風の街エレジー

新開 水留

文字の大きさ
上 下
32 / 51

31 「竜千」

しおりを挟む
「ずっと目を覚まさんのは、円加さんが心の奥底で、目覚めたくない思いよるからじゃろうか」
 心配そうに円加の手を握りながら、響子がそんな言葉を呟いた。
 あれからずっと眠り続ける円加にはなんの表情も浮かんではいない。しかし見えない彼女の奥底に、響子が言うような現実を拒む強い思いがあるならば、こんなに悲しい寝顔はなかった。
 役目を終えた斎場。その隣の座敷に一同は介し、沈痛な面持ちと必要最小限のコミュニケーションだけで、円加の目覚めをただ待ち続けた。
 和明が円加の側に座り込み、顔を覗き込んだ。
「よう、寝とるな」
「寝とるわけや、ないと思います」
 響子がそう言うも和明は答えず、友穂が呼んで響子を自分の隣へ座らせた。
 寒い夜が明けて朝日が辺りを照らし始めても、今日という新しい一日が訪れたようには感じられなかった。彼らにとってはまだ、昨日の夜が続いている。
 複雑に絡み合う事情も、順序立てれば一本の線に紐解かれ、それほど荒唐無稽な謎が潜んでいるわけではないと、やがては誰もが知る事となる。問題は、現実を受け入れるだけの心が強く備わっているか、それだけなのだ。
 善明和明の死は、言うまでもなく偽装である。
 事の発端と呼べる切っ掛けは二つあり、まず一つは和明がこのタイミングで能登円加の窮地を救うべく赤江に帰った事。そして東京へ舞い戻って来たのも彼一人であり、計画した偽装を円加に信じ込ませる条件が整った事で、中核を担う対象が和明に決定した。近しい人間を誰か一人でも騙す事が出来ればそれで良く、たまたま可能だったのが円加であり、条件さえ揃えば他の誰でも実行に移せたという。例えば銀一の死を偽装し友穂を騙すでも、春雄の死を偽装し響子に信じ込ませるでも、可能であればそれで良かったのだ。だが信じ込ませる条件として、対象となる恋人とその相手が一旦は離れ離れになる状況が必要だと考えれていた。
「私、円加にどう謝ってええか、今もはっきり分からんのよ」
 と、友穂が言った。
 銀一達は最善と思われた計画を、好機と思われたタイミングで実行に移したに過ぎない。しかし惨いと言えば、その通りなのだろう。銀一を始め、真剣な目でテーブルに残された握り飯に齧り付く竜雄も、壁に背を預けて目を閉じていた春雄も、傍らの響子も、そして円加の足元で膝を抱えて座っている千代乃も、一様に浮かない視線を友穂の横顔に向けた。
「どれだけ考えても、円加を納得させるだけの理由が、やっぱり出てこない。賛成してこの計画に乗っかった自分はもちろん同罪やけど、もう、この子の叫び声を思い出すたんびに、許してもらおうと思う気持ちが萎える」
「うん」
 涙を堪えて響子が頷き、耳を傾ける男達はただ溜息をもらすしかなかった。友穂は続ける。
「赤江に戻って、電話一本で和明がすぐ助けに戻った。事情が少し複雑やったのは和明からも聞いたけど、同じ女として考えた時、やっぱり円加は嬉しかったと思うんよ。単純な喜びだけやない、なんというか、彼女の人生において、ぐっと、何かを得て、何かを掴んだ日というか、そういう幸せがあったように、私には思えた。もちろん和明は死んでなんかない、事が済めば、笑って話せる可能性だってあった。私は、そうなると思いよった。でも、それはやっぱり甘かったかな」
「私らが思ってるよりずーっと強く、円加さんは和明さんを思いよったね」
 響子は辛そうな笑みを浮かべたままそう言い、
「この子の思いを楽観視しすぎた結果がこれやよ」
 そう同意する友穂の嘆きに、男達はさらに大きくため息をついた。
 成功なのか失敗なのか判断の難しいこの計画について彼らが明らかな後悔を滲ませるには、それなりの理由があった。それは発案者がこの部屋のどこにもいない、という事である。この計画を打ち出したのは、実を言えば獄中の藤堂義右なのだ。藤堂は入所間もなくの頃から舎弟を使って、かねてから描いていた絵図を銀一達に伝達して来ていた。いわば玄人による筋書きの存在が、計画を成功に導くと共に事態をややこしくさせた要因でもあった。
 本来素人考えで和明の死を偽装しようものなら、恐らくは一瞬でウソとばれた筈なのだ。しかしそこは、長年赤江に根を張る博徒系ヤクザの時和会である。東京にある盟友団体、酒和会の助力を得て、ヤクザと堅気を大勢巻き込んだ大博打に打って出た。
 藤堂の描いた絵図は、シンプルかつ手堅いものだった。極道の世界では昔から使われる手法であり、詳細はその都度違えど数多くの結果を残して来た。
 例えば構成員の誰かが多額の借金を抱え、あるいは組の金を着服し、飛んだとする。この時代の人探しは最終的に人海戦術に頼るしか方法がなく、非効率的で、かつ得られる効果もそれほど高くはなかった。そこで使われた手が、「身内の死の偽装」である。
 特に極道に身をやつす輩にとっての母親という存在は大きく、自分の身代わりとなって殺された母の噂や葬儀の話を聞き付ければ、居てもたってもいられず地元へ帰り着く、というのが定説とされてきた。
 実際その効果はてき面で、一族郎党もろとも巻き込み借金を盾にニセの葬儀を執り行い、参列は出来ないまでも一目会いに戻った息子をひっ捕らえる、という流れは想像よりも遥に大きな成果を生んで来た。
 今回の和明の死も、その手法をベースに更なるスケールアップがなされて偽装が施された。 
 まずは当然、和明の両親にも計画のあらましを伝えている。もちろんその裏にある真相は話せない。だが和明自身の言葉と時和会藤堂の名前があれば、「事が済むまで喪服を着て過ごす」程度の協力は惜しむはずがなかった。ただでさえ現在赤江周辺は、暴力団抗争による不穏な緊張状態が続いている。「たったそれだけの事」で平常な日々が戻る手助けになるならと、二つ返事で和明の両親は快諾したと言う。
 葬儀の行われる場所が東京であるという事もまた、偽装には一役買っている。バリマツの死んだ因縁の地であり、友穂、響子、そして春雄といった面々が住んでいる遠い街である事は、こちらで和明が亡くなった知らせを受けた親族が駆け付けるまでに、この時代で言えばおよそ半日から一日半の時間を要する事を意味する。
 それは偽装を仕掛ける銀一達にとっては、真相を知る人間だけで脇を固められた仮通夜の理由として真実味があり、物理的な遠距離が極端に少ない参列者の言い訳として大きな意味を持った。そして実際に遠く離れた赤江に目線を移せば、和明の両親たちが喪に服しているのだ。
 事情を知らない人間がこの状態を傍から見て、和明の死を疑う理由はどこにもないと言えるだろう。
 極めつけは、能登円加である。彼女だけが唯一、何も聞かされていなかった。つまり、頭のてっぺんから爪の先まで、和明の死に直面して哀れにも心を激しく傷めた。芝居でもなんでもない心底から放たれた彼女の慟哭を見て、疑える人間などいはすまい。
 これらの事象を、果たして志摩がどこまで観察していたかは分からない。
 しかし和明の顔から白い布切れが外されるまで、警戒しながらも否定しきれない所まで信じ込ませた事は確かだった。その点だけを見れば、和明の死の偽装は成功と言える。だがその他は全てが不味かった。
 獄中の藤堂にしてみれば、志摩を誘き寄せる目的以外の事はどうもよいだろう。しかし、最も優先すべき目的が達せられて尚、理想とする結果には至らず、残された現状は酷い有様でしかなかった。一番の目的であった志摩には結局逃げられる。能登円加は意識を失ったまま回復しない。そして…。
「なあ。竜雄は知っとるの?」
 和明なりに、小声で千代乃に話しかけたつもりだった。
 だがこの部屋は今、恐ろしく静かだった。その事に気付かない和明は確かに鈍感だったが、だがその鈍感さは時に恋人である円加を幸せにしたように、決して人間的な欠点とばかりも言えなかった。和明の声には少しも怒りや攻撃的な気配が含まれていなかった。誰よりも驚いたはずの和明はしかし、微塵にも千代乃という人間を疑ってはいないのだ。
 千代乃は円加の寝顔に視線を向けたまま、首を横に振った。
 一同の目が竜雄に向かう。竜雄は最後の握り飯を口に放り込んで、我関せずといった風だ。
「まだ食べる?」
 と友穂が聞いた。
「いらん。ごちそうさん」
 竜雄を無視して、和明は千代乃に尋ねた。
「そんならなんで、自分の過去に秘密がある事、バラすような真似した? 黙って銀ちゃんに呼びに走れば、それで事は上手く運んだんかもしれんぞ?」
「咄嗟でした」
 と千代乃は答えた。
「バラすつもりなどなかったのですが、あの志摩という男を間近で見た時、正直殺されると思いました。それ程あの男は、危険だと思い、つい」
「ほな、俺の為なんか?」
「和明さんだけやないです。自分の為でもありますし、皆さんの、…ああ、もう、何言うても白々しいだけですね」
 やつれたようにも見える千代乃は自嘲気味な笑みを片頬に浮かべ、掌で涙を拭った。
「少なくとも俺は、感謝しとるよ」
 和明は言い、千代乃は大きく息を吸い込んで、頷いた。
 二人のやりとりを見ていた春雄が、一切そちらを見ようとしない竜雄に気が付き、テーブルの足をガツンと蹴った。
「なんじゃあ」
 と竜雄が睨むと、春雄は顎をしゃくって千代乃に向けた。竜雄は冷めた目で天井を仰ぎ、そして千代乃の横顔を見やった。
「何がほんまで、何がウソか、それだけ言うてくれや」
 圧のある竜雄の言葉に、
「お前よお」
 と春雄が何かを言いかけた。
「お前はしゃしゃり出るな」
 竜雄はぴしゃりと一言で春雄を抑え、千代乃の返答を無言で促した。
「ウソかホントで言うのなら、ほとんどウソです」
 と千代乃は答えた。
 誰も言葉を発しなかった。だが交錯する視線や息を呑む喉、溜息や鼻で笑う音などが暴力的なまでに千代乃の耳に届いた。千代乃は唇を噛んで俯き、手の甲で涙を拭いた。
「でも、千代乃いう名前は、ほんまやろ?」
 と和明が聞いた。
「はい」
 和明は笑い、
「もうそれだけでええやんけ、実際にここにこうしておるのやから」
 と言って竜雄らを見やった。銀一は微笑み、春雄も頷いて同意を示した。
 だが竜雄はそうならなかった。一段と目が座り、ほとんどヤクザ者と変わらない目付きで壁の沁みを睨んでいる。そんな竜雄の態度が気に入らないのだろう、舌打ちする和明の顔色を察して、友穂が少しだけ身を乗り出した。
「その、千代乃の秘密いうのを、なんで和明は知ったの?」
「俺やない、志摩が気付いたんよ。急な事で理解が追い付かなんだけど、俺には志摩と千代乃さんは、つまりは、同じ世界の人間なんかなあって、そういう風に聞こえたわ」
「同じ世界て何? ヤクザ?」
「…いや」
 和明の視線が千代乃の首筋あたりに注がれる。
 白く長い首。黒よりは茶色に近い地毛。陶器のように滑らか肌。涙に濡れて赤みがかる目尻。強く結ばれた唇。だがしかし透明感のある可憐な女性である千代乃に対し、和明はひょっとしてという思いを拭いされずにいた。
 ひょっとしてこの女は、今この部屋にいる誰よりも修羅場を経験して来たんじゃないのか?
「聞いていただけるなら、話をすることはやぶざかではありません」
 と、千代乃が言った。
「ですが、話を終えても円加さんが目覚めぬうちは、私はここにおらしてもろうてもええですか」
「もちろんじゃ、けったいな心配すんな」
 和明が異論を挟ませぬ語気でそう言うと、
「では、お話します」
 千代乃は頷いて顔を上げた。
 『裏神天生堂』という字を書くのだという。志摩が口走った聞きなれぬ名称の事である。
 赤江で古くから恐れられて来た黒の団(黒の巣、黒誠会)がいわゆる日本の西側にルーツを持つ裏世界の存在であるように、日本の東側から北に起源を持つ団体が存在する。
 線引きの難しいカテゴリーの中で、例えば暴力団、一般的に極道者、ヤクザ者と呼称される人間たちとて、庶民の立場から見れば十分に裏世界の人種と言えよう。しかし建前上は違っても、実際のところ極道と堅気の世界はビジネスにおいて切っても切れない相互関係にあり、それがどんな商売であれ「しのぎ」と呼ばれる何某かの手段を用いて得る金銭無くして、団体の存続は在りえないのだ。それはある意味、堅気の世界あっての裏世界と言えなくもない。まさに世界の裏表である。
 だがここに、およそ表の世界を相手にせず、一切のビジネスライクな建て前を必要としない二つの存在がある。なぜなら彼らが商売相手としているのは裏世界そのものであり、その特性上一般市民と関わる必要も理由もないからだ。
 それが『黒の団』であり、『裏神天生堂』である。
「黒、みたいなもんか?」
 と和明が聞いた。千代乃は頷き、
「もう少し、実態は生々しいと思います。私もそちらの名前は聞いた事がありますが、ほとんど確かな情報は存じていません」
 と答えた。同じ世界を匂わせながらも、やはり『黒』について確かな情報を持っているわけではなさそうだった。
「千代乃さんは、その裏神なんやらの、…その、何て言うてええのか、そこの人間なんか?」
 続けて和明が、遠慮がちな言葉選びで尋ねる。
「今は違います。違うと、思っています。私がいた場所は個人の役割が細分化された、養成機関を設けた実体のある団体です。もちろん一般市民にはそれと分からぬよう、表向きは『大謁教』(おおえっきょう)という宗教団体を名乗っています」
「あ、聞いたことある」
 と、思わず首を伸ばしたのは響子だ。反応したのは響子だけであったが、実際はこの場にいた全員がその宗教を知っていた。身の周りで信者の存在を聞いた事はないが、銀一達が生まれる前から当たり前のようにこの国に根付いている、かなり有名な宗教団体である。千代乃は頷き返しつつ、続ける。
「大謁教は、今でいう宗教法人としての地位を向上させる目的で、昔から戦災孤児や親に捨てられた身寄りのない者を率先して組織に引き入れ、力を誇示してきました。もちろんただ引き入れて面倒を見るわけではなく、それなりの仕事を与えて金銭に換えていたのです。それが…裏神天生堂、です」
「仕事言うのは?」
 そう尋ねた和明の目を見据え、千代乃は答えるのをためらった。しかしその顔に浮かんでいたのは、恐ろしく綺麗な無表情だった。
「上の指示に従う事です。それが全てです。それが何を意味するのかという質問に対する答えは、あの組織にいた人間に聞けば皆違った事を言うはずです。孤児たちは大謁教に入信した直後、性別と年齢によって別々の養成機関に送られます。そこで、適性のある仕事に対する訓練のようなものを、それと知らされないまま行います。その施設は日本中にあり、私もその一つで育ちました」
「じゃあ、今は?」
「裏神で唯一、救いのある点は…」
 和明の問いには答えず、千代乃は無理から微笑みを浮かべて話を続けた。
「一定年数を経過すれば、解放される事です。とはいえ、幼い頃から暮らす家であり、そこ以外に行くあてのない人間ばかりですから、戸惑う者がほとんです。しかし死ぬまで強制的に働かせたり、秘密保持のために殺したりしない点は、あのような組織においてはかなり異例だと思います。もちろん裏切りに対する粛清は行われます。だけどそもそもが、裏切りようながいんですよ。こんな話、誰も信じてなんかくれませんから」
 千代乃がガクリと首を落とすと、畳の上に音を立てて涙が落ちた。聞こえる筈のない涙の音が銀一達にも届いたのは、誰もが千代乃の告白に衝撃を受け、一言も返す言葉が思い浮かばない為であった。
 千代乃は顔を上げ、言う。
「志摩という人が私を知っているのは、あの人自身が社会の裏側にいる組織の人間だという証明であると共に、私の経歴が外部に知られていたせいだと思います」
「…経歴?」
 千代乃は和明を見据え、頷いた。
「私は年齢的にもいわゆる戦災孤児ではありませんし、そもそも、身寄りのない子供でもありませんでした。私は…」
「分かった!」
 突然そう叫んだのは、竜雄だった。そのあまりの声量に皆、雷でも落ちたのかと体をギクリとさせた。
「もうええ。それ以上は、もうええわ」
 壁の染みを見つめたまま言う竜雄の顔には既に怒りなどなく、悲しみとも同情ともつかない複雑な思いが、彼の唇を震わせていた。
「私は大謁教、そして裏神天生堂七代目当主の、娘です」
 竜雄の制止を押し切って告白した千代乃の言葉に、一番近くで話を聞いていた和明が思わず顔を伏せた。こんな話が、あって良いのか。それは現実に対するある種の恐怖感だったという。
「私に与えられた仕事は、大謁教の母体である裏神天生堂を象徴する巫女であり、そして、次期当主を身ごもる事でした。二年前私は十八歳で八代目を身ごもり、去年その子を出産し、それを条件にこうして解放されたと、そういうわけです」
「…子供は?」
 聞いたのは友穂だ。千代乃は首を横に振り、口には出来ない様子だった。
 そこから会話は繋がらなかった。秘密を言わせるだけ言わせて、こちらは一様に押し黙るのではあまりに不憫と思い、友穂は子供の行方を聞いた。しかしそれとて本当は聞きたいわけではなかった。話の流れでいけば、仲睦まじく共に暮らしているはずがないのだから。友穂は尋ねた事を後悔した以上に、千代乃を思いやる言葉を掛けられなかった事を強く悔いた。こんな時、年長者の自分がしっかりしなくては。三人の女たちの中で、千代乃だけが自分を友穂姉さんと呼ばない。しっかりしなきゃいけない。しっかりしろ。友穂は激しく自分を急き立てるも言葉は出て来ず、涙だけが溢れた。
「千代乃。逃げろ」
 そう言ったのは、竜雄だった。
「え?」
 聞き返す千代乃を、壁ばかり見ていた竜雄がしっかりと見据えていた。
「お前は今、きっとこう思うとるやろ。…辛さに耐え、痛みに耐え、孤独に耐え、恐怖に耐え、不安に怯え、命からがら逃げ延びて、それでもまだ運命から逃げ切れないのか。裏神なにがしから解放されたと思うた矢先、今度は黒に見つかるのか。私は、どこまで行っても自由にはなられへんのか」
 竜雄の言葉に、千代乃は両手で顔を覆った。
「逃げえ、千代乃。誰がなんと言おうとお前は自由の身なんや。生まれた家がなんであれ、過去がどうであれ、これからを生きる選択は千代乃自身がするべきなんじゃ。どこへでも行け。どこへ行ってもええんやから。西でも南でも、海外でもええ。好きに生きろ。志摩は俺達がなんとかする。お前の後を追わせたりなんぞ、この俺がさせん。だから、幸せに生きろ。…頼む」
 顔を覆い隠していた千代乃の手が拳を握り、力強く震えた。そのままの状態で、千代乃は言った。
「今やから言えますが、私が竜雄さんとお会いしたのは、あのお弁当屋さんが初めてではありません」
「…」
 千代乃は顔の前から両手を下ろし、真っ赤な目で竜雄を見つめた。
「ご存じでしたか?」
 その問いに、竜雄は首を横に振った。
「初めてお会いしたのは、滋賀県の琵琶湖のほとりです。九か月の身重ながら、気分転換の外出を許された私は監視付きで琵琶湖を訪れました。そのまま、湖に身投げして子供もろとも死んでやろうと、そう思っていました。思い詰めた私の雰囲気を悟ったのか、たまたま仕事で通りかかった竜雄さんが私を呼び止めてくださいました」
「…あ」
「そうです。あの時の女が、私です。お気づきにならないのは無理もありません。その時はお腹も大きかったですし、誰にも顔を見られとうなくて、泥棒みたいにほっかむりまでしてましたから。それでも竜雄さんは、路肩に停めていたあの大きなトラックから飛び降りて、私の側へ走って来てくださいましたね。どないした? 貧血か? お腹空いたか? 努めて明るく声をかけるあなたに驚きながらも、私はすがるような思いで正直に打ち明けました。これからの事を考えると、生きていく気力が沸いてこないのです。現実をまっすぐに見据える気持ちが、沸いてこないのです。子を宿した母親がしていい発言ではありません。だけど竜雄さんは笑って、ほな、思い切って一旦逃げてまう、いうのはどうやろのお。そう仰いました。今から日本の北の方までぐんぐん登って行くからよお、一緒に行くかい? 話相手になってくれよ、居眠り運転怖いからよ。そしたらあんた、ただ逃げるだけやのうて、俺の付添いいう理由が出来るし、気分転換はお腹の子にも、ええんと違う?」
 竜雄から掛けられたという言葉を発する千代乃の声が、やがては嗚咽に変わって聞こえてくるのを、誰もが目を伏せて聞いていた。
「嬉しかった」
 泣いているとも思える千代乃の声に、友穂も響子も両手で顔を押さえた。もはや千代乃の姿を直視する事が出来たのは、竜雄ただ一人であった。
「私は本当は、見知らぬあなたにでもついて行きたい程でした。でも私を監視している教団の人間がいるとは分かっていましたから、ご迷惑をかけると思い、辞退しました。また今度お会いする事が出来たら、その時は是非ご一緒させて下さい。そう言った私に、元気な子産みやと、笑いかけて下さいました。最後までまともに顔を見せなかった私に、竜雄さんはそう仰って下さいましたね。世の中にはあなたみたいな人もいるんだと思うと、少しだけ希望が湧きました。だけど私は、その子を産みたいと思ったわけではありませんでした。生まれた子は八代目です。この世に零れ落ちた瞬間から組織の次期当主となる事を運命づけられた、哀れで呪われた子です。私は、運命という言葉を憎みます」
「千代乃、もう、ええから」
「運命とは、命を運ぶと書きます。生まれた子は一体何故、どんな業を背負って、どこへ運ばれたんでしょうか。組織から解放された私の命は、どこへ運べば良いのでしょうか」
「千代乃」
「ですが、悪いことだけではありません。流れ流れて、赤江の隣町であなたのお姿を見つけた時、これがそうか、これが運命かと思いました。空腹に釣られて立ち寄ったあのお弁当屋で、あなたの姿をお見かけた私の様子が、よっぽどのぼせ上がっているように思えたのでしょうね。お店の女将さんが教えて下さいました。あの男は自分の母親が作ってくれる弁当だけでは満たされず、せやけどそうと言い出せぬ家庭の事情から、ここへ毎日一番安い弁当を買いに来てくれるんだよ。岡惚れしちまったなら、あんたもここへ通うがいいよ」
「っはは、あの業突く張りのばあちゃんは、人の為だか自分の為だか」
「もちろんその時の私に、毎日お弁当屋へ通える程の稼ぎはありませんでした。そこで考えたのが、あのお店で働かせてもらう事です。よその事はよく分かりませんが、私はお弁当屋というものをあの場所で知ったものですから、売り物のお弁当が裏で調理されている事も理解していませんでした。そもそも私はそれまで、一度も手料理を作った事がなかったんです。まともに包丁も握れなかった私は売り子をしながら、料理のいろはを学ばせていただきました。まだまだおぼつかない私の手は、今でも時折怪我をします。そんな時、おかしな手渡し方をする私を見て、竜雄さん、あなたがなんと仰られたか覚えておいでですか?」
「…いや?」
「『食べる事は命を繋ぐということや、命を繋ぐ大事なものを、心のこもった両手で差し出すあんたの姿勢が気に入った』」
 竜雄は両拳を握りしめ、染みだらけの天井を見上げた。
「…竜雄さん、私の命を繋いでくださったのは、あなたです。心のこもった両手を私に差し出してくださったのは、あなたです。私はもう、どこにも行きたくなんかありません。逃げる場所なんて、どこにもありません」
 銀一が立ち上がり、春雄が立ち上がり、和明が立ちあがった。見るべきものなど何もない天井を見つめる竜雄の肩を、銀一が優しく叩いた。そして男達は部屋を出た。いや、出ようとしたその時だった。
「和明!」
「和明さん!」
 友穂と響子が声をあげたのは、ほぼ同時だった。
 うっすらと目を瞼を開いた能登円加が、眩しそうに眼を細めていた。布団の中からゆっくりと右腕を出し、電灯の光を遮るように顔の前に持ち上げると、
「円加さん!」
 名を叫んだ千代乃が彼女に覆い被さった。
 安堵のため息が諸所で広がった。銀一は思わずしゃがみ込み、春雄は入り口の襖を叩き、竜雄はぎりぎり堰き止めていた涙が勢いよく溢れ、慌てて後ろを向いた。
 千代乃はまるで先程までの話など忘れてしまったかのように、満面の笑みを浮かべて円加の背中に手を差し込み、彼女が起き上がるのを手伝った。
「あ」
 と、響子が声を上げた。
 円加の前髪、左側の一部が白く、色が抜け落ちていた。先程まではそんな風ではなかった。意識が戻り、現実に帰って来た瞬間そうなったとでもいうのだろうか。だがそれでも、友穂達は皆笑顔だった。
 部屋から退出しかけていた和明が円加の側まで戻って来ると、ありえないものを見た彼女の頬に赤みが差した。
「…生き返らはったんですか?それとも、私が死んだんですか?」
 そう言った円加の目から、はらはらと涙が落ちる。
 和明はバツが悪そうに頭を掻き、「すまんかった」と一言詫びをいれた。
「良かった。良かった」
 責めもせず、声を荒げることもせずただそう繰り返す円加に千代乃は腕を回し、そして駆け寄った友穂と響子が二人に咽びついて泣いた。






しおりを挟む

処理中です...