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泥足の狛犬
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「そんなわけあるかい」
というのが孝明の第一声だったので、桜子はむくれた。もっとも、この男が桜子の話に対してこういったつれない反応示すのはいつものことだったのだが、生まれたときからの付き合いのせいでこうなることはとうに分かっているというのに、懲りもせず彼に話をしに来てしまう自分の習性が悲しい。
桜子はぷりぷりと言い募った。
「なによ、頭ごなしに。お寺の和尚さんが怪奇現象を真っ向から否定するってどうなの? ていうか、お茶くらい出してよ。学校帰りで疲れてるんだから」
「坊さんってのはオカルトの専門家のことじゃねえんだよ。茶なら、台所行って好きに淹れてこい。ついでに饅頭でも持ってきてくれ。午前中に長谷川さんからもらったのがあるから」
孝明はあくびを噛み殺しながら指図した。こちらは一応客なのだから寝そべって本を読むのをやめろ……などと、今さら言っても仕方のないことだったので口には出さなかった。
坂木神社の狛犬が夜に動き出して町を徘徊しているらしい——こんな噂を、桜子とて本気にしているわけではない。だが、彼女のクラスは今、この噂で持ちきりだった。
※
羽山孝明は、地域の寺として古くから親しまれる円照寺の住職だ。先代住職がさっさと息子に家督を譲ったため、彼が三十代の若さで寺を取り仕切るようになって数年。〈コウメイ和尚〉といえば、この辺りで知らないものはいない……と桜子は思っていた。
家が円照寺の檀家総代だったおかげで、桜子は小さな頃から孝明のことをよく知っていた。昔は「お兄ちゃん」「お兄ちゃん」と彼の後をよくついて回っていたものだ——あの頃は孝明ももう少し優しかった(ような気がする)のに、とぶすくれて開けた茶筒からお茶っ葉がこぼれる。「お兄ちゃん」の桜子に対する扱いは、よく言えば実の妹に対するようで……悪く言えば、雑この上ないのだった。
「狛犬が夜出歩くなんて、まさか本気で信じてねえだろうな。学校の七不思議じゃあるまいし——人体模型だのモナリザだのと同レベルだぞ。高校生にもなって」
と饅頭をつまみながら孝明は呆れた顔をした。桜子は反論した。
「ただの噂じゃないもん。朝、狛犬の足に土や泥がついてるから困るって、神主さん言ってたよ」
「……聞きに行ったのか? わざわざ? 」
「わたしだけじゃないよ。噂が立ったせいで、みんなが見にきててさ。隣町から見に来る人もいるんだって」
「ふーん……」
少しは真剣に考える気になったかと桜子は期待したが、孝明の顔には「しょうもねえ」とはっきり書かれていた。桜子はむきになった。
「なによ、その興味なさそうな顔! お寺に狛犬が歩いてきても知らないからね! 」
「狛犬が寺に何の用で来るんだよ。……ま、いいんじゃねえの。誰か食われたってわけじゃねえんだろ」
今どき妖怪変化もねえもんな。本当に誰かが食われたってんなら、仏弟子代表として調伏にでも行かなきゃだけどよ。孝明は平然とお茶をすすった。
ところが——。
「おお、桜子ちゃん。おかえり」
数日後、桜子がいつものように円照寺へ出かけると、いつもの庫裏で孝明と先代住職(円照寺では長老と呼ばれている)が揃って腕を組んでいた。孝明が珍しく深刻な顔をしているので、桜子はなんとなく端の方で正座した。
「こんにちは。何かあったの? 」
「ちょうどいいとこに来たな。こないだの狛犬事件、あれまだ続いてんのか? 」
「え? う、うん、多分……噂の勢い自体は前ほどじゃないけどね」
「うちのお地蔵さんの足にも、今朝土がついていたんだよ」
と長老。
「それだけじゃない。敷地の外から境内の中にまで、ぱらぱらと土が落ちていてね。本当にお地蔵さんが歩いてきたみたいに」
「……ったく、誰だか知らねえが罰当たりなことしやがって。正体暴いてやらねえとな」
眉間にしわを寄せた孝明につられて、桜子も立ち上がった。こうなれば、事態はすでに解決したも同然だ。
〈コウメイ〉とは〈孝明〉であり、〈孔明〉でもある。羽山孝明は桜子が知る限り、町内で一番に頭の切れる男なのだから。
※
坂木神社は、円照寺から徒歩で二十分ほどの距離にある古社だ。かつては勝負運や縁結びのご利益があると信仰を集めていたらしいが、今となっては参拝客もまばらで廃社寸前というようなありさまだった——そう、狛犬の噂が囁かれるようになるまでは。
「へえ、こりゃ見事なもんだな」
混み合う境内を見回し、孝明が呟く。三が日にすらろくな人通りのなかった境内は今、桜子のような若者を中心に観光地ばりの賑わいを見せていた。噂を聞きつけたのか、露店もいくつか出ている。まるで縁日のようだった。
桜子は何気なく露店のひとつを覗き、驚いて孝明を手招きした。
「見て見て、コウメイさん。もうこんなグッズみたいなのができたんだ」
「マジか」
クッキー。せんべい。手拭い。ステッカー。シャツ……〈泥足の狛犬〉はみずから町を歩いて夜警してくれるありがたい存在として認知されつつあるらしく、愛らしくデザインされたお土産物が所狭しと並んでいた。孝明は〈狛犬クッキー〉の箱を手に取り、裏面を確認した。
「ふーん。商工会で作ってんのか」
「結構可愛くできてるね」
桜子も手拭いを手に取った。色違いで何パターンかあるようで、和風の模様と狛犬があしらわれたデザインはどれも悪くない。
「あ、これ——おりんちゃんのと同じだ」
桜子が指差したグッズを見て、孝明は眉を上げた。
「なんだそれ。置きものか? 」
「起き上がり小法師だよ。うちに同じのあるもん。おりんちゃんのやつ」
〈おりんちゃん〉というのはいわゆるご当地キャラクターというやつで、町の名産であるりんごをモチーフにした女の子だ。町の商工会が協力して多方面にグッズ展開が進んでいる——〈泥足の狛犬〉グッズも商工会が管理しているようなので、きっと同じ生産ラインで作られたのだろうと桜子は思った。
孝明は険しい表情で腕を組んだ。
「桜子。狛犬の噂が出たのって、いつ頃からだ? 」
「うーん……一ヶ月くらい前、かな。わたしが聞いたときには、もう結構広まってたみたいだったし。なんで? 」
「ひと月しか経ってないにしちゃ、準備がいいよな」
「おりんちゃんのグッズと同じ作り方で作れたからじゃない? クッキーもおせんべいも手拭いもシャツも、全部おりんちゃんのデザインと似てるもん。これからぬいぐるみとかお守りとかもできるんじゃないかなあ」
「で、あれが例の狛犬か」
孝明が人だかりを指差す。一対の狛犬の手前には自治体で新しく設置したらしいシンプルな立て看板があり、〈泥足の狛犬〉の由緒らしきものが綴られていた。
「ここの参道、前は雑草だらけだったのにな」
「人が来るようになったから綺麗にしたんだね」
「まあそうだろうな……」
看板と一緒に嬉々として写真撮影をしている人々を横目に、孝明は何か考えている。桜子は聞いてみた。
「コウメイさんはやっぱり、誰かが狛犬やお地蔵さんの足に土をつけてるって思ってるの? 」
「おまえは違うと思うのか? 」
「そりゃ、現実的には石の像が歩くなんて考えられないけど……でも、ただの像じゃないじゃん。神社やお寺にあるものなら、もしかしたらそんなことあるのかも……ってちょっとくらい思っても仕方なくない? だから、これだけ騒ぎになってるんだろうし。円照寺のお地蔵さんもそのうちこうなるんじゃないの? 」
「まあ、別に否定はしねえよ。付喪神ってやつも本当にいるのかもしれねえしな」
話しながらぶらぶらと歩き出した孝明のあとを、桜子は慌てて追っていった。孝明は参道をお社に向かって進んでいく。
孝明は続けた。
「ただ、それを騙ってお地蔵さんの足をわざわざ汚すんなんざ……見過ごすわけにはいかねえよな」
※
——息を切らしながら、足元に土を撒く。歴史ある山寺である円照寺に備えつけられた古い石段はバリアフリーなどまったく無視した勾配のきついもので、ただ上っているだけでも目眩がした。
もうすぐだ。もうすぐ境内に辿り着く。〈彼ら〉は暗がりで顔を見合わせ、ほくそ笑んだ。 ………
「お参りですか? 」
突然頭上から声をかけられ、〈彼ら〉はびっくり仰天して立ち止まった。うっかり開いた両手から土を入れた袋がすり抜ける。
僧衣の若い男が、手に提灯を持って〈彼ら〉を見下ろしていた。彼の隣には、少女らしい人影もある。〈彼ら〉はまごついた——正確に言うと、恐怖した。
「あ………な、なんだ、あんたらは? 」
「おれたちは円照寺のもんだが」
僧侶は最初の朗らかな態度はどこへやら、提灯の柔らかな明かりでもはっきり分かるくらい顔をしかめた。
「あんたたちこそ、こんな時間に何しに来た? 急ぎの願掛けがあるなら本堂で祈祷してやろうか? 」
「い、いや……」
「袋、落としましたよ」
少女が指差して指摘する。〈彼ら〉が慌てて袋を拾い上げるのを、僧侶は冷静に見ていた。
「ふうん。そいつをうちの境内まで延々散らかして、仕上げにお地蔵さんの足に塗ったくるわけか」
「……我々は、そんなことは……」
「この状況でまだ強情張る気かい。商工会の会長と副会長ともあろうお方が、往生際が悪いねえ」
ふたりは鳩尾の辺りを冷たく掴まれたような心地がした。なぜこちらの正体がバレているんだ? 僧侶はふたりの反応をせせら笑い、提灯を彼らに近づけた。
※
提灯の明かりに浮かび上がったふたりの男性を見て、孝明は鼻を鳴らした。
「菓子屋の戸川さんと、印刷屋の広田さんだろ。狛犬のクッキーやらステッカーやら作ってる」
戸川も広田もうつむき、咄嗟の返事ができないようだった。だが、この沈黙こそ孝明の推理が正しいことの証明でもあった。
坂木神社で調査をして、数日。犯人はまた現場にやってくるに違いないと踏んだ孝明と桜子は、日が暮れてから境内で張り込んでいたのだ(孝明はひとりでいいと言ったのだが、桜子が無理に居座ったのだ)。
「坂木神社で狛犬のグッズを見てきたよ」
と孝明は静かに言った。
「狛犬の噂が立ってから大して経ってねえのに、見事な品揃えだった。神主さんに聞いてみたら、狛犬の足が汚れるようになってしばらくしてからあんたたちが揃って訪ねてきたんだと言ってたよ——今、学生の間でここの神社が話題になっているらしい。ぜひ我が町の新たな名所・シンボルとして末長く多くの方にご参拝いただけるよう、微力ながらお力添えをさせていただきたい……とかなんとか言われて、あのグッズを境内で売ることになったってな」
戸川と広田は土を蒔いているところを現行犯で押さえられてしまったために反論もできず、黙ってうつむいているだけだ。
桜子は聞いてみた。
「……あの、どうして坂木神社の狛犬だけじゃなくて円照寺のお地蔵さんにも泥を……? 」
「……狛犬だけじゃ話題がすぐに去ってしまう。町のイメージとして定着しないからだよ。それに、円照寺にも防犯カメラがなかったからね。広田さんのうちには娘さんがいるから、噂を学校で広めてもらったんだよ」
戸川が額の汗を拭いながら言った。
「町おこしってやつさ。うちの町は小さいし、人が多いわけでもない。むしろ、仕事が少ないからといって年々人口が減っていくばかりだ。……そうなると、我々のような事業者もどんどん苦しくなる。なにか我が町ならではの話題を作らなければならないと思ったんだよ」
「狛犬とお地蔵さんが歩き回って人助けしてくれる町……ってか」
孝明は呆れたように言った。
「発想がワンパターンなんだよ。何度も同じことしたって話題になんかなるわけねえと思うがな」
「し、しかし……我々は必死に、この町のことを考えて——」
「町が賑わうためだったら、お地蔵さんや狛犬を泥で汚しても構わねえのか? 」
孝明の厳しい一言に、商工会のふたりはぎくりと肩を揺らした。孝明は続けた。
「自分らのためにっていうあんたらの気持ちは分からんこともない。今じゃ、あちこちの寺や神社で土産物を扱ってるなんて普通だしな。〈泥足の狛犬〉の方は好きにすりゃあいい。でも、うちのお地蔵さんで同じことをしないでもらいたい。後ろに落とした土も、掃除して帰ってくれ。終わったら下の門のとこに置いといていいから」
桜子が掃除用具入れから持ってきた箒を渡された戸川と広田は、神妙に自分たちが偽装した〈お地蔵さんの足跡〉を掃きながら下っていった。やがて下の方で自動車のヘッドライトがぴかりと点灯し、どことなく忙しないエンジン音とともに、商工会のふたりは円照寺を去っていったのだった。
※
「〈泥足の狛犬〉、テレビで紹介されたんだって」
桜子が報告すると、例によって孝明は気のない様子で本から顔を上げた。
「ふーん。それで、全国からお客が来るってのか? 」
「うん。最近新しく狛犬のデザインのお守りもできて、すごい魔除けになるって大人気なんだって……商工会のおじさんたちが始めたことなのにね」
「ま、縁起ものの由来を本当かどうか詮索するのは野暮ってもんだしな。プラシーボ効果ってのもあることだし、お守り買ったやつがこれで安心だって自分で納得できるならいいんじゃねえの——ちょっと前にはやったアマビエだって、そんなだったろ」
「お地蔵さんもやってもらったらよかったのに」
桜子は惜しんだが、孝明はお構いなしで本に目を戻した。
「似たような話がふたつあっても仕方ねえだろ。キャラが違うだけでまったく工夫もなく、マジでおんなじ筋書きの映画があったら、おまえ見にいくか? 」
「ううん……ていうか、パクリじゃんと思う」
「だろ。下手すりゃ、うちが坂木神社をパクって似たようなことやろうとしてると思われちまうかもしれねえ。そうなりゃ神社の方にだって迷惑だ」
やるならなんか捻らねえとな。孝明はぱらりとページを進めた。
「いいんだよ、大勢人が来なくたって。気持ちを整理したいとか、マジで悩んでてどうすりゃいいか分からないとか、寺ってのはもともとそういうやつのためにあるんだから。あんまりごちゃごちゃ混雑してたら、ご本尊とゆっくり向き合うこともできねえじゃねえか」
だから、いいんだよ。孝明の静かな声が、のどかに消えていった。
というのが孝明の第一声だったので、桜子はむくれた。もっとも、この男が桜子の話に対してこういったつれない反応示すのはいつものことだったのだが、生まれたときからの付き合いのせいでこうなることはとうに分かっているというのに、懲りもせず彼に話をしに来てしまう自分の習性が悲しい。
桜子はぷりぷりと言い募った。
「なによ、頭ごなしに。お寺の和尚さんが怪奇現象を真っ向から否定するってどうなの? ていうか、お茶くらい出してよ。学校帰りで疲れてるんだから」
「坊さんってのはオカルトの専門家のことじゃねえんだよ。茶なら、台所行って好きに淹れてこい。ついでに饅頭でも持ってきてくれ。午前中に長谷川さんからもらったのがあるから」
孝明はあくびを噛み殺しながら指図した。こちらは一応客なのだから寝そべって本を読むのをやめろ……などと、今さら言っても仕方のないことだったので口には出さなかった。
坂木神社の狛犬が夜に動き出して町を徘徊しているらしい——こんな噂を、桜子とて本気にしているわけではない。だが、彼女のクラスは今、この噂で持ちきりだった。
※
羽山孝明は、地域の寺として古くから親しまれる円照寺の住職だ。先代住職がさっさと息子に家督を譲ったため、彼が三十代の若さで寺を取り仕切るようになって数年。〈コウメイ和尚〉といえば、この辺りで知らないものはいない……と桜子は思っていた。
家が円照寺の檀家総代だったおかげで、桜子は小さな頃から孝明のことをよく知っていた。昔は「お兄ちゃん」「お兄ちゃん」と彼の後をよくついて回っていたものだ——あの頃は孝明ももう少し優しかった(ような気がする)のに、とぶすくれて開けた茶筒からお茶っ葉がこぼれる。「お兄ちゃん」の桜子に対する扱いは、よく言えば実の妹に対するようで……悪く言えば、雑この上ないのだった。
「狛犬が夜出歩くなんて、まさか本気で信じてねえだろうな。学校の七不思議じゃあるまいし——人体模型だのモナリザだのと同レベルだぞ。高校生にもなって」
と饅頭をつまみながら孝明は呆れた顔をした。桜子は反論した。
「ただの噂じゃないもん。朝、狛犬の足に土や泥がついてるから困るって、神主さん言ってたよ」
「……聞きに行ったのか? わざわざ? 」
「わたしだけじゃないよ。噂が立ったせいで、みんなが見にきててさ。隣町から見に来る人もいるんだって」
「ふーん……」
少しは真剣に考える気になったかと桜子は期待したが、孝明の顔には「しょうもねえ」とはっきり書かれていた。桜子はむきになった。
「なによ、その興味なさそうな顔! お寺に狛犬が歩いてきても知らないからね! 」
「狛犬が寺に何の用で来るんだよ。……ま、いいんじゃねえの。誰か食われたってわけじゃねえんだろ」
今どき妖怪変化もねえもんな。本当に誰かが食われたってんなら、仏弟子代表として調伏にでも行かなきゃだけどよ。孝明は平然とお茶をすすった。
ところが——。
「おお、桜子ちゃん。おかえり」
数日後、桜子がいつものように円照寺へ出かけると、いつもの庫裏で孝明と先代住職(円照寺では長老と呼ばれている)が揃って腕を組んでいた。孝明が珍しく深刻な顔をしているので、桜子はなんとなく端の方で正座した。
「こんにちは。何かあったの? 」
「ちょうどいいとこに来たな。こないだの狛犬事件、あれまだ続いてんのか? 」
「え? う、うん、多分……噂の勢い自体は前ほどじゃないけどね」
「うちのお地蔵さんの足にも、今朝土がついていたんだよ」
と長老。
「それだけじゃない。敷地の外から境内の中にまで、ぱらぱらと土が落ちていてね。本当にお地蔵さんが歩いてきたみたいに」
「……ったく、誰だか知らねえが罰当たりなことしやがって。正体暴いてやらねえとな」
眉間にしわを寄せた孝明につられて、桜子も立ち上がった。こうなれば、事態はすでに解決したも同然だ。
〈コウメイ〉とは〈孝明〉であり、〈孔明〉でもある。羽山孝明は桜子が知る限り、町内で一番に頭の切れる男なのだから。
※
坂木神社は、円照寺から徒歩で二十分ほどの距離にある古社だ。かつては勝負運や縁結びのご利益があると信仰を集めていたらしいが、今となっては参拝客もまばらで廃社寸前というようなありさまだった——そう、狛犬の噂が囁かれるようになるまでは。
「へえ、こりゃ見事なもんだな」
混み合う境内を見回し、孝明が呟く。三が日にすらろくな人通りのなかった境内は今、桜子のような若者を中心に観光地ばりの賑わいを見せていた。噂を聞きつけたのか、露店もいくつか出ている。まるで縁日のようだった。
桜子は何気なく露店のひとつを覗き、驚いて孝明を手招きした。
「見て見て、コウメイさん。もうこんなグッズみたいなのができたんだ」
「マジか」
クッキー。せんべい。手拭い。ステッカー。シャツ……〈泥足の狛犬〉はみずから町を歩いて夜警してくれるありがたい存在として認知されつつあるらしく、愛らしくデザインされたお土産物が所狭しと並んでいた。孝明は〈狛犬クッキー〉の箱を手に取り、裏面を確認した。
「ふーん。商工会で作ってんのか」
「結構可愛くできてるね」
桜子も手拭いを手に取った。色違いで何パターンかあるようで、和風の模様と狛犬があしらわれたデザインはどれも悪くない。
「あ、これ——おりんちゃんのと同じだ」
桜子が指差したグッズを見て、孝明は眉を上げた。
「なんだそれ。置きものか? 」
「起き上がり小法師だよ。うちに同じのあるもん。おりんちゃんのやつ」
〈おりんちゃん〉というのはいわゆるご当地キャラクターというやつで、町の名産であるりんごをモチーフにした女の子だ。町の商工会が協力して多方面にグッズ展開が進んでいる——〈泥足の狛犬〉グッズも商工会が管理しているようなので、きっと同じ生産ラインで作られたのだろうと桜子は思った。
孝明は険しい表情で腕を組んだ。
「桜子。狛犬の噂が出たのって、いつ頃からだ? 」
「うーん……一ヶ月くらい前、かな。わたしが聞いたときには、もう結構広まってたみたいだったし。なんで? 」
「ひと月しか経ってないにしちゃ、準備がいいよな」
「おりんちゃんのグッズと同じ作り方で作れたからじゃない? クッキーもおせんべいも手拭いもシャツも、全部おりんちゃんのデザインと似てるもん。これからぬいぐるみとかお守りとかもできるんじゃないかなあ」
「で、あれが例の狛犬か」
孝明が人だかりを指差す。一対の狛犬の手前には自治体で新しく設置したらしいシンプルな立て看板があり、〈泥足の狛犬〉の由緒らしきものが綴られていた。
「ここの参道、前は雑草だらけだったのにな」
「人が来るようになったから綺麗にしたんだね」
「まあそうだろうな……」
看板と一緒に嬉々として写真撮影をしている人々を横目に、孝明は何か考えている。桜子は聞いてみた。
「コウメイさんはやっぱり、誰かが狛犬やお地蔵さんの足に土をつけてるって思ってるの? 」
「おまえは違うと思うのか? 」
「そりゃ、現実的には石の像が歩くなんて考えられないけど……でも、ただの像じゃないじゃん。神社やお寺にあるものなら、もしかしたらそんなことあるのかも……ってちょっとくらい思っても仕方なくない? だから、これだけ騒ぎになってるんだろうし。円照寺のお地蔵さんもそのうちこうなるんじゃないの? 」
「まあ、別に否定はしねえよ。付喪神ってやつも本当にいるのかもしれねえしな」
話しながらぶらぶらと歩き出した孝明のあとを、桜子は慌てて追っていった。孝明は参道をお社に向かって進んでいく。
孝明は続けた。
「ただ、それを騙ってお地蔵さんの足をわざわざ汚すんなんざ……見過ごすわけにはいかねえよな」
※
——息を切らしながら、足元に土を撒く。歴史ある山寺である円照寺に備えつけられた古い石段はバリアフリーなどまったく無視した勾配のきついもので、ただ上っているだけでも目眩がした。
もうすぐだ。もうすぐ境内に辿り着く。〈彼ら〉は暗がりで顔を見合わせ、ほくそ笑んだ。 ………
「お参りですか? 」
突然頭上から声をかけられ、〈彼ら〉はびっくり仰天して立ち止まった。うっかり開いた両手から土を入れた袋がすり抜ける。
僧衣の若い男が、手に提灯を持って〈彼ら〉を見下ろしていた。彼の隣には、少女らしい人影もある。〈彼ら〉はまごついた——正確に言うと、恐怖した。
「あ………な、なんだ、あんたらは? 」
「おれたちは円照寺のもんだが」
僧侶は最初の朗らかな態度はどこへやら、提灯の柔らかな明かりでもはっきり分かるくらい顔をしかめた。
「あんたたちこそ、こんな時間に何しに来た? 急ぎの願掛けがあるなら本堂で祈祷してやろうか? 」
「い、いや……」
「袋、落としましたよ」
少女が指差して指摘する。〈彼ら〉が慌てて袋を拾い上げるのを、僧侶は冷静に見ていた。
「ふうん。そいつをうちの境内まで延々散らかして、仕上げにお地蔵さんの足に塗ったくるわけか」
「……我々は、そんなことは……」
「この状況でまだ強情張る気かい。商工会の会長と副会長ともあろうお方が、往生際が悪いねえ」
ふたりは鳩尾の辺りを冷たく掴まれたような心地がした。なぜこちらの正体がバレているんだ? 僧侶はふたりの反応をせせら笑い、提灯を彼らに近づけた。
※
提灯の明かりに浮かび上がったふたりの男性を見て、孝明は鼻を鳴らした。
「菓子屋の戸川さんと、印刷屋の広田さんだろ。狛犬のクッキーやらステッカーやら作ってる」
戸川も広田もうつむき、咄嗟の返事ができないようだった。だが、この沈黙こそ孝明の推理が正しいことの証明でもあった。
坂木神社で調査をして、数日。犯人はまた現場にやってくるに違いないと踏んだ孝明と桜子は、日が暮れてから境内で張り込んでいたのだ(孝明はひとりでいいと言ったのだが、桜子が無理に居座ったのだ)。
「坂木神社で狛犬のグッズを見てきたよ」
と孝明は静かに言った。
「狛犬の噂が立ってから大して経ってねえのに、見事な品揃えだった。神主さんに聞いてみたら、狛犬の足が汚れるようになってしばらくしてからあんたたちが揃って訪ねてきたんだと言ってたよ——今、学生の間でここの神社が話題になっているらしい。ぜひ我が町の新たな名所・シンボルとして末長く多くの方にご参拝いただけるよう、微力ながらお力添えをさせていただきたい……とかなんとか言われて、あのグッズを境内で売ることになったってな」
戸川と広田は土を蒔いているところを現行犯で押さえられてしまったために反論もできず、黙ってうつむいているだけだ。
桜子は聞いてみた。
「……あの、どうして坂木神社の狛犬だけじゃなくて円照寺のお地蔵さんにも泥を……? 」
「……狛犬だけじゃ話題がすぐに去ってしまう。町のイメージとして定着しないからだよ。それに、円照寺にも防犯カメラがなかったからね。広田さんのうちには娘さんがいるから、噂を学校で広めてもらったんだよ」
戸川が額の汗を拭いながら言った。
「町おこしってやつさ。うちの町は小さいし、人が多いわけでもない。むしろ、仕事が少ないからといって年々人口が減っていくばかりだ。……そうなると、我々のような事業者もどんどん苦しくなる。なにか我が町ならではの話題を作らなければならないと思ったんだよ」
「狛犬とお地蔵さんが歩き回って人助けしてくれる町……ってか」
孝明は呆れたように言った。
「発想がワンパターンなんだよ。何度も同じことしたって話題になんかなるわけねえと思うがな」
「し、しかし……我々は必死に、この町のことを考えて——」
「町が賑わうためだったら、お地蔵さんや狛犬を泥で汚しても構わねえのか? 」
孝明の厳しい一言に、商工会のふたりはぎくりと肩を揺らした。孝明は続けた。
「自分らのためにっていうあんたらの気持ちは分からんこともない。今じゃ、あちこちの寺や神社で土産物を扱ってるなんて普通だしな。〈泥足の狛犬〉の方は好きにすりゃあいい。でも、うちのお地蔵さんで同じことをしないでもらいたい。後ろに落とした土も、掃除して帰ってくれ。終わったら下の門のとこに置いといていいから」
桜子が掃除用具入れから持ってきた箒を渡された戸川と広田は、神妙に自分たちが偽装した〈お地蔵さんの足跡〉を掃きながら下っていった。やがて下の方で自動車のヘッドライトがぴかりと点灯し、どことなく忙しないエンジン音とともに、商工会のふたりは円照寺を去っていったのだった。
※
「〈泥足の狛犬〉、テレビで紹介されたんだって」
桜子が報告すると、例によって孝明は気のない様子で本から顔を上げた。
「ふーん。それで、全国からお客が来るってのか? 」
「うん。最近新しく狛犬のデザインのお守りもできて、すごい魔除けになるって大人気なんだって……商工会のおじさんたちが始めたことなのにね」
「ま、縁起ものの由来を本当かどうか詮索するのは野暮ってもんだしな。プラシーボ効果ってのもあることだし、お守り買ったやつがこれで安心だって自分で納得できるならいいんじゃねえの——ちょっと前にはやったアマビエだって、そんなだったろ」
「お地蔵さんもやってもらったらよかったのに」
桜子は惜しんだが、孝明はお構いなしで本に目を戻した。
「似たような話がふたつあっても仕方ねえだろ。キャラが違うだけでまったく工夫もなく、マジでおんなじ筋書きの映画があったら、おまえ見にいくか? 」
「ううん……ていうか、パクリじゃんと思う」
「だろ。下手すりゃ、うちが坂木神社をパクって似たようなことやろうとしてると思われちまうかもしれねえ。そうなりゃ神社の方にだって迷惑だ」
やるならなんか捻らねえとな。孝明はぱらりとページを進めた。
「いいんだよ、大勢人が来なくたって。気持ちを整理したいとか、マジで悩んでてどうすりゃいいか分からないとか、寺ってのはもともとそういうやつのためにあるんだから。あんまりごちゃごちゃ混雑してたら、ご本尊とゆっくり向き合うこともできねえじゃねえか」
だから、いいんだよ。孝明の静かな声が、のどかに消えていった。
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「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
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王子を身籠りました
青の雀
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