薔薇は暁に香る

蒲公英

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 ツゲヌイが僧院に移った時間を見計って、サウビは使者と共に家に向かった。夜中にまた飛び起きていたノキエは、僧院に祈りに行くという。勝手口の鍵を開けて中に入ると、窓からの光で埃が光って見えた。
 自分が使っていた戸棚を開けると、サウビは息を飲んだ。
「何もないわ……」
 しばらく呆然としたあと、ツゲヌイの寝室に走り込み、戸棚を開けて中身を床に撒けた。
「ここにもない!」
 次に店に走りこんだとき、やっと事態を把握した使者がサウビを止める。
「どうしたんです、サウビさん。何がなくなったのですか」
 商品をかき分けようとする腕を掴まれ、振りほどこうと肩を揺する。
「何もないのよ! 森から持ってきたショールも、針道具も、たった一本だけ持っていたペンも、何もかも!」
「落ち着きなさい。それは店には置かないでしょう」
 使者の顔を見ているうちに、呼吸が整ってくる。
「父さんが組み立てた箱に、母さんが握りを巻いてくれた鋏、妹が手を刺しながら作ってくれた針刺しよ。弟が籠一杯に摘んだ葡萄で染めたショールなのよ」
 訴えているうちに、身体を絶望が蝕みはじめる。持っていることを思い出せなかったときとは、違うのだ。やっと思い出して、自分の手元に置けると期待したぶんの悲しみが、じわじわと足元に絡みつく。

「ツゲヌイさんは、あなたがここに戻ると思わなかったのでしょうかねえ」
 使者の言葉に、目が覚めたような気がした。サウビをずっと探していたなら、荷物を処分するわけがない。そしてイケレを嘘で呼び寄せようとなんて、おかしな話になる。
 布を買い叩けるように、北の森に手紙を書いてもらう。ツゲヌイの声が、急に耳に蘇った。サウビを引き摺りながら、ツゲヌイがそう言った気がする。買い取った金額の二十倍にもなった母の織物が浮かぶ。そしてサウビを連れ戻すための一連のできごと。これが綺麗に繋がった。
 サウビを嫁に出してから、母はサウビのために、ツゲヌイの求めるままに上質の織物を卸していたのだ。他の商人が競って扱いたがるそれを、優先的にツゲヌイに廻していた。サウビからの便りで、サウビがツゲヌイの元にいないことを知ったとき、母はより価値をつけてくれる商人に自分の織物を任せた。サウビが逃げ、イケレを呼ぶことにも失敗し、ツゲヌイは北の森で一番の織物を扱えなくなった。金持ちに売り込む材料が、大きく減ったのだ。母の機に、それほどの価値があるなんて。
 だからといって、サウビの針道具を勝手に売り払ったことに対する怒りが、薄れるわけではない。逆に燃え上がってくるものを宥めるため、サウビは台所で水を何倍も飲まなくてはならなかった。

 宿の前で使者と別れたあと、建物の中にも入らずに、しばらく街の様子を見ていた。もう自分の手で触れることのできないものが、次々頭に浮かぶ。そしてそれは、身が切れるほどの郷愁を呼んだ。父のゴツゴツした手や、母が目を休める仕草、花を摘んだ妹の笑顔、あどけなくサウビのスカートに縋る弟。あの場所から、どれほど遠くまで来てしまったのだろう。
 ふと空腹を感じ、屋台で揚げ菓子を買った。ポケットの中に入っているのは、ツゲヌイの店で売った布一枚の代金だけだ。そういえば、ここの宿代すら持っていない。村に戻れたならば、ノキエに返さなくてはならないだろう。甘い菓子を齧りながら、まだ街角に立っていると、派手な女に声を掛けられた。
「新入りかい? ここはあたしのシマだから、荒らさないでおくれ。そんな田舎くさいナリじゃ、売るもんも売れないだろうけど」
 驚いて、思わず顔を見た。どうやら夜の女が出て来はじめる時間らしい。慌てて宿の中に入り、部屋のドアを開けると、蝋燭の灯りの下でノキエが絵を描いていた。

 一目見て、薔薇の首飾りだとわかった。
「お帰り。荷物は引き取って来たのかい」
「すべて、処分されていました。何も残っていなかったの」
 それ以上言うと止めているものが堰切れそうで、サウビは視線を逸らした。そしてノキエの手元の紙を見つめることにする。
「薔薇の首飾りですね」
 一瞬自分の手元を見返したノキエは、ゆっくりと微笑んだ。
「母が笑わなくなってから、市で夜明けのような色の薔薇を買ったことがある。こっそり庭に植えて、花を咲かせたら喜ぶのではないかと」
 ここ数日の、無理をしているノキエの話し方ではなかった。

「庭の真ん中で咲きはじめたら、母が驚いてくれるはずだった。けれど、俺が思っているよりも母は壊れてしまっていたらしい。もうどんな色が庭にあろうと、見えていなかったよ」
 失望した少年が、庭に佇んでいる姿が見えるようだ。笑顔を見せて欲しいだけの、ささやかな望みまで叶えられないなんて、どんなに悲しかったろう。
「その薔薇、まだ庭にあるわ」
 季節外れの蕾のついていた薔薇が、確かに庭にあった。
「草に埋もれて、何年も手入れしていなかったんだぞ」
「あるのよ。初夏になれば、花が咲くわ」
 ノキエは驚いたように、サウビの顔を見る。まるで少年の、純粋な瞳がそこにあった。

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