Time goes by

蒲公英

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軒端に揺れる

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 いつか、愛し合おう。

  そんな気障な言葉を残して、私の前から姿を消した男がいる。姿だけじゃなくて、私から連絡もできなくなった。言葉の意味を問いたいのに、私に何か望んでいるのか訊きたいのに、一方的に生存確認の絵葉書が届くだけだ。青森から、遠野から、松山から、安曇野から。
  一体何してるんだ、あの男は。どういうつもりで、あんな言葉を残したんだ。

  そんな言葉を当てにして、ロマンチックな妄想だけを抱えているほど私も初心くないし、ちゃんと年齢に従って恋もする。いつかなんて曖昧な言葉よりも、もっと重要なことがある。私と奴は恋人同士だったことはないのだ。
  四年間延々と付き合ったのは探検サークルなんて遊び場と、お互いの成績向上のための情報のやりとりと、浴びるほどに呑んだ酒の後の雑魚寝だけ。酔っぱらって一人で奴の部屋に泊まってしまっても、手を出すどころかキッチンに毛布一枚で放置された。

  いつか、ですって? いつかとお化けは来ませんよ。賞味期間の短い女の旬に、誰が意味のわからない言葉に縛られてるもんか。世間には男がたくさんいるのだから、生きてるって情報しかない男なんて何の役にも立たない。だからあれはあくまでも記憶の言葉だったし、大抵の場合は忘れている。
  そうしてまた、忘れていることすら忘れたころに葉書が届くのだ。

  元気か? こっちは今、サビタの花が満開だ。アイヌの伝説ではサビタの花が枯れ落ちるまでと恋人を待つ男の話があるけど、この花は落ちない。この葉書はまだ届いてるか? 届いてるんなら、またいつか。

  見覚えのある角ばった癖字が、写真の下に踊る。写真の下……そうか、この絵葉書は手製なんだな。今までは市販の絵葉書だったのに、白い花の写真を自分で撮ったのか。光と影のバランスが美しく、雨上がりの水滴を落としそうな葉の上で、蝶みたいな花が群れている。あいつはこんな写真を撮る男だったのか。
  卒業式の後、みんなで呑みに繰り出した。もう会社の研修に入っている人もいれば、就職が決まらずに焦った顔をしている人もいた。あいつはニヤニヤしながら、ここから通える職場だから金が溜まったらマンション借りるんだー、とか言ってた。

 「あいつ、メーカー蹴ってどこ行ったんだ」
  誰かのそんな言葉を聞くまで、私はヤツがまだ、近所に住んでいるのだとばかり思っていた。
 「メーカー蹴ったって?」
 「せっかく良い就職先が決まってたのにさあ。やっぱり性に合わないとか言い出して、アパート引き払って。実家に帰ったってわけじゃなさそうだし、行方不明なんだわ」
  慣れないネクタイを緩めながら、サークル仲間は言った。
 「へ? メールとかは?」
 「一回だけ返ってきたよ。しばらく留守する、なんてな」
  しばらく留守なんて曖昧な言葉は、せいぜい数か月のことだと仲間たちは考えた。気まぐれな男だから、ふらっと戻ってきて当たり前のように仲間に加わるものだとばかり。

  いなくなってから三ヶ月ほど経っていただろうか。ひらりと一枚、葉書が届いた。今時メールじゃない連絡方法が珍しくて、差出人の名前に驚いた。
  司、と一文字だけの署名には、見覚えがある。深い森の写真の絵葉書には、一言だけ書いてあった。

  いつか、愛し合おう。

  消印は青森県。だけど差出人住所はない。恋を打ち明けた文章でもないし、いつ帰るとも書いてない。未然形で放り投げられた葉書の意味は、まったくわからない。
 「へーんなヤツ」
  へらへら笑う司の、何を考えているのか読めない表情が浮かんだ。何がどうなって、私たちと同じ道を選ぶのを止めたのか。誰も知らないし、何も聞いていない。実家の住所を知っている人間もいない。いつでも連絡の取れるツールを持つ私たちには、いらない情報だったから。

  そのまま司は帰って来なかった。時々会う仲間たちと、どうしただろうねえなんて話題になることはあっても、社会に出たばかりの私たちには覚えることや馴染まなくてはならないことが多すぎて、連絡することもできない友達のことばかりを考えてもいられない。
  確認したわけではなくても、私以外にもひらりと絵葉書を出すようなことをしているのだと、漠然とそう思っていた。だから司の葉書のことは、誰にも言わなかった。

  半年もしたころ、また司から葉書が届いた。古い街並みを背景に、雪の中を番傘で歩く人の写真だ。これは、金沢からのもの。

  元気か。日本海に雪が降るのを眺めた。加賀百万石ってのはよくわからないが、豊かな場所だったのは感じられる。空気にも匂いがあるものなんだな、なんてね。ここは酒も魚も旨い。じゃあな。

  元気かと訊かれても、応える相手がどこにいるのかわからない。金沢へは旅行? 青森にいたんじゃないのかしら。消印だけの居所に、つい話しかける。
 「バカ。何してんのよ」
  それだけのことで、司はまた私の視界から消えてしまう。待っているわけじゃないし、顔も見えない相手ならいないも同じだ。私は毎日仕事に行き、時々酒を飲み、図書館で借りた本を読む。その日常の中で知り合いを増やして、学生時代の仲間たちと会う機会は減っていく。図書館で知り合った男と恋をして、楽しく関係を構築している最中に、今度は仙台から葉書が届く。

  つい一週間前に別れたみたいな、軽い挨拶の言葉。大きな意味は持っていなさそうな、つぶやきめいた文章。投函場所はいつも違う地方都市で、何をしているのかさっぱりわからない。こちらは一人前の社会人になったつもりでいるのに、葉書から漂ってくるのは学生時代のままの司の顔だ。
  別に変わった男じゃなかった。同じように学生生活を送った仲間たちと同じように卒業し、同じように普通の会社員になって、多分普通の家庭を築く。司がそうであったら、疑問を抱く人間なんて誰もいなかったろう。むしろ、姿を見せなくなったことが不自然だ。

  勤め帰りに居酒屋で待ち合わせる仲間たちは、スーツ姿になっている。その中に当然司もいるはずだった。いや多分、彼がひょいっと戻ってきて、何食わぬ顔でネクタイを締めて混ざっていても、誰も不自然に思わないだろう。久しぶりだなあ、くらいの会話で普段通りの顔で酒を飲むような気がする。
  私たちが変化するタイミングと彼が消えたタイミングは同じだから、気にかける人が少なくなるのは当然の成り行きだ。名前の出る回数は、集まりごとに減っていく。集まる回数自体が減っていくのと同じように。

 「司に会ったぞ」
  卒業して三年近く経ってから、誰かがそんなことを言った。
 「どこで?」
 「生きてんのか、あいつ」
  会ったという男の子は、笑っていた。
 「出張で小樽の運河の方歩いてたら、向かい側から手ぇ振ってる奴がいてさ。こっちは取引先と同行してるし、今何してるんだとか聞けなくて、アドレス変わってないから連絡しろよって言ったら、気が向いたらなって言うの。その後一回だけメールが来たな。みんなによろしくって」
 「どんな感じだった?」
 「三年前のまんまだよ。細いデニムに短いブーツ履いて、へらへら笑ってんの」

  葉書から受ける印象は、間違っていなかったのか。就職活動で飛び回っていたとき、司のスーツ姿もちゃんと見たはずなのに、ちっとも覚えていない。私は私のことで精一杯で、多分みんな同じようだったんだと思う。もしかしたら、司は司なりに何か思い悩むことがあって、誰にも相談せずに姿を消したんだろうか。
 「でも、生きてることがわかって良かったじゃない」
  ビールをオーダーしていたら、そんな言葉を聞いた。
 「え? 定期的に葉書が来るじゃない。住所書いてないけど」
  そう言うと、みんな驚いた顔になった。

 「奈緒のとこには連絡が来てるの? いつから?」
 「どこにいるか、おまえは知ってたの?」
 「司と奈緒って仲良かったっけ?」
  一斉に来る質問で、私にだけ葉書が届いていることを知った。重ねて言うけれど、私と司は特別に仲が良かったわけじゃない。みんなと同じ普通のサークル仲間で、お遊びの鍾乳洞探検や山登りと、打ち合わせや打ち上げと称した飲み会を繰り返しただけ。全部仲間内の括りの中でのつきあいしかなかったと思う。
 「みんなと一緒程度、だと思う。なんで私にだけ来るんだろう」
  司の考えることはわからないと、数人で首を傾げた。



  ある日の夜中、枕元でスマートフォンが鳴った。ここのところ誰との連絡もSNSで、通話でなんかやりとりする人は少ない。もしや実家で誰かが倒れたかと発信人を見て、驚いて飛び起きた。
  隣で眠っている恋人が、寝返りを打つ。そちらを横目で見ながら、通話ボタンを押した。
 『電話番号、変わってなかったな』
  何年かぶりの声なのに、聞いた瞬間に時間が戻る。変わらない声と変わらない喋り方。大学近くの居酒屋で偶然会ったみたいな、気楽な口調。
  会いたいと思っていたわけじゃないのに、懐かしさが胸から溢れた。
 「何、してんの。どこにいるのよ?」

  動揺が、責める口調に変わる。目を覚ました恋人が寝惚けた顔でこちらを向いているのが見えて、慌てて声を小さくした。
 『あ、誰かいるの?』
  私のくぐもった声を受けて、司も少し声をひそめる。
 『もしかして、旦那?』
 「その前段階……ってか、あんたは一体何なのよ。みんな心配してんのに」
  くくっと小さく笑う声。
 「心配じゃなくて、酒のアテにしてただけだろ?」
  素直じゃない、ひねった返事が学生くさい。顔なんか見えない電話なのに、無精ひげが浮いたままで登校する司が浮かんでしまう。
  電話の後ろで、水が流れる音が聴こえた気がする。
 「今、どこにいるの?」
 『ちっちゃい神社の境内。湧水があってさ、水が汲めるようになってる』

  そのとき布団から恋人が起きだしてきて、声を発した。
 「何、友達? 非常識な時間だなあ」
  通話相手に聞かせるためのトーンを抑えない声に、慌ててマイク部分を塞いだ。
 「ごめん、うるさかった? 久しぶりの友達だから、つい」
 「明日仕事だってのに、なんでこんな時間に起こされなくちゃならないわけ?」
  ぶつぶつ言う声を背中に、寝室を出てキッチンの隅に座った。
 「もしもし司、ごめんね、今――」
  通話は切れていて、慌ててしたコールバックに応えたのは、繰り返す呼び出し音だけだった。

  カーテンの隙間から、外を見た。満月から少し欠けた月がある。この月を、知ってる。あれはもう、就職活動がはじまっていた。
  誰かがどこかから、笹を持ってきた。空き地に生えていたと言っていたけれど、どこかの家の私有地に無断で入って切り出したんだろう。街中では考えられないことだろうけれど、この辺りではそうやって管理を投げ出している土地がまだ存在する。
――七夕やろうよ。みんなで短冊書いて、願い事しよう。
  夜の公園で丸くなって座り、各々が自分のルーズリーフを切って、勝手な願い事を書いた。
――糸、誰か持ってない? 短冊下げるの。
――裁縫道具持って歩くような女なんて、ここにはいないんじゃない?
  紙縒で結ぼうと言ったのは、確か私だった。年寄りくさいものを思いつくと、笑われた記憶がある。ティッシュを裂いて、縒り方を仲間たちに教えた。小さい頃に、祖母に教えてもらった手の形で。

  あの笹は、通りすがりの居酒屋の軒下に立ててきたんだった。看板を仕舞った後の居酒屋の、ノボリ旗を立てるスタンドにさしてきた。ノリの良い店主だったのか、翌日に短冊は五色になり、折り紙飾りを増やされて、居酒屋の入り口にしっかり縛られていた。全員でお礼を言いに行って、その場で飲んで騒いで、閉店だからと追い出されて。
  ああ、あれが最後のバカ騒ぎだったかな。居酒屋から出て見上げた空には、梅雨の合間に晴れた日の星と、満月から少し欠けた月があった。


  ほどなく、私は恋人と別れた。別に司が原因じゃない。司からの電話はあの一回だけで、こちらからの呼び出しに応えることもなかった。だから司は相変わらず、生きていることは知っていても姿の見えない人で、私の生活の中に存在はしていない人、だった。
  恋人とはいくつかの齟齬が重なり一緒にいるのが辛くなったところで、彼は私の部屋から自分の荷物を引き上げ、彼の部屋の私の荷物を送って寄越した。泥沼な別れではなく、お互いに納得した終わりだったと思う。
  けれど、と思うのだ。たとえば仕事でしくじって気持ちを誤魔化すこともできずにいるときに、齟齬した相手でも誰かがいれば、感情をどうにか取り繕える。他人と感情をシェアすることに慣れてしまったあとに、一人になるのは辛い。泣くような気分のときに本当に涙をこぼすと、自分に自分が煽られて、世界中にたった一人になった気がする。

  いつか、愛し合おう。

  一番初めに来たときと同じ文面でもう一度届いた葉書の消印は、県内だった。おそらく手製の絵葉書には、満開の桜だ。司がいなくなってから、もう四年も経っていた。今ではサークル仲間で集まることもめっきり減り、転勤で会えなくなったり結婚して夜の外出が難しくなった人もいる。
  記憶の司は、まだ同じ顔をしている。寝癖のついた髪をキャップでおさえ、バックパックを背負った姿で街を歩いている想像しかできない。
 「どういうつもりよ、もう」
  写真を眺めて、桜の背景が知っている場所であることに気がついた。大学の近くの公園だ。ここに缶ビールとつまみを持ち寄って、花見をしたことがある。ビールの缶で缶蹴りと言い出したのは誰だったのか。夜中まで大声ではしゃいで、通報を受けた警察官に注意されたんだっけ。七夕の笹飾りをしたのも、ここだった。

  これは、いつの写真? 今年の桜だとしたら、司は近くにいるってことなの? 連絡の一本もくれれば、みんなで集まるのに―――司が戻っているからといって、集まれる人がどれくらいいるんだろう。あの頃一緒に騒いだ仲間は、誰と誰だった?
  学生時代の繋がりは、思ったよりも儚い。内容を思い出せないお喋りよりも自分の生活の方が重くなったのは、いったいいつからなんだろう。
  だめだよ、司。誰もあんたのことを、待ってたりしてない。あんたがどういうわけだか私にくれる葉書だって、ちらっと思い出す程度の生存確認なんだから。愛し合おうなんて言葉で印象付けようとしたって、もうだめ。存在を感じられない人に強く反応するほど、私たちは子供じゃなくなった。

  通り掛かった夜の軒先に青々とした笹が見えた気がして、思わず引き返した。あの店は確か、悪ふざけで笹を置いてもらった店だ。あの後毎年置いてくれていたのかしら? まさかね。笹は数日で萎れてしまうから、毎年切り出さなくてはならないもの。個人の居酒屋だから、昼から仕込みに忙しいはず。それとも、私たちみたいに誰かが置いて行ったのかしら。
  女一人で居酒屋に入るのは、少し勇気がいる。こんな風に思い出と道連れじゃなければ、私も家に帰って一人で夕食にすると思う。
 「いらっしゃい!」
  店主は数年前の記憶と、変わらない顔をしていた。

 「あの笹? 夜中に誰か置いてったんだよね。何年か前にも学生さんが同じことしたんだけど、考えることは同じなのかねえ。通りっ端にノボリ立て置いてあるから、いろんなもの入れられちゃうんだけどね。笹ならせっかく七夕だから」
  通しとグラスの酒を自分の手で運んでくれた店主が言う。
 「ごめんなさい。何年か前の笹は、私も一緒でした」
  思わず恐縮してしまう。
 「ああ、そうなの。今回はね、短冊は下がってなかったんだよ。孫に飾り物作らせて飾ったんだけど、こういうのも風流だと思ってね」
  少し食事をしてから、思いついて手持ちの手帳を一ページ破って文字を書いた。ティッシュを縦に裂き、左手で支えながら右の親指と人差し指で縒る。
  お勘定を済ませてもらって外に出て、子供っぽいと思いながら、後ろの葉っぱにこっそりと、それを吊るした。

  いつかなんて、来ない。

  届かないメッセージは、司宛て。いつかとお化けは来ませんよ。いつかなんて茫洋とした未来よりも、来年再来年にしっかり見える未来のほうが大切。ぼうっと待っていても素晴らしい未来が開けるはずなんてないんだと、それぞれ学習して大人になってきたのよ。
  だからね、司。いつかなんて来ない。自分が期限を決めなくてはいけないの。


  驚いたのは、間を置かずに届いた葉書に住所が記載されていたことだった。同じ県内で、電車に乗れば一時間もかからない場所だけれども、ここと較べれば開けていない――つまり、イナカだ。
  こんな近くに住んでいるの?では、そちらこちらからの消印は何だったんだろう。小樽で会ったという仲間の言葉は、一体何?
  また受け取らないと思っていた通話は、あっさりと繋がった。
 「いろいろと、腹が括れたから」
  司は言った。
 「どっちにしろ後悔するんだって思ったら、楽になったっつーか」
  意味の捉えにくい言葉を発してから、司は小さく笑った。
 「葉書、届いてたか」
 「届いてたよ、意味不明の葉書。何アレ」
  説明してやるから会いに来いよ。勝手な言葉に抗うよりも、好奇心が先に立った。

  はじめて降りた駅は新しく見えた。けれども一歩外に出ると、がらんと空が広い。高い建物がないのだ。タクシー乗り場なんてものはなくて、バス停のベンチにも人はいなかった。手持無沙汰に待っていると、遠くから自転車に乗った人が手を振るのが見えた。
 「よう、久しぶり」
  司の髪は寝癖だらけじゃなかったし、ちゃんと四年分大人になっていた。
 「車で迎えに来るのかと思った」
 「持ってないよ。二ケツでいいだろ」
 「え? 重いから、歩くよ」
 「歩くと三十分かかるぞ。乗れよ」
  ブランクなんか感じない会話を交わすと、会う前に気になっていたことを忘れた。何年も会っていない男の家に一人で行って大丈夫なのかなんて、杞憂だった。自転車の荷台に横座りになって、小さな商店街と長閑な住宅街を抜けた。

  何故誰も誘わなかったんだろうと考えたのは、その古い小さな家の前に自転車が止まったときだ。おそろしく司らしい建物に見えたのだ。少なくとも、私の知っている司はこういう男だ。
  思い出したよ。司ってこういうヤツだったよね。なんとなく風通し良さそうで、なんとなく冴えない感じで、街中のどこにあっても違和感ないの。今風のオシャレな家じゃなくて、古いけど人が住んでるから煤けてない、みたいな?
  みんな、司が戻って来たよ。そう言って集まるのは、何人くらいいるんだろう。人数はだんだん寂しくなった。もうバカみたいにはしゃいで騒いだりしない。
 「遅いよ、司。みんなバラバラになった後に帰って来たって」
  学生時代に戻りたいと思ったことなんて、ない。けれど言葉に出した途端に、浮かんでくる情景はあるのだ。

 「みんなが腕広げて待ってるなんて妄想するほど、俺もおめでたくはないんだけど」
  司が苦笑しながら、ちゃぶ台の上に麦茶を出した。
 「奈緒のところに葉書が届いてるかどうかも自信なかったし、奈緒のことだから結婚早いかなーとか思ってたし」
  他に人の気配はない家の中だ。一人暮らしイコールでアパートと考えてしまう私には、なんだか不思議な気がする。
 「結婚してる人間が読むにしては、不適当じゃない?」
 「うん。だから電話してみたんだ。男の声がしたよな」
 「今はいないけどね」
  再会して一時間もしないうちに、以前のテンポに戻ってしまうことが少し愉快だ。


 「地震が、あっただろう?」
  司の話は、卒業時期に戻った。東日本全部が揺れて、ひどい被害があった。
 「毎日ニュース見てさ、正直どれくらいの被害かちっともリアルじゃなくて、マスコミも100パー真実流してるわけじゃなさそうだし」
 「うん」
 「それに加えて、女にふられたの。地震の報道で自分の生活の価値観グラついたとこへ、直撃」
  はぁ? あんたバカなの? そう聞き返してしまいそうな、他人から見れば弱すぎる理由で、司は安定と平穏から逃げ出したらしい。
 「はじめはさ、なんか自棄になってて。もうどうでもいいや、なんてウロウロしてたんだ。だけど途中から意地になってきちゃって。男ひとりって、結構どうやっても食えるの。寝るとこコミのバイトもあるし、マンスリーアパートの安いとこ借りて肉体労働で稼いで、金が溜まったら次の場所、みたいな?」
  意地って言葉がよくわからない。青くさーい自分探しの旅ってやつかしら。

 「はじめの葉書のときな、農家の軒端で七夕飾り見たんだ。そしたら、猛烈に戻りたくなって。だけど時間は巻き戻せないし、バカなことしたなって後悔したけどどうしようもないし」
  司は膝を抱えて座った。その仕草はなんだか子供みたいで、頼りなく見える。
 「誰かに手紙でも書きたいなって思って、だけどバカなことしたのも恥ずかしくって、そしたら奈緒のこと思い出した」
 「なんで?」
 「七夕飾り、作ったことがあったろう? 糸がないって誰かが言い出したときに、紙縒って言ったの奈緒だったよな。みんな年寄りくさいとか今時そんなことしないとか言ったけど、黙々とティッシュ裂いて紙縒にして。紙縒になっちゃえば、みんなそれ以外の正解はないような顔で短冊吊るしてたけど、誰もはじめにバカにしたようなことを言ったのには、謝らなかった」
  そうだったろうか? 私も短冊を吊るせたことに満足して、他には何も考えていなかった気がする。
 「咄嗟に自分の知識と手持ちのもので対応しようとできる奈緒なら、いつか俺が戻ったときにバカにしないでくれるような気がしたんだ」

  司は司なりの理屈や感情があったのかも知れないけれど、私には少し不親切な説明だ。
 「最初の葉書出したあと、なんかやけにポジティブになっちゃってさ。ドロップアウトしたって感覚は薄くなって、逆に浪人中に見られるものは全部見ようと思って。あっちこっち行って、本当にいろんなことしたなあ。親にはときどき連絡してたけどね。去年ここを借りるときにも、保証人になってもらわなくちゃならなかったし」
  ちゃぶ台の麦茶の氷が溶けて、ガラスのコップはびっしょり汗をかいている。去年ここを借りたってことは、戻ってから一年程度は経っているのか。
 「なんでもっと早く連絡してこなかったの?」
 「まだ迷ってたからってとこかな。ただ、最後に行った農家さんの話は残ったなあ」

  司の話を約めれば、東北の被災地と言われる場所の農家らしい。関東から就農した夫婦で、まだ整わない街を盛り上げるために走り回っているということ。帰れる実家はあり、知り合いの伝手で就職を探すことも可能だというが、そこで農家を続けることを選んだのだと。
  自分たちがそこで生活をすると決めた。今回はひどい災害だったが、ひどい災害はどこで発生してもひどいのだから、自分たちが好きな場所にいるのだと。辛かったでしょうねなんて言葉が、あれほど空疎だと思ったことはないと司は言った。
 「辛いことも悲しいことも多いけど、その中にだって嬉しいことや楽しいこともある。生きてるんだから仕方ないよ。生きてれば食べなくちゃならないし寝なくちゃならないし。それで生活を続けようと思うなら、やっぱり好きな場所がいい」
  人間のたくましさに目が覚めた、と司は言った。

 「戻ろうと思ってたってことは、俺はやっぱりこっちに基点を置きたかったってことだよなあって。そしたら、やっぱり奈緒のこと思い出したわけさ。まだ葉書は届いてるのかなあって」
  考えてみたら、司とサシでこんなにたくさん話したことはなかったかも知れない。仲間の括りの中、大勢の中の一人だったから。
 「居酒屋に、笹を置いてきたのは司?」
 「そうだよ。捨てられたかと思って見に行ったら、色紙の飾りの中に白いメモ用紙の短冊があった。ピンと伸びた紙縒で結ばれてて、あれは名刺よりも本人の名乗りしてるみたいだった」
  まさか、あれを見たとは思わなかった。

 「葉書が届いてるんなら、自分の居所くらい明かさないと反則っぽいかなーって思って」
  司は子供みたいに笑った。
 「準備ができたら連絡するつもりだったのに、奈緒から先に電話が来ちゃって」
 「準備?」
  導かれた先は、古い民家にふさわしい古い縁台があった。その横に括りつけられているのは、七夕飾りを施された笹だ。
 「去年はね、塾の先生してたんだ。子供たちに短冊書かせてさ、教室に飾ろうと思ったら受験塾では認められなくて、持って帰ってきたの。今年は先生じゃないのに、塾で教えてた子供たちから短冊を預かってね。ああ、地域に根付くってのはこんな小さいことの積み重ねかって感動しちゃった」
  短冊の中に、幼い文字が並んでいる。

 「俺の願いは、これ」
  指した先には、見覚えのある司の文字。
 『生きることをおろそかにしたくない』
  とても青くさくて、気恥ずかしい言葉のような気がする。会わなかった四年の間には、私の知らない司の放浪があって、その中で考えたことなんだろう。
 「奈緒はね、現実的に丁寧に生きてる気がした。好きとか何かしちゃいたいとかじゃなくてね、なんて言うか」
  司は口元を手で覆い、考える仕草をする。私は丁寧に生きているつもりなんてない。現実的ではあっても、実際は恋人と別れたばかりで心細いばかりの生活をしているのに。

 「だからまあ、葉書の文面は本当にそう思ってるってこと。ただね、今まで茫洋とした未来だって考えてたけど、今日で一気に現実が近くなった」
  ちょっと待って欲しい。現実が近くなったなんて勝手に言ってもらっちゃ困る。司がそう思ってくれるのは嬉しいけれど、現実は雲霞を食う生活じゃないのだ。生業もわからない男に口説かれる気持ち悪さは、勘弁してくれと言わざるを得ない。
 「慌てた顔すんなよ。今晩とか明日とか言わないから。いつか、だってば。俺も四年間ご清潔な暮らしばっかりしてたわけじゃないし、奈緒の事情とかも知らないし」
  司はちゃんとわかってる。ノリとフィーリングと懐かしさだけじゃ、もう私たちは心を動かしたりはしない。
 「去年の職業はわかった。今年は何してるの?」
 「市の職員で、公民館勤務。根を下ろそうって決めて、去年の夏に採用試験受けた」
  やることが極端だなって感想は、控えておくことにした。


  自転車の後ろに乗って、駅まで送ってもらった。駅の改札で別れる前の、清々しい笑顔が残った。またねと手を振り、ホームで電車を待つ。

  いつか、愛し合うかも知れない。

  それは茫洋とした未来じゃなくて、手に届く時間のうちに。そんな予感だけを抱いて、電車に乗った。一時間って距離は、騒ぐほど遠くないし気軽と言えるほど近くない。これからの私たちには、適当な距離だと思う。

  いつか、愛し合うかもね。とりあえず、おかえりなさい、司。


fin.
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