二等辺三角形プラス

蒲公英

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十八歳

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 卒業式の数日前からぼちぼちと登校日が増えて、しばらくぶりの同級生たちはあらかた進路が決まっていた。僕も東京の不動産会社からいくつか間取り図を送ってもらい、進学する大学の沿線にあるアパートの手続きを終わらせたところだ。
「真下」
 普段あまり喋ったことのないクラスメイトが僕の机の前に立ったとき、その顔に浮かぶニヤニヤ笑いに瞬間的に嫌悪感が沸いた。何か良くないことを言いたいのだと、その表情は言っていた。
「おまえと小笠原、どっちが女役なの?」
「どっちって、どっちも男だけど」
「ああいうのってよく知んねえけど、ネコとかタチとかいうんだろ。それとも変わりばんこか?」
 その下衆な表情が気持ち悪くて、早く机の前から退けたかった。言葉の意味がなんとなく理解できたのは、その表情と合わさったからだ。
「何、それ。僕はホモじゃないよ」
 待っていましたとばかりに、クラスメイトは声を大きくして、教室の真ん中に向かって言った。
「信じらんねえなあ。だって小笠原は、ホモだから家から追い出されるんだぜ。甥たちが危ないから、一緒に住ませらんないって」
 オガサーラが進学クラスでなくて幸いだった。おそらく僕の顔からは血の気が引いていた。
「いいかげんなこと、言うなよ」
「事実だぜ。あそこの家の下の子が、うちの姉貴の子供と同じ幼稚園なんだよ。兄さんの嫁さんが言ってるんだから間違いない。あのごっつい身体でオカマなんてよ、笑っちゃうよな。真下みたいにヒョロいのなんて、力ずくでやられてたって……」
 全部言い終わる前に彼の上半身が傾いで、そのまま横向きに倒れた。その後ろから、学生鞄を両手で持ったユーキが、もう一度腕を振り上げようとしていた。
 ユーキは普段、成績以外では目立たない。話しかけられれば受け答えはするけれど、無駄なことは言わずに自分の席で静かに本を読んでいる人だ。
「何すんだ、このブス!」
 体勢を立て直した男に、ユーキは怯まなかった。
「知らないとでも思ってるの? あんたが振られたのはマッシモのせいじゃない。失恋の腹いせに他人の噂話を使うその性格のせいだよ!」
 僕もクラスメイトたちも、ユーキが感情をあらわにしたのなんて、見たことはなかったと思う。
「えらっそうに言ってんじゃねえよ、淫乱女の娘が! どうせおまえも父親のわからない子供産むんだろうが」
 まだ尻をついたままの男の上に、机を倒したのは僕だった。そのときになって正気付いた教室の面々が間に割って入り、そうこうしているうちにホームルームの鐘が鳴った。僕は倒れた机を直し、ユーキは自分の席に戻る。クラスメイトたちは好奇と詮索が混じった空気で、僕とユーキを窺っていた。

 放課後までの数十分で、噂は早々と学年中に回ったらしい。いつも誰かしらと連れ立っているオガサーラは、自転車置き場でひとりでチェーンキーを外していた。
「オガサーラ」
 僕が声をかけると、広い背中が怯えたようにびくりと震えた。
「氷川神社に寄って行かないか。進路の報告会しようよ」
 腰を屈めたまま、オガサーラが僕をすくい見る。普段から丸い目は、戸惑ったように揺れた。
「いいのか」
「僕が誘ってるんだよ。行こう」
 自転車を並べて校門を出ると、何人かがそれを見てお喋りを止めた。腹立たしく思いながら、喧嘩を売って歩くこともできない。途中でひとりで歩くユーキを追い越し、鳥居の前に自転車を置いて、賽銭箱の前に並んで腰かけた。
 オガサーラは何も言わなかった。僕も何も言わなかった。鎮守の杜はまだ裸で、冷たい風を避けるためにマフラーを口元まで上げた。しばらく黙っていたオガサーラが口を開いたのは、もう手足が凍えたころだ。
「俺はおまえに、欲情したことなんてないよ」
「されたってお応えできませんな。僕はヘテロだから」
「そうか。俺はホモだよ。隠してたわけじゃない、言わなかっただけだ」
「性向なんて、普通は他人に言わない。オガサーラだって、僕の好みを知らないだろう? 僕は幼女好きだ」
「嘘だろ?」
「嘘だよ」
 そこでやっと笑いが出た。まだ気を使った小さな笑いだったけれども。

 鳥居を超えて、人が入ってきた。紺色のコートにスクールバッグを持ったユーキだった。
「ふたりが並んで帰ったから、ここだと思った。アタリで良かったよ、帰りはどっちかの後ろに乗せて」
 笑いながらコートの前を開けて、ポケットから缶コーヒーを三本出す。
「良いカイロだったけど、ポケットが重かった」
 束ねた長い髪を一振りして、座った僕たちに一本ずつ差し出す。
「卒業式まであと三日だもん。他人の生活ばっかり気にしてるイナカと、来週でやっとサヨナラできる」
 ユーキはユーキで、おそらくずっと身を潜めて生活してきたのだ。早くここを出たいと念じながら、ずっと時間をやり過ごしていた。
 僕だけが平和だったのだ。僕だけがぬくぬくと時間を過ごし、甘えた生活をしていた。その間ふたりは、傷ついたり苦しんだりしていたのに、気がついてやることさえできなかったのだ。それがひどく申し訳ないような気がした。
「オガサーラは再来週の火曜に移動だよね? 準備はできたの?」
「家電なんかは、辞めた人が置いてったの使えって。布団は買うけどね。だから身の回りのものだけかな」
「私は合宿所みたいな寮だから、ダンボールで送って終わり。行ったら翌日から二時起きだよ」
 月末に親と一緒に上京し、部屋の中を整えてもらう手筈の僕は、ふたりとはとても遠いところにいるようだ。
 ふと気がついて、ユーキに質問する。
「ユーキ、親には言ったの?」
「勤め先のスナック、辞めてた。どこにいるのかわかんないから、言いようがない。住民票はちゃんと移動させるから、追えるようにはしとく」
 とてもあっさりとした返事だけれど、追えるようにしておくという言葉が、探して欲しいと言っているようだった。冬の夜に母親が勤めているはずのスナックで、もう辞めたと告げられたユーキは、どんな顔をして聞いたのだろう。それを告げたスナックの人は、どんな口調で。憐れんだのか嘲笑ったのか、それとも鬱陶しそうに言ったのか。
 そのときのユーキを、抱きしめてやりたいと思った。

「やっと家から出られる」
 オガサーラが言う。
「汚物を見るような目も、腫れ物に触るような顔も、狂人扱いする口調もウンザリだ。俺は好きでこうなったんじゃない」
 普段は陽気なオガサーラが、吐き出すように口にする。
「だけどオガサーラは、別に他人の迷惑になってないだろ」
 何の慰めにもならなくても、何か言いたかった。
「世界が全部おまえみたいなら平和なのにな、マッシモ。大多数の人間は、自分と異質なものを無条件で受け入れるほど寛容じゃないんだ」
 それは僕も同じだと、心の中で呟く。僕はここに来るまでずっと、オガサーラが否定してくれることを望んでいた。オガサーラが認めてしまったので、仕方なく話を合わせただけ。偽善的な僕に巧く騙されてくれたのか、オガサーラが望むようにふるまえていたのか。でもそうやって話を続けなければ、三人のこれまでの日々がすべて壊れてしまうような気がした。
 このぎこちない時間、ユーキは不思議とニュートラルだった。それに気が付いたのはずいぶん後になってからで、あのときの僕は自分の中の処理で手いっぱいだった。

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