破れ鍋の使い道

蒲公英

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 渡辺健太は今、先輩と客先に向かっている。退社する先輩の顧客を引き継ぐためだが、大抵は同行したことのある会社で、頭を下げるだけだ。
「こんな会社、ありましたっけ」
「まあ、仕事自体はあまりないかな。建設って名前はついてるけど、どっちかって言えば不動産管理がメインだから、空調屋に発注なんて微々たるもんだ。でも、行く価値はあるぞ」
 篠宮建設と書かれた駐車場に白い社用車を止め、サイドブレーキを引いた先輩は、健太の顔を見た。
「かわいこちゃんがいるんだわ」
「なんか、古い言い回しっすね」
 自動ドアの前に立つ前に、ネクタイの結び目を確認した。あまり成績に結びつかないのなら、頻繁に来る必要はないなと思う。コンニチハーと入っていく先輩のあとからビジネスバッグを下げて歩く健太の顔に、やる気はまったくない。

「あ、こんにちは。呼んできますねー」
 そう言って立ち上がったのは、確かにかわいこちゃんだ。色白ぽっちゃり目元ぱっちり、つまりひと昔前風のと思った瞬間、カウンターから出てきた彼女の全身が目に入った。
 事務服のベストは、前だけ長さが足りない。手足はどちらかといえば、すんなりしている。階段に向かう彼女の尻を、思い切り見送った。気がつくと、先輩が健太を肘でつついている。
「おい、あからさま過ぎ」
「いや、だって」
 エロいじゃないですかという言葉を飲み込み、彼女に案内されてきた担当に挨拶した。お茶くらい飲んで行きなさいと接客スペースを勧められ、座ると彼女がコーヒーカップを運んでくる。
「この富田は、いつもカウンターに座ってるから」
 そう紹介されて、名刺を差し出すために立ち上がった。そのとき、彼女は呟いた。
「ワレナベ……」
 それからハッとしたように笑顔を浮かべ、自分は富田だと自己紹介した。
「渡辺さん、ですね。よろしくお願いいたします」
 身体の前で手を揃えると、胸が際立った。

 篠宮建設を辞してから、車の中で先輩が言う。
「知ってる子か?」
「いや、知りませんね。それにしても巨乳でしたねー」
「本人には言うなよ、セクハラだからな。おまえの顔見て、何か言ってたじゃないか」
「そうっすか?」
 彼女を観察するのに忙しくて、ぜんぜん覚えていない。
「川島部長だって、今日は機嫌良かったけど難しい人だから」
「誰ですか、川島部長って」
「名刺交換したろうが!」
 先輩はふんっと鼻で息を吐いた。
「富田さんの胸は確かにでかいけど、あのこがかわいいって言ったのは、それだけじゃないからな」
「奥さんに言いますよ」
「そういう意味じゃない! おまえの頭はそれしかないのか!」
 健太は肩を竦めて、座り直した。そんなこと言われたって、あの胸に目がいかない男はいないだろ。


 一方の富田莉乃は、茶碗を洗いながら川島部長と話していた。
「今度の担当、なかなかイケメンじゃないか」
「そうですね」
 外見はね、と心の中で付け足す。ここはひとつ初対面のふりをしておくに限る。どうせワレナベなのだから、教室の隅で漫画を読んでいた自分を、覚えているはずがない。自分自身の見た目は、ずいぶん変化している。成人式のときには、わからない人が多かったくらいだ。そしてそれから五年も経っているのだから、もう関心もなかった女子なんて見分けがつかないはず。
「年恰好も合うし、いいんじゃない?」
 川島部長は、年頃の娘には恋人がいるべきだと考える人だ。
「私、スラっと細い人より、ラグビー選手みたいな人が好きなんです」
「肉体派かぁ。職人でも紹介しようか?」
「結構です。自分で見つけます」
 小さい会社の人間関係は、近い。大手ならセクハラだと裁かれることでも、ここでは軽口として処理されるのだ。我慢ができなくなったら社長の奥さんに相談すると、いつの間にか解決している。
 たとえば、莉乃の胸のことについて。

 胸が大きくて、得したことなんて何もない。中学校まで楽しかった体育の時間は、高校に入ると苦痛になった。スポーツブラで押さえつけても目立つ胸が嫌で、真夏もジャージを着た。腕を上げると視線が胸に集中しそうで、打ち込んでいたバスケットボールは止めた。制服のシャツはいつもオーバーサイズで、肩と腕はブカブカだった。ニットのベストでも目立たないように、胸を張る必要のあるリュックとかショルダータイプのバッグは持てず、背を丸めているから常に肩が凝って、胸の下には汗疹ができた。
 それでも、言われるのだ。大きくていいなあ、くらいなら許容範囲だ。おっぱいが大きいと、頭が悪そうに見える。男に揉ませてるから育つんだ。それしか武器がないもんね。
 髪を後ろでひっつめ、学校の規定通りのスカート丈にして、鞄にアクセサリーもつけず、目立たないようにしていても、電車の中では知らない男に胸をまさぐられた。
 羨ましいんなら、この胸とあなたの胸を交換してちょうだい。揉まれたら育つのなら、あなたが実証してみせてよ。そう、何度言おうと思ったことか。

 変われたのは、専門学校に入ってからだった。莉乃の定番ファッションだったオーバーサイズのTシャツにスキニーなジーンズは、若い女の子ばかりの中では意外に異質で、仲良くなった女の子からチェックが入ったのだ。
「何やってんの、せっかく長い足まで隠して」
「だってウエスト締めると、胸が……」
 言葉尻を濁した莉乃に、女友達は呆れた顔をしてみせた。
「そんなときのための着せ替えごっこでしょうが。バイト料入ったら、買い物に行くよ」
 そんなこんなで楽しみにしていたデザフェス資金をファッションに注ぎ込み、莉乃の服装は劇的に変わった。それに合わせて化粧をするようになったら、面白いことに痴漢の被害が減り、それでやっと背筋を立てて歩けるようになったのだ。サイズの小さいスポーツブラで潰すよりもサポートしてくれる下着のほうがすっきり見えるとか、胸の大きい人用のブランドがあるとか、やっと人並みに情報収集しはじめると、おしゃれすることが楽しくなった。
 コンプレックスも不自由も、なくなったわけじゃない。けれど自分にどうしようもないことで、グズグズ悩みたくなくなっただけ。
 そりゃあ加齢への恐怖はあって、胸が垂れないように努力が必要だ。もともとが父方の祖母からの遺伝であったらしく、その姿を考えれば必要な手は打っておいたほうがいい。つまり、胸筋と背筋のトレーニングを寝る前の習慣にしている。

 それにしても、さすがはワレナベ。莉乃がお茶を出している間中、胸だけを見ていたことに気がつかないとでも思っているのか。外見しか価値のない男だと言われていただけのことはある。教室の窓から顔を出して校庭に響き渡るような声で、セックスしてえええ! と叫び、体育教官室に引き摺られて行ったことは、成人式のときも話のタネになっていた。
 まあ、いいや。初雁空調さんなら、年に何回も仕事があるわけじゃない。まして工事自体は現場だから、営業さんが来ることはもっと少ない。だから奴が自分を思い出さなければ、それで万事解決。
 ……それじゃ話がはじまらない。
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