芙蓉の宴

蒲公英

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戻り霜の降りる枝 4

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 健康診断を受けた翌日に、クリニックから直接連絡があった。診断結果をまとめる前に、早急に話があると。クリニックからの早急な話など良い知らせであるはずはなく、日曜日に計画している梅を見るための外出を楽しめるのかと気にしながら、勤め先に半日休みを申し出る。まだ一年程度の勤めだが、それなりに仕事はあるし、昼食を一緒に摂るくらいの人はいる。
「それは気になるねえ。あそこは検診がメインのところだから、何かあれば全部紹介状だよ。良い病院を教えてもらえばいいよ」
 上司に当たる人は、親身にそう言ってくれた。とても気の毒そうな顔だと思ったのは、自分が不安だからだろうか。上手く眠れない夜を過ごして、予約通りに翌朝早くにクリニックを訪れると、医師はモニタに数枚の画像を映し出した。胃カメラのものだった。
「ここね、これ、わかりますか。拡大すると、こんな感じ。これね、あまり良くない感じのものです」
「良くないって、ガンですか」
「生体検査しないと確定ではありませんが、おそらく。紹介状を書きますから、早いうちに予約を入れてください」
「まったく症状を感じないのですが」
「見たところそんなに大きくはないですから、あとは紹介先で聞いてね。そんなに不安がらなくて大丈夫ですよ。医学はびっくりするようなスピードで、進歩してます」
 クリニックの医師は、呑気な顔で言った。向こうは珍しいことでもないのだろうが、私にとっては青天の霹靂と言えるほどの出来事だ。それでも私には、もうひとつ訊いておかねばならないことがある。
「普段の生活で、何か制限したほうが良いことはありますか。出掛けるとか、食事とか」
「まだ確定ではないと言ったでしょう。暴飲暴食は避けて、喫煙の習慣があるなら止めるチャンスです。あと、過度の飲酒も止しておきましょうか。あんまり深刻にならずに、とりあえず検査を受けてくださいね」
 診察室を出た私は、どんな顔をしていたろう。受付で支払いを済ませて、紹介状を受け取ったときは。
 今時、ガンは不治の病ではない、まして自覚症状が出る前に見つかったのだから、まだ浅いに違いない。いやいや、確定ではないと言われたじゃないか。もしかしたら何か小さな潰瘍が、そう見えただけなのではないか。

 病院から勤め先に向かう最中に眩暈がし、知らないマンションの入り口の階段に腰掛けた。自分がこんなに気弱だとは、知らなかった。
 家庭もない、仕事だって大層な実績があるわけじゃなし、今は糊口をしのぐような勤めしか持っておらず、特別に懇意な友人もいない。自分は生きることに執着する理由なんて、何もないと思っていた。それなのに、この動揺はどうだ。指先の震えは何のためだ。
 唐突に年老いた母の顔が浮かぶ。父を亡くしたあとも子供を頼ろうとせずに、自分の生活を一番に考えなさいと言った母は、健康に不安を抱いたときにどう遣り過ごしていたのだろう。今更こんなことに気付く息子は、なんと親不孝なのか。
 コート越しに石の冷たい感触が尻に伝わり、身体が震えた。こんな場所に、いつまでも座っているわけにはいかない。紹介された病院に電話を入れて予約を取り、はっきりさせなくてはならないだろう。その前に上司に内々の話として、報告しておかなくては。
 自分でもどかしくなるほどゆっくりとしか歩は進まず、のろのろと歩きながら彼女との約束を思う。心の中から消えなかった面影を、やっと現実のものとして受け止めることができたのだ。約束をキャンセルできるわけがない。
 このことについて、考えるな。何もかも検査しなくてはわからないのだから、週末は彼女と外出することだけを考えろ。
 こんな年齢になって、不安を隠して他人と対峙することに自信が持てないなんて、ずいぶん怠けた人間関係しか持っていなかったのだと、自分を嘲る。

 母に知らせてはならないが、入院にでもなれば保証人が必要だし、何かあったときの連絡先も必要だろう。姉に頼むしかない。甥はもう大学生だが、姉本人と義兄さんには少々迷惑をかけるかも知れない。
 ひとりの生活でも、ひとりだけでは上手く立ち行かないものだ。そんなことすら気がつかずにいたのは、やはり私の精神のアップデートが足りない証拠なのか。自分は公休日の土曜日の部屋の中で、インターネットで検索した胃ガン情報を読み漁る。検査もしていないのに先走るなと自分に言い聞かせても、記事を追う目を閉じることができない。翌日は早いのだから寝ろと自分に言い聞かせ、二十二時には布団に入ったが、何度も目が覚めては寝返りを打った。私はひどく弱い。
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