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第1部 序章・響紀
第9回
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翌日も、響紀は気付くと仕事の途中、喪服の女宅前を通過する度に、ちらちらとその家の様子を窺っていた。
凡そ廃墟としか言いようのないその外観からはどこからも生活臭は感じられず、昨日庭師の谷によって剪定され整えられた木々ばかりが異彩を放っていた。その谷いわく、あの家には誰も住んでいないという。それがどうにも胸のうちに引っかかって気持ちが悪かった。
確かに俺は彼女をあの家まで送ったし、彼女があの家に入っていくところをこの目で見たんだ。昨日だってそうだ。あの家の裏に聳える山を見上げながら俺は彼女と話をしたし、彼女がやはりあの家に帰っていくのを見送ったんだ。彼女があの家に住んでいないなんてこと、あるわけがない。
なら、なぜ谷さんは頑なにあの家には誰も住んでいないなんて言い張っていたんだ?
響紀はいよいよ苛立ちを隠せず、アクセルを強く踏み込んだ。前を行く車の姿はなく、あっという間にスピードが上がる。危なくそのまま赤信号を突っ切りそうになり、響紀は慌ててブレーキを踏んだ。タイヤの甲高い悲鳴に続き、ガクンっと社用車が大きく揺れて停車する。冷や汗をかきながら、響紀は深いため息をひとつ吐いた。
気付くと彼女の事ばかりを考えている自分がいる。あの喪服に身を包んだその姿から醸し出される色香が、響紀の心を鷲掴みにし、決して離してはくれなかった。
あれ程魅力的な女性が、俺のこれまでの人生の中に、一人でも居ただろうか?
……いや、居ない。居る訳がない。
彼女の美しさは唯一無二であり、至高である。あの佇まいには気品を感じ、あの声には誰にも及ばない優しさが含まれているように思えてならなかった。
そして、あの芳しい香り…… あの香りは常に俺の心をかき乱し、惑わし、それは怒りとなって『奈央』に――
「えっ」
不意にそこで彼女の姿が奈央へと変わり、背筋がぞくりとした。
何であいつが出てくる。あいつは彼女と全然違うじゃないか。いちいち煩いし、生意気だし、可愛げがないし、どこを比べても喪服の彼女に劣っているというのに、何故?
それがどうにも腹立たしくて、気付くと響紀は強く拳を握りしめていた。眉間には深い皺が寄り、歯を食いしばっている自分がいる。出来ることならば大声で喚き散らしたい気分だったが、何とかその気持ちを呑み込んだ。
その時、突然背後からクラクションのけたたましい音が鳴り響いた。響紀ははっと我に返り、すでに信号が赤から青に変わっていることを理解する。
「……ちっ」
なおもしつこく鳴らされるクラクションに大きく舌打ちしつつ、響紀はぐっと、アクセルを強く踏み込んだ。
それからの数日間、響紀は喪服の女のことばかり考えていた。仕事中でもふと過《よぎ》るのは未だ名も知らぬ彼女の姿と声、そしてあの手の感触と温もりだった。優しげな微笑みを浮かべる彼女が心から離れず、自然と仕事はなおざりになりミスが増えた。
取引先からは苦情の電話が増え、幾度となく上司と共に頭を下げに行かされた。個人業績は悪化し、響紀を寄こすくらいなら別の奴を寄こせとまで言われた。上司に叱られるたびに食ってかかり、殴り合いの大喧嘩になりかけたこともあった。
その度に響紀は彼女に会いたい、話がしたいと強く願ったが、しかし喪服の彼女の家の前を通っても、その姿を見ることはついにできなかった。
会えなければこちらから会いに行けばいいじゃないか。
そんな事を思いもしたが、急に行って大丈夫だろうか、迷惑ではないだろうかと迷っているうちに、いつの間にか二週間以上が経過していた。その間、空は常に淀んで暗く、まるで響紀の胸のうちをそのまま映し出しているかのようだった。時折降る雨は彼女に会えない事を嘆く俺の涙か。柄にもなく、そんな詩的なことを考えるようになっていた。
会社からはしばらく休んで今後の身の振り方を考えるようにと指示された。事実上、辞表を出せと言われているようなものだったが、響紀はそんなこと気にもしなかった。
彼女への想いがただただ勝っていた、と言えば良いのだろうか。響紀はそのありあまる時間をとにかく彼女を想う事にのみ浪費していったのだった。
寝ても覚めても喪服の彼女への想いに囚われた響紀を、母は嘆き父は罵倒したが、彼はその全てを無視し続けた。
そんな無為な日々を過ごしていたある日の事だった。響紀がふらりと自室を抜け台所に行くと、そこに喪服の彼女の姿を見て一瞬、眼を見張った。
何故、彼女がここに、と戸惑ってしまったが、しかしすぐにそれが彼女ではなく奈央の制服姿だった事に気づき怒りが込み上げてきた。
歯を食い縛りながら奈央を睨みつけていると、
「……なに?」
と響紀に気づいた奈央が怪訝そうに顔をしかめた。
響紀は苦々しく思いながらも、それに答えることなく隣の居間に移動し胡座を組むと、テレビをつけた。下らないバラエティ番組が流れだし、特に興味はなかったがそのままぼんやりと見る。
イライラしている自分になおのこと苛立ち、けれどその感情のやり場の無さに響紀は更なる苛立ちを覚えるという負の連鎖。どうしても奈央と喪服の彼女を重ね合わせてしまう自分の眼を、彼はいっそのこと潰したくて仕方がなかった。
そんな響紀の前に、一杯のマグカップが横から差し出された。
「はい」
その声に顔を上げると、奈央が微笑みながら、
「何イライラしてるの? ちょっと落ち着いたら?」
それは初めて見る奈央の微笑みであり、その顔はより一層喪服の彼女と同化していった。もはやその姿は喪服の彼女そのものであり、響紀は思わず口元を緩めていた。
自然と両手が伸び、その肩を抱き寄せようとしたところで……
「ちょ、ちょっと、何! は、離して……!」
その声に我に返ってみれば、目と鼻の先で奈央が驚きの表情を浮かべながら嫌々をするように肩を揺らしていた。
「……えっ」
響紀はばっと奈央の肩から両手を離し、目を見張りながら後退る。
今、俺は、何をしようと――
動揺が隠せなかった。心臓が早鐘を打ち、全身からは汗が噴き出していた。手足が震え、思うように動かせない。
奈央もまた驚きを隠せないのか、両手にマグカップを持ったまま目を大きく見開き、響紀をじっと見つめている。
二人の間をしばらくの間沈黙が支配していたが、やがて先に口を開いたのは、奈央の方だった。
「いま、私に、何を……」
それっきり、奈央は口を閉ざした。居心地悪そうに、しかしどう取り繕えば良いかもわからず、ただ、そこに立ち尽くしている。
響紀もまた同様だった。自分が今、奈央に何をしようとしていたのか自分でも理解が出来ず、ダラダラと冷や汗だけが流れ落ちる。
奈央の困惑する瞳に見つめられて、遂に響紀は居たたまれなくなり、駆け出した。
「あ、待って……!」
背後から奈央の声が聞こえたが、響紀は立ち止まらなかった。
玄関に向かい、外に飛び出す。
駐車場の脇に停めていた自転車に飛び乗ると、響紀は逃げるようにして、どこへともなく漕ぎ出した。
凡そ廃墟としか言いようのないその外観からはどこからも生活臭は感じられず、昨日庭師の谷によって剪定され整えられた木々ばかりが異彩を放っていた。その谷いわく、あの家には誰も住んでいないという。それがどうにも胸のうちに引っかかって気持ちが悪かった。
確かに俺は彼女をあの家まで送ったし、彼女があの家に入っていくところをこの目で見たんだ。昨日だってそうだ。あの家の裏に聳える山を見上げながら俺は彼女と話をしたし、彼女がやはりあの家に帰っていくのを見送ったんだ。彼女があの家に住んでいないなんてこと、あるわけがない。
なら、なぜ谷さんは頑なにあの家には誰も住んでいないなんて言い張っていたんだ?
響紀はいよいよ苛立ちを隠せず、アクセルを強く踏み込んだ。前を行く車の姿はなく、あっという間にスピードが上がる。危なくそのまま赤信号を突っ切りそうになり、響紀は慌ててブレーキを踏んだ。タイヤの甲高い悲鳴に続き、ガクンっと社用車が大きく揺れて停車する。冷や汗をかきながら、響紀は深いため息をひとつ吐いた。
気付くと彼女の事ばかりを考えている自分がいる。あの喪服に身を包んだその姿から醸し出される色香が、響紀の心を鷲掴みにし、決して離してはくれなかった。
あれ程魅力的な女性が、俺のこれまでの人生の中に、一人でも居ただろうか?
……いや、居ない。居る訳がない。
彼女の美しさは唯一無二であり、至高である。あの佇まいには気品を感じ、あの声には誰にも及ばない優しさが含まれているように思えてならなかった。
そして、あの芳しい香り…… あの香りは常に俺の心をかき乱し、惑わし、それは怒りとなって『奈央』に――
「えっ」
不意にそこで彼女の姿が奈央へと変わり、背筋がぞくりとした。
何であいつが出てくる。あいつは彼女と全然違うじゃないか。いちいち煩いし、生意気だし、可愛げがないし、どこを比べても喪服の彼女に劣っているというのに、何故?
それがどうにも腹立たしくて、気付くと響紀は強く拳を握りしめていた。眉間には深い皺が寄り、歯を食いしばっている自分がいる。出来ることならば大声で喚き散らしたい気分だったが、何とかその気持ちを呑み込んだ。
その時、突然背後からクラクションのけたたましい音が鳴り響いた。響紀ははっと我に返り、すでに信号が赤から青に変わっていることを理解する。
「……ちっ」
なおもしつこく鳴らされるクラクションに大きく舌打ちしつつ、響紀はぐっと、アクセルを強く踏み込んだ。
それからの数日間、響紀は喪服の女のことばかり考えていた。仕事中でもふと過《よぎ》るのは未だ名も知らぬ彼女の姿と声、そしてあの手の感触と温もりだった。優しげな微笑みを浮かべる彼女が心から離れず、自然と仕事はなおざりになりミスが増えた。
取引先からは苦情の電話が増え、幾度となく上司と共に頭を下げに行かされた。個人業績は悪化し、響紀を寄こすくらいなら別の奴を寄こせとまで言われた。上司に叱られるたびに食ってかかり、殴り合いの大喧嘩になりかけたこともあった。
その度に響紀は彼女に会いたい、話がしたいと強く願ったが、しかし喪服の彼女の家の前を通っても、その姿を見ることはついにできなかった。
会えなければこちらから会いに行けばいいじゃないか。
そんな事を思いもしたが、急に行って大丈夫だろうか、迷惑ではないだろうかと迷っているうちに、いつの間にか二週間以上が経過していた。その間、空は常に淀んで暗く、まるで響紀の胸のうちをそのまま映し出しているかのようだった。時折降る雨は彼女に会えない事を嘆く俺の涙か。柄にもなく、そんな詩的なことを考えるようになっていた。
会社からはしばらく休んで今後の身の振り方を考えるようにと指示された。事実上、辞表を出せと言われているようなものだったが、響紀はそんなこと気にもしなかった。
彼女への想いがただただ勝っていた、と言えば良いのだろうか。響紀はそのありあまる時間をとにかく彼女を想う事にのみ浪費していったのだった。
寝ても覚めても喪服の彼女への想いに囚われた響紀を、母は嘆き父は罵倒したが、彼はその全てを無視し続けた。
そんな無為な日々を過ごしていたある日の事だった。響紀がふらりと自室を抜け台所に行くと、そこに喪服の彼女の姿を見て一瞬、眼を見張った。
何故、彼女がここに、と戸惑ってしまったが、しかしすぐにそれが彼女ではなく奈央の制服姿だった事に気づき怒りが込み上げてきた。
歯を食い縛りながら奈央を睨みつけていると、
「……なに?」
と響紀に気づいた奈央が怪訝そうに顔をしかめた。
響紀は苦々しく思いながらも、それに答えることなく隣の居間に移動し胡座を組むと、テレビをつけた。下らないバラエティ番組が流れだし、特に興味はなかったがそのままぼんやりと見る。
イライラしている自分になおのこと苛立ち、けれどその感情のやり場の無さに響紀は更なる苛立ちを覚えるという負の連鎖。どうしても奈央と喪服の彼女を重ね合わせてしまう自分の眼を、彼はいっそのこと潰したくて仕方がなかった。
そんな響紀の前に、一杯のマグカップが横から差し出された。
「はい」
その声に顔を上げると、奈央が微笑みながら、
「何イライラしてるの? ちょっと落ち着いたら?」
それは初めて見る奈央の微笑みであり、その顔はより一層喪服の彼女と同化していった。もはやその姿は喪服の彼女そのものであり、響紀は思わず口元を緩めていた。
自然と両手が伸び、その肩を抱き寄せようとしたところで……
「ちょ、ちょっと、何! は、離して……!」
その声に我に返ってみれば、目と鼻の先で奈央が驚きの表情を浮かべながら嫌々をするように肩を揺らしていた。
「……えっ」
響紀はばっと奈央の肩から両手を離し、目を見張りながら後退る。
今、俺は、何をしようと――
動揺が隠せなかった。心臓が早鐘を打ち、全身からは汗が噴き出していた。手足が震え、思うように動かせない。
奈央もまた驚きを隠せないのか、両手にマグカップを持ったまま目を大きく見開き、響紀をじっと見つめている。
二人の間をしばらくの間沈黙が支配していたが、やがて先に口を開いたのは、奈央の方だった。
「いま、私に、何を……」
それっきり、奈央は口を閉ざした。居心地悪そうに、しかしどう取り繕えば良いかもわからず、ただ、そこに立ち尽くしている。
響紀もまた同様だった。自分が今、奈央に何をしようとしていたのか自分でも理解が出来ず、ダラダラと冷や汗だけが流れ落ちる。
奈央の困惑する瞳に見つめられて、遂に響紀は居たたまれなくなり、駆け出した。
「あ、待って……!」
背後から奈央の声が聞こえたが、響紀は立ち止まらなかった。
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