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第六十八話(祭りの日の邂逅)
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両手でカーテンを開いた瞬間、真っ暗だった空間に眩ゆさが満ちて、上空から降り注ぐ太陽光を片手で遮った。
部屋の主不在の窓際から覗いた晴天には、数多の白い雲が浮遊し、名前も知らない小鳥達が空を自由に羽ばたいている。
八月下旬になっても真夏の暑さは収まる様子もなく、屋外の気温は35℃を超過した。
ーー夏休みも残り僅か。
三日後に新学期が控えているこの状況で、銀髪の少女は与えらた宿題のほとんどに手を付けていない。
というよりは、遊びに徹底し過ぎたせいかその存在をすっかりと忘れてしまっている。
木ノ下日影の妹である慈愛は、クーラーと扇風機の何一つ効いていない蒸し暑い部屋を占領しお掃除の真っ最中。
窓を全開にし換気、周りの埃をはたきで払い、大きめな窓を水拭きと乾拭き二つのタオルで拭いて、鼻歌交じりに床の掃除機がけを行う。
水色の三角巾とエプロン姿が可憐な少女が楽しげに綺麗にしている部屋は、刑務所に服役中の兄の部屋だ。
日影のことを重要視し大切に思う慈愛は、毎週日曜日にこの場所を欠かさず掃除すると決めている。
埃が被らないよう念入りに、こまめなチェックを怠らない。
いつ帰って来てもすぐに部屋を使えるようにと、配慮が十二分に行き届いていた。
「……涼しい」
広めのベランダに飛び出して小休止。
ふいに吹いた風が涼しさを欲していた肌を心地よく撫でる。額に生じた汗が頬を伝った。
「じーあたん。あーそーぼ」
聞き慣れた声が耳朶に触れ、庭の方へ体を傾ける。
一人の来客が見慣れた金色の髪を靡かせ、二階のベランダに佇んでいた慈愛へにこやかな笑顔を向けながら手を振っている。
彼女の名はルナ・ティアーズ。
嘗ては刑務所暮らしを共にした囚人の一人だったが、現在は小学校で慈愛の担任を勤める金髪ツインテールの教師である。
この夏休み中、慈愛は大半の時間をルナと二人で過ごした。毎日のように彼女が木ノ下家へやって来て、教師が教え子を遊びに誘う。
プールに夏祭り。お化け屋敷にスイカ割り。ショッピングに水族館。遊園地に動物園。
他にも色々付き合わされたが、何処に行っても楽しかった。 そのほとんどが初めて行く所ばかりで驚きと感動、何より嬉しいで心がいっぱいになった。
自由に、笑顔で、子供らしくはしゃいでも叱られない。睨まれない。邪険にされない。
そう考えただけで幸せで、安堵の涙が頬を伝った。
叔母の自宅に住んでいた頃の慈愛にとって、夏休みと言えば朝昼晩と叔母に家事を任されるばかりの生活で、文字通りの雁字搦め状態。何処かへ連れて行って貰ったことや学校の友達と遊んだ記憶すらない。
夏休みの「思い出」がお題の作文に、その思い出が無さ過ぎて困り果て、酷く悩んだのを今でも忘れられずはっきりと憶えている。
失敗すれば激しく怒鳴られ、叱責され、食事抜きは当たり前。ごく僅かな自由時間はテストで悪い成績を残さないよう研鑽に費やし、趣味に充てる時間は皆無。
叔母の機嫌が悪い時は決まって憂さ晴らしの標的となる。
食べ物どころか水分補給が最も大事とされる暑苦しい季節だというのに、飲み物さえ十分に与えられない日もあった。
そんな日は家を抜け出して公園の水飲み場に走ったものだ。
冷房さえ備えられていない部屋の中では、焦熱砂漠の中にでも放り込まれた様な尋常じゃない暑さを体験し、不快感と死の兆したっぷりで頭がどうにかなりそうだった。
今ではあの頃の地獄のような日々も懐かしく感じてしまう。
慈愛は掃除を一度中断し、ルナを自分の部屋(離れ)へと招きいれる。
二人の談笑内容は只管、夏休みの思い出話ばかりだった。
「お祭りに行った日は大変だったよね。慈愛たんが迷子になった時は焦らされたなぁ」
「迷子に何かなってないです。ルナさんがはしゃぎ過ぎて私を置き去りにしただけです」
夏休みが始まって間もない日、近場でお祭りがあると知ったルナは慈愛を誘って散歩に出掛けた。
はぐれてしまわないようにと、最初こそ仲良く手を繋ぎながら歩いていた二人だったが、夜空に打ち上がる花火に見とれていたルナは、屋台に釘付けとなっていた慈愛を雑踏に紛れて見失ってしまうという不祥事を招いた。
ルナとはぐれて、心細そうに周りを見渡していた慈愛へ手を差し伸べたのは、左右で色の異なる瞳を宿した緑色の髮の綺麗な女性だ。
その人も祭りを満喫中に仲間とはぐれたと言っていた。
「森羅さん、だっけ?あの人が一緒にいてくれなかったら慈愛たんは怖いおじさんに誘拐されてたかも知れないね。最近多いらしいよ。子供を捕まえて他国で奴隷として売り物にするんだって」
「そんな恐ろしい事実を他人事の様に話してるルナさんこそ、気をつけた方がいいです」
「え?何言ってるの。あたしは大人だから大丈夫だよ」
「ルナさんなら中学生くらいのお子様に間違えられても可笑しくありません」
「小学生のお子様にお子様とか言われたくないし、自分より年上の中学生を子供扱いはどうかと思うよ」
************************
夏祭りの夜、慈愛は知らない人ばかりの雑踏に紛れながら、半泣きになってルナの姿を探し、沢山の屋台が林立する会場の中を彷徨っていた。
見つからなかったらどうしよう。
帰れなくなったらどうしよう。
こんな時に携帯を忘れた自分を罵りたい。
私の馬鹿。花火の馬鹿。ルナさんの馬鹿。
焦燥感が生じて、先に進むべきか来た道を戻るべきか迷っていたそんな時、
「可愛い子みーっけ」
「わっ!?」
背後から浴衣を着た知らない女性に両肩を鷲掴みにされ、どう反応したら良いのか困るお世辞をかけられた。
年はおそらく日影やルナと同じくらい。おさげに結った緑色の髪と特徴的なオッドアイに目を惹かれた。
嫣然として微笑む整った顔は、同い年くらいのルナにはない「大人の女性」らしさを感じられる。
「迷子になっちゃったんだよね。お家の人探すの手伝ってあげるからお名前教えてくれるかな」
迷子になってまごついていた慈愛を一時的に保護したのは、刑務所に服役中の囚人。
名を森羅万。
そんなことも知らずお互いに自己紹介を終えて、慈愛は彼女と同行。一応の保護者であるルナの姿を探しながら歩を進めていた。
ーー何かが可笑しい。
慈愛がそう感じたのは彼女と邂逅し、五分程度が経過した頃だった。
ーー握られている手に全く温もりを感じない。
手の冷たい人は心が温かいという話を何処かで耳にしたことがあるが、微量の体温さえ感じない人間など存在するのだろうか?
ーーまるで作り物。人形に手を掴まれているみたい。
隣に並び立つ人物は何者なのか、人間ではないのだろうか。
言葉には出さなかったが、慈愛は心中限定でそう感じた。
「お母さんと一緒に来たのかな?それともお父さん?」
「いえ、どっちとも違います。知り合いのお姉さんに誘われて、お祭り見に行こうって」
「そうなんだ。お姉ちゃんか。見つかるまで一緒に居てあげるから心配しないで大丈夫だよ。何か食べる?折角お祭りに来たんだから楽しまないとね」
慈愛は万の優しそうな笑顔と温かい心遣いに不安を完全に払拭した。
ーーもしかしたら幽霊かも?
そんな馬鹿な想像を脳裏へ勝手に巡らせて、恐怖を感じていた自分が恥ずかしい。
失礼な憶測をしてしまったと、心中で詫びを入れる。
(何かこの人、お兄ちゃんに似てる……)
顔も性別も違えど、性格が兄にそっくり。
慈愛が迷子になって誰かに手を差し伸べられたのは今回で二回目だ。
一度目は日影。二度目は万。
助けてくれて、手を握ってくれて、食べ物までご馳走してくれる。
温情と懐かしさが兄の顔に自然と重なって、込み上げてきそうになる涙を必死に堪えるのが精一杯だった。
ーーお兄ちゃんに会いたい。
ーーあの日、離れ離れになってから一度も顔を見ていない。
ーーいってらっしゃいを言いそびれた。
暫くの間は毅然を保とうと、泣きの衝動を我慢していた慈愛だったが、隣にいたルナが素直に涙を流している姿を見た瞬間、堪えていた涙が、滂沱の涙が頬を伝った。
************************
「そのぬいぐるみ、森羅さんに貰ったんだよね」
「はい。お姉さんの射的の腕前はお見事でした」
慈愛が大事そうに胸に掻き抱いているのはビックサイズの愛らしいクジラのぬいぐるみで、全長はクリスマスに日影にプレゼントされたイルカのぬいぐるみと同じかそれ以上はある。
それは祭りの途中、万が慈愛にプレゼントした射的屋台の景品だ。
オッドアイで照準を合わせ、必ず的を射抜くことが可能な彼女の能力はチートを使用している状態と同様で、射的の景品くらい取れて当たり前だった。取得した商品は百円で渡されるコルクと同じだけの二つだが、作業報奨金さえ十分にあればその全てを満足に落下させただろう。
銀髪の迷子少女が物欲しげに眺めていた一等のぬいぐるみは、四等のお菓子詰め合わせと万の温情の籠ったスマイルと共に贈呈される。
視線を奪われる程に見入っていたのは事実だが、別に欲しいと強請った訳ではない。
慈愛は万の見事な腕前と突然のプレゼントに目を丸くしていた。
「あげるよ」と言われ手渡されれば、断るのも悪い気がして「貰っていいんですか?」と控えめな様子で一言。
目の前にいる年上の女性は質問に対し「うん」と肯定。
ーーしかし、頷いた顔に一瞬、表情に陰りが垣間見えたのを慈愛は見逃さなかった。
「受け取ってくれると嬉しいな。僕にはそれを、持って帰れる場所がないからね」
「持って帰れる場所……あの、もしかしてですけど、家出でもしてるんですか?」
「たまにでいい。そのぬいぐるみを見て僕のことを思い出して欲しいんだ」
ーー死んだ後で、誰の記憶にも残らない何て悲しいからね。
「えと、それってどういうーー」
その答えを聞くより先に、ルナが慈愛の姿を見つけるのが僅かながらに早く、万は安心したような表情で二人の元を去って行く。
徐々に遠ざかる背中を見送っていたその最中、懐かしい手錠型アクセサリーが嵌った片手に気付いてしまった。
ーー彼女の正体は兄と同じ、刑務所に服役中の囚人だった。
部屋の主不在の窓際から覗いた晴天には、数多の白い雲が浮遊し、名前も知らない小鳥達が空を自由に羽ばたいている。
八月下旬になっても真夏の暑さは収まる様子もなく、屋外の気温は35℃を超過した。
ーー夏休みも残り僅か。
三日後に新学期が控えているこの状況で、銀髪の少女は与えらた宿題のほとんどに手を付けていない。
というよりは、遊びに徹底し過ぎたせいかその存在をすっかりと忘れてしまっている。
木ノ下日影の妹である慈愛は、クーラーと扇風機の何一つ効いていない蒸し暑い部屋を占領しお掃除の真っ最中。
窓を全開にし換気、周りの埃をはたきで払い、大きめな窓を水拭きと乾拭き二つのタオルで拭いて、鼻歌交じりに床の掃除機がけを行う。
水色の三角巾とエプロン姿が可憐な少女が楽しげに綺麗にしている部屋は、刑務所に服役中の兄の部屋だ。
日影のことを重要視し大切に思う慈愛は、毎週日曜日にこの場所を欠かさず掃除すると決めている。
埃が被らないよう念入りに、こまめなチェックを怠らない。
いつ帰って来てもすぐに部屋を使えるようにと、配慮が十二分に行き届いていた。
「……涼しい」
広めのベランダに飛び出して小休止。
ふいに吹いた風が涼しさを欲していた肌を心地よく撫でる。額に生じた汗が頬を伝った。
「じーあたん。あーそーぼ」
聞き慣れた声が耳朶に触れ、庭の方へ体を傾ける。
一人の来客が見慣れた金色の髪を靡かせ、二階のベランダに佇んでいた慈愛へにこやかな笑顔を向けながら手を振っている。
彼女の名はルナ・ティアーズ。
嘗ては刑務所暮らしを共にした囚人の一人だったが、現在は小学校で慈愛の担任を勤める金髪ツインテールの教師である。
この夏休み中、慈愛は大半の時間をルナと二人で過ごした。毎日のように彼女が木ノ下家へやって来て、教師が教え子を遊びに誘う。
プールに夏祭り。お化け屋敷にスイカ割り。ショッピングに水族館。遊園地に動物園。
他にも色々付き合わされたが、何処に行っても楽しかった。 そのほとんどが初めて行く所ばかりで驚きと感動、何より嬉しいで心がいっぱいになった。
自由に、笑顔で、子供らしくはしゃいでも叱られない。睨まれない。邪険にされない。
そう考えただけで幸せで、安堵の涙が頬を伝った。
叔母の自宅に住んでいた頃の慈愛にとって、夏休みと言えば朝昼晩と叔母に家事を任されるばかりの生活で、文字通りの雁字搦め状態。何処かへ連れて行って貰ったことや学校の友達と遊んだ記憶すらない。
夏休みの「思い出」がお題の作文に、その思い出が無さ過ぎて困り果て、酷く悩んだのを今でも忘れられずはっきりと憶えている。
失敗すれば激しく怒鳴られ、叱責され、食事抜きは当たり前。ごく僅かな自由時間はテストで悪い成績を残さないよう研鑽に費やし、趣味に充てる時間は皆無。
叔母の機嫌が悪い時は決まって憂さ晴らしの標的となる。
食べ物どころか水分補給が最も大事とされる暑苦しい季節だというのに、飲み物さえ十分に与えられない日もあった。
そんな日は家を抜け出して公園の水飲み場に走ったものだ。
冷房さえ備えられていない部屋の中では、焦熱砂漠の中にでも放り込まれた様な尋常じゃない暑さを体験し、不快感と死の兆したっぷりで頭がどうにかなりそうだった。
今ではあの頃の地獄のような日々も懐かしく感じてしまう。
慈愛は掃除を一度中断し、ルナを自分の部屋(離れ)へと招きいれる。
二人の談笑内容は只管、夏休みの思い出話ばかりだった。
「お祭りに行った日は大変だったよね。慈愛たんが迷子になった時は焦らされたなぁ」
「迷子に何かなってないです。ルナさんがはしゃぎ過ぎて私を置き去りにしただけです」
夏休みが始まって間もない日、近場でお祭りがあると知ったルナは慈愛を誘って散歩に出掛けた。
はぐれてしまわないようにと、最初こそ仲良く手を繋ぎながら歩いていた二人だったが、夜空に打ち上がる花火に見とれていたルナは、屋台に釘付けとなっていた慈愛を雑踏に紛れて見失ってしまうという不祥事を招いた。
ルナとはぐれて、心細そうに周りを見渡していた慈愛へ手を差し伸べたのは、左右で色の異なる瞳を宿した緑色の髮の綺麗な女性だ。
その人も祭りを満喫中に仲間とはぐれたと言っていた。
「森羅さん、だっけ?あの人が一緒にいてくれなかったら慈愛たんは怖いおじさんに誘拐されてたかも知れないね。最近多いらしいよ。子供を捕まえて他国で奴隷として売り物にするんだって」
「そんな恐ろしい事実を他人事の様に話してるルナさんこそ、気をつけた方がいいです」
「え?何言ってるの。あたしは大人だから大丈夫だよ」
「ルナさんなら中学生くらいのお子様に間違えられても可笑しくありません」
「小学生のお子様にお子様とか言われたくないし、自分より年上の中学生を子供扱いはどうかと思うよ」
************************
夏祭りの夜、慈愛は知らない人ばかりの雑踏に紛れながら、半泣きになってルナの姿を探し、沢山の屋台が林立する会場の中を彷徨っていた。
見つからなかったらどうしよう。
帰れなくなったらどうしよう。
こんな時に携帯を忘れた自分を罵りたい。
私の馬鹿。花火の馬鹿。ルナさんの馬鹿。
焦燥感が生じて、先に進むべきか来た道を戻るべきか迷っていたそんな時、
「可愛い子みーっけ」
「わっ!?」
背後から浴衣を着た知らない女性に両肩を鷲掴みにされ、どう反応したら良いのか困るお世辞をかけられた。
年はおそらく日影やルナと同じくらい。おさげに結った緑色の髪と特徴的なオッドアイに目を惹かれた。
嫣然として微笑む整った顔は、同い年くらいのルナにはない「大人の女性」らしさを感じられる。
「迷子になっちゃったんだよね。お家の人探すの手伝ってあげるからお名前教えてくれるかな」
迷子になってまごついていた慈愛を一時的に保護したのは、刑務所に服役中の囚人。
名を森羅万。
そんなことも知らずお互いに自己紹介を終えて、慈愛は彼女と同行。一応の保護者であるルナの姿を探しながら歩を進めていた。
ーー何かが可笑しい。
慈愛がそう感じたのは彼女と邂逅し、五分程度が経過した頃だった。
ーー握られている手に全く温もりを感じない。
手の冷たい人は心が温かいという話を何処かで耳にしたことがあるが、微量の体温さえ感じない人間など存在するのだろうか?
ーーまるで作り物。人形に手を掴まれているみたい。
隣に並び立つ人物は何者なのか、人間ではないのだろうか。
言葉には出さなかったが、慈愛は心中限定でそう感じた。
「お母さんと一緒に来たのかな?それともお父さん?」
「いえ、どっちとも違います。知り合いのお姉さんに誘われて、お祭り見に行こうって」
「そうなんだ。お姉ちゃんか。見つかるまで一緒に居てあげるから心配しないで大丈夫だよ。何か食べる?折角お祭りに来たんだから楽しまないとね」
慈愛は万の優しそうな笑顔と温かい心遣いに不安を完全に払拭した。
ーーもしかしたら幽霊かも?
そんな馬鹿な想像を脳裏へ勝手に巡らせて、恐怖を感じていた自分が恥ずかしい。
失礼な憶測をしてしまったと、心中で詫びを入れる。
(何かこの人、お兄ちゃんに似てる……)
顔も性別も違えど、性格が兄にそっくり。
慈愛が迷子になって誰かに手を差し伸べられたのは今回で二回目だ。
一度目は日影。二度目は万。
助けてくれて、手を握ってくれて、食べ物までご馳走してくれる。
温情と懐かしさが兄の顔に自然と重なって、込み上げてきそうになる涙を必死に堪えるのが精一杯だった。
ーーお兄ちゃんに会いたい。
ーーあの日、離れ離れになってから一度も顔を見ていない。
ーーいってらっしゃいを言いそびれた。
暫くの間は毅然を保とうと、泣きの衝動を我慢していた慈愛だったが、隣にいたルナが素直に涙を流している姿を見た瞬間、堪えていた涙が、滂沱の涙が頬を伝った。
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「そのぬいぐるみ、森羅さんに貰ったんだよね」
「はい。お姉さんの射的の腕前はお見事でした」
慈愛が大事そうに胸に掻き抱いているのはビックサイズの愛らしいクジラのぬいぐるみで、全長はクリスマスに日影にプレゼントされたイルカのぬいぐるみと同じかそれ以上はある。
それは祭りの途中、万が慈愛にプレゼントした射的屋台の景品だ。
オッドアイで照準を合わせ、必ず的を射抜くことが可能な彼女の能力はチートを使用している状態と同様で、射的の景品くらい取れて当たり前だった。取得した商品は百円で渡されるコルクと同じだけの二つだが、作業報奨金さえ十分にあればその全てを満足に落下させただろう。
銀髪の迷子少女が物欲しげに眺めていた一等のぬいぐるみは、四等のお菓子詰め合わせと万の温情の籠ったスマイルと共に贈呈される。
視線を奪われる程に見入っていたのは事実だが、別に欲しいと強請った訳ではない。
慈愛は万の見事な腕前と突然のプレゼントに目を丸くしていた。
「あげるよ」と言われ手渡されれば、断るのも悪い気がして「貰っていいんですか?」と控えめな様子で一言。
目の前にいる年上の女性は質問に対し「うん」と肯定。
ーーしかし、頷いた顔に一瞬、表情に陰りが垣間見えたのを慈愛は見逃さなかった。
「受け取ってくれると嬉しいな。僕にはそれを、持って帰れる場所がないからね」
「持って帰れる場所……あの、もしかしてですけど、家出でもしてるんですか?」
「たまにでいい。そのぬいぐるみを見て僕のことを思い出して欲しいんだ」
ーー死んだ後で、誰の記憶にも残らない何て悲しいからね。
「えと、それってどういうーー」
その答えを聞くより先に、ルナが慈愛の姿を見つけるのが僅かながらに早く、万は安心したような表情で二人の元を去って行く。
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