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2巻
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万里緒は、ヒールの音を響かせながら勤務先の北海道E大附属病院へ向かっていた。
結婚式ほか、諸々の準備で十一日間の休みをもらっていたので、ずいぶん久しぶりな気がする。
病院に着いたら、いろいろ聞かれるんだろうな、とため息をつきつつ、東京に残った夫とのアレコレを思い出して顔が熱くなった。
『好きだよ、万里緒』
別れ際、万里緒の好きなキュートな笑みを浮かべてそう言った夫。
浮気なんてするわけない。彼は万里緒にとってただ一人の特別な人なのだから。
おせっかいな叔母の勧めで、消化器内科医の藤崎万里緒、三十歳はお見合いをした。
お見合い相手は星奈千歳、当時三十六歳(現在三十七歳)の消化器外科医だ。
万里緒はその前にも叔母のセッティングで五回お見合いをしていて、うんざりしながら臨んだ六回目のお見合い相手が千歳だった。
お見合いの席に現れた彼の容姿と言ったら、万里緒の好みそのもの。目はクルリとしていて、鼻筋の通った綺麗系イケメンなのだ。
ぷっくりした魅力的な唇は、キュートなアヒル口。キュッと上がったヒップラインは、ディ●ニーの某キャラクターを思い浮かべてしまう。
スタイルが良くて、でもしっかりとした体つきで、しかも長身。
だけど、彼と出会ったのは、実は見合いの場が初めてではない。その前に、職場近くのちょっと古い食堂で出会っていたのだ。
仕事帰り、いつものように「おじさん、ビール」と、寄った食堂に、先客としていたのが千歳だった。そのとき少し言葉を交わしたものの、それだけだった。そんな彼が、見合い相手として万里緒の前に現れたのだ。
千歳は、気が強いのに愚痴っぽく、さらにオヤジっぽい、と欠点だらけの万里緒を気に入ったと言い、なんと結婚して欲しいと言ってきた。
そんなドラマみたいなことが自分に起こるなんて信じられない。自分のどこをそんなに気に入ったのか、と聞くと万里緒自身が気に入った、と言う。
それはつまり、万里緒が好きだということだ。
今まで、ちょっと妥協した二番手男子、もしくは、さらに妥協した三番手男子と付き合ってきた。でも最初にいいな、カッコイイなと思った一番手男子とは、付き合ったこともなかった。その一番手男子が、付き合うどころか結婚して欲しい、と言う。
もちろん、結婚するに決まっていた。
途中いろいろあったけれど、出会って三ヶ月後には結婚式を挙げ、万里緒は星奈万里緒となった。
でも、新婚早々千歳とは遠距離生活をすることになってしまった。
万里緒は、結婚前に北海道のE大学附属病院への異動が決まっていたからだ。
東京と北海道。これからの結婚生活はどうなることやら、遠距離だから余計不安に思ってしまう。
それでも万里緒は、ずっと、千歳と末永く幸せに暮らしたいと願っているのだ。
* * *
新婚旅行は幸せでした。
四泊五日のハネムーンでは、沖縄の豪華なホテルに泊まりました。なんとプール付きのスイートルーム。日本にもこんな場所があったんだと思えるくらい、リゾート感覚を満喫しました。
遠浅の海で泳いで、プールで遊んで、よく寝て、観光にも行きました。
琉球ガラスのコップをぺアで買い、琉球ガラスのピアスもプレゼントしてもらいました。それは今も身に付けています。
サーターアンダギーも、ちんすこうも食べました。ゴーヤーチャンプルーと、もずくの唐揚げも食べて、絶対太ったと思います。良く食べるねと言った旦那様は、クルリとした目をさらにクルリとさせていましたが、二日目には慣れたご様子で、もっと食べる? と聞いてくるくらいです。なので、沖縄で有名なアイス店ブルーシールのアイスをデザートに追加しました。
そしてもちろん、新婚旅行らしく夫婦の営みも忘れておりません。過去のことなんかどうでもいいや、と思えるくらい、お互いに楽しい営みをさせていただきました。
それもこれも、本当に素晴らしい旦那様のおかげであります。
あんなに素敵なホテルに宿泊し、プールの中でいたしちゃうなんて、金輪際ないことだと思います。おかげでかなり肌が焦げてしまいましたが、それはそれ。楽しかった証拠です。
「星奈先生、よく焼けてるねぇ。まぁ、楽しく過ごせたのなら良かったです。さっそくで悪いけど、患者さん追加です。この人は不明熱、白血球が異常に多いので血液内科に紹介することになると思うけど、それまでの精査をよろしくね。この人は急性腸炎。昨日入院したばかりで点滴中です。挨拶に行くのを忘れないように。こちらの患者は肝臓がんの方で、点滴抗がん剤治療目的です。挨拶をよろしくね。あと、この患者さんも不明熱です。まだ熱が続いていますし、原因精査中です。こちらは中原先生が君の代わりに受け持っているので、引き継ぎをして挨拶をお願いします。以上です」
にっこり笑った医局長の塩川は、万里緒にカルテを四冊渡した。
もともと万里緒の担当患者は三人だったから、プラス四人で七人の受け持ちになってしまった。
「よろしくね、星奈先生」
「はい……頑張ります」
* * *
紹介状を書いたら、すぐに血液内科の医師が来た。その顔を見てお互いに指を差しあった。
「藤崎じゃん」
「来生さん、どうして?」
「俺はもともとE大の学生だったから。っていうか、藤崎もE大に来たの?」
「私は、国家試験に受かったあと、研修医としてE大に来たんですよ」
来生知也は万里緒が医大時代、コンパで唯一連絡先を交換した男だ。それまで異性とそんなことしたことがなかった万里緒が、なぜ来生としたかというと、意気投合したから。彼には彼女がいたし、万里緒は来生を男としてなんとも思ってなかった。ただ、友達として遊ぶのが楽しそうだったのだ。
実際、楽しくて、大学時代は来生の友達とともに、バカなこともたくさんした。大学は別だが、万里緒と同じく一年浪人している来生とは気も合ったし、一年先輩だから頼れる人でもあった。
「来生さん、血液内科に進んだんですね」
「そうだよ。何年だ? 結構連絡取らなかったよなぁ。元気だった? って聞くまでもないか。えらく焼けてんじゃん。いつこっちに来たんだよ?」
「二ヶ月くらい前ですよ。先週まで沖縄に行ってたんで、めちゃくちゃ焼けました」
「沖縄? 旅行?」
「あぁ……その、新婚旅行で」
万里緒が言うと来生は目を丸くして驚いた。
「マジで!? え? 結婚したのか?」
「そう、なんですよ」
万里緒が笑うと、来生は万里緒の名札を摘まんだ。
「星奈、万里緒? まさか……」
なんだか聞き飽きたセリフだった。きっと考えていることは一緒だ。星奈、という名字はちょっと珍しいから。
「ここにいた、外科の星奈先生と結婚したんです」
そう言うと、来生は、おお、と言って驚いた顔を向けた。
「すげ。あの人と? やー、俺も世話になったなぁ。でもさ……どうやって知り合ったんだよ。星奈先生、ずっと東京に戻ってないだろ? 少なくとも二年はこっちにいたからさ」
これも聞き飽きたセリフだ。万里緒は緩く笑って、ため息をついた。
「お見合いです」
「ええっ、ウソ!?」
「本当ですよ。でなきゃ出会えませんよ、星奈先生とは」
「そっかぁ、そういや藤崎、お嬢様だったよなぁ」
「まぁ、そうですね」
万里緒が答えると、はぁー、と言いながらこちらを見る。そして万里緒の首に目をやると、それ、と万里緒のネックレスを指差した。
「エンゲージリングとマリッジリング?」
「そうです」
「星奈先生から?」
「……もちろんです」
新たに増えたマリッジリングも、千歳から貰ったネックレスに通していた。来生はまだ信じられないというふうに万里緒を見て笑う。そして、思い出したように「やばい、仕事」と言った。
「ごめん、仕事しないとな。や、でも、めっちゃ驚いたー。まさか結婚してるとは思わなくてさ。しかも相手があの星奈先生って、びっくりだよ。あの人、結婚なんて縁遠いよ、って自分で言ってたの、ついこの間のことだからさぁ。スピード婚?」
「……ですね。なんか、この話するのも何度目でしょう。疲れましたよ」
「そっか、そうだよな。悪いな、藤崎……じゃなくて星奈かぁ……慣れないよなぁ。ま、今度ゆっくり、っていうか今日暇があったら飲まない?」
誘いはとても嬉しいが、今日患者を任されたばっかりだ。遅くなるのは必至だった。
というか、結婚式も終わり、これから本格的に忙しくなる。患者を担当するほかに、外来も当直も増えるのだから当たり前だ。千歳と会える時間も少なくなるな、と思った。それに千歳は千歳で、次は移植が入っていると言っていたから、しばらく東京から動けないはずだ。
「今日は遅くなります」
「いいよ。俺も遅くなるし。じゃあ、お互い九時までに仕事が終わらなかったら、ナシにしよう。電話番号変わってるか?」
「いえ。ちゃんと来生さんのアドレスも登録したままですよ」
「じゃあ、終わったらメールか何かくれよ。で、この患者だけど、来週にでも血液内科に転科させて。こっちで引き取るよ」
さっさとカルテに記入し、OK? と万里緒に同意を求めてくる。この人は学生の時から、機転がきいて行動も早かった。それは医師になっても変わらないらしい。
「もちろんです。あ、血液検査とか、しておきましょうか?」
「いいよ。転科してから俺がやるから。じゃあ、今日の九時にな、星奈先生」
星奈先生、というところを強調されたので、万里緒は来生の肩を軽く叩いた。
久しぶりに会った先輩であり友人でもある来生との、変わらないやりとりが懐かしく、万里緒は、どうにかして夜の九時までには仕事を終わらせようと思った。
* * *
夜九時。なんとか仕事を終わらせることができた万里緒がメールすると、すぐに来生からじゃあ行こうと返信があった。
連れて行ってもらった場所は普通の居酒屋だが、北海道らしい料理を出す店だった。こっちに来てから一度もそういう場所に行けてなかったので、万里緒は嬉しかった。
「出会って三ヶ月!? そんなに時間がなくて、よく結婚式できたよな」
「まぁ、親とか手伝ってくれたし。招待状はホテルが用意するスタンダードな封筒と、文面なんで。花嫁衣装も髪型も一日で決めて、もう適当ですよ」
へぇ、と聞いている来生の前でビールを飲み干した。すぐにお代わりを頼む。ビールが美味いのは仕事のあとだからだ。万里緒の飲みっぷりを見て、変わらないな、と来生が笑うので、変わるわけないだろ、と思う。
「そういうのも、星奈先生、知ってんの?」
「知ってますよ。最初から包み隠さず、です。お見合いのその日に、目の前で青島ビール二本空けましたから」
「初日から? すげーな。それで、結婚式でもなんかしたの?」
「しましたよ。もう、三々九度の盃落とすなんて、私だけですよ。星奈先生、落ち着き払って盃を拾ってくれて……。きっと、めっちゃ笑いたかったと思いますよ?」
と言うと来生は爆笑した。そういえば、来生はよく笑う人だったなと思い出す。
「もう、笑いすぎ」
「ごめん。だって、星奈先生のイメージじゃなくてさ。万里緒は面白いヤツだよなぁ。天然で、男前で、たまにめちゃくちゃ可愛いしさ。万里緒のこと好きだって言う男、みんな振っちゃうし?」
「好みじゃなかったら振りますよ。大学卒業する頃は、そうも言ってらんないな、って思いましたけど。そういう来生さんは、彼女いるんですか?」
「いるよー。可愛いんだよねぇ。来年結婚するんだよ。俺は時間をかけるほうだから、結婚式もいろいろこだわるけど」
「こだわらなくても良い結婚式でした!」
来生とは本当に男友達という感じで、たいして飲まなくても会話で盛り上がれる。
会わなかったブランクなどなかったかのように、話が弾む。
「しかし、星奈先生かぁ。どこが良かったんだろうなぁ、万里緒の。カッコイイよなぁ、あの人。趣味、登山とスノボだしね。四回くらい一緒にスノボしたけど、プロ級だからなぁ。とにかくカッコイイ」
「……そうなんですね。だからあんなにスタイルいいのかなぁ」
万里緒の知らない千歳を来生が語る。趣味なんて聞いたこともなかった。山には行く、と言っていたような気もするが。
「スタイルいいよなぁ。背も高いし? 一緒に風呂も入ったことあるけど、綺麗な筋肉ついてるよな。あ、万里緒は知ってるだろうけどな」
はは、と笑いながら意味深に見てくるので、肩を叩いてやった。
「うるさいですよ。そりゃ夫婦だし、知ってますよ。知らないことも多いですけどね」
「これからだろ? 良いじゃん、星奈先生、穏やかでのんびりしてるし。俺は好きだけどなぁ」
「私も好きですよ」
来生に頭を小突かれたので、また肩を叩いた。
「でも、東京と北海道って遠いよなぁ。なかなか会えないんじゃないか?」
「そうですね……」
「たまに酒、付き合ってやっから」
「星奈先生と飲みたいです」
万里緒が言うと呆れたように、ハッと笑う。
「万里緒、星奈先生って呼んでんのか?」
「たまに千歳って呼んでます。あの人が許してんだから、イイでしょ?」
「うわ、あの人だって!」
「あーもう、うるさい! うるさいですよ!」
注がれたビールを再度飲み干してお代わりを頼む。
千歳と会えない時間が多くなるのはしょうがない。忙しい病院なのに、結婚式と新婚旅行が終わるまで万里緒に配慮してくれたのだ。これ以上を望むのは贅沢だ。それに、キャリアになると思って、異動の話を受けてここに来たのは自分だ。
「遠いと、いろいろ不安だよなぁ」
その言葉が胸に刺さる。確かに、不安だ。
千歳はカッコイイ。同性の来生が言うくらいなのだから、間違いない。
「でも、浮気はしないと思います。なんだかそんな気がします」
「だな。星奈先生、そういうのしなさそうだよな。カッコイイけど、寄って来る女、淡々と振ってたし。何しろ今は、新婚だからな」
「浮気しませんよ。私のこと大事にするって言ったもん」
「……惚気かよ。そういうこと言うんだな、星奈先生」
ふーんと言いながら来生がビールを飲む。
万里緒の知らない千歳もいるが、周りが知らない千歳を万里緒は知っている。
大事にする、好きだ。何度もそう言ってくれたから。
会えない時間も我慢しないと。
時間ができたら、できるだけ会いに行こう。万里緒はそう思いながら、千歳の顔を思い浮かべた。
遠距離って大変だと思う。
会いたいときに、千歳はいないのだから。
2
『久し振りだね、万里緒。忙しくなった?』
電話で夫の声を聞くのは四日ぶりだった。
新婚旅行のあと、受け持ち患者数が七人に増え、そこからさらに九人に増えた。内視鏡と、外来の当番日も決まり、以前のように、仕事に追われる日々がカムバックしてきたのだと感じていた。
だから素直に忙しくなりました、と答えた。
「新婚旅行からもう二週間近く経ってしまったなんて、時が経つのは早いですよね。星奈先生は、仕事順調ですか?」
『そうだね。もう明日は生体肝移植をする日だから。……しばらくそっちには行けなくなる』
しばらく、というのはどんなに少なく見積もっても二週間は無理だということだろう。今までも、肝移植のための診察や検査、会議とずっと忙しかったはずだ。もちろんその間も、ほかの患者の診察や、外来勤務、当直はある。だから万里緒は、新婚旅行以来一度も千歳と会えていなかった。
「私が東京へ行きます」
『んー……できたらね。そっちは内科の医師が不足しているから大変でしょう』
万里緒の勤める消化器内科の医師は、万里緒も含めて医局長以下五人。医師の数は最低限だ。
「そう、ですね。でも何とかして行きたいです。そういえば、こっちに友達がいたんです。大学の違う先輩なんですけど。星奈先生も仲良かったんでしょう? 血液内科の来生さん」
『ああ、知也? ……万里緒の友達? どうして?』
「大学のとき、合コンで意気投合して、唯一連絡先を交換した人なんです。何年も連絡取らなかったけど」
『そう。それは知らなかったな。異動してから知也とも連絡してないから』
しばらく近況を話していた万里緒は、そこでちらりと時計を見た。
「……明日、頑張ってくださいね」
そう万里緒が言うと、千歳は電話口で微かに笑った。
『もちろん、頑張ります。じゃあ、お休み万里緒』
「あ、はい、お休みなさい」
そうして電話を切った。
話したのは時間にしてたった三十分。もっと話したかったけど、夜遅くの電話だったし、明日千歳は大事な手術をするのだからしょうがない。
「あーあ……これでまた会えない時間が長くなったよ……」
自分のキャリアのためにと思って来た北海道だが、こんなに千歳に会えないなんて、夫婦として大丈夫だろうかと思う。やっぱり時間を作って、少しでもいいから千歳に会いたい。
だって、離れていたら不安になる。旅行中あんなに千歳を身近に感じていたのに。
万里緒を好きだと言ってくれるあの人が、何もかも遠い気がした。
* * *
千歳との電話から、二週間近くが経った。
不明熱の患者と急性腸炎の患者は回復したので退院。抗がん剤治療の患者は、一度退院したが、また二週間後に再入院となってしまった。新たに受け持った胃潰瘍の患者は、明後日の退院が決まっている。
これで万里緒の受け持ち患者は六人に減った。また受け持ちを増やされるのだろうと思いながら、空いた時間に医局で退院の書類を作成していると、星奈先生、と背後から呼ばれた。
「あ、医局長……その、カルテは」
「うん。星奈先生、申し訳ないけど、腹痛で精査目的の患者さん増やすね」
万里緒は緩く笑った。カルテの薄さから今入院した患者とわかる。
「中原先生が診察したんだけど、今彼の受け持ち十一人いるんだよね。だから、頑張ってくれている上に、新婚なところ申し訳ないけど、この患者さん、星奈先生にお願いします」
そうです、新婚なんです塩川医局長。
三週間以上、いや四週間近く夫と会っておりません。もちろん電話は週に二、三回しておりますが、夫の千歳は、術後の患者の経過がやや思わしくないようで、東京から離れられないと言っておりました。ここは私が東京に行かなければ、夫と会えないと思うんです。また患者を増やされてしまったら、日曜日も潰れる気がいたします。
心の中でそうつぶやきながらも、万里緒は笑みを浮かべた。
「わかりました。中原先生大変そうですもんね」
「そう言ってくれると助かります。実は当直もね、一回増やして欲しいんだ。梶谷先生の子どもが入院したらしくてね。だから梶谷先生の一回分、今週の土曜日、お願いできますか」
今週末はどうにかして東京に行こうと思っていた。
でも、万里緒は心の中で泣きそうになりながら、はい、と答える。新婚旅行で休ませてもらっていた間、ほかの医師たちにしわ寄せがいっていたことを考えると、ここで断ることはできなかった。
「わかりました。土曜日……明日ですね」
「お願いします。それじゃあ、患者さんへの挨拶も頼みます」
本当に申し訳なさそうに言う塩川医局長の背を見送って、万里緒はため息をつく。
「にゃー……星奈先生、会えません……」
パソコンに突っ伏した。泣きそうだと思った。
今日はなんとか午後八時には帰れそうだが、明日の土曜は当直。今までの当直を考えるに、きっときついだろうことがわかる。
でもここで泣くわけにはいかない。断れたかもしれない異動を受けたのは万里緒なのだから。
千歳に会いたいな、と思いながら万里緒は心の中でため息をついた。
「……終わった。今日は日曜日……」
日曜の朝。万里緒は土曜の当直を終えて、自分のデスクに座った。しばらくボーっとしながら、今週もいろいろあったなと思う。とてもいい天気だと外を見ると目から光が入り、頭がツンと痛くなった。昨夜はとくに患者が多くて、万里緒は一時間ほどしか仮眠していない。いつもはこんなに多くはないんですけど、と万里緒を気づかって、看護師がコーヒーとチョコレートをくれた。とてもありがたかった。
「んんー……もう、動きたくないよ」
星奈万里緒、三十歳。もう若くはありません。
心の中でつぶやきながら時計を見る。時計は朝の九時十分を過ぎた所をさしていた。
早く帰ってシャワーを浴びないと、と思いながら別のことを考え始める。
「……今から帰ったらぁ……お昼の飛行機に間に合うか。でも、仕事が残っているから、東京に行ってもすぐに帰ってこないと。連休だけど明日も仕事しなきゃ……今日のうちにやっておいたほうがいいやつ、あるのに」
独り言をぶつぶつ言いながら、もう一度時計を見ると九時十五分。ちなみに月曜は祝日で、病院は休みである。
いろいろ考えて、声を出しながら大きくため息。頭を掻いて、眉間に皺を寄せて目を閉じて。
「あー、ごちゃごちゃ考えていないで、行こう。何とかなるさ!」
万里緒は肩まで伸びた髪の毛を結び直して、病院指定のユニフォームを脱ぐために、近くの更衣室へ向かう。私服に着替えるとき、首にかけた二つのリングがカチリと音を立てた。リングを手にとってしばらく眺める。これを薬指に着けていたのは旅行中だけ。
『思った通り。二つとも似合ってる』
千歳は、そう言って万里緒の薬指を撫でた。普段は首にかけているのが残念だと。
万里緒はネックレスからリングを外して、薬指に着けた。ネックレスはそのまま首にかけて、急いで着替える。
とにかくシャワーを浴びなければ、と病院から出た。
東京にいる千歳に会うために。
応援ありがとうございます!
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