芙蓉の宴

蒲公英

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戻り霜の降りる枝 5

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 祖母が退院し、その後特別に騒ぎも起きていないからと、母から実家に呼ばれた。食事制限を受けている祖母は外食が難しく、けれど私がいれば機嫌良く食が進むらしく、好きな果物を携えて仕事帰りに寄った。
「芙由ちゃんが元気だと、私も嬉しいわ」
 入院ごとに小さくなっていく祖母が、一緒の食卓に着く。家の中はきちんと片付いていて、母と父がちゃんと協力し合って家事を行っていることがわかる。父がまだ勤めを持っていたときには手が回っていなかった、高い場所の埃が払われている。
 ここが幸福の場所だ。協力し合い、補いあって生活を作ることの、なんて輝かしいことか。もちろん小さな不平や不満はあるだろうけれど、それを飲み込んで余りある信頼感がある。この両親が、私にとっての普通だった。だから時を経れば、夫婦はこんな風にこなれていくものだと、無意識に思い込んでいたのかも知れない。どんなに紆余曲折があっても、最後に手の中に残るのは穏やかな信頼感だと。

 祖母が寝室に引き上げたあと、病院のバス停での話を父にした。心配させるのは嫌だったが、もしもまた夫が何かするようならばと、対策を相談するべきだと思う。
「偶然に見つけたとは思えない。おそらく俺か母さんが病院に行くのを、つけたんだろうな」
「いやだ、私は何もしてないのに」
「ああいうのを、理解しようとしちゃいけない。離婚のときの弁護士に連絡はしておくが、充分気をつけてくれ」
 そしてふうっと溜息を吐いた。
「幸福になると思って結婚させたのにな」
 それがやけに、胸に刺さった。幸福になるために送り出され、疲れ果てて戻ってきた私は親不孝だ。老齢になってきた両親に、まだ面倒をかけている。黙った私の頭を、父は子供にするように撫でた。
「こんなことになるなんて、誰も思わんよ。本人だってわからんだろう。そもそも何がはじまりなのか。確かに彼は酷いことをしたが、慰謝料って形で清算が終わっているつもりだったんだろう。世間知らずだが、法的には確かに終わった話だ。その外にいる人たちは、本来なら何も知らないはずなのに、結局は一番大事な居心地の部分を突いてくる。まあ、それをおまえに転嫁するのはお門違いだから、弁護士に頼むんだが」
 ごめんなさいと言った私に、父の顔は穏やかだった。
「我々は常に芙由の味方だよ。娘を守る手間を惜しむ親には、なりたくないよ」
 有難くて、顔が上げられなかった。もしも私が子供を育てることがあるとすれば、私も父のように子供を守りたいと思う。

 私が梅を見たいと言ったので、彼が場所を選んでくれた。私の住まいと彼の住まいは、電車の乗り継ぎを入れると四時間以上離れており、現地で待ち合わせすることになる。隣県なのに、私のほうの交通の便が悪いのだ。習い始めたフラワーアレンジメントも、少しずつナイフの使い方に慣れて、小さな靴箱の上が場違いに華やかになっている。
 やっとここまで来たのに、また私の生活を破綻させようと言うの? 私のしたことじゃない、全部あの男のしたことだ。
 病院前のバス停で腕を掴まれたあの日に、私の中で何かが切り替わったらしい。今まであの男を思い出すたびに、夫が……と無意識に考えていたが、あの男が……に変化している。義母の葬式依頼顔も見ていなかったのに、その間に離婚が済んで他人になったことを知っていたにも関わらず、私はまだ本当に理解してはいなかったのかも知れない。
 あの日急激に湧き上がって来た怒りは、私が持つべき正常な感情だったのだ。あの男は、私を尊厳ある人間として扱わなかった。直接謝罪することもなく金銭のやりとりだけで逃げたくせに、今頃になって責任を転嫁しようとしている。結婚していたころの私なら、あの男が機嫌良くいられるように、いろいろな気をまわしたかも知れないが、他人になることを望んだ本人が何をしようというのか。
 不幸になればいい。ありったけの不幸を、全身に受ければいい。そうして私の知らない所で、人生を破綻させて欲しい。今まで持たなかった感情に戸惑いながら、目が覚めた気がする。憎悪して良い相手だと、自分に自分が認めさせた。怒って当然だったのだと。
 同情があるとすれば、私は父を亡くした悲しさも母に忘れられる寂しさも知らず、他に身寄りのない心細さも知らないということだ。今のあの男には、自分の行動を諫めてくれる存在がない。本来ならそれに当たる存在の妻子が、実家に戻ったことが原因だから。けれど大本を辿れば。
 卵が先か鶏が先か。その場だけ繕って、私と現在の奥さんを上手く天秤にかけたつもりだったのだろう。ひとつずつ片付けることを億劫がった結果じゃないか。過ぎたことを思い返し、次々と新しい怒りを感じることに、妙な充実感がある。こんなことで高揚するほど、感情を閉じ込めていたとは思わなかった。

 そして金曜日の夜、父を通じて弁護士から連絡があった。
「圧力をかけてもらうのさ。一度警察に通報しているんだから、二度目は容赦ないぞと」
「自暴自棄になったりしない?」
「そこは弁護士先生に策があるようだよ。同席しなさい」
「日曜日は……」
「何か用事か?」
「大丈夫、行きます」
 彼との約束が頭を過ぎったが、自分の身の安全を確保する方が先だと思った。桜ほど花期は短くない。来週でも、梅はまだ咲いているだろう。せっかく計画してくれた彼には申し訳ないけれど、一週間延ばしてもらおうと決めた。怯えずに実家に行くことができ、無駄な怒りで興奮することもない夜が欲しい。怒りの感情はひどく消耗すると同時に、マイナス方向への活力になってしまう。もう終わったことで、清算も済んでいる。これを引きずり出して再燃させたって、私には何もメリットはない。あの男が消し炭を燻らせているのなら、火が熾きて大きくなる前に水をかけたい。
 彼に会うのが一週間延びるだけ。何年も会っていなかったのだから、それくらいは誤差のうちだろう。そう思いながらスマートフォンを手に取ると、胸がひりつくように痛んだ。よく知らない人なのに、どうしてこんなに慕わしいのだろう。会えると思っていた日が先延ばしになっただけで、こんなに寂しい。
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