硝子の魚(glass catfish syndrome)

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19. 友人

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 いつものように隣の郵便受けを整理していると、不動産の広告が目に入った。
 部屋に戻り、紙に印刷されたマンションの間取りを見ながら考えた。社会人になってからずっとこのアパートに住んでいたが、それは引っ越す理由がなかったからにすぎない。だが今はどうだろう。理由なら、あるかもしれない。
 しかしここには水槽があった。魚にかかる負担を考えると、なかなか決断することができなかった。いつの間にか、魚は自分にとって何より大切な存在になっていた。
 けれど自分が魚に対し抱く感情が、同僚のそれとは決定的に異なっていることもわかっていた。いってみれば自分の気持ちは一回性のものだった。今いるものが死ねば、もう二度と魚を飼うことはない。この思いは、夜店ですくった金魚を愛でる子供のそれともまた違っていた。子供は金魚が死ねば泣くだろう。そして数日もたてば忘れてしまう。自分は魚が死んでも泣かない。だが、忘れることもない。きっと、ずっと覚えている。
 随分前にやめた煙草を、久しぶりに吸いたいと思った。
 広告を置くと、部屋の電気を消す。
 そうして窓の前に立ち、カーテンを開けて、夜に撒かれた灯をぼんやりと眺める。流動する車のライトは、水槽を駆け巡るように泳ぐネオンテトラの輝きに似ている。ならばこの夜の中にも、アクアリウムの内側と同じように、透明な魚がじっと息を潜めているのだろうか。だがどんなに目を凝らしてみても、窓硝子越しのこの場所からは何も見えない。或いは、誰にも見つけてもらえない魚とは、自分の方なのだろうか。
 硝子の魚、その沈黙の病。言葉のない夜はあまりに深く、声に出せない想いは透明なまま。
 ――一ヶ月だ。
 カーテンを閉めるときに、そう決めた。今日からちょうど四週間だけ、ここで待つ。
 夜は長く、しかし日が流れるのは早かった。仕事が終わると真っ直ぐ帰るので、職場の人間に女ができたのかと冷やかされた。独りで酒を飲みながら来ない相手を待っているだけだと言ってもよかったが、追及されると面倒なので適当に言葉を濁した。すると例の同僚が、魚が待っているもんな、と笑った。動物を飼うと便利なこともあるらしい。
 とはいえ同僚の言葉は外れていなかった。確かに帰宅すれば魚がいた。自分を待っているのは魚だけだった。自分を必要としているのもまた、魚だけだった。魚しか、いなかった。
 自ら決めた期限が、少しずつ、しかし確実に迫っていた。
 その夜も発泡酒の缶を傾けながら、水槽の中にグラスキャットを探した。体調を崩すと身体が濁ると聞いていたが、魚たちはみな恐ろしく澄んでいた。同僚の水槽にいたものよりも透明度が高い。きっと居心地がよいのだろう。決意が鈍りそうになる。本当に、どうしようもない。
 そのとき、インターホンが鳴った。
 一瞬耳を疑い、それから慌てて立ち上がる。受話器を取ると、いやに陽気な声が耳に響いた。
「たこ焼き、食うか?」
 大学時代の悪友だった。近所で飲んで、ついでに寄ったらしい。テーブルに並んだ酒の空き缶を見て、橋本は直球で訊ねた。
「失恋でもしたか」
 思わず溜め息が出る。昔から妙に鋭い男だった。
「図星か。お前はいい奴だけどさ、淡白すぎるんだ」
 自分がしたことを聞いたら前言撤回するだろう。そう思っていると、彼は水槽を指差してにやりと笑った。
「それも女が置いていったのか? お前は魚なんか飼うタイプじゃないからな。生き物だから捨てるわけにもいかないし、辛いところだよなあ」
 言いたいことを言いながら、橋本は勝手に座って未開封の缶を手に取る。
「で、どうして振られた。記念日を忘れたか。デートをすっぽかしたか」
「振られるも何も、付き合っていない。好きだとも伝えなかった」
 プルタブが引き上げられ、小気味のよい音を立てる。
 一口飲んでから、彼はこちらに視線を流した。
「本気だったのか」
 そうだ。本気だった。
 けれど間違ったことをした。それで全部駄目になった。自業自得だ。
 視界の端では魚が泳ぐ。ネオンテトラ、グラスキャット。
「橋本」
「なんだ」
「もし男に迫られたら、お前だったらどうする」
 彼は数秒静止した。
「……そういうことなのか」
「ああ」
「無理だな。うん」
「そうか」
「そうだ」
 それから互いに無言で飲んで食べた。
 最後に残ったたこ焼きの一個を酒で流し込むと、橋本は部屋に入ってきたときと変わらない調子で言った。
「でも、その相手は俺じゃないんだろう? だったら見込みがないわけじゃないさ。後悔してるなら、今からでも好きだと言えばいい。完全に嫌われる可能性もあるけどな、でもお前が惚れるような相手だから、きっと誠意は見せてくれるだろ」
 誠意がなかったのは自分の方だ。相手にそれを要求することはできない。
 終電の時間になり橋本が帰ってからも、自分は一人で酒を飲み続けた。やがて冷蔵庫は空になった。日付はかなり前に変わっていた。残りの日数が頭をよぎる。もっと酒が必要だった。
 財布と鍵を手に玄関に向かいながら、このままアル中になりそうだと、そんな笑えないことを考えて、笑いそうになる。
 だが、笑えるはずもない。
 笑えないまま扉を開けて、足を踏み出そうとした。しかし見慣れないものが視界に入り、動きが止まる。ドラッグストアのビニール袋が、すぐ目の前に落ちていた。恐らく袋の口から滑り出たのだろう、その傍には胃薬の箱が転がっている。こんな大きなものを落とせば気づきそうなものだが、落とし主は酔っ払ってでもいたのだろうか。
 訝しく思いながら、エレベーターに向かいかけた次の瞬間、ひどい既視感に襲われた。
 それは、しかし既視感などではなかった。全く同じ光景を、自分は半年前に確実に目にし、そして克明に記憶していた。
 スーツ姿の男が、隣の部屋の前で倒れていた。
 安達だった。
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