肩越しの青空

蒲公英

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熊には乗ってみよ 3

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「ザリガニって、あの赤い……」
「青いザリガニも売っちゃあいるけど、その辺にはいないな」
 梅雨も終わりかけのある日、先輩に誘われたのはザリガニ釣りだ。何故、ザリガニ。
「保育園の夏祭りで、ザリガニ釣り担当なんだ。目標、100匹」
「買ってくればいいじゃない!」
「そんな予算、ないの。お菓子と飲み物だって、量販店で買ってきてチケット売るんだから」

 ちょっと街を出れば広がる田園風景。母の庭仕事用の布の垂れた麦藁帽子と、UVカットのパーカーは必須だ。イカの燻製を糸に括りつけ、農業用の溜池の淵に腰掛けるあたしと熊。
 まさか20代も半ばになって、ザリガニ釣りをするとは思わなかった。先輩はクーラーボックスの中に、ペットボトルとサンドウィッチを持参したピクニック仕様だ。一言で「つまんない」とは言えない程度には、楽しそう。

 ザリガニは面白い程簡単に釣れた。子供の頃に何度か、釣ったことはある。そのあと飼った記憶はないから、母がどこかに放流しに行っていたのかも知れない。
 梅雨の晴れ間にしては、晴れ上がった日だ。
「あっつぅ……」
 Tシャツの袖を肩にたくし上げ先輩が、太い腕をむき出しにして、せっせとザリガニを釣る。日焼けは半袖、筋肉の束が上腕の途中でツートーンカラーになる。
「子供たち、喜ぶといいねえ」
「喜ぶさ。俺も子供の頃、ザリガニが好きだった。子供の本質ってのは、そんなに変わらないよ」
 糸に燻製を結び直す熊は、きっと自分が一番楽しんでるんだと思う。

「うわ、二匹もいっぺんに釣れてる!」
「どれ、貸してみろ。ああ、大物だなあ」
 あたしの後ろから屈みこんだ先輩の肩越しに見えるのは、きれいな青空。目尻にいっぱい皺を寄せた先輩が、あたしから糸を受け取る。
 この顔、いいなあ。

 大きな衣装ケースに釣れたザリガニを入れて、先輩の持ってきた昼ごはんを一緒に食べた。
「ふたりだと、さすがに早いな。助かった」
「別に、あたしの意思じゃないもん。でも、結構楽しかった。汗だらけだけど」
 隣に座ってる先輩の顔は、気持ち良いくらいの上機嫌。ニヤニヤ笑いも皮肉っぽい口調も、どこにも出て来ない。
 もしかしたら先輩も、あたしと喋るのに緊張してた? だって今日のほうが自然だよ。

「こういうの、汚いとかダサいとかって言わなかったな」
「え?」
「ザリガニ釣りなんてくだらない、とは言わないね」
 くだらないなんて言ったら、子供の頃の自分や、楽しみにする保育園の子供たちの否定になるじゃないの。
「そう言われたことがあるの?」
「保護者の中にはね、そう言って子供にさせない人もいるの。静音がそうじゃなくて、良かった」
 肩に手を回されると、暑い。文句を言いながらも、手を振り払ったりはしなかった。今日は呼び捨てされても、違和感ないね。

 ザリガニ入りの衣装ケースを載せて車で送ってもらう途中、ウトウト眠くなった。時間にして10分そこそこの場所だ。
「おい、到着」
 知らない駐車場を見回して、どこなんだろうと首を捻った。
「俺のアパート。先にザリガニ降ろしてから送るから、ちょっと寄ってけ」
 男のアパートに無防備に入るほど、未経験じゃない。

「警戒するなよ、下心はないから。冷たいものくらい、飲んでけ」
 車のエンジンを切ってさっさと歩き出しちゃった先輩の背中を、しばらく見ていた。そのまま送らなくても良いからと帰っちゃおうかな、なんて思ったんだけど、そうすると下心を疑ってるみたい。
 よしんばそうなんても、別にハジメテってわけじゃないし、酒のイキオイとかじゃないし。自分で自分に言い聞かせ、動き出したのは先輩が駐車場を抜ける頃だ。

 古いアパートの中は、こざっぱりと片付いていた。男の一人暮らしなのに、服が脱ぎ散らかしてあったり雑誌が散乱していたりしない。シャツを着替えた先輩が、ペットボトルのお茶とグラスを出してくる。
「暑かったのに、つきあわせちゃって、悪かったなあ」
「ううん。なんか懐かしくて、楽しかった」
 エアコンのスイッチを入れ、先輩は大きく伸びをした。
「俺も楽しかった」

 部屋の隅に、古い型のミシンがあった。縫い物って、本当だったのか。あたしの視線に気がついて、先輩もそちらを見る。
「実家で新しいの買ったって言うから、もらったんだ。けっこう便利」
 あたし、ミシンなんて何年使ってないだろう。そう言えば、持ってきたサンドウィッチも買った風じゃなかった。
「先輩って、もしかしたらすっごくマメ?」
「エンゲル係数が高いから、自炊は必須なんだ。縫い物はオプション。いい買い物だろ?」
「確かにね」
 女の子なら、可愛い奥さんに欲しいタイプかも。フリルのエプロンで、「おかえりなさーい」なんてね。自分の連想に吹き出し、先輩の顔を見たら笑いが止まらなくなる。
「そんなにおかしいか?」
「いや、他の連想っ……」
 駄目だ、言葉が続かない。

「まったく、俺が何かするって言うたびに笑う人だな」
「だって、何かの絵本みたいじゃない。熊のお母さんがエプロンしてレードル持って」
 悪いけど、笑いが止まらなくてむせかえる。しょうがないなーなんて言いながら、先輩も怒った顔じゃない。
「意外性があって、飽きなくていいだろ」
 エアコンが効いてきて、部屋の中の空気が気持ち良い。

 板張りの引き戸で区切られて、もうひとつ部屋がある。そちら側は寝室だろうか。そう思ったら、急に落ち着かなくなった。別に、先輩があたしの肘を掴んで、そこに引っ張り込むなんて想像をしたわけじゃない。
 えっと、今日、下着何つけてたっけ。違う違う! 見せる気なんてないんだってば、汗いっぱい掻いてるし!……汗臭くなければ良いとでもいうの? そんなわけあるか。

 先輩の腕が急に伸びてきて、思わずびくっと反応してしまった。
「お茶、もう一杯飲む?」
「あ、ありがと」
 グラスを渡して、明後日の方を向く。あ、やだ。あたし今、すっごく不自然。

「なんだか、そわそわしてんなあ」
 ニヤニヤ笑ってる先輩の顔が急に視界から消えたと思ったら、真横にあった。
「下心はないって言っただろ?俺、気は長いんだ」
 それならば、肩にかかってる腕は一体何なのでしょうか。
「静音の準備ができてからで、まったく構わない。どうせその後、何十年もあるんだから」
「何十年もっていうのこそ、決まってないから!」
「決まってんの」

 先輩の腕があたしの腰を引き寄せ、顔が覆いかぶさってくる。何度も掠るだけの唇に焦れて、先輩の首に腕をまわしたのはあたしだ。
 もう少し、深く触れてもいい。閉じた目の奥で、さっき肩越しに見た青空が蘇る。あの空の底の色を、あたしは知らない。
 熊には乗ってみよ、人には添うてみよ。とりあえず、はじめてみよう。
 先輩の部屋から出て車で送ってもらう最中、あたしは次の待ち合わせを先輩に提案していた。
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