からないというなら、きっと私の言っていることは正しい」
相変わらず、低く、深いものを堪えたような声音だ。
だが、そこにはいつもと違う色があった。
哀愁の色だ。
「さぁ、雨も酷くなってきた。 客の一人も来ないし、そろそろ店を閉めることにするかの。 君もそろそろ、帰るといい。あぁ、そうそう、学校では紗奈衣さなえを宜しく頼んだぞ。あれは珍しく本の虫じゃから、なかなか友達もおらんじゃろうしな」
「......えぇ、分かりました」
言って、窓から外を見やる。
雨はその勢いを少しは弱めたようであるが、まだ激しい。
古書店を出ると、店内の電気が消えて、鍵が掛けられた。
そう言えば彼は「客の一人も来ないし」と言ったか。
彼は俺を、『客』とは見ていなかったらしい。
「結局、気晴らしにはならなかったな」
傘を開いて、ぽつりと、そう呟いた。
生臭い精液の匂いと、男達の下卑た笑い声を、よく覚えている。
事の発端は両親の離婚だった。
理由は父の不倫だ。
発覚したのは、相手方が妊娠してしまったから。
母は父を深く愛していたから、だからこそ、母はそれが分かると深く心を病んでしまった。
おかしくなったのは、それからだ。
母はほとんど家に姿を現さなくなった。
空いた部屋の虚無感と、孤独と、母を案ずる気持ちは一層と深まるなかで、母は男と酒に金を食い潰していた。
容姿のいい人だったから────たまに帰ってくる母は決まって見知らぬ男を連れていて、俺を早く寝かせた。
母はどんどんおかしくなっていった。
テーブルの上にはいつも何か粉のようなものが置いてあって、母は独りぶつぶつと何かを呟いていた。
たまに狂ったように叫びながら俺を殴る時もあった。
その後はきまって泣きながら謝るのだが、いつも構ってくれない母がその時は俺に構ってくれて、おかしくなっているのをわかっていながらも、俺はそれがとても嬉しかった。
小学五年になると、怖い顔をした男達が家によく訪れるようになった。
来る度に男達は母を怒鳴り、殴り、そうして凶暴に、一方的に母を犯して、それを俺は、泣きながら見ていた。
俺の童貞が失われたのは、そんな男達の悪ふざけだった。
母は俺に跨り、狂ったような嬌声をあげていた。
その時俺はどうしていたのだろうか──あの時の事は、もうあまり覚えていない。
小学校を卒業して数日後──母はリビングで首を吊っていた。
幼い頃の記憶はいつだって仄暗く、粘着質な闇に覆われている。
その全体像を掴むことはできず、細かに思い出すことは出来ない。
だが、この夢だけは、鮮明にその記憶を見せつけてくる。
夢ではいつもこれらが繰り返され、俺はいつもその光景を眺めている。
あまい女の香りと、濁った白と、狂ったような矯声は、視界に映る景色を暗色に染めて、或いは自分の内側に、深い闇として存在し続けている。
それらを見終わった頃、俺の心を占めるのは、果てしない空虚と途方も無い諦観だ。
夢が終わる────景色が暗転して、何も見えなくなる。
次第に体の感覚が現実的なものになって、音が変わっていく。
外をはしる車の音と鳥の鳴き声──眠りはとっくに終わっていて、俺は瞼を開いた。
「......もう、10時か」
背中はじんわりと汗ばんでいるのに、体は冷たい。
頭も少しくらくらする。まるでまだ、闇の中にいるみたいだ。
ベッドから降りる。
床は冷たく、足の裏がひやりとした。
四月頃の気温は厄介だ。
昼はもう暖かいくせに、朝はまだ、肌寒い。
飛び跳ねた頭を掻いて、立ち上がる。
せっかくの日曜だというのに、寝起きの気分は最悪だ。
ふらついた足取りのままに台所に立つと、コップに水道水を注いで一気に呷った。
湿った口元を手の甲で拭うと、思わず顔を顰める。
生温い液体がゆっくりと身体を通る感覚は、嘔吐を堪える感覚とよく似ていた。
憂鬱な気分のままに洗面所の鏡の前に立つと、義務的に顔を洗う。
切れ長な瞳、すらりと通った鼻筋、薄く色を帯びた唇に、ニキビ一つない白い肌。だが、それらは目の下の隈と、野暮ったくて長い髪と、蒼白な色に阻害されている。
鏡に映る整った顔は、酷い顔色の悪さで台無しになっていた。
リビングに戻って珈琲を作り、食パンにスライスチーズを乗せて焼く。珈琲の芳ばしい香りが鼻腔に漂い、疲労のたまっている脳を柔く癒す。少し、昨日は無理をし過ぎたのかもしれない、と白い簡素なデスクテーブルに目をやった。
その上には、開いたままのノートパソコンと、紙の束と、マグカップが放置されている。
紙の束は小説のプロットだ。
昨夜やっと設定が固まり、執筆を始めたら、いつの間にか三時を回っていた。
だが、設定は出来上がったにしても、調子は芳しくなかった。
昨夜は表現に頭を悩ませたままに、眠りについたのだ。
「......気晴らしに出掛けるのも、悪くはないかな」
窓の外を見て、そう呟く。
重く垂れこめる曇天どんてんには雨の気配が漂っている。
雨の下での散歩だって、きっと悪くは無いだろう。
外の空気は湿気っていて、生温い。
古ぼけた小さなアパートから出ると、深く息を吸って、吐いた。
雨前の淀んだ空気は、夢を見たあとの暗い気配に似ている。
傘を片手に、馴染みの古書店に向かって歩き出す。
特に買いたいものの目星もないのだが、あの空間はこの東京の街とは掛け離れた雰囲気を持っていて、落ち着くのだ。
煩わしく横を通り過ぎる人や車に気を張って歩く。
東京の街は物と人に溢れているから、常に閉塞感を感じる。
元来東京に住んでいるものには分からないのだろうが、田舎のようなところから来た俺にとっては、息苦しくて仕方が無い。
丁度小雨が振り出した頃、古書店に着いた。
見た目は古ぼけていて、新しいものに溢れる東京の街には、似合わない佇まいだ。
少し重たいドアを開けて、中に入る。
────森の匂いが、ドアから漏れて自身を包み込む。
静謐に包まれた、雨上がりの森の匂いだ。
本は一本の木。頁は木の葉。
齢の深いものもいれば、若々しいものも、傷だらけに朽ちそうなものもある。
だがそのどれもが味わい深く、気高い。
「いらっしゃい──おや、柊哉君じゃないか」
齢にして七十くらいだろうか。まるで図書館の受付のようなカウンターに座る、長い白髪を後ろに結んだ男の老人が、こちらに気づくと声を掛けた。
とても柔らかい表情をしている。その声音は、深いものを堪えているように、低い。
「暇なので遊びに来ました、青藤さん──もとい、藍本和樹先生?」
「おいおい、ペンネームはよしておくれよ。 蒼谷猫介君?」
お互い様ですよ──と、俺は小さく笑った。
目の前の老人、藍本和樹──もとい、青藤鷲梧は作家だ。
ミステリーと恋愛の二つのジャンルの小説を書き、それなりに売れている、尊敬する師でもある。
特に彼は濃密な心理描写が得意であり、その技をもって書かれる文には、何度自身も酔い痴れたことか。
彼と知り合えたのは、彼の孫娘と俺が友人でで あるからである。
孫娘──青藤紗奈衣というが、その祖父が作家と彼女から聞いた自身は、作家を目指す身としてあまりに興奮してしまい、押し入るようにして彼と知り合った。
人の心理をあまりに深く明瞭に書く彼の性質は、その筆と同様であり、しばしば確信を突くようなことを言ってみせる。
その筆は自身の経験から来てるのか、末恐ろしいところもあるが、彼とは親しい関係を築いている。
「今日はこれから随分雨が降るらしい。 こんな古ぼけた古書店に足を運ぶ者は今日はおらんと思っとったが……」
「少し、気晴らしに」
雨の日の外で、気晴らし。
自分が言ったことだが、なんだか矛盾しているなと、少し自嘲気味な笑みがこぼれた。
雨脚は勢いを増したか。雨粒が屋根を叩く音が、徐々に大きくなる。
「ふむ──今日は随分と暗い顔をしておるの。 どうかしたか?」
顎を摩り、こちらを窺うように、彼は俺の瞳を覗き込む。
彼の瞳は深い色をしている。
目を合わせていると、まるで底の見えない深淵を覗いているような感覚を受ける。
『深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちら側を覗き込んでいるのだ』
どこかで聞いたそんな言葉を、ふと思い出す。
「小説、あまり上手くいっていないんですよ。 表現に悩みまして、だから気晴らしです」
俺はそういって少しだけ微笑む。
だが、そんな俺を見た彼は、その眉根をピクリと動かした。
「ふむ、嘘じゃな」
「えっ…………?」
淡々とした声音で彼は言い切った。
別に嘘を吐いたつもりはないのだが、彼の声音と表情は何か自分も知らない自分すら見透かされているようで、おかしな説得力があった。
「或いは、嘘ではないのじゃろう。 君は小説に『も』悩んでいるが、それには大して気をまわしていない」
淡々と、語るように彼は言葉を続ける。
深い瞳に見据えられた俺は、言葉を待つ他ない。
じんわりと背中が汗ばむ。体が冷たい。
「君は『欠落』しとる。 それが何かまでは、私には読み取れないのだが、少なくとも君自身は気付いているはずじゃ。 見ないふりをしているだけで」
「欠落……ですか」
「性格の悪い小説ばかり書いていると、変なことにばかり気が付く。 君は私が書いた作品の人物によく似ている。 深い闇を堪えて、溜め込んでいる。 満たされないものに心を焦らしている。 或いは、それを書いた私と同じように」
それを言う彼の瞳には、どこか哀れみのようなものが浮かんでいるような気がして、俺は思わず俯いた。
彼の顔を見ることができない。
これ以上見透かされたくないと──そう思ったとき、気付いた。
目を逸らしている。現に今も。
拒んでいる。自分の内側に入り込む者を。
それがたとえ、自分自身であっても。
「──まあ、君が違うというなら、そうなのかもしれないが。 人を知るということは終わりのない無限廻廊を彷徨うことと同義じゃ。 私の全くの見当違いで君の気を害したなら、老人の戯言だと思ってくれて構わんよ。
ただし──その答えが君自身にも分からないというなら、きっと私の言っていることは正しい」
相変わらず、低く、深いものを堪えたような声音だ。
だが、そこにはいつもと違う色があった。
哀愁の色だ。
「さぁ、雨も酷くなってきた。 客の一人も来ないし、そろそろ店を閉めることにするかの。 君もそろそろ、帰るといい。あぁ、そうそう、学校では紗奈衣さなえを宜しく頼んだぞ。あれは珍しく本の虫じゃから、なかなか友達もおらんじゃろうしな」
「......えぇ、分かりました」
言って、窓から外を見やる。
雨はその勢いを少しは弱めたようであるが、まだ激しい。
古書店を出ると、店内の電気が消えて、鍵が掛けられた。
そう言えば彼は「客の一人も来ないし」と言ったか。
彼は俺を、『客』とは見ていなかったらしい。
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傘を開いて、ぽつりと、そう呟いた。
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