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暗い。灯りが消えた店の奥で、サウビは息を殺していた。音を立てれば見つかってしまう。見つかったら母から送られてきたスカートを、取り上げられてしまうかも知れない。早く行ってしまえばいいのに。夜の女を買いにでも、酒を飲んで騒ぐ店にでも、どこにでも行けばいい。早くしないと、イケレが帰ってしまう。もう一度会うためには、ツゲヌイの目を盗まなくては。店の入り口から、音が聞こえる。ああ、見つかってしまう。そして隠れていた罰として、殴られるのか。鼠にでもなって、この場所から抜け出したい。
そう思った瞬間に、サウビは鼠になって走っていた。息が切れるほど走り、深い森の中に古ぼけた家を見る。サウビは元のサウビに戻り、扉を開けた。母さん、帰って来たわ! 叫びながら竈の前を抜け、母の機を置いている部屋を開ける。けれど、誰もいない。どこか違う家に変えたのかしら。いいえ、そんなはずはないわ。私はバザールでイケレに会ったの。イケレはまだバザールにいるのよ。父さんと母さんがどこに行ったのか、訊いてみなくては。ああ、バザールまでは歩くと五日もかかるわ。そんなにかかったら、マウニが心配する。
そういえば、マウニはどこ? そうか、ここは草原の村ね。草原の村の中に北の森があるなんて、知らなかったわ。いつでも会いに行けるんじゃないの。
それにしても暗いわ。それに身体が痛い。動けない。これは荷車の上? 身体の上に被さっている麻袋は何のため? ツゲヌイに見つかってしまったんだ。バザールに連れ戻されてしまう。もう殴られるのは嫌、自分を失うのは嫌。大丈夫、ノキエがまた助けてくれるから。早く助けに来て、バザールに到着する前に。麻袋を除けて、ツゲヌイの顔が覗く。ノキエ、助けて。ノキエ!
額に冷たい手が乗せられ、サウビはぼんやりと目を開いた。すぐには夢と現の区別がつかず、自分を見下ろすノキエが救ってくれたのだと思った。
「また助けてもらった……」
「大袈裟な。酷い汗だから、着替えた方がいい。アマベキの奥方から、肌着を借りて来たから。ひとりで着替えられるか」
その言葉で覚醒し、大きく目を開けた。
「着替えを手伝ったほうがいいか?」
重ねて訊くノキエは、少しだけ意地悪い顔だ。
「夢見が悪かったんです。起き上がることくらいできますから」
笑いながらノキエは、扉を開けて出て行った。村にいるときよりも陽気に見えるのは、気のせいだろうか。
起き上がって着替えても、まだ眩暈がする。こんなに酷く冬の悪魔につけこまれたのは、どれくらいぶりだろう。水を運んでくれたノキエに礼を言うと、また寝台に押し戻された。
「俺は出てくるけれど、ちゃんと寝ていなさい。おとなしくしていれば、あとでまた妹を連れてきてやる。明日の朝、立つそうだ」
サウビの脱いだ肌着を袋に詰め、ノキエは出て行った。その恥ずかしさに口をパクパクさせながらも、サウビは見送るしかない。とても長い時間眠っていたはずなのに、また抗いようのない眠りが訪れる。ウトウトとしては目を覚まし、ときどき場所を確認しては宿の部屋だと自分を納得させる。どれくらい眠っていたのか、目を覚ますとアマベキの奥さんが小さな机の上に荷物を並べていた。
掠れた声を出すと彼女は振り向き、足元にまとわりついている子供を抱き上げる。
「起きた? 具合はどうかしら。ノキエに頼まれたものを持ってきたのよ。勝手に選んでしまったけれど、あなたのご家族が気に入るといいわ」
「ありがとうございます。お金を」
「ノキエから渡されたわ。だからあとでノキエに払ってちょうだい」
水差しから水を汲み、サウビに差し出す。
「今は店でアマベキと一緒に、北の森の人と話をしてるわ。ノキエは作る人だから、自分の作品の扱いを気にする。アマベキは売る人だから、儲けと売り方を気にするの。少し面白いことになりそう」
北の森の織物とタイルの店が、何の話をしているというのか。どちらにしろ難しい話は、サウビにはわからない。サウビの仕事は、家の中を整えることだけなのだから。
「一度気を許せば、ノキエは誰よりもやさしい男よ。私たちはみんな、ノキエが自分を幸せにしたいと思ってくれることを、願ってる」
アマベキの奥さんは、着替えだと新しい肌着を置いて、帰って行った。
次に目覚めたときに見たのは、イケレの顔だった。
「姉さん、具合はどう? こんな日に熱を出させるなんて、冬の悪魔は本当に厄介だわ」
「もっとゆっくり話したかったわ。また会える日は来るのかしら」
起き上がると、まだ眩暈がする。それでも時間が惜しくて、少しでも目蓋に焼き付けようとイケレの顔を見る。
「ノキエさんはとても良い人ね。あんなに親身になってくれる雇い主なんて、そうそう見つからないわ。ツゲヌイに酷い目に遭ったぶん、同じ大きさの幸運が来たのかしら。父さんと母さんにも、そう言っておくわね」
立ち上がって贈り物を渡すと、もう別れの時間だ。固く抱き合って、互いを惜しむ。
「キズミが受付で待っているから、行くわ。きっとまた会えるから」
フラフラしながら宿の外まで見送ると、受付で様子を見ていたらしいノキエに肩を抱きとられた。
「いくらでも名残を惜しみたいだろうが、命が危うくなればもう会うこともできない。厨房で果物を剥いてもらったから、少しでも口に入れてくれ」
「この時期に果物なんて」
「バザールでは何でも手に入るさ」
高価な果物を飲み下すことも難しく、言われた通りに薬を飲んで寝台に横になる。眠りに落ちる直前に見えた机に向かうノキエの横顔は、歯の痛みでも堪えているかのようだった。
そう思った瞬間に、サウビは鼠になって走っていた。息が切れるほど走り、深い森の中に古ぼけた家を見る。サウビは元のサウビに戻り、扉を開けた。母さん、帰って来たわ! 叫びながら竈の前を抜け、母の機を置いている部屋を開ける。けれど、誰もいない。どこか違う家に変えたのかしら。いいえ、そんなはずはないわ。私はバザールでイケレに会ったの。イケレはまだバザールにいるのよ。父さんと母さんがどこに行ったのか、訊いてみなくては。ああ、バザールまでは歩くと五日もかかるわ。そんなにかかったら、マウニが心配する。
そういえば、マウニはどこ? そうか、ここは草原の村ね。草原の村の中に北の森があるなんて、知らなかったわ。いつでも会いに行けるんじゃないの。
それにしても暗いわ。それに身体が痛い。動けない。これは荷車の上? 身体の上に被さっている麻袋は何のため? ツゲヌイに見つかってしまったんだ。バザールに連れ戻されてしまう。もう殴られるのは嫌、自分を失うのは嫌。大丈夫、ノキエがまた助けてくれるから。早く助けに来て、バザールに到着する前に。麻袋を除けて、ツゲヌイの顔が覗く。ノキエ、助けて。ノキエ!
額に冷たい手が乗せられ、サウビはぼんやりと目を開いた。すぐには夢と現の区別がつかず、自分を見下ろすノキエが救ってくれたのだと思った。
「また助けてもらった……」
「大袈裟な。酷い汗だから、着替えた方がいい。アマベキの奥方から、肌着を借りて来たから。ひとりで着替えられるか」
その言葉で覚醒し、大きく目を開けた。
「着替えを手伝ったほうがいいか?」
重ねて訊くノキエは、少しだけ意地悪い顔だ。
「夢見が悪かったんです。起き上がることくらいできますから」
笑いながらノキエは、扉を開けて出て行った。村にいるときよりも陽気に見えるのは、気のせいだろうか。
起き上がって着替えても、まだ眩暈がする。こんなに酷く冬の悪魔につけこまれたのは、どれくらいぶりだろう。水を運んでくれたノキエに礼を言うと、また寝台に押し戻された。
「俺は出てくるけれど、ちゃんと寝ていなさい。おとなしくしていれば、あとでまた妹を連れてきてやる。明日の朝、立つそうだ」
サウビの脱いだ肌着を袋に詰め、ノキエは出て行った。その恥ずかしさに口をパクパクさせながらも、サウビは見送るしかない。とても長い時間眠っていたはずなのに、また抗いようのない眠りが訪れる。ウトウトとしては目を覚まし、ときどき場所を確認しては宿の部屋だと自分を納得させる。どれくらい眠っていたのか、目を覚ますとアマベキの奥さんが小さな机の上に荷物を並べていた。
掠れた声を出すと彼女は振り向き、足元にまとわりついている子供を抱き上げる。
「起きた? 具合はどうかしら。ノキエに頼まれたものを持ってきたのよ。勝手に選んでしまったけれど、あなたのご家族が気に入るといいわ」
「ありがとうございます。お金を」
「ノキエから渡されたわ。だからあとでノキエに払ってちょうだい」
水差しから水を汲み、サウビに差し出す。
「今は店でアマベキと一緒に、北の森の人と話をしてるわ。ノキエは作る人だから、自分の作品の扱いを気にする。アマベキは売る人だから、儲けと売り方を気にするの。少し面白いことになりそう」
北の森の織物とタイルの店が、何の話をしているというのか。どちらにしろ難しい話は、サウビにはわからない。サウビの仕事は、家の中を整えることだけなのだから。
「一度気を許せば、ノキエは誰よりもやさしい男よ。私たちはみんな、ノキエが自分を幸せにしたいと思ってくれることを、願ってる」
アマベキの奥さんは、着替えだと新しい肌着を置いて、帰って行った。
次に目覚めたときに見たのは、イケレの顔だった。
「姉さん、具合はどう? こんな日に熱を出させるなんて、冬の悪魔は本当に厄介だわ」
「もっとゆっくり話したかったわ。また会える日は来るのかしら」
起き上がると、まだ眩暈がする。それでも時間が惜しくて、少しでも目蓋に焼き付けようとイケレの顔を見る。
「ノキエさんはとても良い人ね。あんなに親身になってくれる雇い主なんて、そうそう見つからないわ。ツゲヌイに酷い目に遭ったぶん、同じ大きさの幸運が来たのかしら。父さんと母さんにも、そう言っておくわね」
立ち上がって贈り物を渡すと、もう別れの時間だ。固く抱き合って、互いを惜しむ。
「キズミが受付で待っているから、行くわ。きっとまた会えるから」
フラフラしながら宿の外まで見送ると、受付で様子を見ていたらしいノキエに肩を抱きとられた。
「いくらでも名残を惜しみたいだろうが、命が危うくなればもう会うこともできない。厨房で果物を剥いてもらったから、少しでも口に入れてくれ」
「この時期に果物なんて」
「バザールでは何でも手に入るさ」
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