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医者を送って行ったはずの使者は、ずいぶん遅くなってから戻って来た。
「こちらの上僧様と相談していました。ツゲヌイさんは動かせるようになったら、僧院に運びます。それまでは、私がここにおりますから」
「私はどうしたら良いのでしょう?」
使者がツゲヌイを見てくれるのは構わないが、サウビには行き場所がない。
「宿なら、懇意にしているところがある。マウニも何度か一緒に使ったことがある家だから、心配ない」
ノキエの提案に、有難く従うことにする。
ツゲヌイの家を出て、ノキエとサウビは歩いた。そういえばノキエは、不安定になって外に出られなかったのではなかったか。自分のために無理に身体を動かしてくれたのだろうか。斜め後ろから顔を見上げると、ノキエの顔色もまた悪い。午後の日差しの中で、青白い頬がこけて見える。
誰かに付き添ってもらわなくてはならない夜を過ごし、祈りに行った僧院から夜を歩き続けて、サウビを救ってくれた。数ヶ月かけてサウビが自分を取り戻す手助けをして、これから抱えるべき苦しみを食い止めようと、こんな風に――
ぼやけた視界で足が遅くなり、前を歩くノキエの後姿を追った。旅人のマントに剣鉈は、バザールから連れ出されたときと同じだ。あのときの自分は馬に乗せられ、上からノキエの後姿を見ていた。同じ後姿を見ているのに、今はなんと慕わしくも頼れる背中なんだろう。胸の前でショールのあわせを押さえながら、サウビは黙って歩く。
「ああ、歩くのが少し早かったか」
ノキエが振り返る。慌てて足を早め、忘れていた礼の言葉を言った。
「そうじゃない、自分のためなんだよ」
苦しそうに返事するノキエに、次に重ねる言葉は思いつかない。
宿に到着すると部屋は満室で、同じ部屋を使ってくれという。他の宿を手配しようかと言うノキエを止め、サウビは構わないと言った。ノキエが自分にカエルを要求するのならとっくにしているはずだし、浴室が部屋にあるわけでもない。部屋に入るとマントを取り靴を脱いだノキエは、寝台の上に座り大きく伸びをした。
「お茶をもらってきます」
厨房でお茶を受け取って部屋に戻ると、ノキエは座った形がそのまま倒れこんだような姿勢で眠っていた。
眉間に深く皺を寄せ、ひどく寝苦しそうな寝息を立てて眠るノキエを、盆を持ったままのサウビはしばらく見ていたが、お茶をと声はかけられなかった。寝台の裾に折りたたまれている毛布を広げ、ノキエの身体を覆う。疲れていないはずがないのだ。
椅子に深く腰を掛け、窓の外を覗く。バザールの路地裏は寂しく、表通りの華やかな賑わいが嘘のようだ。冷めたお茶を一口含み、石畳の石の数を数えてみる。森にはなかった足の汚れない道を眺めていると、ずいぶん遠くに来てしまったのだと思う。
ずいぶん遠くに来てしまったのだ。もう森にいたころの、華やかな生活に憧れながら繭の数を数えていたサウビはいない。ここにいるのは、行き先を持たずに足掻いている女でしかない。
食事はどうするかと宿の人間に訊かれて、自分の分だけ粥をもらった。少しだけ持っていた金で、軽い菓子を買って卓の上に置く。もしもノキエが目覚めたら、それを食べさせるつもりだ。足を洗う湯を使い、自分も服のまま寝台に横になる。明日ではまだ、ツゲヌイを動かすことができないだろう。いつまでこんな風に、寝つきの悪い夜を過ごさねばならないのだろう。
隣の寝台から、苦しそうな声が聞こえる。枕もとの蝋燭をつけると、暗闇に浮かぶノキエの顔が歪んでいた。うなされているらしい。
起こしたものかどうか迷い、毛布の上から胸を撫でた。何度か手を往復させるうちに、ノキエの表情が和らいでいく。自分の手がもたらした安寧に、サウビの心も柔らかくなる。
「母さん」
不明瞭な発音だが、そう聞こえた。母親の夢を見ることは、ノキエにとって幸福なのだろうか。
「こちらの上僧様と相談していました。ツゲヌイさんは動かせるようになったら、僧院に運びます。それまでは、私がここにおりますから」
「私はどうしたら良いのでしょう?」
使者がツゲヌイを見てくれるのは構わないが、サウビには行き場所がない。
「宿なら、懇意にしているところがある。マウニも何度か一緒に使ったことがある家だから、心配ない」
ノキエの提案に、有難く従うことにする。
ツゲヌイの家を出て、ノキエとサウビは歩いた。そういえばノキエは、不安定になって外に出られなかったのではなかったか。自分のために無理に身体を動かしてくれたのだろうか。斜め後ろから顔を見上げると、ノキエの顔色もまた悪い。午後の日差しの中で、青白い頬がこけて見える。
誰かに付き添ってもらわなくてはならない夜を過ごし、祈りに行った僧院から夜を歩き続けて、サウビを救ってくれた。数ヶ月かけてサウビが自分を取り戻す手助けをして、これから抱えるべき苦しみを食い止めようと、こんな風に――
ぼやけた視界で足が遅くなり、前を歩くノキエの後姿を追った。旅人のマントに剣鉈は、バザールから連れ出されたときと同じだ。あのときの自分は馬に乗せられ、上からノキエの後姿を見ていた。同じ後姿を見ているのに、今はなんと慕わしくも頼れる背中なんだろう。胸の前でショールのあわせを押さえながら、サウビは黙って歩く。
「ああ、歩くのが少し早かったか」
ノキエが振り返る。慌てて足を早め、忘れていた礼の言葉を言った。
「そうじゃない、自分のためなんだよ」
苦しそうに返事するノキエに、次に重ねる言葉は思いつかない。
宿に到着すると部屋は満室で、同じ部屋を使ってくれという。他の宿を手配しようかと言うノキエを止め、サウビは構わないと言った。ノキエが自分にカエルを要求するのならとっくにしているはずだし、浴室が部屋にあるわけでもない。部屋に入るとマントを取り靴を脱いだノキエは、寝台の上に座り大きく伸びをした。
「お茶をもらってきます」
厨房でお茶を受け取って部屋に戻ると、ノキエは座った形がそのまま倒れこんだような姿勢で眠っていた。
眉間に深く皺を寄せ、ひどく寝苦しそうな寝息を立てて眠るノキエを、盆を持ったままのサウビはしばらく見ていたが、お茶をと声はかけられなかった。寝台の裾に折りたたまれている毛布を広げ、ノキエの身体を覆う。疲れていないはずがないのだ。
椅子に深く腰を掛け、窓の外を覗く。バザールの路地裏は寂しく、表通りの華やかな賑わいが嘘のようだ。冷めたお茶を一口含み、石畳の石の数を数えてみる。森にはなかった足の汚れない道を眺めていると、ずいぶん遠くに来てしまったのだと思う。
ずいぶん遠くに来てしまったのだ。もう森にいたころの、華やかな生活に憧れながら繭の数を数えていたサウビはいない。ここにいるのは、行き先を持たずに足掻いている女でしかない。
食事はどうするかと宿の人間に訊かれて、自分の分だけ粥をもらった。少しだけ持っていた金で、軽い菓子を買って卓の上に置く。もしもノキエが目覚めたら、それを食べさせるつもりだ。足を洗う湯を使い、自分も服のまま寝台に横になる。明日ではまだ、ツゲヌイを動かすことができないだろう。いつまでこんな風に、寝つきの悪い夜を過ごさねばならないのだろう。
隣の寝台から、苦しそうな声が聞こえる。枕もとの蝋燭をつけると、暗闇に浮かぶノキエの顔が歪んでいた。うなされているらしい。
起こしたものかどうか迷い、毛布の上から胸を撫でた。何度か手を往復させるうちに、ノキエの表情が和らいでいく。自分の手がもたらした安寧に、サウビの心も柔らかくなる。
「母さん」
不明瞭な発音だが、そう聞こえた。母親の夢を見ることは、ノキエにとって幸福なのだろうか。
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