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第4章
第73話 測れない男
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神歴1012年、5月2日――ミレーニア大陸東部、ルドン森林。
午前10時27分――ルドン森林、南部側。
ブレナ・ブレイク――ブレナは、ジャックと共に生い茂る草木の中を縫うように歩いていた。
「おい、ジャック! あんまそっち行くな! そっちは渓流になってんぞ!」
「――――っ!?」
ジャックの足が、ピタリと止まる。
そのまま、彼は見開いた両目をこちらに向けると、
「なぜもっと前にそれを言わん! 危うく落ちかけたではないか!」
「……いや、躊躇なくスイスイ進むから分かってんのかと」
「分かっているわけなかろう! 初めて訪れる場所だぞ、この森は!!」
「……じゃあなんでそんなスイスイ進むんだよ。おまえよく、今まで五体満足で生きてこられたな……」
不思議だ。
前から思っていたが、不思議である。あのギルバードに育てられたとは思えないくらい、慎重さにかける。同じ境遇でも、リアのほうがはるかに精神的に成熟している。年齢は、ジャックのほうがむしろひとつ上だったはずだが。
とまれ。
「まあでも、浅いし、流れは速いが大の大人が溺れるようなレベルじゃない。おまえの身体能力ならなおさらな。ンなマジ顔で抗議すんなよ」
「濡れるではないか! ひざ下まで濡れるぞ! 不快極まりない!」
「……神経質なヤツだな。今の仕事、向いてないんじゃないか?」
「…………ッ!? 余計なお世話だ。ギルバード様に出会って以来、私は――」
私は――。
そのあとに、ジャックはなんと続けるつもりだったのだろう。
分からない。
あと数秒もあれば分かることだったのに、それは分からずじまいになった。
「……は?」
ブレナはワケがわからず、その場に呆けた。
何が、起こった?
目の前には、ひざから崩れ落ちるようにして倒れたジャックの姿がある。
だが、そのほかには何もない。
誰も、何も存在しなかった。
そうではない、と理解していながらも、だがブレナには周囲を見まわすことしかできなかった。
(……目に映る範囲には、誰もいねえ。どこかに身を隠してるわけでもない。そうなら気配で分かる。この俺が、分からないわけがない。だが同時に、体調が悪くて自ずから倒れたわけでもねえ。攻撃を受けて、ジャックは倒された。それは確実だ。確実だと断言できる)
でも、それは視覚外からの遠距離攻撃ではない。
(……ほんの一瞬だけ、ジャックの真後ろに気配が現れ、そうして消えた。警戒していても気づかないレベルの一瞬だ。俺の警戒をかいくぐり、ジャックが反応できないほどの刹那に一撃を加え、そのまま消える。ありえねえ。が、そのありえねえことは否定できないほど明確に目の前で起こった。まずはそいつを認めて――)
ぞわっ。
「――――っ!?」
それは、ほとんど本能での『回避』だった。
見えたわけでも、ましてや動きをとらえられたわけでもない。
ただ直感で、ブレナはその一撃を回避した。
文字どおりの首の皮一枚と、命の次に大事な、相棒との唯一のつながりを犠牲にして。
(ペンダントが、川に……ッ! くそっ、だがそれどころじゃねえ!!)
首もとのペンダントが切り裂かれ、宙を流れて渓流に落ちる。
だが現況、拾いに動くどころか、意識をその方向に向けることさえ愚行であるのは火を見るより明らかである。
ブレナは無心で、近くの大木に背中を預けた。
と。
「背後を封じたか。おまえさん相手に正面から不意を突くのは、得策とは言えねえな。反応速度で後れを取る可能性がある。まったく、割に合わねえ相手だぜ」
「…………」
ブレナは、細く長い息を吐いた。
視線の先、十メートル。
何もなかったその場所に、今は男が一人立っている。
フード付き黒マントを頭からかぶった、若い男だ。
若い男。
フードの隙間から覗く数少ない外見的な(顔の下半分程度の)データと、吐き落とされた声音の情報から、ブレナは視線の先の人物を『若い男』と断定した。
何の前触れもなく、突然と姿を現した、この奇天烈極まるフードの男を――。
(……やるか? 普通に考えたら、奴が使っているのは次元旅行の類だ。姿を現している今は攻撃のチャンス。俺の身体能力なら、奴が言霊を発する前に勝負を決められる。決められる自信はあるが……)
だが、なんだこの感覚は――?
無駄なことはやめろ、と自分の中の何かがやたらとデカい声で叫んでいる。
こんなことは初めてだった。
(……俺はこのヴェサーニアで最強だ。そういうふうに設計した。ギルバードにも、一対一ならナギにもナミにも負けやしない。どんな強者を前にしても、戦う前からなんとなくそれは分かる。腕相撲をするときに、相手の手を握っただけで勝敗が予測できるように。だが……)
この黒マントの男に対しては、その確信が持てない。
互いに手を握り合っている状態にも関わらず、勝てるという確信が持てない。
この男が、ナギやナミより強いはずがないのに……。
「どうした? 仕掛けてこねえのか? おまえが仕掛けてこねえってんなら、オレは当初の目的どおりこの男を回収してこの場を去らせてもらうぜ?」
そう言って。
フードの男が、昏倒しているジャックの身体を肩に担ぐ。
ブレナは、怪訝に眉をひそめて言った。
「……ジャックをさらって何をしようとしてる? そいつをさらったところで、俺に対しての抑止力にはならないぜ。人質としての価値もない」
「おまえに対しての抑止力になるとは思ってねえよ。おまえが厄介な存在だってのは理解してるが、対処すべき優先順位としては次位だ。もっとも、今後の行動次第では最上位に繰り上がるかもしれねえが」
「……俺のことを、どこまで知っている?」
「どこまで? ハッ、そうだな。おまえがオレのことを知ってるよりは、知ってると言えるだろうな」
「……煙に巻いてるつもりか? あえて『テメェが何者』か、ってのは訊かないでおくぜ。答えが返ってこないのは分かってる。訊かれて答えるつもりなら、最初から名乗ってるだろうからな。ムカつくだけだ」
「そうか。んじゃ問答はこれで終わりだな。最後にひとつだけ忠告しておくぜ。あまり派手には動かないことだ。ミレーニアはナミ様の大陸、ナギのモノでも、ましてやおまえのモノでもない。おまえはこの世界同様、傲慢にも自分のモノだと思ってるのかもしれねえが」
「な……ッ!?」
どういう意味だ?
今の言葉、この男はどういう意味で発した?
思考が、まとまらない。
この世界に降り立って、ブレナは初めて混乱した。
その一瞬の思考の乱れが、ふたつあった選択肢をひとつに減らす。
つまりはその一瞬で、心の声に逆らい、遮二無二に突っ込み、ジャックを奪い返すという選択肢が露と消えたのである。
ブレナは、残された選択肢を受け入れるほかなかった。
消失。
男が、消える。
視界の先で、忽然と黒マントの男の姿が消える。
左肩に担いだ、ジャックの肉体と共に。
魔法を生み出す言霊は、一文字たりともルドンの空気に触れることはなかった。
ブレナの中の『絶対』が、音を立てずに崩れ去る。
午前10時27分――ルドン森林、南部側。
ブレナ・ブレイク――ブレナは、ジャックと共に生い茂る草木の中を縫うように歩いていた。
「おい、ジャック! あんまそっち行くな! そっちは渓流になってんぞ!」
「――――っ!?」
ジャックの足が、ピタリと止まる。
そのまま、彼は見開いた両目をこちらに向けると、
「なぜもっと前にそれを言わん! 危うく落ちかけたではないか!」
「……いや、躊躇なくスイスイ進むから分かってんのかと」
「分かっているわけなかろう! 初めて訪れる場所だぞ、この森は!!」
「……じゃあなんでそんなスイスイ進むんだよ。おまえよく、今まで五体満足で生きてこられたな……」
不思議だ。
前から思っていたが、不思議である。あのギルバードに育てられたとは思えないくらい、慎重さにかける。同じ境遇でも、リアのほうがはるかに精神的に成熟している。年齢は、ジャックのほうがむしろひとつ上だったはずだが。
とまれ。
「まあでも、浅いし、流れは速いが大の大人が溺れるようなレベルじゃない。おまえの身体能力ならなおさらな。ンなマジ顔で抗議すんなよ」
「濡れるではないか! ひざ下まで濡れるぞ! 不快極まりない!」
「……神経質なヤツだな。今の仕事、向いてないんじゃないか?」
「…………ッ!? 余計なお世話だ。ギルバード様に出会って以来、私は――」
私は――。
そのあとに、ジャックはなんと続けるつもりだったのだろう。
分からない。
あと数秒もあれば分かることだったのに、それは分からずじまいになった。
「……は?」
ブレナはワケがわからず、その場に呆けた。
何が、起こった?
目の前には、ひざから崩れ落ちるようにして倒れたジャックの姿がある。
だが、そのほかには何もない。
誰も、何も存在しなかった。
そうではない、と理解していながらも、だがブレナには周囲を見まわすことしかできなかった。
(……目に映る範囲には、誰もいねえ。どこかに身を隠してるわけでもない。そうなら気配で分かる。この俺が、分からないわけがない。だが同時に、体調が悪くて自ずから倒れたわけでもねえ。攻撃を受けて、ジャックは倒された。それは確実だ。確実だと断言できる)
でも、それは視覚外からの遠距離攻撃ではない。
(……ほんの一瞬だけ、ジャックの真後ろに気配が現れ、そうして消えた。警戒していても気づかないレベルの一瞬だ。俺の警戒をかいくぐり、ジャックが反応できないほどの刹那に一撃を加え、そのまま消える。ありえねえ。が、そのありえねえことは否定できないほど明確に目の前で起こった。まずはそいつを認めて――)
ぞわっ。
「――――っ!?」
それは、ほとんど本能での『回避』だった。
見えたわけでも、ましてや動きをとらえられたわけでもない。
ただ直感で、ブレナはその一撃を回避した。
文字どおりの首の皮一枚と、命の次に大事な、相棒との唯一のつながりを犠牲にして。
(ペンダントが、川に……ッ! くそっ、だがそれどころじゃねえ!!)
首もとのペンダントが切り裂かれ、宙を流れて渓流に落ちる。
だが現況、拾いに動くどころか、意識をその方向に向けることさえ愚行であるのは火を見るより明らかである。
ブレナは無心で、近くの大木に背中を預けた。
と。
「背後を封じたか。おまえさん相手に正面から不意を突くのは、得策とは言えねえな。反応速度で後れを取る可能性がある。まったく、割に合わねえ相手だぜ」
「…………」
ブレナは、細く長い息を吐いた。
視線の先、十メートル。
何もなかったその場所に、今は男が一人立っている。
フード付き黒マントを頭からかぶった、若い男だ。
若い男。
フードの隙間から覗く数少ない外見的な(顔の下半分程度の)データと、吐き落とされた声音の情報から、ブレナは視線の先の人物を『若い男』と断定した。
何の前触れもなく、突然と姿を現した、この奇天烈極まるフードの男を――。
(……やるか? 普通に考えたら、奴が使っているのは次元旅行の類だ。姿を現している今は攻撃のチャンス。俺の身体能力なら、奴が言霊を発する前に勝負を決められる。決められる自信はあるが……)
だが、なんだこの感覚は――?
無駄なことはやめろ、と自分の中の何かがやたらとデカい声で叫んでいる。
こんなことは初めてだった。
(……俺はこのヴェサーニアで最強だ。そういうふうに設計した。ギルバードにも、一対一ならナギにもナミにも負けやしない。どんな強者を前にしても、戦う前からなんとなくそれは分かる。腕相撲をするときに、相手の手を握っただけで勝敗が予測できるように。だが……)
この黒マントの男に対しては、その確信が持てない。
互いに手を握り合っている状態にも関わらず、勝てるという確信が持てない。
この男が、ナギやナミより強いはずがないのに……。
「どうした? 仕掛けてこねえのか? おまえが仕掛けてこねえってんなら、オレは当初の目的どおりこの男を回収してこの場を去らせてもらうぜ?」
そう言って。
フードの男が、昏倒しているジャックの身体を肩に担ぐ。
ブレナは、怪訝に眉をひそめて言った。
「……ジャックをさらって何をしようとしてる? そいつをさらったところで、俺に対しての抑止力にはならないぜ。人質としての価値もない」
「おまえに対しての抑止力になるとは思ってねえよ。おまえが厄介な存在だってのは理解してるが、対処すべき優先順位としては次位だ。もっとも、今後の行動次第では最上位に繰り上がるかもしれねえが」
「……俺のことを、どこまで知っている?」
「どこまで? ハッ、そうだな。おまえがオレのことを知ってるよりは、知ってると言えるだろうな」
「……煙に巻いてるつもりか? あえて『テメェが何者』か、ってのは訊かないでおくぜ。答えが返ってこないのは分かってる。訊かれて答えるつもりなら、最初から名乗ってるだろうからな。ムカつくだけだ」
「そうか。んじゃ問答はこれで終わりだな。最後にひとつだけ忠告しておくぜ。あまり派手には動かないことだ。ミレーニアはナミ様の大陸、ナギのモノでも、ましてやおまえのモノでもない。おまえはこの世界同様、傲慢にも自分のモノだと思ってるのかもしれねえが」
「な……ッ!?」
どういう意味だ?
今の言葉、この男はどういう意味で発した?
思考が、まとまらない。
この世界に降り立って、ブレナは初めて混乱した。
その一瞬の思考の乱れが、ふたつあった選択肢をひとつに減らす。
つまりはその一瞬で、心の声に逆らい、遮二無二に突っ込み、ジャックを奪い返すという選択肢が露と消えたのである。
ブレナは、残された選択肢を受け入れるほかなかった。
消失。
男が、消える。
視界の先で、忽然と黒マントの男の姿が消える。
左肩に担いだ、ジャックの肉体と共に。
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