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10. お風呂のお作法
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久野知之は、見た目に関しては様々な特徴を即座に挙げることができるほど目立つ外見をしているが、内面に関しては押しが弱くて押しに弱い善良な少年であるということ以外のコメントが非常に困難な、ごく普通の男子高生である。
「なんで俺がお前を風呂に入れてやらなきゃならないんだよ!」
この世に救いはないのか、と久野は職員用の洗面所兼脱衣所で、向坂のお風呂セットを抱き締めて思った(押しが弱くて押しに弱い善良な性格のせいで、ここまでずるずる来てしまったのである。しかも拒み切れずに、こちらに来る前に自室で制服から半袖シャツとハーフパンツという、何処からどう見ても濡れてもいい服装にしか見えない格好に着替えてしまっていた)。すると向坂は遠慮なくうんざりした顔をした。
「お前は本当に果てしなく馬鹿だな。一瞬地平線を探したぞ」
「他人のことを馬鹿って言う奴が馬鹿なんだろ!」
久野の知性の欠片も感じられない反論に、向坂はうんざりした顔から軽蔑しきった顔へ表情を切り替えた。
「僕は女の身体が大の苦手なんだ。想像しただけで内臓に蕁麻疹ができそうになる」
「それは前にも聞いた。なんか表現がレベルアップしてるけど」
「お前が記憶していないようだから、わかりやすく説明してやったんだろうがこの鳥頭。あー、続けるぞ。それで、自分で着替えたり身体を拭いたりすることができなかった僕が、風呂で自分の身体を洗えると思うか?」
「思えません」
「よし、それならさっさと脱がせてくれ。僕は目を瞑っているから」
「ご冗談でしょ」
昨日の無駄勃ちからの無駄撃ちによって天に召されていった自らの哀れな精子たちの姿が、久野の脳裏をまるで走馬灯のように駆け巡った。彼は目を閉じ自問自答した。俺はあの悲劇を再び演じてしまうのか、to be, or not to be、消えろ短い蝋燭、否、そんなことがあってはならない、過ちは二度と繰り返さない、それが先に逝った小さな我が分身たちへのせめてもの罪滅ぼしだ、云々。
「向坂。この際はっきり言わせてもらうが、お前を風呂に入れたら、間違いなく俺は勃起する。何が悲しくてこれ以上お前なんかでちんこを勃てねばならないんだ。そんなの地獄以外の何ものでもないだろう。脱ぐのと着るのだけは手伝ってやるから、ほかは自分で何とかしろ」
悲壮な決意のもと、彼は拒絶の言葉を口にした。が、その厳つい肩は悪代官の前に転がされた生娘のように弱々しくぶるぶる震えていた。ゴッドは半眼になって片眉を上げ、南極ツンドラを吹き抜ける風のごとき眼差しを彼の股間に注いだ。
「なるほど、勃起するのが嫌なのか。それなら簡単だ、今から僕が『調整』してやる。声は我慢しなくていいからな」
「嫌だよお前絶対俺のちんこ潰す気だろ鬼畜ケダモノ人でなし!!!」
「――あのな、よく聞け」
このままでは埒が明かないと思ったのか、あるいはただ単に会話を続けるのが面倒になったのか、向坂は軽く頭を振ると、いきなり久野の胸倉を掴んだ。
「今回だけは大目に見てやるが、次からは無い知恵絞りに絞って耳から髄液が滴るまで考え抜いてから発言しろよ」
華奢なお手々に胸倉を掴まれたところで、無駄に逞しい身長一八七センチの大男の身体はびくともしない。はず、だったのだが、しかし、稀少な鉱物にも似た灰色の瞳に引き込まれ、久野はふらりとよろめいた。見惚れるほど美しい虹彩が、彼の視線と意識と意志とを、暴力的に絡め取る。
「――お前の数億倍、僕の方が地獄だ」
確かに、と久野は思った。確かにもし自分が女体アレルギーであるにも拘らず突然美少女になってしまい、片手でクルミを握り潰せそうな風貌の童貞から小鹿のように震えながらお前の身体に欲情すると宣言されたら、それは地獄オブ地獄以外の何ものでもない。自分なら世を儚んで剃髪し出家するだろう。
「僕としては、今ここでお前の股間を蹴り上げて不能にしてやっても一向に構わない。だが暴力によって物事を解決するのは、人類の歴史と、その歴史の中で先人たちが織り上げていった現代の思想とを冒涜する行為だ。だからできることならお前には、僕が決定的な行動に出る前に黙って肯いてもらいたいわけなんだが、さて、どうだろうか」
向坂の吐いた言葉はどう意訳しようともただの脅迫であり、お前どの口でそんなことを、となじる権利が久野にはあった。だが、権利があっても権利の存在に気づけなければそれが行使される機会はないのであって、灰色の瞳の魔力に支配されてしまった哀れな少年に許されたのは無言で首を縦に振ること以外何もなく、結果として久野は向坂の入浴の全工程を手伝うはめになった。
「さあ、早く」
冷たい口調で促された久野は、仕方なく相手の服に手をかけた。向坂はブレザーとネクタイを部屋に置いてきただけで、制服のワイシャツとニットのベストとスラックスを身に着けたままだった。とにかく平常心だ、と彼は自分自身に言い聞かせた。そして英単語を口の中で唱えながら(こう見えてこつこつ勉強するタイプなのだ)、まるでお姫様のように目を閉じてじっとしている相手の服を、震える指で脱がせていった。
「……rely(信頼する)……trust(信用する)……danger(危険)……crisis(危機)……sink(沈む)……bury(埋める)……」
「言語というものは単語を丸暗記しても役に立たない。文章で覚えろ、文章で」
「お願いだから黙ってて」
ワイシャツの下に着せていたTシャツと、サイズが合わなかったせいで今朝安全ピンでウエストを調節してやったボクサーパンツを脱がせる段階になるとさすがに汗が滲んだが、そこも何とかクリアして、とうとう久野は向坂を裸にすることに成功した。昨日散々見て触れたとはいえ、その完璧な肉体の破壊力は全く衰えることがなく、残念ながら彼の股間は反応し始めていたのだが、悲しみに浸っている暇はなかった。本番はここからなのだ。
「今、お前の爪先の十センチ先に段差がある。慎重に足を上げろ。そう、そしてそのまま前に、そうそう、そしてゆっくり足を下ろすんだ。そうそうそう」
相手がつまずかぬよう、久野は小さな手を引いて声をかけながら、向坂を浴室の中に入れた。揺れるおっぱいに関しては、視界の端に映すに留めた。自分がよそ見をしたら、向坂が転んでしまうかもしれない。全裸で転んだら、まず間違いなく怪我をする。こんないかれたサディストは痛い目に遭えばよいのだという気持ちはなきにしもあらずといったところだったが、しかしこの完璧な肉体に傷をつけるということは、すなわち世界に対し罪を犯すことであった。しがない一童貞にそんな真似ができるはずがない。
初めて目にする職員用の風呂場は、一般家庭のそれと同じくらいの広さだった。クリーム色のタイルは新品同様の艶を放ち、嵌め込まれた鏡は秋空のごとく澄み渡り、カビや水垢の気配は何処にもない。恐らく向坂にここを使わせるにあたり、寮長または寮長が呼んだ業者が徹底的に磨き上げたのだろう。肝心の向坂は目を開ける気がないので、多少汚れていたとしてもクレームなどつけはしないのだが、可哀想な寮長はそれを知らないのだ。
「ええと、熱かったり冷たかったりしたら言えよ」
そう言って、久野は向坂の足にシャワーの湯を当てた。すぐに、ちょうどいい、とご機嫌なコメントが返ってくる。けれどそのコメントは、久野の耳には入らなかった。というのも、彼の意識は完全に、相手の濡れた爪先に向かっていたのである。もし彼の心にほんの少しでも余裕があったなら、これがこの世の美なのか、と呟いていたことだろう。
「……久野?」
久野は黙って向坂の足の先を見ていた。それはまるでイデアのような足だった。小さな指はまるで玩具のように白く細く、その先端を飾る丸みを帯びた爪は、十個全てが澄みきって仄かに赤みを帯び、傷がついたり変形したりしているものは一つもない。彼は初めて、女の足やら足コキやらに興奮する男が何故この世に存在するのかを理解した。自分の汚い逸物を、この芸術的なあんよの先でぐりぐりされたり高貴な土踏まずですりすりされたりしたら、圧倒的な幸福感の中で息を引き取ることができるだろう。
「おい久野、湯加減はこれでいいから、そろそろ上の方をやってくれ」
「お、おう」
屈み込んで相手の爪先をガン見していた久野は、上の方と言われ反射的に視線を上げた。これは反射的な行動だったので、視線を上げた先に何があるのか、ということはもちろん一切考えていなかった。そのため彼は、ほっそりした二本の太腿の間に生じた完璧な隙間と、隙間の更に上にある無修正の割れ目をもろに見てしまった。夕暮れの冬空に漂う薄紫の雲のように、久野の理性は儚く消えた。低い呟きが、乾いた喉の奥からがさがさと剥がれて零れる。
「……上の方、だな」
久野はシャワーを握り直すと、湯の当たる位置を少しずつ上げていった。爪先から、くるぶしが綺麗に浮いた細い足首、理想的な線を描く脛を通過して、血管が透けるほど白く滑らかな太腿を経由し、そして乳と蜜が流れる場所、カナンの地を目指す。
「……っ!」
シャワーヘッドの小さな穴から迸ったいくつもの水流が、太腿の奥に当たって跳ね返った。ふわふわした産毛程度の陰毛は、シャワーの水圧に対し何処までも無力である。陰部に与えられた突然の刺激に、細い腰は怯えたように揺れた。
「な、なに……?」
「何でもないから、動くなよ」
片手で相手の腰を掴み、彼は無防備な股間に水流を当て続けた。性に関する実践的知識が乏しい向坂には、自らの身体に何が起こっているのかが理解することも、相手の行為に疑問を抱くこともできないらしく、言われるがままそろそろと控え目に股を開いたが、勢いよく噴き出した熱い湯にあられもなく晒された陰核を責められ、数秒ですぐに腰をよじって逃げようとした。そこで久野は、相手を壁に押しつけ、シャワーヘッドを更に股間に近づけて水圧を上げた。
「ひぁ」
久野のTシャツを、向坂の手がきゅっと掴む。制止しようとしているのか、あるいは縋りつこうとしているのか。彼の眼下では、自己主張の激しすぎる乳房がぶるんと揺れていた。久野は柔らかなその塊を自身の身体で無情に押し潰し、シャワーヘッドでクリトリスと思しき部位を激しく擦った。
「んぅ、や、あ、あ、ああっ」
一際大きな悲鳴が上がると同時に、向坂の腿がシャワーヘッドをきつく挟み込んだ。雷にでも撃たれたかのように、白い身体がびくびくと震える。そして急に全ての力を抜くと、壁に背を預けたまま、滑り落ちるようにタイルに座り込んだ。
「……向坂」
呼びかけに、返事はなかった。絶頂の余韻に支配されているのか、その柔らかな唇の隙間からはひっきりなしに甘ったるい吐息が零れていた。呼吸に合わせて揺れるたっぷりとした乳房は、まだ直接触れられていないくせに、先端を赤く尖らせている。
久野はボディソープのボトルを手に取ると、白くとろりとした液体を乳首に直接垂らした。冷たいのか、向坂の薄い肩がぴくんと跳ねる。乳首を人差し指と親指で挟み、ソープのぬめりを借りて指の間で転がすと、吐息は喘ぎ声へと徐々に変わっていった。
今度こそ、と泡塗れの乳首を摘んだまま久野は思った。今度こそ、俺は最後まで行ってもよいのではないか、ここまで思いきり迷惑をかけられ、これからも思いきり迷惑を被ることが決まっているのだから、ご褒美の一つでも貰わなければ割に合わない、そもそも向坂にとってこの肉体は仮初のものだ、どうせ何かのタイミングで男に戻るに決まっているわけだから、処女膜の一枚や二枚、裂けたところで構わないだろう、以下略。
しかしそんな甘い考えで彼が自分のハーフパンツに手をかけようとしたとき、無駄にごつい体格が災いし、棚に置いておいたボディーソープのボトルが肘に当たってしまった。もしこれが普通の部屋であれば恐らく彼はめでたく脱童貞できたのだろうが、不運なことにそこは風呂場だった。落下したボトルは床にぶつかって転がり、ガタンゴトンゴロゴロと浴室内に凄まじい音を響かせ、その音に驚いたのか、向坂がぱちりと目を開けてしまった。
「おい、どうし……うっ」
終いまで言わずに向坂は口許を押さえた。その姿に、久野の頭と下半身は一瞬で冷えた。
「嘘だろおいやめろ駄目だ向坂我慢しろここで吐くな!」
かくして久野は、彼の無駄にごつい体格のせいで自らの無駄にでかいおっぱいを目にして拒絶反応を起こし悶絶した向坂を介抱することになり、その尽力により辛うじてヒロイン――と呼ぶにはあまりにおぞましい、神と悪魔と人間の悪いところをそれぞれ抽出してよく混ぜた挙句半日ほどコトコトじっくり煮込んだような存在――の二度目の嘔吐は回避したものの、明け方の夏草に光る銀色の露のように、彼の性欲――というよりもっと根源的な生きる意欲や気力のようなもの――は儚く消えてしまった。
「やれやれ、死ぬかと思った」
「こっちの台詞だ」
「それじゃあ身体と髪を洗ってくれ」
「お前のそういうところ控え目に言って嫌いだわ」
全てを放り出したくなった久野だったが、そんな度胸があれば今頃ここにはいないわけで、結局彼はバスチェアを引き寄せると、向坂を後ろ向きに座らせ、ソープの泡をたっぷりつけたナイロンタオルで相手の身体をわしわしと擦った。これは人形だ、と彼は自らに言い聞かせた。これは人形だから、俺は何も感じないし何も思わない、綺麗に擦って綺麗にすすぐ、壁も床も腕も尻も股も何も変わらない、全て等しくただここに存在しているだけなのだ。
と、まあそんな具合で、凄まじい精神力で裸の美少女の身体を磨き上げた久野だったが、しかし髪を洗う段階になると、さすがに何も考えないわけにはいかなかった。自分の髪なら適当にシャンプーをつけてがしがしやってざばっと流せばそれで終いだが、目の前にあるのは柔らかく艶やかでいかにも繊細そうなロングヘアーだ。久野は掌にシャンプーを出すと両手で充分に泡立て、相手の小さな頭を両手で包み込むようにして慎重に洗い始めた。
「こ、こんな感じでいいのか?」
「いいんじゃないか」
返事がどこか他人事風なのは、向坂にも自分の髪がどのように扱われるべきなのかがわからないせいらしい。それなら多少ぞんざいにやったところで怒られることもないはずなのだが、久野は指先の神経に集中力を全振りして丁寧に相手の髪を洗った。これは向坂(と、狂犬執事)に対する恐怖心によるものではなく、いってみればこの世界に対する畏怖の念に基づく行動だった。そしてここだけの話(ここだけも何処だけもないのだが)、向坂の髪を洗いながら、彼は不思議な感覚を覚えていた。それは肉体に触れているときに生じる興奮や衝動とはまるで異なる次元の感覚で、喜怒哀楽の喜と楽の中間に位置するような、ひどく不思議な気持ちを呼び起こした。
そんなこんなで洗髪を終えると、久野は記憶力を総動員して――これまでに見た旅番組やらグラビアやらドラマやら漫画やらに出てきた女性の入浴シーンを思い出して――向坂の髪をタオルで巻いてやり、相手が転ばぬよう再び細心の注意を払って小さな身体を湯船に入れた。
「はー……疲れた……」
バスチェアに腰を下ろし、久野は溜め息をついた。先日トイレに連れて行ったときも大騒ぎだったが、風呂はその比ではなかった。髪を洗うのは嫌ではなかったが、ほかは地獄オブ地獄の更に上を行くアルティメット地獄だった。しかし地を這う民の心情を考慮する気など天にまします我らのゴッドにはさらさらないようで、額を押さえて呻く久野に対し、向坂は無邪気に提案した。
「そうだ。お前もついでにここで身体を洗っていけばいい」
「死ねとおっしゃるので?」
地獄に果てはないのだろうか。もしくは果てがないからこそ地獄なのか。そんなことを久野が考えていると、何も知らない向坂は目を閉じたまま首を傾げた。タオルの隙間から零れた髪の一房が、額の上で可愛らしく揺れる。
「器用ならざるお前のことだ、どうせ既に全身濡れているんだろう。僕は寛大な人間だし、今は目を開けるわけにもいかないから、お前がそのへんで身体を洗っていても、文句を言ったり指を差して嘲ったりはしないぞ」
そろそろ泣いてもいいだろうか、と久野は思った。少なくともあと一時間は、誰の股間も見たくなかった。それは彼自身の股間も例外ではなかった。この世に性器というものが存在しているという事実そのものが、今の久野には受け入れがたかった。けれど自分がここで身体を洗わず、いつもの時間にいつものように共同浴場に行く場合、その間向坂は一人きりになってしまうのだと考えると、彼の胃は猛烈に痛くなった。寮内には、向坂を美術室に連れ込んだハイスペッカーズがいる。もし何かあったら、寮に血の雨が降ることは避けられない。職員に預けるという手もないわけではないのだが、寮長に押しつけるのは気の毒だし、管理人のエロジジイは論外である。
結局彼は言われるがまま、涙ぐみながら濡れた服を脱ぎ、洗い場の隅でひっそりと自身の髪と身体を洗った。
こうして、少年の心に大きな傷を残したバスタイムは、なんとか終了した。脱衣所で相手の腕やうなじや胸の谷間や股間に残る水気を残さずタオルで拭き取ったうえパンツを穿かせ服を着せるという恐ろしいアフターを経た頃には、久野の心は荒野と化していたのだが、風呂に入ってすっきりしたのか、向坂はこの二日間で最も機嫌がよかった。
「お前は髪を洗うのが上手いな」
突然のお褒めの言葉に、久野は相手の髪を梳く手を止めた。正面に嵌め込まれた鏡に、笑みを浮かべた美少女と、その後ろで腰にタオルを巻きヘアブラシを片手に固まっている強面の男が映っていた。
「そうか?」
「ああ、気持ちがよかった」
久野は鏡の中の笑顔の美少女を見て、それから自分の指の間にある、淡い色をした柔らかな毛束を見た。向坂の湿った髪は、天井から降り注ぐ凡庸な蛍光灯の光を弾いて、まるで奇跡みたいに煌めいていた。
「……よし、仕上げはドライヤーだな」
「ん」
こいつの身体で勃起するのは地獄でしかないが、この髪に触れるのは嫌いではない。ドライヤーのコンセントを引っ張りながら、久野はそう思った。その後、濡れた衣服を抱え裸にタオルを一枚巻いただけのあられもない姿で美少女の後をついて自室まで廊下を歩く姿を他の寮生たちに目撃される、という苦行が待ち受けていることなど、このときの彼は当然知らなかったのである。
遡ること、約六時間。
七葉学園から数キロ離れた繁華街の、みすぼらしい雑居ビル。その四階の一室で、中年の男が二人、向かい合ってソファに座っていた。
一人は濃紺のスーツを着た黒髪の男。何処にでもいるサラリーマンのような風貌で、一度擦れ違っても記憶に残らない、三度話をしても覚えられない、そういう類の外見をしている。
もう一人は黒いスーツをまとった灰色の髪の男。こちらは一度擦れ違ったら、恐らく二度と忘れられない。三度話をしたら、きっと一生その影に怯えることになる。そんな予感を抱かせる目をしている。
窓から差し込む真昼の陽光を背に、二人の男はローテーブルを挟み、各々のやり方で微笑を浮かべている。小さな会社の社長と客が商談をしているようにも見えるが、しかし室内には古びた応接セット以外何もなく、そしてテーブルの上には書類一枚、湯呑一つ置かれていない。
「今回は、誰を?」
黒髪の男が訊ねると、灰色の髪の男は目を細める。穏やかに狂った畜生の眼。
「アール・プロダクション所属のタレント、名前は――」
「なんで俺がお前を風呂に入れてやらなきゃならないんだよ!」
この世に救いはないのか、と久野は職員用の洗面所兼脱衣所で、向坂のお風呂セットを抱き締めて思った(押しが弱くて押しに弱い善良な性格のせいで、ここまでずるずる来てしまったのである。しかも拒み切れずに、こちらに来る前に自室で制服から半袖シャツとハーフパンツという、何処からどう見ても濡れてもいい服装にしか見えない格好に着替えてしまっていた)。すると向坂は遠慮なくうんざりした顔をした。
「お前は本当に果てしなく馬鹿だな。一瞬地平線を探したぞ」
「他人のことを馬鹿って言う奴が馬鹿なんだろ!」
久野の知性の欠片も感じられない反論に、向坂はうんざりした顔から軽蔑しきった顔へ表情を切り替えた。
「僕は女の身体が大の苦手なんだ。想像しただけで内臓に蕁麻疹ができそうになる」
「それは前にも聞いた。なんか表現がレベルアップしてるけど」
「お前が記憶していないようだから、わかりやすく説明してやったんだろうがこの鳥頭。あー、続けるぞ。それで、自分で着替えたり身体を拭いたりすることができなかった僕が、風呂で自分の身体を洗えると思うか?」
「思えません」
「よし、それならさっさと脱がせてくれ。僕は目を瞑っているから」
「ご冗談でしょ」
昨日の無駄勃ちからの無駄撃ちによって天に召されていった自らの哀れな精子たちの姿が、久野の脳裏をまるで走馬灯のように駆け巡った。彼は目を閉じ自問自答した。俺はあの悲劇を再び演じてしまうのか、to be, or not to be、消えろ短い蝋燭、否、そんなことがあってはならない、過ちは二度と繰り返さない、それが先に逝った小さな我が分身たちへのせめてもの罪滅ぼしだ、云々。
「向坂。この際はっきり言わせてもらうが、お前を風呂に入れたら、間違いなく俺は勃起する。何が悲しくてこれ以上お前なんかでちんこを勃てねばならないんだ。そんなの地獄以外の何ものでもないだろう。脱ぐのと着るのだけは手伝ってやるから、ほかは自分で何とかしろ」
悲壮な決意のもと、彼は拒絶の言葉を口にした。が、その厳つい肩は悪代官の前に転がされた生娘のように弱々しくぶるぶる震えていた。ゴッドは半眼になって片眉を上げ、南極ツンドラを吹き抜ける風のごとき眼差しを彼の股間に注いだ。
「なるほど、勃起するのが嫌なのか。それなら簡単だ、今から僕が『調整』してやる。声は我慢しなくていいからな」
「嫌だよお前絶対俺のちんこ潰す気だろ鬼畜ケダモノ人でなし!!!」
「――あのな、よく聞け」
このままでは埒が明かないと思ったのか、あるいはただ単に会話を続けるのが面倒になったのか、向坂は軽く頭を振ると、いきなり久野の胸倉を掴んだ。
「今回だけは大目に見てやるが、次からは無い知恵絞りに絞って耳から髄液が滴るまで考え抜いてから発言しろよ」
華奢なお手々に胸倉を掴まれたところで、無駄に逞しい身長一八七センチの大男の身体はびくともしない。はず、だったのだが、しかし、稀少な鉱物にも似た灰色の瞳に引き込まれ、久野はふらりとよろめいた。見惚れるほど美しい虹彩が、彼の視線と意識と意志とを、暴力的に絡め取る。
「――お前の数億倍、僕の方が地獄だ」
確かに、と久野は思った。確かにもし自分が女体アレルギーであるにも拘らず突然美少女になってしまい、片手でクルミを握り潰せそうな風貌の童貞から小鹿のように震えながらお前の身体に欲情すると宣言されたら、それは地獄オブ地獄以外の何ものでもない。自分なら世を儚んで剃髪し出家するだろう。
「僕としては、今ここでお前の股間を蹴り上げて不能にしてやっても一向に構わない。だが暴力によって物事を解決するのは、人類の歴史と、その歴史の中で先人たちが織り上げていった現代の思想とを冒涜する行為だ。だからできることならお前には、僕が決定的な行動に出る前に黙って肯いてもらいたいわけなんだが、さて、どうだろうか」
向坂の吐いた言葉はどう意訳しようともただの脅迫であり、お前どの口でそんなことを、となじる権利が久野にはあった。だが、権利があっても権利の存在に気づけなければそれが行使される機会はないのであって、灰色の瞳の魔力に支配されてしまった哀れな少年に許されたのは無言で首を縦に振ること以外何もなく、結果として久野は向坂の入浴の全工程を手伝うはめになった。
「さあ、早く」
冷たい口調で促された久野は、仕方なく相手の服に手をかけた。向坂はブレザーとネクタイを部屋に置いてきただけで、制服のワイシャツとニットのベストとスラックスを身に着けたままだった。とにかく平常心だ、と彼は自分自身に言い聞かせた。そして英単語を口の中で唱えながら(こう見えてこつこつ勉強するタイプなのだ)、まるでお姫様のように目を閉じてじっとしている相手の服を、震える指で脱がせていった。
「……rely(信頼する)……trust(信用する)……danger(危険)……crisis(危機)……sink(沈む)……bury(埋める)……」
「言語というものは単語を丸暗記しても役に立たない。文章で覚えろ、文章で」
「お願いだから黙ってて」
ワイシャツの下に着せていたTシャツと、サイズが合わなかったせいで今朝安全ピンでウエストを調節してやったボクサーパンツを脱がせる段階になるとさすがに汗が滲んだが、そこも何とかクリアして、とうとう久野は向坂を裸にすることに成功した。昨日散々見て触れたとはいえ、その完璧な肉体の破壊力は全く衰えることがなく、残念ながら彼の股間は反応し始めていたのだが、悲しみに浸っている暇はなかった。本番はここからなのだ。
「今、お前の爪先の十センチ先に段差がある。慎重に足を上げろ。そう、そしてそのまま前に、そうそう、そしてゆっくり足を下ろすんだ。そうそうそう」
相手がつまずかぬよう、久野は小さな手を引いて声をかけながら、向坂を浴室の中に入れた。揺れるおっぱいに関しては、視界の端に映すに留めた。自分がよそ見をしたら、向坂が転んでしまうかもしれない。全裸で転んだら、まず間違いなく怪我をする。こんないかれたサディストは痛い目に遭えばよいのだという気持ちはなきにしもあらずといったところだったが、しかしこの完璧な肉体に傷をつけるということは、すなわち世界に対し罪を犯すことであった。しがない一童貞にそんな真似ができるはずがない。
初めて目にする職員用の風呂場は、一般家庭のそれと同じくらいの広さだった。クリーム色のタイルは新品同様の艶を放ち、嵌め込まれた鏡は秋空のごとく澄み渡り、カビや水垢の気配は何処にもない。恐らく向坂にここを使わせるにあたり、寮長または寮長が呼んだ業者が徹底的に磨き上げたのだろう。肝心の向坂は目を開ける気がないので、多少汚れていたとしてもクレームなどつけはしないのだが、可哀想な寮長はそれを知らないのだ。
「ええと、熱かったり冷たかったりしたら言えよ」
そう言って、久野は向坂の足にシャワーの湯を当てた。すぐに、ちょうどいい、とご機嫌なコメントが返ってくる。けれどそのコメントは、久野の耳には入らなかった。というのも、彼の意識は完全に、相手の濡れた爪先に向かっていたのである。もし彼の心にほんの少しでも余裕があったなら、これがこの世の美なのか、と呟いていたことだろう。
「……久野?」
久野は黙って向坂の足の先を見ていた。それはまるでイデアのような足だった。小さな指はまるで玩具のように白く細く、その先端を飾る丸みを帯びた爪は、十個全てが澄みきって仄かに赤みを帯び、傷がついたり変形したりしているものは一つもない。彼は初めて、女の足やら足コキやらに興奮する男が何故この世に存在するのかを理解した。自分の汚い逸物を、この芸術的なあんよの先でぐりぐりされたり高貴な土踏まずですりすりされたりしたら、圧倒的な幸福感の中で息を引き取ることができるだろう。
「おい久野、湯加減はこれでいいから、そろそろ上の方をやってくれ」
「お、おう」
屈み込んで相手の爪先をガン見していた久野は、上の方と言われ反射的に視線を上げた。これは反射的な行動だったので、視線を上げた先に何があるのか、ということはもちろん一切考えていなかった。そのため彼は、ほっそりした二本の太腿の間に生じた完璧な隙間と、隙間の更に上にある無修正の割れ目をもろに見てしまった。夕暮れの冬空に漂う薄紫の雲のように、久野の理性は儚く消えた。低い呟きが、乾いた喉の奥からがさがさと剥がれて零れる。
「……上の方、だな」
久野はシャワーを握り直すと、湯の当たる位置を少しずつ上げていった。爪先から、くるぶしが綺麗に浮いた細い足首、理想的な線を描く脛を通過して、血管が透けるほど白く滑らかな太腿を経由し、そして乳と蜜が流れる場所、カナンの地を目指す。
「……っ!」
シャワーヘッドの小さな穴から迸ったいくつもの水流が、太腿の奥に当たって跳ね返った。ふわふわした産毛程度の陰毛は、シャワーの水圧に対し何処までも無力である。陰部に与えられた突然の刺激に、細い腰は怯えたように揺れた。
「な、なに……?」
「何でもないから、動くなよ」
片手で相手の腰を掴み、彼は無防備な股間に水流を当て続けた。性に関する実践的知識が乏しい向坂には、自らの身体に何が起こっているのかが理解することも、相手の行為に疑問を抱くこともできないらしく、言われるがままそろそろと控え目に股を開いたが、勢いよく噴き出した熱い湯にあられもなく晒された陰核を責められ、数秒ですぐに腰をよじって逃げようとした。そこで久野は、相手を壁に押しつけ、シャワーヘッドを更に股間に近づけて水圧を上げた。
「ひぁ」
久野のTシャツを、向坂の手がきゅっと掴む。制止しようとしているのか、あるいは縋りつこうとしているのか。彼の眼下では、自己主張の激しすぎる乳房がぶるんと揺れていた。久野は柔らかなその塊を自身の身体で無情に押し潰し、シャワーヘッドでクリトリスと思しき部位を激しく擦った。
「んぅ、や、あ、あ、ああっ」
一際大きな悲鳴が上がると同時に、向坂の腿がシャワーヘッドをきつく挟み込んだ。雷にでも撃たれたかのように、白い身体がびくびくと震える。そして急に全ての力を抜くと、壁に背を預けたまま、滑り落ちるようにタイルに座り込んだ。
「……向坂」
呼びかけに、返事はなかった。絶頂の余韻に支配されているのか、その柔らかな唇の隙間からはひっきりなしに甘ったるい吐息が零れていた。呼吸に合わせて揺れるたっぷりとした乳房は、まだ直接触れられていないくせに、先端を赤く尖らせている。
久野はボディソープのボトルを手に取ると、白くとろりとした液体を乳首に直接垂らした。冷たいのか、向坂の薄い肩がぴくんと跳ねる。乳首を人差し指と親指で挟み、ソープのぬめりを借りて指の間で転がすと、吐息は喘ぎ声へと徐々に変わっていった。
今度こそ、と泡塗れの乳首を摘んだまま久野は思った。今度こそ、俺は最後まで行ってもよいのではないか、ここまで思いきり迷惑をかけられ、これからも思いきり迷惑を被ることが決まっているのだから、ご褒美の一つでも貰わなければ割に合わない、そもそも向坂にとってこの肉体は仮初のものだ、どうせ何かのタイミングで男に戻るに決まっているわけだから、処女膜の一枚や二枚、裂けたところで構わないだろう、以下略。
しかしそんな甘い考えで彼が自分のハーフパンツに手をかけようとしたとき、無駄にごつい体格が災いし、棚に置いておいたボディーソープのボトルが肘に当たってしまった。もしこれが普通の部屋であれば恐らく彼はめでたく脱童貞できたのだろうが、不運なことにそこは風呂場だった。落下したボトルは床にぶつかって転がり、ガタンゴトンゴロゴロと浴室内に凄まじい音を響かせ、その音に驚いたのか、向坂がぱちりと目を開けてしまった。
「おい、どうし……うっ」
終いまで言わずに向坂は口許を押さえた。その姿に、久野の頭と下半身は一瞬で冷えた。
「嘘だろおいやめろ駄目だ向坂我慢しろここで吐くな!」
かくして久野は、彼の無駄にごつい体格のせいで自らの無駄にでかいおっぱいを目にして拒絶反応を起こし悶絶した向坂を介抱することになり、その尽力により辛うじてヒロイン――と呼ぶにはあまりにおぞましい、神と悪魔と人間の悪いところをそれぞれ抽出してよく混ぜた挙句半日ほどコトコトじっくり煮込んだような存在――の二度目の嘔吐は回避したものの、明け方の夏草に光る銀色の露のように、彼の性欲――というよりもっと根源的な生きる意欲や気力のようなもの――は儚く消えてしまった。
「やれやれ、死ぬかと思った」
「こっちの台詞だ」
「それじゃあ身体と髪を洗ってくれ」
「お前のそういうところ控え目に言って嫌いだわ」
全てを放り出したくなった久野だったが、そんな度胸があれば今頃ここにはいないわけで、結局彼はバスチェアを引き寄せると、向坂を後ろ向きに座らせ、ソープの泡をたっぷりつけたナイロンタオルで相手の身体をわしわしと擦った。これは人形だ、と彼は自らに言い聞かせた。これは人形だから、俺は何も感じないし何も思わない、綺麗に擦って綺麗にすすぐ、壁も床も腕も尻も股も何も変わらない、全て等しくただここに存在しているだけなのだ。
と、まあそんな具合で、凄まじい精神力で裸の美少女の身体を磨き上げた久野だったが、しかし髪を洗う段階になると、さすがに何も考えないわけにはいかなかった。自分の髪なら適当にシャンプーをつけてがしがしやってざばっと流せばそれで終いだが、目の前にあるのは柔らかく艶やかでいかにも繊細そうなロングヘアーだ。久野は掌にシャンプーを出すと両手で充分に泡立て、相手の小さな頭を両手で包み込むようにして慎重に洗い始めた。
「こ、こんな感じでいいのか?」
「いいんじゃないか」
返事がどこか他人事風なのは、向坂にも自分の髪がどのように扱われるべきなのかがわからないせいらしい。それなら多少ぞんざいにやったところで怒られることもないはずなのだが、久野は指先の神経に集中力を全振りして丁寧に相手の髪を洗った。これは向坂(と、狂犬執事)に対する恐怖心によるものではなく、いってみればこの世界に対する畏怖の念に基づく行動だった。そしてここだけの話(ここだけも何処だけもないのだが)、向坂の髪を洗いながら、彼は不思議な感覚を覚えていた。それは肉体に触れているときに生じる興奮や衝動とはまるで異なる次元の感覚で、喜怒哀楽の喜と楽の中間に位置するような、ひどく不思議な気持ちを呼び起こした。
そんなこんなで洗髪を終えると、久野は記憶力を総動員して――これまでに見た旅番組やらグラビアやらドラマやら漫画やらに出てきた女性の入浴シーンを思い出して――向坂の髪をタオルで巻いてやり、相手が転ばぬよう再び細心の注意を払って小さな身体を湯船に入れた。
「はー……疲れた……」
バスチェアに腰を下ろし、久野は溜め息をついた。先日トイレに連れて行ったときも大騒ぎだったが、風呂はその比ではなかった。髪を洗うのは嫌ではなかったが、ほかは地獄オブ地獄の更に上を行くアルティメット地獄だった。しかし地を這う民の心情を考慮する気など天にまします我らのゴッドにはさらさらないようで、額を押さえて呻く久野に対し、向坂は無邪気に提案した。
「そうだ。お前もついでにここで身体を洗っていけばいい」
「死ねとおっしゃるので?」
地獄に果てはないのだろうか。もしくは果てがないからこそ地獄なのか。そんなことを久野が考えていると、何も知らない向坂は目を閉じたまま首を傾げた。タオルの隙間から零れた髪の一房が、額の上で可愛らしく揺れる。
「器用ならざるお前のことだ、どうせ既に全身濡れているんだろう。僕は寛大な人間だし、今は目を開けるわけにもいかないから、お前がそのへんで身体を洗っていても、文句を言ったり指を差して嘲ったりはしないぞ」
そろそろ泣いてもいいだろうか、と久野は思った。少なくともあと一時間は、誰の股間も見たくなかった。それは彼自身の股間も例外ではなかった。この世に性器というものが存在しているという事実そのものが、今の久野には受け入れがたかった。けれど自分がここで身体を洗わず、いつもの時間にいつものように共同浴場に行く場合、その間向坂は一人きりになってしまうのだと考えると、彼の胃は猛烈に痛くなった。寮内には、向坂を美術室に連れ込んだハイスペッカーズがいる。もし何かあったら、寮に血の雨が降ることは避けられない。職員に預けるという手もないわけではないのだが、寮長に押しつけるのは気の毒だし、管理人のエロジジイは論外である。
結局彼は言われるがまま、涙ぐみながら濡れた服を脱ぎ、洗い場の隅でひっそりと自身の髪と身体を洗った。
こうして、少年の心に大きな傷を残したバスタイムは、なんとか終了した。脱衣所で相手の腕やうなじや胸の谷間や股間に残る水気を残さずタオルで拭き取ったうえパンツを穿かせ服を着せるという恐ろしいアフターを経た頃には、久野の心は荒野と化していたのだが、風呂に入ってすっきりしたのか、向坂はこの二日間で最も機嫌がよかった。
「お前は髪を洗うのが上手いな」
突然のお褒めの言葉に、久野は相手の髪を梳く手を止めた。正面に嵌め込まれた鏡に、笑みを浮かべた美少女と、その後ろで腰にタオルを巻きヘアブラシを片手に固まっている強面の男が映っていた。
「そうか?」
「ああ、気持ちがよかった」
久野は鏡の中の笑顔の美少女を見て、それから自分の指の間にある、淡い色をした柔らかな毛束を見た。向坂の湿った髪は、天井から降り注ぐ凡庸な蛍光灯の光を弾いて、まるで奇跡みたいに煌めいていた。
「……よし、仕上げはドライヤーだな」
「ん」
こいつの身体で勃起するのは地獄でしかないが、この髪に触れるのは嫌いではない。ドライヤーのコンセントを引っ張りながら、久野はそう思った。その後、濡れた衣服を抱え裸にタオルを一枚巻いただけのあられもない姿で美少女の後をついて自室まで廊下を歩く姿を他の寮生たちに目撃される、という苦行が待ち受けていることなど、このときの彼は当然知らなかったのである。
遡ること、約六時間。
七葉学園から数キロ離れた繁華街の、みすぼらしい雑居ビル。その四階の一室で、中年の男が二人、向かい合ってソファに座っていた。
一人は濃紺のスーツを着た黒髪の男。何処にでもいるサラリーマンのような風貌で、一度擦れ違っても記憶に残らない、三度話をしても覚えられない、そういう類の外見をしている。
もう一人は黒いスーツをまとった灰色の髪の男。こちらは一度擦れ違ったら、恐らく二度と忘れられない。三度話をしたら、きっと一生その影に怯えることになる。そんな予感を抱かせる目をしている。
窓から差し込む真昼の陽光を背に、二人の男はローテーブルを挟み、各々のやり方で微笑を浮かべている。小さな会社の社長と客が商談をしているようにも見えるが、しかし室内には古びた応接セット以外何もなく、そしてテーブルの上には書類一枚、湯呑一つ置かれていない。
「今回は、誰を?」
黒髪の男が訊ねると、灰色の髪の男は目を細める。穏やかに狂った畜生の眼。
「アール・プロダクション所属のタレント、名前は――」
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