肩越しの青空

蒲公英

文字の大きさ
11 / 28

熊には乗ってみよ 3

しおりを挟む
「ザリガニって、あの赤い……」
「青いザリガニも売っちゃあいるけど、その辺にはいないな」
 梅雨も終わりかけのある日、先輩に誘われたのはザリガニ釣りだ。何故、ザリガニ。
「保育園の夏祭りで、ザリガニ釣り担当なんだ。目標、100匹」
「買ってくればいいじゃない!」
「そんな予算、ないの。お菓子と飲み物だって、量販店で買ってきてチケット売るんだから」

 ちょっと街を出れば広がる田園風景。母の庭仕事用の布の垂れた麦藁帽子と、UVカットのパーカーは必須だ。イカの燻製を糸に括りつけ、農業用の溜池の淵に腰掛けるあたしと熊。
 まさか20代も半ばになって、ザリガニ釣りをするとは思わなかった。先輩はクーラーボックスの中に、ペットボトルとサンドウィッチを持参したピクニック仕様だ。一言で「つまんない」とは言えない程度には、楽しそう。

 ザリガニは面白い程簡単に釣れた。子供の頃に何度か、釣ったことはある。そのあと飼った記憶はないから、母がどこかに放流しに行っていたのかも知れない。
 梅雨の晴れ間にしては、晴れ上がった日だ。
「あっつぅ……」
 Tシャツの袖を肩にたくし上げ先輩が、太い腕をむき出しにして、せっせとザリガニを釣る。日焼けは半袖、筋肉の束が上腕の途中でツートーンカラーになる。
「子供たち、喜ぶといいねえ」
「喜ぶさ。俺も子供の頃、ザリガニが好きだった。子供の本質ってのは、そんなに変わらないよ」
 糸に燻製を結び直す熊は、きっと自分が一番楽しんでるんだと思う。

「うわ、二匹もいっぺんに釣れてる!」
「どれ、貸してみろ。ああ、大物だなあ」
 あたしの後ろから屈みこんだ先輩の肩越しに見えるのは、きれいな青空。目尻にいっぱい皺を寄せた先輩が、あたしから糸を受け取る。
 この顔、いいなあ。

 大きな衣装ケースに釣れたザリガニを入れて、先輩の持ってきた昼ごはんを一緒に食べた。
「ふたりだと、さすがに早いな。助かった」
「別に、あたしの意思じゃないもん。でも、結構楽しかった。汗だらけだけど」
 隣に座ってる先輩の顔は、気持ち良いくらいの上機嫌。ニヤニヤ笑いも皮肉っぽい口調も、どこにも出て来ない。
 もしかしたら先輩も、あたしと喋るのに緊張してた? だって今日のほうが自然だよ。

「こういうの、汚いとかダサいとかって言わなかったな」
「え?」
「ザリガニ釣りなんてくだらない、とは言わないね」
 くだらないなんて言ったら、子供の頃の自分や、楽しみにする保育園の子供たちの否定になるじゃないの。
「そう言われたことがあるの?」
「保護者の中にはね、そう言って子供にさせない人もいるの。静音がそうじゃなくて、良かった」
 肩に手を回されると、暑い。文句を言いながらも、手を振り払ったりはしなかった。今日は呼び捨てされても、違和感ないね。

 ザリガニ入りの衣装ケースを載せて車で送ってもらう途中、ウトウト眠くなった。時間にして10分そこそこの場所だ。
「おい、到着」
 知らない駐車場を見回して、どこなんだろうと首を捻った。
「俺のアパート。先にザリガニ降ろしてから送るから、ちょっと寄ってけ」
 男のアパートに無防備に入るほど、未経験じゃない。

「警戒するなよ、下心はないから。冷たいものくらい、飲んでけ」
 車のエンジンを切ってさっさと歩き出しちゃった先輩の背中を、しばらく見ていた。そのまま送らなくても良いからと帰っちゃおうかな、なんて思ったんだけど、そうすると下心を疑ってるみたい。
 よしんばそうなんても、別にハジメテってわけじゃないし、酒のイキオイとかじゃないし。自分で自分に言い聞かせ、動き出したのは先輩が駐車場を抜ける頃だ。

 古いアパートの中は、こざっぱりと片付いていた。男の一人暮らしなのに、服が脱ぎ散らかしてあったり雑誌が散乱していたりしない。シャツを着替えた先輩が、ペットボトルのお茶とグラスを出してくる。
「暑かったのに、つきあわせちゃって、悪かったなあ」
「ううん。なんか懐かしくて、楽しかった」
 エアコンのスイッチを入れ、先輩は大きく伸びをした。
「俺も楽しかった」

 部屋の隅に、古い型のミシンがあった。縫い物って、本当だったのか。あたしの視線に気がついて、先輩もそちらを見る。
「実家で新しいの買ったって言うから、もらったんだ。けっこう便利」
 あたし、ミシンなんて何年使ってないだろう。そう言えば、持ってきたサンドウィッチも買った風じゃなかった。
「先輩って、もしかしたらすっごくマメ?」
「エンゲル係数が高いから、自炊は必須なんだ。縫い物はオプション。いい買い物だろ?」
「確かにね」
 女の子なら、可愛い奥さんに欲しいタイプかも。フリルのエプロンで、「おかえりなさーい」なんてね。自分の連想に吹き出し、先輩の顔を見たら笑いが止まらなくなる。
「そんなにおかしいか?」
「いや、他の連想っ……」
 駄目だ、言葉が続かない。

「まったく、俺が何かするって言うたびに笑う人だな」
「だって、何かの絵本みたいじゃない。熊のお母さんがエプロンしてレードル持って」
 悪いけど、笑いが止まらなくてむせかえる。しょうがないなーなんて言いながら、先輩も怒った顔じゃない。
「意外性があって、飽きなくていいだろ」
 エアコンが効いてきて、部屋の中の空気が気持ち良い。

 板張りの引き戸で区切られて、もうひとつ部屋がある。そちら側は寝室だろうか。そう思ったら、急に落ち着かなくなった。別に、先輩があたしの肘を掴んで、そこに引っ張り込むなんて想像をしたわけじゃない。
 えっと、今日、下着何つけてたっけ。違う違う! 見せる気なんてないんだってば、汗いっぱい掻いてるし!……汗臭くなければ良いとでもいうの? そんなわけあるか。

 先輩の腕が急に伸びてきて、思わずびくっと反応してしまった。
「お茶、もう一杯飲む?」
「あ、ありがと」
 グラスを渡して、明後日の方を向く。あ、やだ。あたし今、すっごく不自然。

「なんだか、そわそわしてんなあ」
 ニヤニヤ笑ってる先輩の顔が急に視界から消えたと思ったら、真横にあった。
「下心はないって言っただろ?俺、気は長いんだ」
 それならば、肩にかかってる腕は一体何なのでしょうか。
「静音の準備ができてからで、まったく構わない。どうせその後、何十年もあるんだから」
「何十年もっていうのこそ、決まってないから!」
「決まってんの」

 先輩の腕があたしの腰を引き寄せ、顔が覆いかぶさってくる。何度も掠るだけの唇に焦れて、先輩の首に腕をまわしたのはあたしだ。
 もう少し、深く触れてもいい。閉じた目の奥で、さっき肩越しに見た青空が蘇る。あの空の底の色を、あたしは知らない。
 熊には乗ってみよ、人には添うてみよ。とりあえず、はじめてみよう。
 先輩の部屋から出て車で送ってもらう最中、あたしは次の待ち合わせを先輩に提案していた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

無表情いとこの隠れた欲望

春密まつり
恋愛
大学生で21歳の梓は、6歳年上のいとこの雪哉と一緒に暮らすことになった。 小さい頃よく遊んでくれたお兄さんは社会人になりかっこよく成長していて戸惑いがち。 緊張しながらも仲良く暮らせそうだと思った矢先、転んだ拍子にキスをしてしまう。 それから雪哉の態度が変わり――。

元遊び人の彼に狂わされた私の慎ましい人生計画

イセヤ レキ
恋愛
「先輩、私をダシに使わないで下さい」 「何のこと?俺は柚子ちゃんと話したかったから席を立ったんだよ?」 「‥‥あんな美人に言い寄られてるのに、勿体ない」 「こんなイイ男にアピールされてるのは、勿体なくないのか?」 「‥‥下(しも)が緩い男は、大嫌いです」 「やだなぁ、それって噂でしょ!」 「本当の話ではないとでも?」 「いや、去年まではホント♪」 「‥‥近づかないで下さい、ケダモノ」 ☆☆☆ 「気になってる程度なら、そのまま引き下がって下さい」 「じゃあ、好きだよ?」 「疑問系になる位の告白は要りません」 「好きだ!」 「疑問系じゃなくても要りません」 「どうしたら、信じてくれるの?」 「信じるも信じないもないんですけど‥‥そうですね、私の好きなところを400字詰め原稿用紙5枚に纏めて、1週間以内に提出したら信じます」 ☆☆☆ そんな二人が織り成す物語 ギャグ(一部シリアス)/女主人公/現代/日常/ハッピーエンド/オフィスラブ/社会人/オンラインゲーム/ヤンデレ

突然婚〜凄腕ドクターに献上されちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
突然婚〜凄腕ドクターに献上されちゃいました

年齢の差は23歳

蒲公英
恋愛
やたら懐く十八歳。不惑を過ぎたおっさんは、何を思う。 この後、連載で「最後の女」に続きます。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

屋上の合鍵

守 秀斗
恋愛
夫と家庭内離婚状態の進藤理央。二十五才。ある日、満たされない肉体を職場のビルの地下倉庫で慰めていると、それを同僚の鈴木哲也に見られてしまうのだが……。

コワモテ軍人な旦那様は彼女にゾッコンなのです~新婚若奥様はいきなり大ピンチ~

二階堂まや♡電書「騎士団長との~」発売中
恋愛
政治家の令嬢イリーナは社交界の《白薔薇》と称される程の美貌を持ち、不自由無く華やかな生活を送っていた。 彼女は王立陸軍大尉ディートハルトに一目惚れするものの、国内で政治家と軍人は長年対立していた。加えて軍人は質実剛健を良しとしており、彼女の趣味嗜好とはまるで正反対であった。 そのためイリーナは華やかな生活を手放すことを決め、ディートハルトと無事に夫婦として結ばれる。 幸せな結婚生活を謳歌していたものの、ある日彼女は兄と弟から夜会に参加して欲しいと頼まれる。 そして夜会終了後、ディートハルトに華美な装いをしているところを見られてしまって……?

なし崩しの夜

春密まつり
恋愛
朝起きると栞は見知らぬベッドの上にいた。 さらに、隣には嫌いな男、悠介が眠っていた。 彼は昨晩、栞と抱き合ったと告げる。 信じられない、嘘だと責める栞に彼は不敵に微笑み、オフィスにも関わらず身体を求めてくる。 つい流されそうになるが、栞は覚悟を決めて彼を試すことにした。

処理中です...