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第二十七章 カルーセルに飛び乗って(2)
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まただ。
また、啜り泣きが聞こえる。
義隆は溜め息をつき、掛布団を顎の下まで引っ張り上げた。
このところ毎晩、壁越しの泣き声で目が覚める。その声は間違いなく、妻の部屋から漏れている。妻が泣いているのだ。真夜中に、ただ独りで。
もう一度溜め息をつく代わりに、彼は舌打ちした。壁を殴ってやりたい衝動を堪え、閉じた瞼の向こうに仄かな間接照明の灯りを感じながら、再び眠りに落ちようとする。しかし、一度去った睡魔はなかなか戻ってこなかった。
式を挙げてから一ヶ月もしないうちに、二人の寝室は別々になっていた。どちらがそれを言い出したのか、彼は覚えていない。
自分が妻を愛していないことに、義隆はもう気づいている。そして妻が自分を愛してはいないことにも。何故我々は結婚したのだろう。そんな疑問も、今では浮かぶことすら稀になった。妻に対する関心は、既に欠片ほども残ってはいない。
だが、それでも頭から離れない言葉がある。叶が吐いた、短い単語。
『怪物』という、あの言葉。
その台詞を口にしたときの妻の目を、彼は忘れることができない。
振り返ってみれば、妻が感情を剥き出しにするのは、いつだって実弟の話題になったときだけだった。
――弟は東京の大学にいるの――挨拶なんて、両親にするだけで充分よ。あの子に会う必要はないわ――チカ君は勉強で忙しいから、あまり邪魔をしたくないの――……チカウ、よ。動詞の『誓う』、『神に誓う』の『誓う』、漢字一文字で、『誓』――いえ、私には似ていないわ。私だけじゃない、家族の誰とも似ていない。似ているわけがない。
人を怪物にしてしまう怪物。仮に妻の言葉が真実であるとすれば、妻は弟によって怪物になったのだろうか。
――『神に誓う』、『願いが叶う』……馬鹿みたいな名前よね。あの子も、私も。
眠らなければならない、と彼は思う。明日は東京出張だ。そして仕事のあとに、人と会う約束をしている。相手は学者、それも文学者だ。
奇妙なことだ、と義隆は心の中で首を捻った。彼自身は、文学などくだらないと考えている。あんなものを研究していったい何になるのか、まるで理解できない。彼の周りにも、そんな娯楽物に血道をあげる人間などいなかった。だから文学をやるような人間と接点を持つことになろうとは、婚約するまで想像すらしなかったし、結婚してからも義弟だけが例外なのだと感じていた。
『小説なんて、ただの作り話だろう。そんなものを学問の対象とすることに、どんな価値があるんだ。経済や法律や科学をやる方が、よほど意義があるだろう』
一度だけ、義弟にそう言ったことがある。すると義弟は笑った。真綿のように軽く、真冬の湖のように冷たい笑みだった。
『世界に対しどうアプローチするか、それが学問です。文学も経済学も法学も科学も、いずれもそのアプローチのヴァリエーションに過ぎません』
その言葉の意味を正しく理解できたかどうか、彼には自信がない。だが、義弟が自分のことを馬鹿にしているか、あるいは全く相手にしていないということだけは、痛いほどよく解った。そしてその感覚は、彼の心に冷たい欲望を植えつけた。一流大学を出て親の会社に入り、それなりの成功を収めつつある義隆にとって、自己の存在を軽んじられることなど、義弟に出会うまで一度もなかった。自分よりも社会的地位の高い人間に見下されるなら、まだ納得できる。しかし相手は貧乏院生だ。苛立ちを覚える一方で、強く惹かれた。綺麗でプライドの高い男、自分には理解できない価値観のもとに生きる男、そんな男を屈服させることができたら、きっとこの渇望も消えるだろう。逆にいえば、このしつこい渇きを癒すには、あの男を跪かせる以外に道はない。
いったいどうすれば、由比誓を手に入れることができるだろう?
眠りに落ちる直前、彼の瞼の裏に浮かんだのは、かつて見た底のない二つの瞳孔だった。
それが義弟のものなのか、それとも妻のものなのか、見極める暇もなく意識は闇に沈んだ。
バーの個室に足を踏み入れたとき、彼は言いようのない不安を覚えた。壁紙も天井も敷物も、設えられたソファも黒く、唯一白い石造のテーブルが、まるでそこだけ空間が欠落したかのように不吉に際立っている。壁に埋め込まれた照明だけが、何とか周囲にぬくもりを与えようと悲愴な努力を見せていたが、そのメランコリックな橙色の灯りは、かえって黒色の深さを実感させるだけだった。
「世界へのアプローチのヴァリエーション……いかにも彼の言いそうなことだ」
男が言葉を発するたびに、グラスに湛えられた薄い蜜のような液体が揺れる。グラスの中には形のよい氷が入っていて、からからと鳴った。男は視線が吸い込まれそうなほど黒いスーツを着ていた。午前二時の空の色だ。
「彼は世界にアプローチする。けれどその世界には、彼しかいないのです」
そう言って男はグラスに口をつけた。彼もそうしたかったが、手が上手く動かなかった。
レストランで食事をしている段階では、特に問題はなかった。男との会話の内容は、国内外の情勢に関する個人的な見解、要するに世間話に終始していた。互いに何かを批判し、何かを擁護し、持論を展開しつつも相手の言葉に理解を示した。しかしバーに移ってから、少しずつ会話の歯車が噛み合わなくなっていった。それは恐らく、話題が彼の義弟に移ったときから始まっていた。
「私はどうもこの道には疎くて、文学のことはさっぱり解らないのですが、やはり柄島さんも彼のことを優秀だとお考えですか」
そう訊ねると、男はグラスを持ったまま首を横に振った。からからと、また氷が鳴る。
「あの青年は異端なのです。優れているとか秀でているとか、そういう次元で語ることのできない存在です。一度論文を読んでみるといいでしょう。世界の終焉を見つめる人間は少なくありませんが、しかし彼の眼差しは世界が終わった『あと』の展望を捉え、そのほんの一部を我々に垣間見せてくれる。それは肉の穢れも情の歪みも侵入しえない、残酷で清潔で、そしてどうしようもなく美しい、無生物的風景です」
義隆は無言で自身のグラスを口に運んだ。義弟の論文なら、以前読んだことがある。彼のよく知る小説を論じたものだったが、何をいっているのか全く理解できなかった。
「彼は時として、オリジナルのテクストよりも遥かに強固なテクストを構築してしまう。そして純粋なテクストの強度という点においては、あの小説は彼の論文に勝てませんでした。しかし小説は論文ではない。論文には、否、論文を含む他のあらゆるテクストには、絶対に到達しえない、ある種の果てのようなものが言葉の世界には存在し、そしてそこへ辿り着けるのは虚構のみなのです」
男は言葉を継ぎ足し続けた。義隆の困惑に気づいていないのか、もしくは気づいていて無視しているのか。彼に向けられる暗い眼球にも、口許に刻まれた浅い微笑にも、その判断材料になりそうなものは何一つ含まれていなかった。
「彼は敗北するでしょう。何故なら、あの無機質な、まるで解版するかのように物語も思想も言葉も何もかもを全てばらばらに解体していく、そんな世界の死後の眼差しは、その小説の物語言説を追究することはできても、物語内容には決して届きえないのだから」
この男は、いったい俺に何を言おうとしているのだろう?
グラスの中で淡い色の水面が揺れるさまを見つめながら、義隆は心の中で呻く。
敗北とはどういう意味だろう。義弟が何かしでかしたのか。
「……あの小説、というのは?」
相手の言葉を遮るためだけに吐いた言葉は、ひどく弱々しく空気を揺すった。
「三流作家の書いた三流小説ですよ。これまでどんな批評家も研究者も、まともに分析しようとはしなかった代物です」
「それを義弟が論じたことで、彼が不味い立場に置かれている、と?」
「高校の非常勤講師が教え子に集団暴行された事件、ご存じですか」
「……ええ、知っています」
相手が唐突に話題を変えたことに、義隆は戸惑いつつ肯いた。その事件なら、彼も新聞や週刊誌などで見聞きしていた。数十人の男子高生が教師に暴行を働いたということ自体、既にセンセーショナルだったが、それが性的暴行、もっと直截な表現をすればレイプであったこと、そして被害者が男性であったことが、事件をより異様で不気味なものにしていた。
「では、被害者が誰かもご存じですか」
その瞬間、嫌な予感がした。
アルコールで体温は上がっているはずなのに、臓器が少しずつ凍りついていく。
「いいえ」
聞きたくないと思った。知りたくない。
しかし男は無情に口を開き、その名を発した。
「由比誓ですよ」
ごと、と足許で音がした。
義隆は視線を落とした。そして掌から滑り落ちたグラスが、まるでキッチュな映画のワンシーンのようにだらしなく中身を撒き散らしてラグの上に転がっている様子を、押し黙ったまま眺めた。
――俺はこれから悪い夢を見るのだ。
冷たい予感が、凍えた重力が、彼の心と四肢から力を奪っていた。もうそこから逃げ出すことはできないのだということを、彼はよく知っていた。彼に許された行為はただ一つ、瞼を下ろすことだけだった。
「ご存じでないのも当然かもしれません。誰も表立って騒いではいませんからね。けれど多くの人間がこのことを知っている。レイプ動画と被害者及び加害者の氏名が、インターネットに出回っているのです。何度削除されても、データのコピーがアップロードされ続けて、もう誰にも、犯人自身にさえも、どうすることもできないところまで来ています」
言葉が切れて、氷が鳴って、男はまたウィスキーを舐めたようだった。もしかしたら確かめているのかもしれなかった。彼がもう言葉を発さないことを。あるいは、自らの言葉が彼の内側に根を張りつつあることを。
氷がまた鳴って、グラスが石板に置かれる硬い音がした。
「あなたも動画をご覧になるといい。検索すれば、すぐに見つかりますよ」
空気の漏れる雑音。これは笑い声だろうか。
「ああ、それともう一つ、あなたは奥さんのご家族の――由比家の事情を、もう少し知っておくべきだと思いますね。あれは一見何処までも平凡で幸福な家庭のようでいて、実は闇を抱えている。あるいは、闇を直視することを拒んだ家庭といった方が、より適切かもしれない」
目を閉じた彼は、瞼の内側の肉を見つめる。それは暗い色をしている。天井も壁も床も黒い、この部屋のように。これが闇の色なのだ。
「事件のせいで、彼は金に困っています。本来なら、被害に遭ったことを親に打ち明けて、援助を受けるものでしょう。しかしとある事情から、彼にはそれができません」
――やるべきことは、お分かりですね?
音を伴わない問いが、頭の中にずるりと侵入してくるのを、義隆は感じた。
「またお会いする必要は……なさそうですね。あなたならこのままでも、期待どおりにやってくれるでしょう」
バーの前で、男はそう言った。いつ会計を済ませたのか、いつ店の外に出たのか、義隆には記憶がなかった。彼はただ、無言で相手の細い目を見た。それは瞳孔と虹彩の区別もつかないほど黒く淀んだ色をしていた。
彼はぼんやりと考える。怪物のことを。怪物の眼球のことを。
「僕は、他人の言葉を奪うことに快楽を感じているわけではありません。端役のテクストを支配したところで、いったい何になるだろう。僕が欲するものは、たった一つなのです。それ以外のものは、その贄に過ぎない。そう、僕のテクストでさえ、彼の――」
続きは聞こえなかった。瞬くネオンの届かない、黒い黒い闇の中へ、男は我と我が身を溶かし消し去った。
義隆は路上に立ち、男が消えた辺りを凝視した。
彼は自分が為すべきことを考えていた。その段取りを、考えていた。仕事のことは、もう頭の何処にも存在していなかった。
-------------
・「物語言説」「物語内容」…ジェラール・ジュネット
また、啜り泣きが聞こえる。
義隆は溜め息をつき、掛布団を顎の下まで引っ張り上げた。
このところ毎晩、壁越しの泣き声で目が覚める。その声は間違いなく、妻の部屋から漏れている。妻が泣いているのだ。真夜中に、ただ独りで。
もう一度溜め息をつく代わりに、彼は舌打ちした。壁を殴ってやりたい衝動を堪え、閉じた瞼の向こうに仄かな間接照明の灯りを感じながら、再び眠りに落ちようとする。しかし、一度去った睡魔はなかなか戻ってこなかった。
式を挙げてから一ヶ月もしないうちに、二人の寝室は別々になっていた。どちらがそれを言い出したのか、彼は覚えていない。
自分が妻を愛していないことに、義隆はもう気づいている。そして妻が自分を愛してはいないことにも。何故我々は結婚したのだろう。そんな疑問も、今では浮かぶことすら稀になった。妻に対する関心は、既に欠片ほども残ってはいない。
だが、それでも頭から離れない言葉がある。叶が吐いた、短い単語。
『怪物』という、あの言葉。
その台詞を口にしたときの妻の目を、彼は忘れることができない。
振り返ってみれば、妻が感情を剥き出しにするのは、いつだって実弟の話題になったときだけだった。
――弟は東京の大学にいるの――挨拶なんて、両親にするだけで充分よ。あの子に会う必要はないわ――チカ君は勉強で忙しいから、あまり邪魔をしたくないの――……チカウ、よ。動詞の『誓う』、『神に誓う』の『誓う』、漢字一文字で、『誓』――いえ、私には似ていないわ。私だけじゃない、家族の誰とも似ていない。似ているわけがない。
人を怪物にしてしまう怪物。仮に妻の言葉が真実であるとすれば、妻は弟によって怪物になったのだろうか。
――『神に誓う』、『願いが叶う』……馬鹿みたいな名前よね。あの子も、私も。
眠らなければならない、と彼は思う。明日は東京出張だ。そして仕事のあとに、人と会う約束をしている。相手は学者、それも文学者だ。
奇妙なことだ、と義隆は心の中で首を捻った。彼自身は、文学などくだらないと考えている。あんなものを研究していったい何になるのか、まるで理解できない。彼の周りにも、そんな娯楽物に血道をあげる人間などいなかった。だから文学をやるような人間と接点を持つことになろうとは、婚約するまで想像すらしなかったし、結婚してからも義弟だけが例外なのだと感じていた。
『小説なんて、ただの作り話だろう。そんなものを学問の対象とすることに、どんな価値があるんだ。経済や法律や科学をやる方が、よほど意義があるだろう』
一度だけ、義弟にそう言ったことがある。すると義弟は笑った。真綿のように軽く、真冬の湖のように冷たい笑みだった。
『世界に対しどうアプローチするか、それが学問です。文学も経済学も法学も科学も、いずれもそのアプローチのヴァリエーションに過ぎません』
その言葉の意味を正しく理解できたかどうか、彼には自信がない。だが、義弟が自分のことを馬鹿にしているか、あるいは全く相手にしていないということだけは、痛いほどよく解った。そしてその感覚は、彼の心に冷たい欲望を植えつけた。一流大学を出て親の会社に入り、それなりの成功を収めつつある義隆にとって、自己の存在を軽んじられることなど、義弟に出会うまで一度もなかった。自分よりも社会的地位の高い人間に見下されるなら、まだ納得できる。しかし相手は貧乏院生だ。苛立ちを覚える一方で、強く惹かれた。綺麗でプライドの高い男、自分には理解できない価値観のもとに生きる男、そんな男を屈服させることができたら、きっとこの渇望も消えるだろう。逆にいえば、このしつこい渇きを癒すには、あの男を跪かせる以外に道はない。
いったいどうすれば、由比誓を手に入れることができるだろう?
眠りに落ちる直前、彼の瞼の裏に浮かんだのは、かつて見た底のない二つの瞳孔だった。
それが義弟のものなのか、それとも妻のものなのか、見極める暇もなく意識は闇に沈んだ。
バーの個室に足を踏み入れたとき、彼は言いようのない不安を覚えた。壁紙も天井も敷物も、設えられたソファも黒く、唯一白い石造のテーブルが、まるでそこだけ空間が欠落したかのように不吉に際立っている。壁に埋め込まれた照明だけが、何とか周囲にぬくもりを与えようと悲愴な努力を見せていたが、そのメランコリックな橙色の灯りは、かえって黒色の深さを実感させるだけだった。
「世界へのアプローチのヴァリエーション……いかにも彼の言いそうなことだ」
男が言葉を発するたびに、グラスに湛えられた薄い蜜のような液体が揺れる。グラスの中には形のよい氷が入っていて、からからと鳴った。男は視線が吸い込まれそうなほど黒いスーツを着ていた。午前二時の空の色だ。
「彼は世界にアプローチする。けれどその世界には、彼しかいないのです」
そう言って男はグラスに口をつけた。彼もそうしたかったが、手が上手く動かなかった。
レストランで食事をしている段階では、特に問題はなかった。男との会話の内容は、国内外の情勢に関する個人的な見解、要するに世間話に終始していた。互いに何かを批判し、何かを擁護し、持論を展開しつつも相手の言葉に理解を示した。しかしバーに移ってから、少しずつ会話の歯車が噛み合わなくなっていった。それは恐らく、話題が彼の義弟に移ったときから始まっていた。
「私はどうもこの道には疎くて、文学のことはさっぱり解らないのですが、やはり柄島さんも彼のことを優秀だとお考えですか」
そう訊ねると、男はグラスを持ったまま首を横に振った。からからと、また氷が鳴る。
「あの青年は異端なのです。優れているとか秀でているとか、そういう次元で語ることのできない存在です。一度論文を読んでみるといいでしょう。世界の終焉を見つめる人間は少なくありませんが、しかし彼の眼差しは世界が終わった『あと』の展望を捉え、そのほんの一部を我々に垣間見せてくれる。それは肉の穢れも情の歪みも侵入しえない、残酷で清潔で、そしてどうしようもなく美しい、無生物的風景です」
義隆は無言で自身のグラスを口に運んだ。義弟の論文なら、以前読んだことがある。彼のよく知る小説を論じたものだったが、何をいっているのか全く理解できなかった。
「彼は時として、オリジナルのテクストよりも遥かに強固なテクストを構築してしまう。そして純粋なテクストの強度という点においては、あの小説は彼の論文に勝てませんでした。しかし小説は論文ではない。論文には、否、論文を含む他のあらゆるテクストには、絶対に到達しえない、ある種の果てのようなものが言葉の世界には存在し、そしてそこへ辿り着けるのは虚構のみなのです」
男は言葉を継ぎ足し続けた。義隆の困惑に気づいていないのか、もしくは気づいていて無視しているのか。彼に向けられる暗い眼球にも、口許に刻まれた浅い微笑にも、その判断材料になりそうなものは何一つ含まれていなかった。
「彼は敗北するでしょう。何故なら、あの無機質な、まるで解版するかのように物語も思想も言葉も何もかもを全てばらばらに解体していく、そんな世界の死後の眼差しは、その小説の物語言説を追究することはできても、物語内容には決して届きえないのだから」
この男は、いったい俺に何を言おうとしているのだろう?
グラスの中で淡い色の水面が揺れるさまを見つめながら、義隆は心の中で呻く。
敗北とはどういう意味だろう。義弟が何かしでかしたのか。
「……あの小説、というのは?」
相手の言葉を遮るためだけに吐いた言葉は、ひどく弱々しく空気を揺すった。
「三流作家の書いた三流小説ですよ。これまでどんな批評家も研究者も、まともに分析しようとはしなかった代物です」
「それを義弟が論じたことで、彼が不味い立場に置かれている、と?」
「高校の非常勤講師が教え子に集団暴行された事件、ご存じですか」
「……ええ、知っています」
相手が唐突に話題を変えたことに、義隆は戸惑いつつ肯いた。その事件なら、彼も新聞や週刊誌などで見聞きしていた。数十人の男子高生が教師に暴行を働いたということ自体、既にセンセーショナルだったが、それが性的暴行、もっと直截な表現をすればレイプであったこと、そして被害者が男性であったことが、事件をより異様で不気味なものにしていた。
「では、被害者が誰かもご存じですか」
その瞬間、嫌な予感がした。
アルコールで体温は上がっているはずなのに、臓器が少しずつ凍りついていく。
「いいえ」
聞きたくないと思った。知りたくない。
しかし男は無情に口を開き、その名を発した。
「由比誓ですよ」
ごと、と足許で音がした。
義隆は視線を落とした。そして掌から滑り落ちたグラスが、まるでキッチュな映画のワンシーンのようにだらしなく中身を撒き散らしてラグの上に転がっている様子を、押し黙ったまま眺めた。
――俺はこれから悪い夢を見るのだ。
冷たい予感が、凍えた重力が、彼の心と四肢から力を奪っていた。もうそこから逃げ出すことはできないのだということを、彼はよく知っていた。彼に許された行為はただ一つ、瞼を下ろすことだけだった。
「ご存じでないのも当然かもしれません。誰も表立って騒いではいませんからね。けれど多くの人間がこのことを知っている。レイプ動画と被害者及び加害者の氏名が、インターネットに出回っているのです。何度削除されても、データのコピーがアップロードされ続けて、もう誰にも、犯人自身にさえも、どうすることもできないところまで来ています」
言葉が切れて、氷が鳴って、男はまたウィスキーを舐めたようだった。もしかしたら確かめているのかもしれなかった。彼がもう言葉を発さないことを。あるいは、自らの言葉が彼の内側に根を張りつつあることを。
氷がまた鳴って、グラスが石板に置かれる硬い音がした。
「あなたも動画をご覧になるといい。検索すれば、すぐに見つかりますよ」
空気の漏れる雑音。これは笑い声だろうか。
「ああ、それともう一つ、あなたは奥さんのご家族の――由比家の事情を、もう少し知っておくべきだと思いますね。あれは一見何処までも平凡で幸福な家庭のようでいて、実は闇を抱えている。あるいは、闇を直視することを拒んだ家庭といった方が、より適切かもしれない」
目を閉じた彼は、瞼の内側の肉を見つめる。それは暗い色をしている。天井も壁も床も黒い、この部屋のように。これが闇の色なのだ。
「事件のせいで、彼は金に困っています。本来なら、被害に遭ったことを親に打ち明けて、援助を受けるものでしょう。しかしとある事情から、彼にはそれができません」
――やるべきことは、お分かりですね?
音を伴わない問いが、頭の中にずるりと侵入してくるのを、義隆は感じた。
「またお会いする必要は……なさそうですね。あなたならこのままでも、期待どおりにやってくれるでしょう」
バーの前で、男はそう言った。いつ会計を済ませたのか、いつ店の外に出たのか、義隆には記憶がなかった。彼はただ、無言で相手の細い目を見た。それは瞳孔と虹彩の区別もつかないほど黒く淀んだ色をしていた。
彼はぼんやりと考える。怪物のことを。怪物の眼球のことを。
「僕は、他人の言葉を奪うことに快楽を感じているわけではありません。端役のテクストを支配したところで、いったい何になるだろう。僕が欲するものは、たった一つなのです。それ以外のものは、その贄に過ぎない。そう、僕のテクストでさえ、彼の――」
続きは聞こえなかった。瞬くネオンの届かない、黒い黒い闇の中へ、男は我と我が身を溶かし消し去った。
義隆は路上に立ち、男が消えた辺りを凝視した。
彼は自分が為すべきことを考えていた。その段取りを、考えていた。仕事のことは、もう頭の何処にも存在していなかった。
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