赤とんぼ

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赤とんぼ

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誰もが、子供時代に置き去りにした

もどかしくも、儚く、そして答えの出せぬままに

そっと心の奥に、大切にしまい込んだ

そんな記憶があるのではなかろうか。

私にとってのそれは、あの空をも焦がす赤とんぼの光景であり

赤とんぼを見ると、決まって兄やんのことを思い出す。




1. 兄やんとヨーヨー


押し入れの闇が無限に広がり、カーテンがオバケに見えたあの頃、

僕と兄やんは、同じ時間の中で生きていた。

ひとりっ子の僕にとって、右隣の家に住む兄やんは本当の兄貴だった。

彼の言葉は羅針盤であり、笑顔や、その仕草全てが僕の憧れであり、ヒーローだった。

兄やんは何でもできた。

いや、できなかったことも、彼の純粋さで「できた」ことに変えた。

ある日、ゴミ捨て場のブロック塀で、兄やんはコカコーラのロゴが入った重いヨーヨーを手に持っていた。

「坊、これで世界を変えられるぜ!」

兄やんがヨーヨーを振り回すと、まるで魔法みたいに糸が唸った。

でも、すぐにヨーヨーは電柱に絡まって、だらんと垂れ下がった。

「ちぇ、失敗!」と笑う兄やん。

僕が「世界、変わらなかったね」と言うと、彼は目を細めて、

「変わったさ。坊が笑っただろ?」

その言葉に、僕はキャハハと笑った。

でも、ふと気づくと、商店街のおじさんが遠くから兄やんを冷ややかな目で見ていた。

「兄やん、なんであの人、変な顔してるの?」

僕の問いに、兄やんは「大人なんて、急いでるだけさ」とだけ言って、ヨーヨーをまた振り回した。

その笑顔の奥に、なんか変な影みたいなものが見えた気がした。





2. 釣りとサシ


夏の終わりの釣堀で、兄やんは短い竿を手に持ってきた。

「坊、今日は魚を釣るぜ。鯨じゃねえけど、すげえやつだ!」

彼が作った仕掛けは「ツインヘッド」と名付けられ、赤いアカムシが小さな針に揺れていた。

「静かに水に落として、浮きが沈んだら竿を立てるんだ。」

兄やんの言葉通り、浮きが沈むと、クチボソって小さな魚が釣れた。

煮干しみたいだけど、僕には宝物だった。

「兄やん、僕、百匹釣った!」

「はは、十匹だろ! でも、坊は最高だ!」

兄やんは僕の頭を撫でて、目を細めた。

その時、遠くで中学生たちが自転車で通り過ぎながら、兄やんを指さして笑った。

「アイツ、いつもガキと遊んでんな!」

兄やんは聞こえないふりで、竿を振った。

でも、僕にはわかった。兄やんの笑顔が、ちょっとだけ固くなった。

次の日、兄やんは「今日は特別な場所だ」と、休耕田のため池に連れて行ってくれた。

そこには、「パンツの悪魔がいる」と笑いながら兄やんは話した。怖くて不思議な場所だった。

水面は浮き草で緑の絨毯みたいで、葦がそよぐ向こうに何かいる気がした。

「坊、今日はサシって餌だ。でっかい魚を釣るぞ!」

兄やんが見せた白いウニウニ動くサシは、気持ち悪かったけど、どこか蜂の子に似ていて平気だった。

ポチャリと水に落とした瞬間、竿がグイッと引っ張られた。

「河童だ! 僕、引きずられる!」

パニックになった僕を、兄やんは笑いながら竿を支えてくれた。

釣り上がったのはフナだったけど、緑の浮き草にまみれて、まるで怪物みたいだった。

「坊、すげえだろ! 怪物退治だ!」

兄やんは笑ったけど、僕は何か怖くて、竿を握る手が震えた。

その時、兄やんが独り言みたいに言った。

「サシはな、ほっとくとハエになるんだ。ちっちゃいのに、すげえ変化だろ?」

僕は「兄やんもハエになるの?」と聞くと、彼は笑って、

「オレはトンボだ。ヤゴからトンボになるんだよ。」

その言葉が、なぜか胸に引っかかった。

兄やんの笑顔の奥に、薄い暗幕みたいなものが揺れてる気がした。




3. 電線と赤とんぼ


秋が来て、赤とんぼが空を埋めた。

兄やんと僕は、ゴミ捨て場で拾った紐と石ころで「鳥を捕る武器」を作った。

「坊、これで鳩を捕まえるぜ! アマゾンの部族みたいにな!」

兄やんがブンブン振り回すと、紐が電線に絡まって、蛇みたいにくるくる巻きついた。

鳩は逃げたけど、僕らは興奮して、何度も投げた。

電線は、まるで季節外れのクリスマスツリーになった。

「兄やん、すげえ! 僕ら、世界一のハンターだ!」

「だろ? オレと坊なら、なんでもできる!」

兄やんは笑ったけど、遠くで電力会社のおじさんが何か叫んでた。

その時、作業着の男が兄やんに近づいてきた。

「君、二十歳も過ぎて、こんなガキと遊んで何だ? 近所で噂になってるぞ。ちゃんと働きな。」

兄やんは顔を真っ赤にして、走って行ってしまった。

僕の声は、風に置き去りにされた。

それから、兄やんはしばらく姿を見せなかった。

駄菓子屋に通うだけの毎日で、僕は何か大事なものを失った気がした。

母は僕をパン屋やケーキ屋に連れ出すけど、兄やんみたいには笑えなかった。

ある日、窓に小石が当たった。

兄やんだった。

「坊、ヤゴを捕りに行くぞ。トンボになる前の、すげえやつだ!」

彼の笑顔は前と同じだったけど、目が少し遠くを見てた。




4. ヤゴと喪失


あの休耕田のため池に、兄やんと行った。

「坊、ヤゴはな、トンボの子供だ。純粋なまんまで、羽が生えるんだ。」

兄やんは竿にサシをつけながら、そう言った。

用水路の向こうでは、近所のおばさんが兄やんを見て何か囁いている。

兄やんは聞こえないふりで、僕に笑いかけた。

「坊、指を立ててみな。」

言われた通り指を立てると、赤とんぼがスッと止まった。

微かな温もりと重さが、僕の全部をここに留めた。

「オレがここにいるって、トンボが教えてくれるんだ。」

兄やんの声は、どこか寂しそうだった。

その日、兄やんは僕にサシの小袋を渡した。

「坊、これ、絶対開けるな。びっくりするもんになるからな。」

彼は僕の頭を撫でて、笑った。

「オレも坊も、まだサシみたいなもんだ。大きくなれば、怖いもんも平気になるぜ。」

その言葉が、なぜか胸に刺さった。

それから、兄やんはまた消えた。

母が隠すようにして教えてくれた。

兄やんは家にも帰ってないって。

おまわりさんが探してるけど、誰も見つけてない。

僕は釣りの道具箱を開けた。

サシの小袋があった。

開けると、白かったサシは黒いハエになってた。

「兄やん…これ、びっくりしたよ。」

僕は笑おうとしたけど、涙が止まらなかった。

秋の終わりに、母と休耕田の用水路を歩いた。

ヤゴを探したけど、季節は遅すぎた。

いつも兄やんの背中を追ってた僕には、開けた道が怖かった。

ふと、はるか前方に、空を覆う見事なあかね雲がひろがっていた。

僕は、それに引き寄せられるようにして歩みを進めた。

近づくにつれ、それはやわらかな傘のようにも感じられ、まるで大地を覆い、

やさしい広がりをみせていた。僕は、それに導かれるように、茜色のアーチをくぐった。

用水路に、一本だけ見事な曼珠沙華が揺れてた。

真紅に輝くその花は、すらりと水面から伸びた茎の上で華麗に咲いている。

手を伸ばした、その時、その花は鮮やかな残像とともに宙に舞った。

それは赤とんぼだった。

水面から伸びた指先に、トンボが止まってた。

茜色に織り成されたアーチは無数のトンボの羽音と共に空へと消え去った。

その瞬間、母が僕を抱き寄せて視界を塞いだ。

水死体だった。

長い間水に浸かり、腐乱してたけど、指先から採れた指紋でわかった。

兄やんだった。

近所の工事現場から鉄パイプを盗んだ男たちが、用水路で兄やんを見つけ、驚いて鉄パイプを落とした。

兄やんは下敷きになって、沈んだ。

男たちは兄やんの服を剥ぎ、鉄パイプを重石にして逃げた。

後でわかった。

兄やんは、僕を励ますために、ひとりでヤゴを捕りに来たんだ。



5. ヨーヨーと新しい光


兄やんの葬式が終わって、僕は彼のガラスのヨーヨーを形見にもらった。

けれど、それは机の奥にしまわれて、触れるまでは少し時間がかかるのだが…

兄やんを失った喪失感から、抜け出せない日々が続いた。

季節は巡り、僕が小学生になる春。

校庭の朝礼台に、夕焼けに染まる男が寝そべってた。

手に持った綿ガムを夕日に透かし、「こうすると、夕焼けが甘くなるだろ?」と笑った。

振り返った顔が、影になって、兄やんに似てた。

「君、近所の子供? 僕、来年からこの学校で教えるんだ。」

その声が、兄やんの笑い声みたいで、胸がちりっと熱くなった。

小学校に入ると、ヨーヨーが流行った。

その先生が、兄やんみたいにヨーヨーを披露して、子供たちを笑わせた。

「これで世界を変えるぜ!」

先生が笑うたび、兄やんがそこにいる気がした。

家に帰り、机の奥のヨーヨーを手に取った。

糸を巻いて、地面に投げて、力いっぱい引き上げた。

ヨーヨーが額に当たって、目の前に火花が散った。

その時、兄やんが「あははは」と笑った気がした。

「兄やん、僕、ここだよ。」

指を空に立てると、赤とんぼがスッと止まった。


今年もまたトンボの季節がやってくる。



僕の代表作『ケツメド!!毒味役長屋絵草紙』、カクヨムにて本編完結済み。現在は外伝を連載中です。 時代劇×毒味役×人情ドラマに興味がある方、ぜひ覗いてみてください。




https://kakuyomu.jp/works/16818792437372915626
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