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一話 雨花
しおりを挟む雨に咲く花のような女がいた。
まだ雨の強い古書店の帰り。自身が住む古びたアパートの階段に、女は座っていた。
女は洒落っ気の少ない服を着ていて、雨でずぶ濡れになったか、それは透けて体に張り付いていた。
肩辺りまでのミディアムショートの黒髪も濡れてしまっている。
雨の日に外出しているというのに、その手には傘は無い。
アパートの自室は二階に位置する。つまり、帰宅するのに女は邪魔で──名前も知らない他人に声をかけるのは心が引けるので、女の目の前で立ち止まってそれとなくそれを伝えようとした。
女は俯いていて、顔を上げない。
雨にぬかるんだ地面は確かに湿った足音を鳴らしたはずだが、それが目前に止まっても、女は顔をあげようとはしなかった。
「あの……」
仕方がないと、少し迷惑そうに、声を掛ける。
やっと気づいたのか、少しの間を置いて、女はゆっくりと顔を上げた。
──鬱々とした瞳だった。
まるで、雨に溺れたような、深い海の底を思わせるような、そんな瞳だ。
その根底には光が窺えない。少し吊り目っぽくて、その目自体は強気に映えるというのに、女はどこまでも弱弱しく映えた。
俺はこの瞳を、これによく似た瞳を知っている。
「……雨宿りしてたんです」
女が呟くように言う。
弱弱しい、甘い声だ。
女は立ち上がると、俺をその双眸で見つめて──ゆったりと、微笑んだ。
女は美しい容姿をしている。
肌は雪のように白く、鼻立ちはすらりとしていて、桜色のふっくらとした唇は湿っていて、どことなく色気すら纏われていた。
深い瞳は、女を象徴している。
だから俺は、雨に咲く花を彷彿とさせた。
花の容姿は美しい。
あるものは気高く、或いは可愛く、温かく映える。
──だが、触れると冷たく、弱弱しい。
女はその性質と似ている気がして、それは雨の中に、よく映えていた。
「傘も持たずに、出掛けたんですか?」
話をするつもりなんてなかったのだが、俺は気付けばそう返していた。
「いえ、傘は持ってません」
今日は見るからに雨降りの空をしていた。
天気が急変したという訳でもない。
傘を持っていない、というのも不自然であるが、何故傘もないのに出たのだろうか──と、疑問に思うと、女は俺が疑問に思ったのをわかっているかのように、少しだけ微笑んで、言葉を続けた。
「濡れてもいいかなって思ったんです。でも、やっぱり寒くて」
「......変な人ですね」
「......やっぱり、変ですよね」
「えぇ、変です」
俺が思ったことを素直に言うと、女は「遠慮無しですね」と言って笑った。
──女の笑みには、深い悲しみが篭っている。
「.......俺、このアパートに住んでるんですけど......よかったら、止むまで雨宿りしていきますか?」
俺がそう持ち掛けると、少しだけ、女の表情が曇った。
深い瞳が、俺を見据える。
「もしかして、誘ってるんですか?」
女がうっすらと笑う。
──あぁ、そうだ。
『俺も』そういう風に笑うんだ。
その瞳は、全てに諦観したようで、虚無に満ちて、曰く、欠落している。
この女は、きっと俺に似ている。
「だとしたら、どうするんですか?」
「──ぜひ、雨宿りしていきます。雨がやむまで」
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