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第1部 序章・響紀
第8回
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響紀は居間で胡座を組み、ぼんやりと下らない深夜番組を垂れ流しながら、座卓の上に置いた預かったままのハンカチを眺めていた。白く清潔感漂うハンカチの隅には薄紅色の朝顔が一輪刺繍されており、それがあの時の彼女の頬を思い起こさせた。彼女のあの微笑みを忘れられず、ハンカチを通して彼女と繋がっている事に至高の幸福を感じていた。自然と口角が上がり、にんまりとした締まらない笑みがこぼれるが、響紀本人はまるでそんな自分の姿には気付いていなかった。彼女の姿を思い浮かべるだけで胸は高鳴り呼吸が早くなった。今こうしている間も彼女が何をしているのか、気付けばそんな事ばかりを考えていた。これほどまで夢中にさせる女性に響紀は会ったことがなかった。以前付き合っていた彼女にすら感じたことのないこの感情を、響紀はどうしたら良いのかまるで解らない。持て余すこの想いの丈を、いったいどうすれば良いのだろうか。
響紀の心はもはや完全に彼女の微笑みに絡め取られていた。まるで初めての恋に自分の気持ちをどう表現すれば良いのか戸惑い、奇行に走る小中学生のように、彼は苦しい胸をいかにすれば楽になれるか想い悩んでいた。
「……まだ起きてるの?」
背後の台所から突然声を掛けられ、響紀はふと我に返り、慌てたように振り向いた。そこには昨夜と同じTシャツにショートパンツといったラフな部屋着姿の奈央が立っていた。
「……何だよ、いいだろ、別に」
つっけんどんに返す響紀に、意外にも奈央は心配するように、けれど表情は変えずに居間に入り、響紀の前に立った。
「明日も仕事でしょ? 早く寝ないと寝坊するよ」
「いちいちうるさい奴だな。お前こそさっさと寝ろよ。今何時だと思ってんだ。お子様は寝んねの時間だろうが」
「……私はもう、子供じゃないわ」
「いいや、子供だね。クソ餓鬼だ。どんなに発育が良かろうが餓鬼は餓鬼だ。早く寝ろ」
その言葉に、奈央はこれ見よがしにため息を吐き、次いで何かに気付いたように眉間に皺を寄せた。
「……何だよ、言いたいことあんなら早く言え」
「そのハンカチ……」
と奈央は座卓の上に置かれたハンカチを指差す。
「ハンカチ? これが何だよ」
「……私が持ってたハンカチと同じやつだったから、ちょっと気になっただけ」
「はぁ?」と響紀は鼻で笑った。「そりゃぁ残念だったな。これはな、例の喪服の女性から直接手渡されたハンカチだ。お前のなんかじゃない」
「……あの子に会ったの?」
驚いたように眼を見開き、真正面から奈央が顔を覗き込んできた。こうしてまじまじと見てみれば、あの女性に勝るとも劣らない美しさがそこにはあり、それが彼女への想いをより増大させ、どういう訳か響紀のイライラを募らせていった。少し日に焼けているとはいえ滑らかな肌、吊り上がり気味だが透き通るような瞳、そしてその美しく艶やかで長い黒髪。その全てが彼女を思い起こさせ、響紀の中に何とも言えない苦しみを生み出していった。
もう限界だ、とばかりに、気づくと響紀は次の瞬間、声を荒げながら叫んでいた。
「しつっこいんだよ、お前は! いちいち突っかかってきやがって! そうかと思えば昼間みたいに俺と目が合ったくせに無視しやがってよ! 生意気なんだよ、お前は! 餓鬼の癖に大人ぶってんじゃねぇよ! 子供は子供らしく大人の言うこと聞いて大人しくしてりゃいいんだよ!」
大人げない、とは思った。こんな生意気な小娘に対して激昂するだなんて、大人として本当に情けなかった。けれど、どうしても響紀は感情を抑えられなかったのだ。何が自分をそうさせるのかまるで分からなかったけれど、今はそうして感情を発散させる以外に彼に出来ることなど一つもなかった。
「……そう。悪かったわね」
奈央は深い溜息を一つ吐くと、長い髪を靡かせながら響紀に背を向ける。
「仕事中みたいだったから敢えて声を掛けなかったんだけど、今度から挨拶くらいするわ。じゃあね、おやすみ」
そう言い残して、二階の自室へと戻って行った。
響紀はそんな後ろ姿に、これ見よがしに大きく舌打ちをする。
兎にも角にも、奈央の態度が気に入らなくて仕方がなかった。手当たり次第に暴れ回りたかったが、そんなことをするほど馬鹿じゃない。
響紀は心を落ち着かせようと大きく深呼吸を一つして……ふと奈央の残り香が鼻腔を刺激し、
「……え?」
と思わず目を見開いた。
それは、あの喪服の彼女が漂わせていた芳しい香りと、全く同じ匂いだった。
響紀はその匂いに動揺し、去っていった奈央の見えない背中を見つめていた。その背中が喪服の彼女と重なり、同一の存在であるかのような錯覚に見舞われる。
確かに背格好は似ている。あの髪もまた彼女と同じくらいに長く、瑞々しい黒だ。肌の色はやや日焼けしているが、もしあれが白かったらきっと、喪服の彼女と同じくらい儚げで美しい女になることだろう。性格がどうにも気に食わないが、その見た目だけで言えばあるいは並みの女優やアイドルより上かも知れない。
しかし、と響紀は首を横に振った。そんな奈央と喪服の彼女を重ね合わせた自身を恥じ、やれやれとため息を吐く。どうでも良いじゃないか、匂いなんて。奈央も一人の女なんだ。もしかしたら、喪服の彼女と同じ化粧品か何かを使っている、 ただそれだけのことだろう。いちいち気にするようなことじゃない。
響紀は喪服の彼女から借りたままのハンカチを掴むと、しかしそれでももやもやとした言い知れぬ思いに囚われながら、自分の部屋へと戻るのだった。
響紀は居間で胡座を組み、ぼんやりと下らない深夜番組を垂れ流しながら、座卓の上に置いた預かったままのハンカチを眺めていた。白く清潔感漂うハンカチの隅には薄紅色の朝顔が一輪刺繍されており、それがあの時の彼女の頬を思い起こさせた。彼女のあの微笑みを忘れられず、ハンカチを通して彼女と繋がっている事に至高の幸福を感じていた。自然と口角が上がり、にんまりとした締まらない笑みがこぼれるが、響紀本人はまるでそんな自分の姿には気付いていなかった。彼女の姿を思い浮かべるだけで胸は高鳴り呼吸が早くなった。今こうしている間も彼女が何をしているのか、気付けばそんな事ばかりを考えていた。これほどまで夢中にさせる女性に響紀は会ったことがなかった。以前付き合っていた彼女にすら感じたことのないこの感情を、響紀はどうしたら良いのかまるで解らない。持て余すこの想いの丈を、いったいどうすれば良いのだろうか。
響紀の心はもはや完全に彼女の微笑みに絡め取られていた。まるで初めての恋に自分の気持ちをどう表現すれば良いのか戸惑い、奇行に走る小中学生のように、彼は苦しい胸をいかにすれば楽になれるか想い悩んでいた。
「……まだ起きてるの?」
背後の台所から突然声を掛けられ、響紀はふと我に返り、慌てたように振り向いた。そこには昨夜と同じTシャツにショートパンツといったラフな部屋着姿の奈央が立っていた。
「……何だよ、いいだろ、別に」
つっけんどんに返す響紀に、意外にも奈央は心配するように、けれど表情は変えずに居間に入り、響紀の前に立った。
「明日も仕事でしょ? 早く寝ないと寝坊するよ」
「いちいちうるさい奴だな。お前こそさっさと寝ろよ。今何時だと思ってんだ。お子様は寝んねの時間だろうが」
「……私はもう、子供じゃないわ」
「いいや、子供だね。クソ餓鬼だ。どんなに発育が良かろうが餓鬼は餓鬼だ。早く寝ろ」
その言葉に、奈央はこれ見よがしにため息を吐き、次いで何かに気付いたように眉間に皺を寄せた。
「……何だよ、言いたいことあんなら早く言え」
「そのハンカチ……」
と奈央は座卓の上に置かれたハンカチを指差す。
「ハンカチ? これが何だよ」
「……私が持ってたハンカチと同じやつだったから、ちょっと気になっただけ」
「はぁ?」と響紀は鼻で笑った。「そりゃぁ残念だったな。これはな、例の喪服の女性から直接手渡されたハンカチだ。お前のなんかじゃない」
「……あの子に会ったの?」
驚いたように眼を見開き、真正面から奈央が顔を覗き込んできた。こうしてまじまじと見てみれば、あの女性に勝るとも劣らない美しさがそこにはあり、それが彼女への想いをより増大させ、どういう訳か響紀のイライラを募らせていった。少し日に焼けているとはいえ滑らかな肌、吊り上がり気味だが透き通るような瞳、そしてその美しく艶やかで長い黒髪。その全てが彼女を思い起こさせ、響紀の中に何とも言えない苦しみを生み出していった。
もう限界だ、とばかりに、気づくと響紀は次の瞬間、声を荒げながら叫んでいた。
「しつっこいんだよ、お前は! いちいち突っかかってきやがって! そうかと思えば昼間みたいに俺と目が合ったくせに無視しやがってよ! 生意気なんだよ、お前は! 餓鬼の癖に大人ぶってんじゃねぇよ! 子供は子供らしく大人の言うこと聞いて大人しくしてりゃいいんだよ!」
大人げない、とは思った。こんな生意気な小娘に対して激昂するだなんて、大人として本当に情けなかった。けれど、どうしても響紀は感情を抑えられなかったのだ。何が自分をそうさせるのかまるで分からなかったけれど、今はそうして感情を発散させる以外に彼に出来ることなど一つもなかった。
「……そう。悪かったわね」
奈央は深い溜息を一つ吐くと、長い髪を靡かせながら響紀に背を向ける。
「仕事中みたいだったから敢えて声を掛けなかったんだけど、今度から挨拶くらいするわ。じゃあね、おやすみ」
そう言い残して、二階の自室へと戻って行った。
響紀はそんな後ろ姿に、これ見よがしに大きく舌打ちをする。
兎にも角にも、奈央の態度が気に入らなくて仕方がなかった。手当たり次第に暴れ回りたかったが、そんなことをするほど馬鹿じゃない。
響紀は心を落ち着かせようと大きく深呼吸を一つして……ふと奈央の残り香が鼻腔を刺激し、
「……え?」
と思わず目を見開いた。
それは、あの喪服の彼女が漂わせていた芳しい香りと、全く同じ匂いだった。
響紀はその匂いに動揺し、去っていった奈央の見えない背中を見つめていた。その背中が喪服の彼女と重なり、同一の存在であるかのような錯覚に見舞われる。
確かに背格好は似ている。あの髪もまた彼女と同じくらいに長く、瑞々しい黒だ。肌の色はやや日焼けしているが、もしあれが白かったらきっと、喪服の彼女と同じくらい儚げで美しい女になることだろう。性格がどうにも気に食わないが、その見た目だけで言えばあるいは並みの女優やアイドルより上かも知れない。
しかし、と響紀は首を横に振った。そんな奈央と喪服の彼女を重ね合わせた自身を恥じ、やれやれとため息を吐く。どうでも良いじゃないか、匂いなんて。奈央も一人の女なんだ。もしかしたら、喪服の彼女と同じ化粧品か何かを使っている、 ただそれだけのことだろう。いちいち気にするようなことじゃない。
響紀は喪服の彼女から借りたままのハンカチを掴むと、しかしそれでももやもやとした言い知れぬ思いに囚われながら、自分の部屋へと戻るのだった。
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