薔薇は暁に香る

蒲公英

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 昼過ぎにやっと作業場から出てきたノキエの目の下には黒々と隈が浮き、眉間に深く皺が刻まれていた。酷く疲れていて、足元が覚束ない。
「休む。俺が出てくるまで、声掛けは無用だ」
 言いながらサウビの前を通り過ぎ、自分の部屋に向かう。その後ろ姿にかけるべき言葉を、サウビは持っていない。寄り添えば良いのか見ないふりをしているのが正解なのか、答えはないだろう。

 マウニも訪れない昼下がり、厩舎の裏で見つけたスミレを摘み取り、濃い砂糖湯にくぐらせて布巾の上に広げた。こんなものを作ったって、ノキエが咳込んだときに差し出すことはできないかも知れないのに。お茶請けに出して、マウニを喜ばせることはできないかも知れないのに。
 どうしても嫌だと言えば、ノキエはきっと強制したりしない。ここに置いて、今まで通り労ってくれる。けれどそれは、ノキエの望んでいることではないのだ。マウニは引き留めてくれるだろう。自分がバザールに行くとなれば、嫁入りのときの家族のように、寂しがってくれるに違いない。それでもマウニには、ギヌクがいる。女友達もいるし、人付き合いしない兄に代わって村の人々と話もする。
 やさしくしてくれた救い主の意に背いて、ここにいることは正しいだろうか。

 決めなくてはならないのだと思った。バザールに行くのか森へ帰るのか、はたまたこのままノキエの家に留まるのか。どれを選んでもどこかしらが辛く、誰かが負担を負うことになる。自分か、家族か、雇い主か。
 目の前に広げた紫色の小さな花に、森の春を思う。薄紫の花の天井は、森ではまだ先の季節だ。母さんに会いたい。

 夜になってもノキエは部屋から出てこなかった。手軽に口に入るものを食卓に用意して布巾をかけ、サウビも早々に自分の部屋に入る。そしてイケレに何の心配もない手紙を書き、ペンを置いて頬杖をつく。
 静かな家の中には、物音ひとつしない。ノキエが起きているのか眠っているのか、それすらもわからない。窓布を寄せて空を見ても、月は見えない。星だけが輝き、空がそこにあるのだと言っている。

 玄関の扉が開く音がした。ノキエがまた外に出たのかと窓越しに視線を巡らすと、暗い庭の中に白いシャツが浮く。声を掛けてはいけないと、サウビの中が囁く。けれども春の兆しがあるといえ、外はまだ寒いのだ。せめて室内に入ったときに身体を暖められるようにしておかなくてはと、サウビは食堂に入っていった。
 ストーブの窓を開き、熾火を確認して薪を足し、水を入れた鍋を置いた。これで食堂と居間は暖かくなるはずだし、酒を飲まないノキエもお茶が欲しくなるだろう。それだけの支度をして部屋に戻ろうとしたとき、ノキエが戻って来た。

「何をしている」
 感情の籠らない、平坦な発音だ。この話し方は、ツゲヌイと対峙したときとムケカシ親子に向かったとき、そのときのものだ。
「身体を、冷やして戻られるかと、そうしたら、部屋が暖まっていれば」
 怯えた言葉だが、皆までは言えなかった。ノキエがサウビの腰を引いて、長椅子の上に押し倒したからだ。
「そんな風に、俺を構うから」
 サウビの胸に、ノキエの顔が押しつけられる。手が乱暴に、サウビの身体をまさぐった。
「そんな風に、俺を気遣うから」
 ノキエの力は強い。胸から上を押さえつけられ、サウビは足だけをバタつかせた。恐怖のあまり声も出ない。ノキエが、こんなことをするのか。自分を物扱いされるのは慣れていると思っていたが、ノキエにまでそうされるとは思わなかった。サウビの身体をまさぐる手は、ゴツゴツとした男の手だ。

 こんな形でノキエに失望してしまうのは、嫌だ。それならばはじめから、金で買われた女として扱われたほうが、良かった。ノキエの頭を胸から退けようと、強く押す。
 そのときになって、自分の胸の位置が濡れていくことがわかった。ノキエの息遣いは、ツゲヌイのそれと違う。
「……ノキエ?」
 スカートをたくし上げようとするノキエの手が、戸惑うように止まる。そしてやっと顔を上げ、サウビを見た。その瞳の中に、情欲は見えなかった。
「悲しいのですか」
 サウビの質問に、ノキエは呻きで答えた。
「悲しいのですね」
 サウビの手が、今度はノキエの顔を撫でた。

「これ以上ここにいると、手放してやれなくなる。俺があんたにしがみついてしまう前に、逃げてくれ」
 身体を起こしてサウビから離れたノキエは、苦しそうにサウビに懇願した。
「俺があんたを壊してしまう前に」 
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