薔薇は暁に香る

蒲公英

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 北の森のサウビが、絹の買い付けに訪れたツゲヌイに見初められて嫁になったのは、十八の年だった。ツゲヌイは布を商う商人で、バザールの中ではずいぶん景気の良い店を持っているらしい。北の森に住む人々はみな貧しく、山羊のミルクで作ったチーズと山繭の糸の織物だけが金を稼ぐ手段だったから、サウビは王室にでも嫁入りするような騒ぎで送り出された。
 サウビの母はとっておきの絹糸でサウビのために美しいショールを織り、たっぷりの刺繍を施して肩に掛けながら言った。
「旦那様を大事にして、ようく言うことを聞くんだよ」
 まだ若いサウビはその言葉に素直に頷き、涙ながらに森を後にした。心の中では、新しい生活に胸を膨らませて。

 流れる蜂蜜の髪は日に焼けた麦藁のようにそそけだち、乾燥した頬は青ざめ、光を宿したハシバミ色の瞳は足元にだけ向けられる。買い物籠を持って鶏を買いに走るサウビの姿から、三年前の健康そうな少女は想像できるだろうか。可愛そうな娘だと言う人はいても、助けられる人は誰もいない。たとえば内緒でサウビに菓子を渡したり休ませたりすれば、更に酷いことになるのをみんな知っている。自分は朝から酒を飲んでいても、サウビが休むことは許されなかった。サウビが店番をしているときに、売上がなければ商売をサボっていたろうと殴り、高価な布が売れれば色目を使って売ったのだろうと蹴る。夜遅くに酒を買ってこいと言い、店が閉まっていると言えば、店主の家まで行ってたたき起こせと押し出す。具合が悪くてフラフラしていれば愚図だと罵り、買い物一つに時間がかかれば男と会っていたのだろうと突き飛ばす。突き飛ばしたサウビが気を失えば、そのまま乗って欲求を満たすなんていうのは日常で、目を開けたサウビが見るのは自分の上で腰を振っている男のギラギラした顔だけだ。
 思えば最初の晩にいきなりカエルのような形にされて、あまりの痛みに逃げ出そうとすると平手で打たれた。あれがすべての始まりだったのだ。

 母から贈られたショールをツゲヌイが店に出そうとした日、サウビは初めて激しく抵抗した。母の愛情のすべてが凝縮されたようなショールを胸に抱え込み、どんなに蹴られてもけして離さなかった。そしてツゲヌイが飽きて家から出ていくと、床下の壺の中に隠した。何度か思い出したツゲヌイがサウビを酷く叩いたが、屈することはなかった。あのショールだけがサウビの財産で、サウビと母を繋ぐものだからだ。
 ツゲヌイは半年に一度ほど買い付けの旅に出たが、サウビを帯同したことはない。
「良い酒が飲めることを知っている居酒屋に、わざわざ安酒を持ち込むバカはいない」
 そちらこちらで女と遊んでいることは知っている。では何故サウビを娶ったのかと問われれば、何も知らず従順だったからとツゲヌイは答えるだろう。女と家畜は拳で躾け、死なないように飼っていれば良いと考える男は、何もツゲヌイだけではない。サウビが育った北の森にもツゲヌイは当然訪れたが、何も知らぬサウビの両親は、娘に豊かな暮らしを約束するツゲヌイに感謝するばかりだ。
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