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*37. 言葉はここにある
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交換したばかりのシーツは少し冷たい。横たわると、肌の火照りが少しずつ引いていく。
照明が落ちて、ベッドの反対側が、もう一人分の体重を受け止めて揺れる。
「可澄。……可澄」
近づいてくる声に背を向け、暗がりの中で毛布を顎の下まで引っ張った。
「なあ、可澄」
何度呼ばれても、返事をするつもりはない。
「ごめんな。可澄が可愛かったから、我慢がきかなくなった。反省してる」
触れてくる指先は優しい。宥めるような声も優しい。けれど今はそれらがひどく腹立たしい。
「だからこっちを向いてくれ」
頭を撫でて甘い言葉をかければ、それで機嫌が直るとでも思っているのだろうか。
「可澄」
そしてそのとおりなのが、何より悔しい。
「……次は普通のがいいです」
壁を見つめて呟くと、ぎし、とスプリングの軋む音がして、相手の気配がより近くなる。
「わかった」
毛布がめくられて、背中に自分のものとは異なる体温が押しつけられる。たったそれだけのことで、泣きたいような気分になる。
「……それから次は、ゴム、使ってください」
「言うとおりにする」
毛布の下でシーツを握り締めていると、手の甲を摩られる。仕方ないので拳を緩めた。すぐに指の間に彼の指が入り込んでくる。きっと本当は反省などしていないのだろう。それが少し悔しい。
「――次も、あるんだな」
ひとりごちた彼は吐息でそっと笑うから、むず痒いような、けれど微かに痛いような、そんな感覚が水面に落としたインクのように胸に広がっていく。
「……次も、その次も、その次の次も、あります」
指を握り返して告げた。すると後頭部に何かが柔らかく押しつけられる。たぶん彼の顔だ。唇が動いて髪を揺らす。
「そうか」
短い返事に、僅かな震えを聞く。
自分はきっと、誰よりも容易くこの人を傷つけることができる。
それはとても怖いことだと思う。
互いの手の中にあった様々な未来を切り捨てて、傷つける可能性も傷つけられる可能性も引き受けて、それでも誰かの傍にいたいと思えるかどうか。以前の自分だったら、耐えきれずに諦めてしまったかもしれない。けれど、今の自分は違う。
たとえ大切な何かを失うとしても、癒しがたい傷を与え合うことになるとしても、それでも偽りえないものの存在に、気づいてしまったから。
「なあ、可澄」
彼のことが、好きだと思う。
「可澄」
今後どんな問題が二人の行く道に影を落としても、この単純な感情が、恐らく全ての答えになるだろう。
「可澄……もう寝たのか」
指を握る力が、ほんの少しだけ強くなる。それで慌てて口を開いた。
「……な、何ですか」
眠ってはいない。けれど、名前を呼ばれることが心地よくて、返事を忘れてしまいかけたなんて言ったら、ますます彼が反省しなくなることはわかりきっている。
こちらの動揺を知ってか知らずか、彼は穏やかに口にする。
「一つ、頼みがある」
頼み。何だろう。
指を解いて相手の方へ寝返りを打つと、薄い闇の中、哀しくなるほど優しい目がこちらを見つめていた。
「もし俺より早く目が覚めても、先にベッドから出ないでほしい」
不意に、胸が詰まる。
言いたい言葉はわかっているのに、上手く出てこない。そんな沈黙に呑み込まれる。
どうしようもなく不自然な空白。
しかし彼は、ただ黙って待っている。
彼は知っているのだ。
「…………や」
そしてもちろん、自分も知っている。
「――約束、します」
ここには、言葉があるのだと。
「ありがとう」
大きな掌が頬を撫でていく。
だからその手をもう一度掴んだ。
「……こちらこそ、ありがとう……ございます」
彼が気づかせてくれた言葉が、この心の中には、数えきれないほど漂っている。
時間をかけて、一つ一つ拾い上げていけばいい。
彼は、俺を選んでくれたのだから。
「おやすみ、可澄」
囁くような声に、辛うじて肯く。
そうして瞼を下ろし、もう一度指を握り直す。
目が覚めたら、また新しい言葉が生まれるだろう。
どんなにいびつで穴だらけでも、それでもきっと、彼の心を震わせる言葉が。
照明が落ちて、ベッドの反対側が、もう一人分の体重を受け止めて揺れる。
「可澄。……可澄」
近づいてくる声に背を向け、暗がりの中で毛布を顎の下まで引っ張った。
「なあ、可澄」
何度呼ばれても、返事をするつもりはない。
「ごめんな。可澄が可愛かったから、我慢がきかなくなった。反省してる」
触れてくる指先は優しい。宥めるような声も優しい。けれど今はそれらがひどく腹立たしい。
「だからこっちを向いてくれ」
頭を撫でて甘い言葉をかければ、それで機嫌が直るとでも思っているのだろうか。
「可澄」
そしてそのとおりなのが、何より悔しい。
「……次は普通のがいいです」
壁を見つめて呟くと、ぎし、とスプリングの軋む音がして、相手の気配がより近くなる。
「わかった」
毛布がめくられて、背中に自分のものとは異なる体温が押しつけられる。たったそれだけのことで、泣きたいような気分になる。
「……それから次は、ゴム、使ってください」
「言うとおりにする」
毛布の下でシーツを握り締めていると、手の甲を摩られる。仕方ないので拳を緩めた。すぐに指の間に彼の指が入り込んでくる。きっと本当は反省などしていないのだろう。それが少し悔しい。
「――次も、あるんだな」
ひとりごちた彼は吐息でそっと笑うから、むず痒いような、けれど微かに痛いような、そんな感覚が水面に落としたインクのように胸に広がっていく。
「……次も、その次も、その次の次も、あります」
指を握り返して告げた。すると後頭部に何かが柔らかく押しつけられる。たぶん彼の顔だ。唇が動いて髪を揺らす。
「そうか」
短い返事に、僅かな震えを聞く。
自分はきっと、誰よりも容易くこの人を傷つけることができる。
それはとても怖いことだと思う。
互いの手の中にあった様々な未来を切り捨てて、傷つける可能性も傷つけられる可能性も引き受けて、それでも誰かの傍にいたいと思えるかどうか。以前の自分だったら、耐えきれずに諦めてしまったかもしれない。けれど、今の自分は違う。
たとえ大切な何かを失うとしても、癒しがたい傷を与え合うことになるとしても、それでも偽りえないものの存在に、気づいてしまったから。
「なあ、可澄」
彼のことが、好きだと思う。
「可澄」
今後どんな問題が二人の行く道に影を落としても、この単純な感情が、恐らく全ての答えになるだろう。
「可澄……もう寝たのか」
指を握る力が、ほんの少しだけ強くなる。それで慌てて口を開いた。
「……な、何ですか」
眠ってはいない。けれど、名前を呼ばれることが心地よくて、返事を忘れてしまいかけたなんて言ったら、ますます彼が反省しなくなることはわかりきっている。
こちらの動揺を知ってか知らずか、彼は穏やかに口にする。
「一つ、頼みがある」
頼み。何だろう。
指を解いて相手の方へ寝返りを打つと、薄い闇の中、哀しくなるほど優しい目がこちらを見つめていた。
「もし俺より早く目が覚めても、先にベッドから出ないでほしい」
不意に、胸が詰まる。
言いたい言葉はわかっているのに、上手く出てこない。そんな沈黙に呑み込まれる。
どうしようもなく不自然な空白。
しかし彼は、ただ黙って待っている。
彼は知っているのだ。
「…………や」
そしてもちろん、自分も知っている。
「――約束、します」
ここには、言葉があるのだと。
「ありがとう」
大きな掌が頬を撫でていく。
だからその手をもう一度掴んだ。
「……こちらこそ、ありがとう……ございます」
彼が気づかせてくれた言葉が、この心の中には、数えきれないほど漂っている。
時間をかけて、一つ一つ拾い上げていけばいい。
彼は、俺を選んでくれたのだから。
「おやすみ、可澄」
囁くような声に、辛うじて肯く。
そうして瞼を下ろし、もう一度指を握り直す。
目が覚めたら、また新しい言葉が生まれるだろう。
どんなにいびつで穴だらけでも、それでもきっと、彼の心を震わせる言葉が。
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