暮井慈の事件簿

藤野

文字の大きさ
21 / 28
file.2 資産家の死

11.凍てつく微笑

しおりを挟む
 さて、雄と亀山が食堂を出てからしばらく。
 慈は柔らかな橙の灯火に照らされながら、優雅に芳醇ほうじゅんな香りを立ち昇らせる紅茶に舌鼓を打っていた。
 いかにも絵になる一挙手一投足に、屋敷の主である紡でさえ思わずうっとりと魅入ってしまう。
 それは控える使用人たちも変わらず、彼女たちは恍惚の息を吐いた。

「…………そんなに食い入るように見つめられたら、穴があいてしまうわ」

 困ったような笑みさえ美しい友人に、紡がはっと我に帰る。
 ごめんごめんと軽く謝りながらも目を逸らせずにいると、慈は仕方がないわねとでも言うように苦笑を滲ませた。
 それさえも紡の心を掴んでやまないのだから、人たらしというよりは最早魔性である。

 紡がそんなことを思っている時に、不意に慈が「そろそろかしら」と呟いた。
 ティーカップを持ち上げていた手が緩やかに動き、端末に触れる。華奢な指が数度画面を叩き、彼女はもう一度端末をしまった。
 その口許に、うっそりと艶やかな笑みを携えて。
 赤い弦月の如き唇が動くのを、紡はスローモーションをかけられたように見ていた。

「さあ、私たちも、動きましょうか」

 うふふ、と酷く楽しげな笑い声に、紡は言い知れぬ寒気を感じた。ぞくりと全身に冷や水をかけられたような、体の芯から凍てつかせるような、正体不明の悪寒。
 ふるりと身を震わせた友人に、慈がたおやかな動作で笑みを浮かべた。

「大丈夫よ、安心なさい。貴女が怖がることなんて、何一つありはしないのだから」

 そう語りかける声には、聖母もかくやと思うほどの慈愛に満ちている。
 けれど、紡は見つけてしまった。自身に向けられていない目線、瞳の最奥に、狂気とも見紛う激情が揺らめいている。

 これは、怒りだ。

 ここまで異常な怒り方をする人を、紡は初めて見た。
あいや、そもそも慈が怒る様さえ、今まで見たことはなかった。
 優艶に、凄絶に。形容する言葉は違えども、彼女は常に笑みを絶やさなかったから。

 けれど、これは違う。凍てつき、き尽くす微笑は、微笑ではない。

 硬直する紡をちらと見て、慈は徐に立ち上がった。

「いらっしゃい」

 紡の体が、本人の意思とは関係なく動き出す。
 誘われるまま勝手に慈に従う自分の体を、紡はどこか遠いことのように感じていた。

 控えていたメイドたちが、同じく恍惚とした表情で勤めを果たすべく動き出す。
 閉ざされていた扉が慈の歩に合わせて開かれた。

 月明かりだけが照らす屋敷。大理石の敷き詰められた回廊に響く、二人分の靴音。

「どこ、行くの……?」
「害獣は駆除しなきゃ。ーーねえ?」

 うふふ。ふふ。うふふふふ。
 暗闇の中、慈の楽しげな笑い声が響き渡る。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...