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ノキエと見る春告げの花は、どんな色をしているだろう。薄紫の花が風と共に舞い、ノキエの髪に一片落ちるかも知れない。頭に描いた絵はとても幸福で、とても遠く感じる。
まだ自分は、何もできていない。やっとバザールの中のことを知る気になり、森にいる家族のために何かしようと思いはじめたばかりだ。
ノキエの家にしがみつこうとしていたのは、あの場所なら守ってもらえるからだ。自分はすっかり可哀想な女のままで、差し出されるものを受け取っていれば良かった。それによって癒されたのは確かで、居心地の良さが自分に与えられた唯一のものに思えた。自分以外にも苦悩を抱える人たちがいるのは見えていたが、それでも自分が一番不幸だった。自分を癒して救ってくれる人だけに囲まれて、何も考えずに穏やかな日々を得られると思っていたのだ。
ノキエの苦しみを目の当たりにし、どうにかしたいとは思っていたが、自分にできることは何もなかった。屈託なく甘えて見えるマウニが、実はとてつもなく強い人間だと知った。
たくさんの人が、たくさんのことを考えている。生まれ持って幸運な人がいて、望まれずに生まれてきた人がいる。親から愛されて育った人も、親に捨てられた人もいるのだ。
掴みかけていた何かが、サウビの中で形を整えてくる。これを手にしなくては、春告げの花の下には立てない。
朝早くに、店の外で女の高い声が聞こえた。まだ店を開ける時間ではないので、自分の部屋から下を見下ろすと、初老の婦人が抱え込んだ荷物を男がひったくろうとしている。思わず窓を開け、助けを呼んだ。高い位置からの声は通り、近い店から下働きの少年が出てくる。ひったくろうとした男は、夫人を突き飛ばして走って逃げて行った。
少年は逃げた男を追い、サウビは店の扉を開けて夫人を座らせる。幸い抱えた荷物は無事だったが、夫人は足首を痛めたらしい。お茶を飲ませて落ち着かせたあと、次に森に送るために買ってあった膏薬を出した。
「こんなに親切にしていただいて」
しきりに恐縮する夫人は、サウビの母くらいの年齢だろうか。
「こんな荷物、ひったくってもお金にならないのにね。手を離してしまえば良かったのに、咄嗟に抱え込んでしまったわ」
そこに少年が顔を出し、男に逃げられたと告げた。
「ありがとう。あとでお礼に行くわ」
顔を赤くした少年が、何もしていないと辞退するのを見送って、サウビはもう一度夫人の足を確認した。かなり腫れがきている。
「歩けなければ、誰か呼びましょう。どちらに行かれますか」
夫人は一区画先の、本屋の名を出した。
「これの中身は、新しい雑巾とハタキなのよ。こんなもののために怪我をして、主人に怒られてしまう」
迎えに来た男の肩を借り、夫人は幾度も礼を言って帰って行った。
それが何かの縁になるなんて、サウビは想像もしていなかった。夫人は本屋の内儀だったが、商売には関わっていないらしい。礼を言うために果物を持ってきたあと、何度か店に訪れた。
「娘がいないのが残念だわ。女の子を着飾らせる楽しみを、持っていたいものだわね」
そんなことを言いながら、息子の嫁を連れて飾り物を買ってやったりする。そうやって何度かお茶を出しているうちに、親しくなった。
「まあ、弟さんが働き口を探しているの? 良い話があれば、持ってくるわね」
そう言った翌週から、サウビが驚くほどの情報が集まりはじめる。本屋はいろいろな場所に品物を配達するからと、学者や医者の助手の仕事まで話がある。話だけでラツカを呼び寄せるわけにいかず、サウビはいくつかの場所に訪ねて行った。
もちろん、けんもほろろに断られることはある。サウビを上から下まで眺めたあと、あんたなら雇ってやると言い放つ人間もいるし、何人もの助手が疲れた顔をしているのに本人だけ色艶良く太っている男もいた。
「文字の読み書きくらいはできるのかね」
「口減らしに能無しを預けられてもねえ」
紹介者の夫人が憤慨してくれるぶん、サウビの中に憤りは生まれなかった。否、そんなことよりも次のことを考えたかったのだ。
がっかりして店に戻る途中に、知らない女に呼び止められた。
「サウビってのは、あんたかい」
何故かはじめから喧嘩腰で、言いかたは居丈高だった。そうだと返事すると、いきなり近寄ってサウビに平手打ちをした。
「何……?」
反射的に怒りが湧き、やりかえそうと手を振り上げたときに、唐突にラツカの声が聞こえた気がする。
「何故、いきなりこんなことをするの。私はあなたを知らないわ」
振り上がった手から力が抜け、相手に向かって声が出た。
「私は知らなくたって、うちの亭主は知っているだろう? 貞淑そうな顔をして、男を誑かしやがって」
激高する女から後退りして距離を取る。
「知りません。働いている店に男は入れないし、私が行くのはパン屋と花屋くらいなもので」
言いかけたサウビの声に、女の声が被った。
「あんたが色目を使ったから、うちの人は花屋を首になっちまったんだよ。どうしてくれるんだい、明日のパンも買えないじゃないか」
以前、花屋の男が店に押し掛けたことがあった。まさかあれが、嫁を持っていると思わなかった。
「私はあの人の名前を知りませんし、顔を覚えてもいませんでした。まして奥様がいらっしゃるなんて」
「その綺麗な顔で、ずいぶんスラスラ嘘が出てくるんだねえ」
肩のあたりに拳を感じながら、サウビはその場に蹲った。そしてサウビの中に出てきた言葉は、怒りには程遠かった。
可哀想に。サウビを困らせたのはこの人の夫で、妻には何も関係ない。おそらくこの人も、半分くらいはそれがわかっている。それなのに怒りの行き場がなくて、見かけたサウビにそれをぶつけようとしているのだ。可哀想に。
通りがかりの人たちが女を止め、サウビを助け起こす。しっかりと髪に差し込んだ簪は、抜けずに髪の中にとどまっていた。
自分はあの人と同じなのだ、と思った。そして浮かんだラツカの顔に救われた、とも思った。サウビの中の怒りが鎮火したのは、怒りよりも大切な何かを認識したからかも知れない。
まだ自分は、何もできていない。やっとバザールの中のことを知る気になり、森にいる家族のために何かしようと思いはじめたばかりだ。
ノキエの家にしがみつこうとしていたのは、あの場所なら守ってもらえるからだ。自分はすっかり可哀想な女のままで、差し出されるものを受け取っていれば良かった。それによって癒されたのは確かで、居心地の良さが自分に与えられた唯一のものに思えた。自分以外にも苦悩を抱える人たちがいるのは見えていたが、それでも自分が一番不幸だった。自分を癒して救ってくれる人だけに囲まれて、何も考えずに穏やかな日々を得られると思っていたのだ。
ノキエの苦しみを目の当たりにし、どうにかしたいとは思っていたが、自分にできることは何もなかった。屈託なく甘えて見えるマウニが、実はとてつもなく強い人間だと知った。
たくさんの人が、たくさんのことを考えている。生まれ持って幸運な人がいて、望まれずに生まれてきた人がいる。親から愛されて育った人も、親に捨てられた人もいるのだ。
掴みかけていた何かが、サウビの中で形を整えてくる。これを手にしなくては、春告げの花の下には立てない。
朝早くに、店の外で女の高い声が聞こえた。まだ店を開ける時間ではないので、自分の部屋から下を見下ろすと、初老の婦人が抱え込んだ荷物を男がひったくろうとしている。思わず窓を開け、助けを呼んだ。高い位置からの声は通り、近い店から下働きの少年が出てくる。ひったくろうとした男は、夫人を突き飛ばして走って逃げて行った。
少年は逃げた男を追い、サウビは店の扉を開けて夫人を座らせる。幸い抱えた荷物は無事だったが、夫人は足首を痛めたらしい。お茶を飲ませて落ち着かせたあと、次に森に送るために買ってあった膏薬を出した。
「こんなに親切にしていただいて」
しきりに恐縮する夫人は、サウビの母くらいの年齢だろうか。
「こんな荷物、ひったくってもお金にならないのにね。手を離してしまえば良かったのに、咄嗟に抱え込んでしまったわ」
そこに少年が顔を出し、男に逃げられたと告げた。
「ありがとう。あとでお礼に行くわ」
顔を赤くした少年が、何もしていないと辞退するのを見送って、サウビはもう一度夫人の足を確認した。かなり腫れがきている。
「歩けなければ、誰か呼びましょう。どちらに行かれますか」
夫人は一区画先の、本屋の名を出した。
「これの中身は、新しい雑巾とハタキなのよ。こんなもののために怪我をして、主人に怒られてしまう」
迎えに来た男の肩を借り、夫人は幾度も礼を言って帰って行った。
それが何かの縁になるなんて、サウビは想像もしていなかった。夫人は本屋の内儀だったが、商売には関わっていないらしい。礼を言うために果物を持ってきたあと、何度か店に訪れた。
「娘がいないのが残念だわ。女の子を着飾らせる楽しみを、持っていたいものだわね」
そんなことを言いながら、息子の嫁を連れて飾り物を買ってやったりする。そうやって何度かお茶を出しているうちに、親しくなった。
「まあ、弟さんが働き口を探しているの? 良い話があれば、持ってくるわね」
そう言った翌週から、サウビが驚くほどの情報が集まりはじめる。本屋はいろいろな場所に品物を配達するからと、学者や医者の助手の仕事まで話がある。話だけでラツカを呼び寄せるわけにいかず、サウビはいくつかの場所に訪ねて行った。
もちろん、けんもほろろに断られることはある。サウビを上から下まで眺めたあと、あんたなら雇ってやると言い放つ人間もいるし、何人もの助手が疲れた顔をしているのに本人だけ色艶良く太っている男もいた。
「文字の読み書きくらいはできるのかね」
「口減らしに能無しを預けられてもねえ」
紹介者の夫人が憤慨してくれるぶん、サウビの中に憤りは生まれなかった。否、そんなことよりも次のことを考えたかったのだ。
がっかりして店に戻る途中に、知らない女に呼び止められた。
「サウビってのは、あんたかい」
何故かはじめから喧嘩腰で、言いかたは居丈高だった。そうだと返事すると、いきなり近寄ってサウビに平手打ちをした。
「何……?」
反射的に怒りが湧き、やりかえそうと手を振り上げたときに、唐突にラツカの声が聞こえた気がする。
「何故、いきなりこんなことをするの。私はあなたを知らないわ」
振り上がった手から力が抜け、相手に向かって声が出た。
「私は知らなくたって、うちの亭主は知っているだろう? 貞淑そうな顔をして、男を誑かしやがって」
激高する女から後退りして距離を取る。
「知りません。働いている店に男は入れないし、私が行くのはパン屋と花屋くらいなもので」
言いかけたサウビの声に、女の声が被った。
「あんたが色目を使ったから、うちの人は花屋を首になっちまったんだよ。どうしてくれるんだい、明日のパンも買えないじゃないか」
以前、花屋の男が店に押し掛けたことがあった。まさかあれが、嫁を持っていると思わなかった。
「私はあの人の名前を知りませんし、顔を覚えてもいませんでした。まして奥様がいらっしゃるなんて」
「その綺麗な顔で、ずいぶんスラスラ嘘が出てくるんだねえ」
肩のあたりに拳を感じながら、サウビはその場に蹲った。そしてサウビの中に出てきた言葉は、怒りには程遠かった。
可哀想に。サウビを困らせたのはこの人の夫で、妻には何も関係ない。おそらくこの人も、半分くらいはそれがわかっている。それなのに怒りの行き場がなくて、見かけたサウビにそれをぶつけようとしているのだ。可哀想に。
通りがかりの人たちが女を止め、サウビを助け起こす。しっかりと髪に差し込んだ簪は、抜けずに髪の中にとどまっていた。
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