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第三話(戯れる人魚)

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俺は今日も今日とてレストランの仕事をタルトに押し付け広大な海にサボりに来ていた。
自前の浮き輪の上で仰向けに寝そべり、ぷかぷかと水面を漂う。
波に流されないようヒスイは、俺から片時も離れずにそばにいてくれる。
なんと甲斐甲斐しい人魚さんなのだろう。常に笑顔を絶やさないところも魅力の一つだ。こんな優しさに満ち溢れた女性は中々いない。ぜひ嫁にしたいね。


「ねぇねぇ、ももちゃん。今日は何して遊ぼうか」

浮き輪に体を預けた状態で、大空を眺めながら考える。

「うーん……そうだなぁ……」

俺がしばらく考え込んでいると、ヒスイからこのような提案があった。

「メガロドンの体の中とか探検してみたくない?口の中に入ってみる?中々刺激的な体験ができるよ」

「ヒスイ……それは冗談で言ってるんだよな?」

ヒスイの人魚姿は何回見ても飽きないと断言できるほどに幻想的で美しい。
エメラルド色の髪に魚のヒレのような形をした耳。
俺としては、ヒスイをぼーっと観賞してるだけでもいい暇つぶしになる。

「あ、そうだ。ヒスイ、お前まだ昼飯は食ってないよな?」

「うん。休憩時間になったらオーガニックで食べようと思ってたからまだだよ」

「ここに来る前な、客から注文が入った料理を届けに行ってたんだけど、手違いで厚焼き玉子だけ残っちまったんだ。一緒に食べないか?」

「貰っちゃっていいの?ももちゃんの作る厚焼き玉子って美味しいから、なんか得した気分になるよ」

一旦海からあがって、車から二人分の厚焼き玉子を持ち出して岩場に腰を下ろした。
厚焼き玉子は一口サイズにカットしたものではなく、丸々一個を包み紙に包んであるため、見た目はハンバーガーに近い。包みを半分ほど開いて食べれば、手が汚れるのを防いでくれる。

「この厚焼き玉子、甘くて半熟でまるでお菓子みたいな味だよね。ついつい病み付きになっちゃうよ」

「厚焼き玉子だけは専門学校時代に飽きるほど作ったからな。これだけは他の奴らに負けない自信がある」

俺が覚えている限りだと、日本料理は厚焼き玉子、中華料理はチャーハン、西洋料理はオムレツがテストのお題だった。
テスト一週間前くらいになると、学生達が放課後こぞって実習室に集まりそれらの練習に励んでいた。
今思い出してみると本当に懐かしい。
俺は料理好きの彼等とは違って相当な苦労を要した。
好きでもないことに一生懸命になるのは意外と辛い。
最初の頃は俺なんかが卒業できるのか考えたりして、不安でいっぱいだったけど……入学してすぐにできた瀬戸という友達のおかげでなんとかリタイアすることなく卒業できたって感じだ。
これは嘘でもなんでもない。

「またまた遅いお帰りですね、お兄ちゃん様。いったい配達に何時間かかっているんです?いいご身分ですね」

海から帰ってきた俺を出迎えてくれたのは、ちょっとばかしご機嫌斜めな妹様だ。

「ああ、ちょっと野暮用でな。弁当なら配り終わったから心配すんな……なんだよ、タルトさんよぉ。そんなにかっかしなくたっていいだろ」


「憤慨はしてますがかっかはしてないです。『ああ、またか。どうせヒスイさんのところにでも寄り道してるんだろうなぁ……』と、終始こんなことばかり考えていました。『お客さん少なめでよかったなー。助かったぁー』とか言ってほっとしてる飲食店なんて絶対に此処だけですよ」

「なんだ、やっぱり客少なかったのか。やったじゃん。タルト君、どうやら今日の君はツイているみたいだね」

「『ツイているみたいだね』じゃないですよ。それ本気で言ってるんですか?本来ならお客さんは一人でも多い方がいいに決まってます。来てくれたら来てくれただけ売り上げだって違うわけですからね。少なめでよかったって言ったのは、私一人でどうにか乗り切れたからほっとして出た言葉なんです。一人で注文とって調理してお会計やってもうへとへとですよ。ものすごく疲れました」

「よく喋るね。おまえ」

うちの妹はこういうときはまあまあの確率で饒舌になる。
特に俺の行いを非難するときはだいたいだ。

「その口ぶりからして、ちっとも悪いと思ってないみたいですね。まあいつものことなので慣れてしまいましたが、少しくらいねぎらいの言葉があってもいいんじゃないですか?洗い物にはまったく手をつけていないので悪しからずです。今日は鬼子さんもいませんでしたので」

なるほど、つまり「山ほど溜まっている洗い物はやっておいてくれたまえよ」ってことだな。
仕方ない。了解した。

「おい、タルト。どこに行くんだよ」

タルトは俺をズタボロに非難し終えると、もう何も言うことは無いと言わんばかりに厨房の方へ踵を返した。
こんなだらしのない俺にだって多少なりとも悪いと思う気持ちはあるわけで、気付けば自然に声をかけてタルト引き止めていた。

「どこって、お昼まだなのでこれから食べるんです。お腹減ってますが疲れてて極力動きたくないのでカップ麺でも食べようと思ってます。お兄ちゃん、手が空いているなら私の部屋にお湯入れて運んで来てくれませんか?」

「カップ麺じゃ味気ないだろ。重労働させちまった詫びに俺がまかないを作ってやるから、そこで座って待っとけ」

それくらいはしてやらねぇとな。
へとへとになるまで働いてくれたタルトにせめてものお返しだ。

「へー。どういう風の吹きまわしですか。お兄ちゃんでも一丁前に反省する時があるんですね。意外でした」

「今はどれだけ毒付かれてもなんも反論しないでおくよ。何が食いたい?おれに作れる物ならリクエストを受け付けるぞ」

「そうですね……それなら、久しぶりにお兄ちゃん手作りのカニタマが食べたいです」

「カニタマでいいんだな。よっしゃ、とびっきり美味しいの作るわ」

「本当ですか?あとでめんどいからやめたって言うのはナシでお願いします。その調子で毎日作ってくれてもいいですよ」

「いや、毎日はキツイわ。たまににしてくれ」

カニタマの作り方はTVで昼頃やってた料理番組とか参考にしたり、料理本を借りてきたりして覚えた。
昔タルトがカニタマ食べたいって唐突に催促するもんだから必死こいて作ったんだよな。
こいつが小さい頃に何度か作ってやったっけ。懐かしい思い出だ。

「ほらよ、カニタマ一丁あがりだ」

必要な食材を準備して一から作ったカニタマをタルトへ差し出す。
久しぶりに兄が作ったまともな料理を見て、妹の目はやたら輝いている。

「お兄ちゃん、本当に作ってくれたんですね……感動です。泣いてもいいですか?」

「面倒だからダメ。感動とかどうでもいいからとっとと食えよ。せっかくのメシが冷めるだろ」

「はい。いただきます」

カニ玉を食べ終えた頃には、タルトの機嫌はすっかり元に戻っていた。

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