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この感情を逃しちゃいけない
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八月に入ってもトクソウ部は忙しく、ペンキ塗り部隊とポリッシャー部隊に分かれて毎日出動する。汚れ落としのプロの由美さんと何でもござれの片岡・菊池ペアを先頭に、毎日スケジュールが組まれていく。その他にも日常清掃が薄い日に有給を使いたいとか夏休みが欲しいとか(学生は休みでも、学校自体は休みじゃない)の人のサポートにも入らなくてはならないし、マンション管理でも駐車場の雑草が伸びて来るしでバタバタだ。
そんな中で竹田さんが、帰り支度をしている由美さんに声を掛けた。
「由美さん、そろそろ虎太郎が学童に行くの飽きてんじゃない? 月曜とか金曜とか、土日と繋げて休んで遊んでやってよ。じゃなければ、盆に続けて休む?」
「えー? 予定もお金もないし、大丈夫だよ。学童の子たちは多かれ少なかれ、似たようなもんだし」
由美さんが笑って帰ろうとする。
「いや、市民プールとか電車に乗っていく公園とかでいいんだよ。母ちゃんが自分のために休みをとってくれたってだけで、すっげー嬉しいから。俺ん家も共稼ぎだったから、そこは虎太郎の味方だ。頼むわ」
「だって夏休みって、結構忙しいじゃない。手が空いたら休むよ」
そこに植田さんが口を挟んだ。
「手が空いたらなんて言ってたらずっと休めないし、由美ちゃんが子供のためにって休んだって、ここには文句言う人なんていないんだから」
「そうそう。俺も親父の件でずいぶん休ませてもらったけど、由美さんは文句なんて言わなかったじゃない」
竹田さんが重ねて言う。そしてトクソウ部をぐるりと見まわして、続けた。
「どうせなら、みんな交代で夏休み取る? 俺はもう有休ないけど」
竹田さんは由美さんの表情を見て、みんなに声を掛けたんだな。和香はそう理解した。由美さんの顔の中には『自分だけが休めない』って書いてあった。だから全員が交代で休もうって。それなら、和香はそれを援護するべきだ。
「私、来週の水曜日に休んでいいですか? 夏休みー」
「おまえはダメ。水曜日は管理さんと打ち合わせ日だし、どうせ予定なんかないだろうが」
「なんで? ひどい、パワハラです!」
「俺が決めたからですー。みんな、休みの希望出して、調整してね」
子供みたいな竹田さんの言い分に、腹が立つやらおかしいやらで、和香は顔に困った。それでも由美さんは帰る前にカレンダーをちらりと見て行ったので、虎太郎君との夏休みを考えたに違いない。
こんな風に、他人に気を遣いたい。見ていないようでちゃんと見ていて、必要な時だけそれを出してくる。そんな芸当が、自分にできるだろうか。そんなに丁寧に、人と関わることができるだろうか。いつの間にか全員帰ってしまったトクソウ部の室内の真ん中で、和香はカレンダーを見つめる。あと一か月、それではあまりに時間が足りない。まだ竹田さんのことを、よく知らない。
一緒に作業に出るたびに竹田さんの作業と共に他人との関りを観察し、もっといろいろな場面で見てみたいと思う。それが募っていくことを言いかえた言葉を、和香は知っている。ただ知っているのは言葉だけで、自分から口に出したことなんてなかった。
でもきっと、この感情を逃しちゃいけない。一度でも口に出さなければ、きっと後悔する。急展開の自分の心について行けないうちに八月も半ばを過ぎ、どうしようどうしようと時間が経っていく。送別会の話はあったが、竹田さんのお父さんの都合で、現在は夜に家を空けられないと言う。
「もうじき落ち着くから、夜に出歩けるようになったら連絡するわ。もう一回、みんなと飲みたいし」
申し訳なさそうな顔をしながら、竹田さんは言った。
あと一週間、もう後がない。作業を終えて戻った駐車場で、和香の心臓は口から飛び出る寸前だった。
「竹田さん!」
「お、なんか文句ある?」
和香の勢い込んだ声に、竹田さんが顎を引く。
「つきあってください!」
精一杯の言葉なのに、何がどうして伝わらないのか。
「どこへ? 酒なら、今はちょっと無理」
趣旨が違う! 泣きそうになりながら、なんとか言葉を探した。
「竹田さんを前提に!」
「俺が前提って何よ」
竹田さんが鈍いのか、和香がテンパり過ぎなのか、多分両方である。
「じゃなくって、私と竹田さんが!」
「は?」
ここで竹田さんは、ようやく和香の言わんとすることに気がついたらしい。
「俺、介護案件つきの三十路のおっさんよ?」
「私だって何年かしたら三十路になります! 介護だっていつか抱えるかも」
支離滅裂である。竹田さんは少し困った顔をして、ポリッシャーを車から降ろした。
「悪いけど、今は余裕無いわ。家のことがもう少し整理ついたらでいい? しかし、なんつうかモノズキな……」
ダメだった! ここまで勇気を振り絞ったのに! 涙ぐむ和香の頭を、竹田さんが小突く。
「あと一月くらいだと思うけど。待てる? 和香サン」
辛うじて笑っているとわかるくらいの、口許だけの笑みがある。けれどその言葉は。
そんな中で竹田さんが、帰り支度をしている由美さんに声を掛けた。
「由美さん、そろそろ虎太郎が学童に行くの飽きてんじゃない? 月曜とか金曜とか、土日と繋げて休んで遊んでやってよ。じゃなければ、盆に続けて休む?」
「えー? 予定もお金もないし、大丈夫だよ。学童の子たちは多かれ少なかれ、似たようなもんだし」
由美さんが笑って帰ろうとする。
「いや、市民プールとか電車に乗っていく公園とかでいいんだよ。母ちゃんが自分のために休みをとってくれたってだけで、すっげー嬉しいから。俺ん家も共稼ぎだったから、そこは虎太郎の味方だ。頼むわ」
「だって夏休みって、結構忙しいじゃない。手が空いたら休むよ」
そこに植田さんが口を挟んだ。
「手が空いたらなんて言ってたらずっと休めないし、由美ちゃんが子供のためにって休んだって、ここには文句言う人なんていないんだから」
「そうそう。俺も親父の件でずいぶん休ませてもらったけど、由美さんは文句なんて言わなかったじゃない」
竹田さんが重ねて言う。そしてトクソウ部をぐるりと見まわして、続けた。
「どうせなら、みんな交代で夏休み取る? 俺はもう有休ないけど」
竹田さんは由美さんの表情を見て、みんなに声を掛けたんだな。和香はそう理解した。由美さんの顔の中には『自分だけが休めない』って書いてあった。だから全員が交代で休もうって。それなら、和香はそれを援護するべきだ。
「私、来週の水曜日に休んでいいですか? 夏休みー」
「おまえはダメ。水曜日は管理さんと打ち合わせ日だし、どうせ予定なんかないだろうが」
「なんで? ひどい、パワハラです!」
「俺が決めたからですー。みんな、休みの希望出して、調整してね」
子供みたいな竹田さんの言い分に、腹が立つやらおかしいやらで、和香は顔に困った。それでも由美さんは帰る前にカレンダーをちらりと見て行ったので、虎太郎君との夏休みを考えたに違いない。
こんな風に、他人に気を遣いたい。見ていないようでちゃんと見ていて、必要な時だけそれを出してくる。そんな芸当が、自分にできるだろうか。そんなに丁寧に、人と関わることができるだろうか。いつの間にか全員帰ってしまったトクソウ部の室内の真ん中で、和香はカレンダーを見つめる。あと一か月、それではあまりに時間が足りない。まだ竹田さんのことを、よく知らない。
一緒に作業に出るたびに竹田さんの作業と共に他人との関りを観察し、もっといろいろな場面で見てみたいと思う。それが募っていくことを言いかえた言葉を、和香は知っている。ただ知っているのは言葉だけで、自分から口に出したことなんてなかった。
でもきっと、この感情を逃しちゃいけない。一度でも口に出さなければ、きっと後悔する。急展開の自分の心について行けないうちに八月も半ばを過ぎ、どうしようどうしようと時間が経っていく。送別会の話はあったが、竹田さんのお父さんの都合で、現在は夜に家を空けられないと言う。
「もうじき落ち着くから、夜に出歩けるようになったら連絡するわ。もう一回、みんなと飲みたいし」
申し訳なさそうな顔をしながら、竹田さんは言った。
あと一週間、もう後がない。作業を終えて戻った駐車場で、和香の心臓は口から飛び出る寸前だった。
「竹田さん!」
「お、なんか文句ある?」
和香の勢い込んだ声に、竹田さんが顎を引く。
「つきあってください!」
精一杯の言葉なのに、何がどうして伝わらないのか。
「どこへ? 酒なら、今はちょっと無理」
趣旨が違う! 泣きそうになりながら、なんとか言葉を探した。
「竹田さんを前提に!」
「俺が前提って何よ」
竹田さんが鈍いのか、和香がテンパり過ぎなのか、多分両方である。
「じゃなくって、私と竹田さんが!」
「は?」
ここで竹田さんは、ようやく和香の言わんとすることに気がついたらしい。
「俺、介護案件つきの三十路のおっさんよ?」
「私だって何年かしたら三十路になります! 介護だっていつか抱えるかも」
支離滅裂である。竹田さんは少し困った顔をして、ポリッシャーを車から降ろした。
「悪いけど、今は余裕無いわ。家のことがもう少し整理ついたらでいい? しかし、なんつうかモノズキな……」
ダメだった! ここまで勇気を振り絞ったのに! 涙ぐむ和香の頭を、竹田さんが小突く。
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