硝子の魚(glass catfish syndrome)

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2. 再会

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 三〇二号室の男を再び目にしたのは、彼が引っ越してきた数日後の夜、仕事帰りに寄った駅前の本屋だった。男はレジの近くの棚にいた。少し俯いて、雑誌の上に目を落としている。限りなく黒に近いグレーのスーツを着て暗い色のタイを締めているせいで、髪や肌の色素の薄さが余計際立っていた。こうして見てみると、男はひどく冷たい顔立ちをしていた。それはそれで、やはり硝子のようだった。ページを繰る速度は相当なものだった。まともに読んでいるわけではないのだろう。しかしそれにしては眼差しが真剣なようでもあった。
 暫く男を眺めてから、自分はいつものように文芸書の新刊コーナーに行った。何冊か手に取ってはみたが、買うべきものは特になかった。それで手ぶらで店を出ようとしたとき、いつの間にか会計をしていた男と自動ドアの前で鉢合わせした。声を出したのは、向こうの方がやや早かったかもしれない。
「あ……」
「――あ」
 しかし挨拶の言葉を口にしたのは、こちらが先だった。
「どうも」
「……こんばんは」
 男の声は相変わらず滑らかで、しかし思いのほかひっそりしていた。表情も硬かった。それが気になったので、お仕事帰りですか、と訊ねてみる。男は少し間をおいてから、ええ、と言う。俺もです、と返せば、また同じくらいの間をおいて、お疲れ様です、と返された。
 いつまでもドアの前に立っているわけにはいかない。なんとなく並んで外に出る。それから左へ曲がると、男も倣うように左折した。そこで漸く、アパートの六階までこの男と道連れなのだということに気づく。よい機会だったのでサブレの礼を言った。男は、どういたしまして、と言った。そして黙った。仕方ないのでまたこちらが口を開いた。
「以前はどちらにお住まいだったんですか」
 すると男は二、三度瞬きした。
 返事があったのは、不自然一歩手前のタイミングだった。男はとある駅の名前を挙げた。区内だった。近いですねと返すと、今度は完全に不自然な空白の末に、やっと言葉を発した。
「はい」
 先日挨拶に来た男と同一人物だとはとても思えない。自分もさほど社交的なタイプではないが、この男は相当だ。適当に口実を作って別れた方が互いのためらしい。ちょうどコンビニが見えてきたので、俺は買い物があるのでここで、と切り出すために相手の方を見ると、相手もこちらを見ていた。十センチほどの高低差を孕んで、視線と視線が音を立てそうなほどぴたりと合う。
 こちらを見上げる男の顔に常夜灯の明かりが射し込み、切れ長の目に嵌め込まれた虹彩を照らしていた。虹彩もまた色素の薄い、捉えどころのない色をしていた。思わず手に取って光に透かしてみたくなるような色だった。実際、途中まで腕が上がりかけた。それが胸の辺りで止まったのは、男の口許が動いたせいだった。
「すみません、ちょっと買うものがあるので、僕はここで」
 こちらが言うはずだった言葉をさらりと口にして、丁寧に頭を下げてから、男はコンビニの過剰な光の中へ消えていった。
 結局彼は今夜一度も、あのスワロフスキー的な笑顔を見せなかった。
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