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第3部 序章・玲奈
第1回
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彼らは常に生者と共にあった。
生者と同じように歩き、喋り、まるでそこに居るのが当たり前であるかのように行動する。けれどもその会話は時として支離滅裂で取り留めもなく、まして生者にその声は全く届いてなどいなかった。
傍から見れば仲の良さそうな複数人の女子に、或いは家族の中に、彼らは常に紛れ込んでいる。そこに居るのが当然であるかのように、何の違和感もなく、どこにでも。
だからこそ、宮野首玲奈は長いこと彼らが既にこの世を去った死者であることに気付かなかった。
たまに頭部の半分えぐれた者、手足の足らない者、腹部から臓物のはみ出た者も彷徨いていたが、幼い頃から見ていたその光景が当たり前だった玲奈にとって、姉である結奈から聞かされたその真実は、あまりにも衝撃的なものだった。
「今まで話しかけたりしなくて良かったね」結奈はそう言って、青ざめた表情で玲奈を見た。「私なんて、うっかり話しかけちゃって付きまとわれたことあるから。ほんとウザかったよ」
「そのときはどうしたの?」
玲奈が問うと、結奈は右手をぎゅっと握り込んで拳を突き上げ、
「気合いパンチ」
と自慢げににやりと笑んだ。
「き、気合いパンチ?」
「そ」と結奈はうなずいて、「あれらは肉体を失った魂、いわば気みたいな存在だからさ。こっちも気合いを込めてパンチやキックで押していけば、だいたいどっかに散って消えちゃう。まあ、成仏とかお祓いとか、そんなもんよ」
「そんなもん……」
「そ。そんなもん」
そんな会話を交わしたのが、確か小学生の終わり頃から中学生になってすぐのことだっただろうか。以来、玲奈も結奈を見習って気合いパンチというものを試してみようと思ったのだけれど、結奈とは違い、玲奈はそこまで思い切りの良い性格ではなかった。彼らが死者であるという現実に気付かされたことにより、多少の恐怖が生まれたということもあったのだが、それよりも問題なのは、特に実害のない状況で、彼らに対して暴力行為を働くことに、なんとも言えない引け目のような感情を抱いていたのである。
だからこそ、今、目の前にいる害ある浮遊霊に対して、玲奈はこれから初めて気合いパンチを試してみるつもりだった。
その浮遊霊は玲奈の通う高校の、運動場片隅に設けられた古い女子更衣室周辺をいつもさまよい歩いていた。ただそれだけであれば何の害もないよく見かける普通の浮遊霊だったのだが、彼の本質は『女子更衣室の覗き見』をすることにあったのだ。
彼は生者から見えないことを良いことに、ニヤニヤ笑いを浮かべながら、体育着に着替える女子高生たちを、舐めるように眺めるという許されざる行為を繰り返していたのである。当然、玲奈も嫌々ながら、その眼に何度も下着姿を晒してきた。凶暴性のある浮遊霊かもしれないと警戒し、なるべく浮遊霊に『玲奈にはその姿が見えている』という事実を悟られないよう注意しながら、高校に入学してからの1年近くもずっと耐えてきたのだけれど、さすがに我慢の限界だった。
特にここ数ヶ月は玲奈の比較的大きな胸に興味を抱いたのか、まるで玲奈を待ち構えているような素ぶりすらあって、それゆえに玲奈はついに、彼に対して姉・結奈直伝の気合いパンチを振るう決意をするに至ったのだった。
女子更衣室裏の狭い通路。
そこで浮遊霊たる彼は突然玲奈から声をかけられ、心底動揺している様子だった。自分が生者には見えない霊的存在であるという自覚はあるらしく、「え? 見えてるの? いやいや、そんなはずはない。俺の姿はもう誰にも見えてないはずなんだ、きっと他の誰かに声をかけただけで……」と独り言をつぶやきながら彼は辺りを見回し、やはり自分と玲奈しか今この場にはいない事を確認すると、
「……え、マジ? 見えてるの? 俺が? なんで……」
と、玲奈を恐怖に満ちた眼で見つめ、身をぶるぶると震えさせ始めた。
そんな彼の姿に、玲奈は「よし、いけそう!」と内心で呟き、そっと右拳に力を込めた。
こんなに怯えているんだもの、きっと大した力なんてこの霊にはないはず。お姉ちゃんから教わった気合いパンチを試してみるには、ちょうど良い相手……のはず!
そう思った玲奈は精一杯の怖い顔をしてみせて、ぐっと右拳を後ろに引いてから、
「じ、成仏してください!」
何となくどこかで読んだホラー漫画で主人公が言っていたような台詞を口にしながら、「えーい!」とまるで気合いの入っていない気合いパンチを浮遊霊の胸に向かって振り下ろして、
ぽこんっ
そんな軽い感触だけが、そこにはあった。
確かに浮遊霊には当たっている。本来ならば当たるはずのない一撃が、浮遊霊である彼の胸元に当たっている。
きょとんとしたのは浮遊霊である彼だけでなく、玲奈もまた同様だった。
「え? あれ? あれれ?」
玲奈は追加でポコポコと浮遊霊の胸を叩いてみたが、しかしまるで効果はないようだった。当たりはするが、彼には効いているような素振りが全くなかった。
むしろ玲奈の気合いパンチならぬへっぽこパンチに戸惑っているらしく、吹っ飛ばされると思って覚悟していたのに、何も起こらなくて自分自身もどうして良いのか分からない、というような様子だった。
「……え? なんで? なんで?」
玲奈が焦りを覚え始めた頃、
「何してんの玲奈、そんなとこで」
中学校からの友人で、クラスメイトである矢野桜が女子更衣室の脇から顔を覗かせ、不思議そうに尋ねてきた。
「さ、桜? えっと、こ、これはね……」
と玲奈は桜に振り向き、浮遊霊の彼を説明しようともう一度顔を戻すと、
「え? あれ?」
すでにそこには、あの浮遊霊の姿はどこにもなかった。
辺りを見回してみても、逃げた先の痕跡すら見当たらない。
「……これって、何かあんの?」
首を傾げるそんな桜の問いに答える事なく、玲奈は肩を落としながら、
「に、逃げられちゃった……」
自らの情けなさに、辟易してしまうのだった。
彼らは常に生者と共にあった。
生者と同じように歩き、喋り、まるでそこに居るのが当たり前であるかのように行動する。けれどもその会話は時として支離滅裂で取り留めもなく、まして生者にその声は全く届いてなどいなかった。
傍から見れば仲の良さそうな複数人の女子に、或いは家族の中に、彼らは常に紛れ込んでいる。そこに居るのが当然であるかのように、何の違和感もなく、どこにでも。
だからこそ、宮野首玲奈は長いこと彼らが既にこの世を去った死者であることに気付かなかった。
たまに頭部の半分えぐれた者、手足の足らない者、腹部から臓物のはみ出た者も彷徨いていたが、幼い頃から見ていたその光景が当たり前だった玲奈にとって、姉である結奈から聞かされたその真実は、あまりにも衝撃的なものだった。
「今まで話しかけたりしなくて良かったね」結奈はそう言って、青ざめた表情で玲奈を見た。「私なんて、うっかり話しかけちゃって付きまとわれたことあるから。ほんとウザかったよ」
「そのときはどうしたの?」
玲奈が問うと、結奈は右手をぎゅっと握り込んで拳を突き上げ、
「気合いパンチ」
と自慢げににやりと笑んだ。
「き、気合いパンチ?」
「そ」と結奈はうなずいて、「あれらは肉体を失った魂、いわば気みたいな存在だからさ。こっちも気合いを込めてパンチやキックで押していけば、だいたいどっかに散って消えちゃう。まあ、成仏とかお祓いとか、そんなもんよ」
「そんなもん……」
「そ。そんなもん」
そんな会話を交わしたのが、確か小学生の終わり頃から中学生になってすぐのことだっただろうか。以来、玲奈も結奈を見習って気合いパンチというものを試してみようと思ったのだけれど、結奈とは違い、玲奈はそこまで思い切りの良い性格ではなかった。彼らが死者であるという現実に気付かされたことにより、多少の恐怖が生まれたということもあったのだが、それよりも問題なのは、特に実害のない状況で、彼らに対して暴力行為を働くことに、なんとも言えない引け目のような感情を抱いていたのである。
だからこそ、今、目の前にいる害ある浮遊霊に対して、玲奈はこれから初めて気合いパンチを試してみるつもりだった。
その浮遊霊は玲奈の通う高校の、運動場片隅に設けられた古い女子更衣室周辺をいつもさまよい歩いていた。ただそれだけであれば何の害もないよく見かける普通の浮遊霊だったのだが、彼の本質は『女子更衣室の覗き見』をすることにあったのだ。
彼は生者から見えないことを良いことに、ニヤニヤ笑いを浮かべながら、体育着に着替える女子高生たちを、舐めるように眺めるという許されざる行為を繰り返していたのである。当然、玲奈も嫌々ながら、その眼に何度も下着姿を晒してきた。凶暴性のある浮遊霊かもしれないと警戒し、なるべく浮遊霊に『玲奈にはその姿が見えている』という事実を悟られないよう注意しながら、高校に入学してからの1年近くもずっと耐えてきたのだけれど、さすがに我慢の限界だった。
特にここ数ヶ月は玲奈の比較的大きな胸に興味を抱いたのか、まるで玲奈を待ち構えているような素ぶりすらあって、それゆえに玲奈はついに、彼に対して姉・結奈直伝の気合いパンチを振るう決意をするに至ったのだった。
女子更衣室裏の狭い通路。
そこで浮遊霊たる彼は突然玲奈から声をかけられ、心底動揺している様子だった。自分が生者には見えない霊的存在であるという自覚はあるらしく、「え? 見えてるの? いやいや、そんなはずはない。俺の姿はもう誰にも見えてないはずなんだ、きっと他の誰かに声をかけただけで……」と独り言をつぶやきながら彼は辺りを見回し、やはり自分と玲奈しか今この場にはいない事を確認すると、
「……え、マジ? 見えてるの? 俺が? なんで……」
と、玲奈を恐怖に満ちた眼で見つめ、身をぶるぶると震えさせ始めた。
そんな彼の姿に、玲奈は「よし、いけそう!」と内心で呟き、そっと右拳に力を込めた。
こんなに怯えているんだもの、きっと大した力なんてこの霊にはないはず。お姉ちゃんから教わった気合いパンチを試してみるには、ちょうど良い相手……のはず!
そう思った玲奈は精一杯の怖い顔をしてみせて、ぐっと右拳を後ろに引いてから、
「じ、成仏してください!」
何となくどこかで読んだホラー漫画で主人公が言っていたような台詞を口にしながら、「えーい!」とまるで気合いの入っていない気合いパンチを浮遊霊の胸に向かって振り下ろして、
ぽこんっ
そんな軽い感触だけが、そこにはあった。
確かに浮遊霊には当たっている。本来ならば当たるはずのない一撃が、浮遊霊である彼の胸元に当たっている。
きょとんとしたのは浮遊霊である彼だけでなく、玲奈もまた同様だった。
「え? あれ? あれれ?」
玲奈は追加でポコポコと浮遊霊の胸を叩いてみたが、しかしまるで効果はないようだった。当たりはするが、彼には効いているような素振りが全くなかった。
むしろ玲奈の気合いパンチならぬへっぽこパンチに戸惑っているらしく、吹っ飛ばされると思って覚悟していたのに、何も起こらなくて自分自身もどうして良いのか分からない、というような様子だった。
「……え? なんで? なんで?」
玲奈が焦りを覚え始めた頃、
「何してんの玲奈、そんなとこで」
中学校からの友人で、クラスメイトである矢野桜が女子更衣室の脇から顔を覗かせ、不思議そうに尋ねてきた。
「さ、桜? えっと、こ、これはね……」
と玲奈は桜に振り向き、浮遊霊の彼を説明しようともう一度顔を戻すと、
「え? あれ?」
すでにそこには、あの浮遊霊の姿はどこにもなかった。
辺りを見回してみても、逃げた先の痕跡すら見当たらない。
「……これって、何かあんの?」
首を傾げるそんな桜の問いに答える事なく、玲奈は肩を落としながら、
「に、逃げられちゃった……」
自らの情けなさに、辟易してしまうのだった。
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