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第5話
しおりを挟む三日後も、やってきたのはローマンだった。ユリウスに会えないのは残念だったが、反面安堵もしていた。たった三日では、ユリウスにどんな顔をすればいいのか分からなかった。
ただ、次の日、その安堵を真正面から叩き壊す人物が、村を訪ねてきた。
リサが皆で摘んだ薬草を小屋で選り分けてみると、蹄の音だけでなく馬車の音まで聞こえてきた。誰か偉い人でも来たのだろうかとつい小屋の外へ顔を出したリサは、馬車に描かれた紋章を見て青ざめた――皇家の紋章だった。
慌てて小屋に引っ込んだが、もう遅い。
「クラリッサ!」
扉を閉めるより先に、大きな声が飛び込んできた。
逃げなくては。今すぐ、急いでここから逃げなくては。リサは、散らばっていた荷物を慌ててかき集め、でも薬売りの仕事を投げ出していいものかと逡巡し……。そうしているうちに、扉が勢いよく開け放たれた。
「クラリッサ……!」
現れた人物は、顔にも声にも喜色を滲ませている。だがリサは部屋の対角線上に逃れた。
上品な育ちが分かる顔立ち、現皇帝と同じオレンジ色の髪と瞳――エーヴァルト皇子だ。
「探したよクラリッサ。大変だっただろう、こんな狭く汚い家で――」
「お引き取りください」
早口の声には、日頃のリサ――クラリッサにはない明確な拒絶の意志があった。しかしエーヴァルトは心配そうに眉尻を下げるだけだ。
「そんな言い方をしないでもいいだろう。私は君を心配してきたんだ」
「心配ですって? 私を王都から追放したのは、他でもないエーヴァルト殿下です!」
「誤解だよクラリッサ。私は君を追放するつもりなんてなかった」
エーヴァルトの靴が小屋の中に踏み込む。村人や騎士団員と違い、汚い道を歩いたことのない綺麗な靴だった。
「あくまであれは父上の判断だったのだ。皇帝たる父に逆らうことのできなかった私の気持ちも汲んでくれ」
「では貴方が陛下に『クラリッサは聖女の力を盾に皇家の財を食いつぶそうとしている』とおっしゃったのは演技だったのでしょうか? もし演技だというのなら、陛下のいないところで『ろくな爵位もない自らの身分を恥じるがあまり聖女の力を出し惜しみしている』と私を罵ったのはなぜだったのでしょう? 最後の日だって『偽物の聖女と国民に知らしめてこの帝国のどこにも住めぬようにしてやる』とまで口にしたじゃありませんか。それと同じ口で『父に逆らうことのできなかった』なんて理屈が通りません」
「相変わらず覚えがいいな、クラリッサ。しかし誤解だ、この帝国では皇帝たる父上が絶対の存在、それは私にとっても同じこと。父上の隣で黙って立っているだけでは足りないのだ、あくまで私個人の意見でもあるように君を詰《なじ》らねば……。君なら分かってくれるだろう、クラリッサ」
「いいえ分かりません」
カッカッと靴音を響かせながらエーヴァルトはクラリッサに歩み寄り、クラリッサはじりじりと壁際を移動する。
「それに、私への罵倒が本心だったかどうかなどどうでもいいのです。殿下は、我が一族が代々受け継いできた薬草庫を燃やされました」
ある晩、煌々と燃えていた温室と書庫。そのときの光景を思い出すだけで声が震えた。
「我が一族の宝であったこともどうでもいいとは申しませんが、何よりも、あれはこの国の人々に必要なものです。それが灰塵と帰したことで、この国の人々がどうなるか考えなかったわけではありませんでしょう?」
「それは君がこの世の常識を理解していないせいだ。君は聖女などと称えられてきた箱入り娘だから、分かっていないことが多いんだよ」
「殿下のあの行動が常識だというのなら、私は一生非常識のままで構いません!」
叫びながら、ついに扉の前まで来てしまった。ぐるりと小屋の中を一周してしまったし、扉のすぐ外にはエーヴァルトの護衛達が立っている。
逃げられない。壁に背を張りつけたままぎゅっと拳を握りしめていると、エーヴァルトには隠しきれぬ勝利の笑みが浮かんだ。
「さあクラリッサ、城へ帰ろう。君がこんなところで不自由な生活に苦しんでいい理由なんてない」
「いいえ、私はここで不自由などしておりません。どうぞお引き取りください、エーヴァルト殿下」
その気になれば小屋に火を放ってでも逃げおおせてやる――その決意が目に現れていることに気付いたエーヴァルトは、仕方なさそうに眉尻を下げた。
「そういうことであれば、仕方あるまい」
「や……」
小屋の外から伸びてきた二本の腕がクラリッサを羽交い絞めにする。舌を噛み切らぬよう、その口には乱暴に布も押し込まれた。
「仕方がないんだよ、クラリッサ。ここだけの話、私の妻となるべき女性が病に倒れてしまってね。主治医もお手上げの大病なんだ」
モガモガと布の奥からくぐもった抗議をするリサの前に、エーヴァルトは屈みこんだ。
「君の最後の仕事だよ、クラリッサ」
残酷に微笑まれ、クラリッサの目が大きく開かれた。
その体を拘束していた護衛が、体を横から折られるようにして吹き飛んだ。ゴロッとリサが床に転がり落ちる瞬間、その体を別の腕が抱き留め、さらにもう一人の護衛が吹き飛ぶ鈍い音がした。
エーヴァルトは魔術でも見たような顔になっていたが、クラリッサを抱えて立っているユリウスを見て顔色を変えた。
「貴様……辺境伯のもとの騎士団長か?」
「何度か式典でご挨拶させていただきましたね、皇子殿下。ユリウス・フィン・フォルスカです」
まるで子どものように床に下ろされたクラリッサは目を白黒させていた。なぜ、ユリウスがやってきたのか。今日は薬草を取りにくる日ではないはずだ。
ともあれ、ユリウスがやってきてくれたのは幸運だった。この地の領主である辺境伯は、皇家が頭を抱えるほど権力を蓄え始めている。だからこそクラリッサも逃亡の話に乗ったのだが。
皇家と辺境伯の間には、いつ寝首をかくかかかれるかの緊張関係さえある。そして辺境伯の騎士団はあくまで辺境伯の騎士団であって皇家のものではない。ゆえに、ここでのエーヴァルトとユリウスの立場に明確な上下は観念できなかった。
お陰で、エーヴァルトも襟を正しながら、リサに相対したように見下した顔を向けることはしない。
「……騎士団はここから少し離れているはずだが、騎士団長がこんな村に何用かな」
「この村で薬を処方してもらっていましてね、私は辺境伯の命で窓口に立っております。そういう殿下こそ、このような辺境の村にわざわざ自ら足を運び、何用ですか」
ぐ、とエーヴァルトは一度閉口した。正当な理由があるとは想像しておらず、てっきりクラリッサと良き仲に違いないと勘繰ったからだ。
「……将来の皇妃の危機だ。不治の病に侵され、主治医も匙を投げた」
「それほどの容態の患者を、医者でもなんでもない彼女に診ろと?」
訝しんだユリウスに、クラリッサは体を強張らせ、エーヴァルトは一瞬呆気にとられた。
しかし、次の瞬間にはククッと笑みを漏らす。
「そうか。そうだなクラリッサ、この男の前では力を渋ったか」
「……おやめください、殿下」
「教えてさしあげよう、騎士団長。彼女は医者以上の力を持っている」
「それは知りませんでしたね。辺境伯のもとには優秀な医者が多いので」
「彼女は“聖女”だ」
自信たっぷりな暴露に、ユリウスは肩を揺らし、目を瞠る。それに裏切りを咎められているようで、クラリッサは視線を背けた。
「騎士団長ならご存知だろう、“聖女”の力を。あらゆる疾病を治癒する万能の力を持つ存在だ。しかもその力は、かつて女神を射落とし、その加護をものとした我が帝国の女にしか与えられない」
「…… “聖告《せいこく》”を受けた者に与えられ、その者が力を失うとまた別の少女が“聖告”を受ける」
「そのとおり、よくご存知だ。クラリッサはその“聖女”だ」
ユリウスはクラリッサを見つめようとするが、俯いている彼女のつむじしか見えない。
一方、エーヴァルトは、視線を背けてもいいと思われるほど見縊られていることに気が付き、口に苛立ちを滲ませた。
「……数年前、我々はクラリッサの力を見出し、皇族へと迎え入れようとした。しかしもとより皇族に入るのが目的であったのだろう、以来彼女は誰も救おうとせず、“聖女”の力を求めて来る者から財を巻き上げるばかり」
そんなことはない。反論したかったが、体が震え、声すら出なかった。
「クラリッサは“聖女”の力を出し惜しみ、私達の懇願にも関わらず頑として誰の治療もしなかった、この帝国の宰相さえな。そして“聖女”の力を持ったまま姿を消した、この意味が分かるか?」
「……帝国は“聖女”の力が欲しいという話ですね」
「そのとおり“聖告”を受けるのはただ一人のみ――つまり帝国には“聖女”は二人生まれない。クラリッサが“聖女”の力を使わないのは勝手なことだが、しかし力を使ってもらわねば次の“聖女”が現れない」
「……なるほど、殿下のおっしゃることはよく分かりました」
そっと、ユリウスの手が肩の上に乗った。まるで引き渡そうとするかのようにその手には力が籠り、クラリッサはさらに顔を伏せた。
「例えば陛下が重要な公務の最中に急病に倒れた場合、それを他国に知られれば攻め入られる隙となるが、“聖女”がいればその心配はなく、むしろ他国にとって“聖女”という脅威を見せつける機会となる。応戦する騎士団も、“聖女”さえいればどんな傷も恐れなくていい。確かに、欲しいわけだ」
「さすが騎士団長、よく分かっている。クラリッサは帝国繁栄に不可欠だ」
エーヴァルトも、引き渡されようとするかのように一歩前に出た――が、ユリウスがその手を放すことはなかった。
「実にくだらない」
「……何?」
逆に、肩を抱き寄せ、庇うように自分の後ろにやる。
「そんな国など、滅んでしまえばいい」
「貴様何をッ――」
エーヴァルトが反駁のため口を開いた瞬間、タァンッと軽やかに眼前に刃が振り下ろされた。ユリウスの剣だ。あと一歩前に出ていれば、脳天から股まで貫かれていただろう。床に突き刺さった白刃は、エーヴァルトの前髪を数本散らしながら、怯えるエーヴァルトの姿を反射していた。
「一人から“聖女”の力が失われても、新たな“聖女”が現れるからそれでよい――そうして次々少女を食い潰すのか? 少女を食い潰すことは帝国にとってなんら損失ではないから構わないと? そのブラウスを悲しみの色に染めるから許せと? 馬鹿げている」
剣が引き抜かれ、切っ先がゆっくりとエーヴァルトの腹から胸までなぞった。身を震わせたエーヴァルトを、ユリウスは鼻で笑う。
「“聖女”が帝国に不可欠というのなら、この贅を尽くした体は帝国に不要だろう。王宮の飾りより川辺の土嚢《どのう》となるほうが有意義かもしれんな」
「き……貴様ッ……」
心臓に切っ先を突き付けられたまま、エーヴァルトは必死に喉を震わせ、激しく目と眉を動かした。
「私を誰と心得る! たかが一介の騎士団長が不敬であるぞ!」
「なるほど確かに、頭に不治の病を抱えていらっしゃるらしい。皇子殿下はお勉強なさらないのか、皇帝陛下は自ら御しきれないからこの地を辺境伯に任せ、その辺境伯もまた自ら御しきれぬがゆえに求めたのが我々騎士団であると」
その騎士団長ともなれば、皇子と名乗られたところで頭を下げ媚び諂うほど弱い立場にない。血筋の威厳が通用しないと分かったエーヴァルトは、壁紙よりもぴたりと壁に張り付いた。
「もちろん、今ここで無抵抗の貴様を切り捨てれば俺の首はない。だが大義名分をくれるのであれば喜んでお相手する」
騎士団長という肩書のみならず、鍛え抜かれた体躯は服の上からでも分かる。護衛は既に地に転がり、エーヴァルトを守ってくれるのは飾り剣のみだ。
「ッ……後悔、させてやるぞ」
「子々孫々かけて呪うのか? 日々震えながら鍛錬に励むとしよう」
ユリウスが剣を引き、しっかりと鞘に納めた後、エーヴァルトはその背を壁から剥がした。髪と肩についた埃を乱暴に払い、苦々し気に扉を蹴り上げて出て行った。
ずるっ、とクラリッサは足を滑らせ、そのままへたり込んだ。緊張の糸が切れ、立っていることができなくなったのだ。
ゆっくりと、ユリウスが振り向く。エーヴァルトと対峙していたときと変わらぬ目に射竦められると、余計に立ち上がることができなかった。
「……クラリッサ」
唇は、静かにその名を呼んだ。
「……“聖女クラリッサ”。君は“リサ”ではなく、クラリッサだったのか」
嫌われてしまう。胸に落ちたその不安が、波紋のように広がっていく。
それでも、今更「違う」などとは言えない。もう隠し通せない。
静かに頷いたが、ユリウスは黙ったままだった。
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