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第3章
第49話 ルナとセーナ
しおりを挟む神歴1012年3月7日――ギルティス大陸南東、神都アスカラーム。
午後5時37分――商業地区、中央メインストリート。
セーナ・セスは、ながら歩きをしていた。
考えながら歩きである。
隣では、帝都から来たというブレナの連れ――ルーナリア・ゼインが期待に胸を膨らませたような表情を浮かべている。
セーナは短く息を吐くと、若干と上方向に向けていた視線を水平に戻し、
「名物って言われてもなぁ……。ここ観光地じゃないし……ルナちゃんが期待してるようなモノとか、たぶんないよ。ちなみにどんなの好きなの?」
「イカの塩辛とか大好きです」
「いやおっさんか!」
おっさんだ。
好物が完全におっさんのそれだ。
想定外の返答に、セーナは心中で頭を抱えた。
考えに考え抜いた末、無難に甘いモノでも、と出した結論が一瞬間で危うい立場へと追いやられる。
「……もしかして、甘いモノとか苦手だったりする? 甘いモノ、めっちゃ好きそうな顔してるけど……」
後半部分はルナには聞こえないような小声で――セーナは、声の大きさを器用に使い分けた。
「いえ、苦手ではないです。でも、しょっぱい系のほうが好きです。アリスさんが甘党なので、たまに一緒に食べたりはしますけど――基本は辛党です」
「若い女のコなのに珍しいな。でも、辛党かぁ……。困ったなぁ……」
困った。
マジで困った。
辛党好みの店はまったく知らない。どう考えても、これはディルス案件だ。もしくはエル姉さんか――と、そこまで考えたところで、不意にルナの口から思ってもいなかった言葉が放たれた。
「セーナさんはリアさんよりもひとつ年上なんですよね? ということは――」
「……それ、誰が言った?」
中途で遮り。
セーナは、声のトーンを抑えて言った。
受けたルナが、不思議そうに大きな両目をパチクリさせる。
「?? いえ、リアさんが『セーナ姉』って言っていたので、年上なのかと。違うんですか?」
違わない。
問題は、そこではない。
一拍。
セーナはそこで、大きく一度、深呼吸をすると――。
その流れのまま、ルナの顔面に勢いよく人差し指を突きつけ、
「違わないわよ! そこは違わない! 違うの、ひとつって箇所! アタシはリアより三つも年上だ! 先月二十日で二十歳になった、正真正銘大人の女だ!!」
「……え」
ルナの動きが、そこでピタリと止まる。
やがて、だが彼女は仰天したように両目を見開き、
「セーナさん、二十代なんですか!? 全然まったく見えないです!! 十八でも驚きなのに、二十歳は驚き通り越して衝撃です!! こんなの逆サバ読みじゃないですか!?」
「逆サバ読みってなんだそれ!」
初めて聞くワードだ。
初めて聞くワードだが、でもなんとなく意味は分かった。かなりのパワーワードである。
セーナは三度、深呼吸を繰り返した。
たかぶった感情を、それでなんとか鎮める。
と、若干と落ち着きを取り戻した彼女は、警告するように両目を細めて、
「……あんたは褒めたつもりかもしれないけど、今の全然うれしくないからね。アタシは年下に見られることが一番――」
「いえ、別に褒めてないです。良い意味でも悪い意味でもないです。そのままの意味です」
そのままの意味だった。
良い意味で言われたわけでも全然なかった。セーナは両目をさらに細めた。
「……あんた、けっこう舐めた性格してるわね」
正直者は嫌いじゃないが、いくらなんでも正直すぎる。
セーナは歩く速度をわずかに上げた。限界近くまで細めた両目は、だが彼女に向けたままである。ほとんどもう、睨む一歩手前であった。
と。
「あ、セーナさん」
「今度はなに? さっきも言ったけど、アタシは――」
がごんっ!!
「あぎゃッ!」
衝撃。
セーナは、半回転して地面に倒れた。
冗談みたいに、芸術的な倒れっぷりだった。
「いったぁ……。ちょ、なに? 吊り看板? なんでこんな低い位置まで看板下がってんの? 一瞬、角がおでこに刺さったぁ……。頭、ジンジンするぅ……」
涙目になって、ひたいをさする。セーナは地面に倒れた状態のまま、事の元凶を鋭い目つきで見上げた。
乾物屋の吊り看板が、ガコリとズレた状態で絶妙な高さに垂れ下がっていた。
「すみません。前に看板が、って注意しようとしたんですけど……間に合いませんでした」
「いやテンションおかしくない!? 注意するなら、もっと緊迫感持って言いなさいよ! 『前、看板っ!』 とか! なんでそんな普段と変わんないトーンで切り出すのよ!」
立ち上がりつつ、ルナに向かって二度目の指を突きつける。
やっぱりこのコはズレている。この吊り看板と同じくらいズレている。本人がそのズレをまったく自覚していないのも厄介である。まあ、悪いコではないのは一見して分かるが(目を見れば分かる。目つきは全然違うが――リアとよく似た目をしている。こういう目をしている人間に悪人はいない。その精度には、セーナは絶対の自信を持っていた)。
とまれ。
セーナはそこで鉛の息を吐いて、気持ちをいったんリセットすると、思い出したようにポツリと落とした。
「……お店、ここでもいい? 地味にけっこう有名だったの思い出した。名物ってほどではないかもだけど――乾物とか、好きだったりする?」
「乾きモノ、大好きです。サキイカ一袋で、オレンジジュース三杯いけます」
「……いやだからおっさんか」
まあ、でもドストライクだったのなら僥倖である。
セーナは、安堵の息を吐いた。
そのまま、黄昏色に染まった夕焼け空を見上げる。
そこには、穏やかでいつもと変わらぬ平穏な色が広がっていた。
でも、このとき彼女はまだ知らない。
この平穏が、よもや嵐の前の静けさだったとは到底知る由もなかったのである。
◇ ◆ ◇
同日、午後5時50分――ラーム神殿、聖王の間。
「よく来てくれた。来てくれるものと、信じていたよ。ブレナ・ブレイク」
濁りのない、どこまでも透き通った声が荘厳な聖堂内に響き渡る。
ブレナは無言のまま、ゆっくりと視線をその方向へと差し向けた。
聖王ナギ。
左右に聖堂騎士団の両翼を従え、片翼の『馬鹿息子』が威風堂々と立っていた。
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