ヴァルネラブル

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第三十二章 水よりも薄く

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 夜の街に、光が浮かぶ。人が流れる。言葉が湧き出す。異物の角膜の外側で、世界は異物にとっての異物で華やかに充溢する。
 彼は歩いている。手にしたコートに袖を通すこともなく、吹き抜ける風に顔を背けることもない。唇の端に滲んだ血さえそのままに、ただ足を機械的に動かしている。
 考えなければならない。そう彼は漠然と思う。しかし思考はそこで止まってしまう。何を考えるべきなのか、何のために考えねばならないのか。考えることで、果たして何かが変わるのか。頭の中には忌まわしいテクストの断片がばら撒かれており、どんな言葉を織ってみても自らの言説になりそうにない。
 赤い灯の前で立ち止まると、もう動ける気がしなかった。灯は赤から青に変わり、点滅したのち再び赤に変わる。誰かが何か言っている。彼もまた何か言うべきなのだ。だが記号は指示することをやめ、内包も外延も無残にあらゆる表層を滑り落ちていく。世界が、言葉が、雪崩れていく。ここでは沈黙は死と同義になるというのに、彼には言うべき言葉がない。
 ここは、何処なのだろう。
「――酷い格好だな」
 由比は喉の奥で低く呻いた。声が聞こえる。
「また襲われたのか」
 それは耳鳴りではなかった。すぐ横に何者かが立っていて、彼に話しかけている。
「誰ですか」
 移ろう信号の灯りを見つめたまま、由比は唸るように誰何した。けれど相手は答えなかった。代わりにあの言葉を口にする。
「『由比誓は淫売だ』」
 側頭部が、重くなる。
「誰なんですか、あなたは」
 激しい苛立ちと憎悪が、声に、口調に、滲み出る。感情を制御できないのは悪い傾向だ、と他人事じみた不感症の理性が告げる。次に選択を誤れば、恐らくそれが致命傷になる。
「名乗れ。お前は誰だ。俺に何の用がある」
「義理の兄貴の顔も忘れたのか」
 義理の兄。
 思いがけない言葉に、由比は首を回して異物を凝視した。そこには奇妙によじれた顔面があった。彼はすぐに目を逸らした。相手が誰であろうと、結局何も変わらない。
「話をする気はありません。放っておいてください」
 すると男の声帯が奇怪な音を立てた。どうやら笑ったらしかった。
「強がるなよ。金に困っているんだろう」
 由比は黙って虚空を見つめた。男はそれをどう受け取ったのか、ひどく耳障りな声でまくし立て始めた。
 ――この数日で、俺は由比誓に関するありったけの情報を集めさせた。俺はお前と違って金はあるからな。確か今月末が後期授業料の納入期限だったな。あんな事件があればお前を雇う学校などないだろうし、そもそも今のお前では、何処に勤めようが半日で問題を起こして追い出されるだろう。親に資金援助を仰ごうにも、理由が必要だ。しかしお前は父親にだけは絶対に、自分が男にレイプされる人間だということを知られてはならない。どうだ、そのとおりだろう?……
 男は欲望と悪意を連ねていく。彼を許さない世界の言葉だ。
「学費も生活費も全て、俺がまとめて面倒を見てやる。コンシェルジュつきのマンションも用意してやろう。お前はこれ以上、あのアパートにはいられないだろうから」
 破滅への誘い。しかし彼はもう話を聞いてはいなかった。ただ視界いっぱいの夜を見つめる。
 暗いアスファルトが街の灯を微かに反射し、燐光のように薄く瞬くそれらはまるで星の死骸のよう。
 東京の空に星がないのは、全て死に絶えてアスファルトの冷たい辺獄に落ちてしまったせいなのかもしれない。
「誓」
 いかに弱く虚ろな輝きであっても、死してなお燐光の如くその名残を論文の中に留めることができるのが研究者であるというのなら。あらゆる先人たち同様、自分もまたいつかそのような存在となる運命にあるのだとしたら。
「俺のものになれ」
 今ここで、アスファルトに落ちた数多の星の一つになっても同じことだろうか。
 由比は身体の脇に垂れ下がったままの肘から先を、のろのろと上げた。これが最後だ、と彼は思った。そうして最後の望みを賭けて、自らの掌を見た。だがそこには何もなかった。知っている、と彼は思った。この手は何も掴めないこと、全ての望みは裏切られるために生まれること。全て知っていたから、悲しむこともない。
 移動するタクシーの中で、男は喋り続けた。だが彼には何一つ聞き取れなかった。由比は後部座席のシートベルトに縛られたまま、じっとしていた。その視界は夜の空間を映し続けた。星々の死骸をさらい続けた。
「ここで止めろ」
 男の命令に、運転手は無言でブレーキを踏んだ。紙幣が数枚運転席に投げ込まれる。釣りはいらない、と乱暴に言い捨て、男は由比の身体からシートベルトを剥ぎ取る。そうして木偶のような彼を、腕を掴み車外へと引きずり出す。
 排気ガスの匂いが夜の空気に溶けたとき、由比の目の前には黒々とした巨大な立方体が佇立していた。彼の住むアパートだ。
 男は彼をエントランスに引きずり込もうとする。手荒な扱いによろめいたとき、視界の端を何かが掠めた。奇妙な磁力に引かれたように、彼の視線はそれを捉えた。グレーのワンボックスカーだ。見慣れぬそれは、まるで影のように斜向かいの雑居ビルの脇に停車していた。窓はスモークフィルムで閉ざされており、ひっそりと静まり返っている。
 頭蓋骨の内側で、警鐘が鳴り響く。本能が何かを告げようとしている。しかしそれは遠い地を吹く風のよう。どんなに吹き荒ぼうとも、彼の心身を揺さぶることはできない。
「何をしている。早く開けろ」
 立ち止まった彼の肩を、男が乱暴に押した。促されるままオートロックの扉を開錠する。ドアが開くと、男は彼を廊下の奥へ引っ張っていった。
「五階だったな」
 男の指が、壁面に取りつけられたボタンを苛立たしげに叩く。すると閉ざされた扉に嵌め込んである細長い窓に、黄ばんだ明かりが灯った。扉が開く。
 その瞬間、鼓動が躓いた。
 狭い箱が、口を開けて彼を呑み込もうとしていた。
 エレベーター。
 駄目だ。
 発作じみた衝動が、彼の萎えた腕を動かした。由比は男の手を振り解こうとした。自身を支配した感情の正体を探る暇はなかった。仮にそんな暇があったとしても、認めるわけにはいかなかった。
 それは恐怖だった。
「くそっ、おとなしくしろ。淫売の分際で選り好みする気か!」
 相手の拳が、頬を掠める。この男は俺を壊すつもりだ。頭より早く、身体がそう理解する。だが、何故? どうして俺が、また? 常に純然たる被害者であり続けたこの俺が、何故?
 彼は、自身の心が破堤するのを感じた。拳に肉の感触があった。気づくと由比は、男を渾身の力で殴り返していた。
「……いい加減にしろ……」
 先刻信号機の前で彼を襲った激しい感情が、まるでいくつもの波を呑んだ津波のように何倍にも膨れ上がり、再び心身を支配する。逆上した男が振り上げた拳に、彼もまた拳で応じた。
 それはしかし、勝ち目のない戦いだった。力で敵わない相手には抵抗しない、そんな信条がふと蘇る。だがもう手がつけられなかった。許せないと思った。たとえ無残に敗北するとしても、ほかでもない今この瞬間、恐らくは遥か昔から抱卵し続けてきた輪郭のない憎悪を、世界が異物へ向ける悪意に対する凶暴な怨嗟を、彼は誰かにぶつけなければならなかった。
「誰が……誰が淫売だ。お前に俺の何が解る……っ」
 解っている。
 彼にとって世界の全てが異物であり、世界の全てにとって彼が異物である以上、悪意も憎悪も怨嗟も、被害と加害の関係も、永遠に互いの間で循環し続ける運命にあるのだということは。
 だが、解っていても、それでも彼には、許せなかった。
 再び寡黙に口を閉ざしたエレベーターの前で、二人は殴り合った。もちろんそれは、始まる前から勝負のついた戦いだった。それでも由比の痩躯が床に崩れ落ちるまでに、五分以上が費やされた。
「畜生、手こずらせやがって」
 何処からか、男の声が微かに聞こえた。
 痛みはあまり感じなかった。自分の身体がどうなっているのか把握できなかった。ただ肌が冷たいと思った。ひどく眠いような気がした。きっともうすぐ、何も分からなくなるのだ。
 彩度を下げていく意識の中で、彼は自分自身に問いかける。
 悪意と底意の坩堝のようなこの空間で、己のテクストを守れるのは何だろう。
 違う、テクストは何からも守られない。ただ自らの強度のみを支柱として、孤独に自立するのがテクストだ。だから自分は常にたった独りで戦い続けた。由比誓を引き裂こうとする、全ての指に透明な牙を剥いてきた。
 けれどたった一人でも、この歪な織り目に歪みのない眼差しを向ける他者がいたとしたら、別の生き方ができたのだろうか。
 ――フェードアウト。



「もっとよがれよ。これが好きなんだろう?」
 舌に絡む、鉄の味。
「……いっ」
 吐き出すのは面倒で、飲み込むのは馬鹿馬鹿しい。
「気持ちいいですって、豚みたいに鳴いてみろ。淫売」
「うぅ……」
 気がつくと、自室の玄関で犯されていた。
「くそ、全然勃たないな。お前まさか不感症か。報告書には何も書いていなかったぞ」
 驚きはない。こうなることは分かっていた。今まで感じていなかった痛みがやってきたことの方が、よほどうんざりした。殴られた場所が熱をもっていた。もしかしたら肋骨に罅くらい入っているのかもしれない。治療をするのは面倒だな、と彼は上の空の心で思った。金がかかる。時間もかかる。ぼやけた視界を回復させるために何度か瞬きすると、投げ出された自分の拳が目に入る。関節の辺りに、ごく微量ではあるものの血痕が見て取れた。恐らくそれは相手の血液であり、彼が振るった暴力の印だ。この僅かな汚れが、しかし由比にとっては、犯されているという事実よりも不快だった。
 男のセックスは乱暴だった。獣のように背後から性器を突き立てられ、時折平手で肌を打たれる。髪を掴まれ、額や頬を床に打ちつけられる。剥き出しの背中の上に唾を吐かれる。それでも声は出したくないと由比は思う。滑稽だからだ。しかし体内を掻き回すように抉られると、どうしても呻き声が抑えられない。
「うぁ……っ」
 彼が声を上げると、男は悦ぶ。この男だけではない。どの男も同じだ。
「まあ、お前の快感なんて俺にはどうでもいいことだ。お前はただの肉便器なんだ。犯されるしか能がない穴の癖に、いつも見下すような目をしやがって」
 性的な快感と精神的な快感とで、男の声は上擦っていく。
「お前の……お前のせいだ……」
 だがその快感は、絶望に満ちている。
「全部お前が悪いんだ……全部お前のせいなんだ……お前が俺の前に現れなければ……俺は……俺は……」
 男の手が、彼の首を無理やり首を捻じ曲げさせる。彼は瞬きして眼球を動かした。すると男の顔のようなものが現れた。視線が合う。
「泣けよ。泣いて許しを乞えよ。縋りついてみせろよ」
 視界に貼りついたその顔は、歪んでいる、潰れている。
 判別不能な愚者の面。
 あるいは判別する必要がないからこそ、皆が同じ顔に見えるのかもしれない。由比にとっては、誰もが等しく加害者なのだから。
 相手を見据える由比の揺るぎない視線に対し、男の眼球は、そして声は、震えはじめた。
「どうして……なんで今になってもまだそんな目で、俺を見るんだ……悪いのはお前なんだ、お前が、お前さえいなければこんな……っ」
「――くだらない」
 男の顔が、あからさまな恐怖によって強張った。
 同時に、相手の顔面から、あの奇妙な捩れが潮のようにすっと引いていく。
 由比は黙って男を見つめた。ああ、義兄だ、と彼は思った。
 そのときだった。
 玄関のドアが、開いた。
「な……っ!」
 義兄が弾かれたようにドアの方を振り返る。そして凍りついた。
 自分を犯す男の身体が邪魔をして、由比にはそこに何があるのか見えなかった。しかしすぐに聞き覚えのある悲鳴が狭い室内を切り裂き、彼は全てを把握した。
「いやあああああああああっ」
 罠だ。
「誓、義隆さん!」
「な、何ばしようと!」
 長く尾を引く悲鳴に、それとは別の二人の男女の声が重なる。これもやはり、聞き覚えのある声だった。だがそれも当然のことといえた。何故ならそれは、彼を生み育てた人間の声なのだから。
「誓……あんた、……また……」
 また。そう、『また』なのだ。
 母親の引き攣った声を聴きながら、由比は目だけで笑う。
 今度こそ本当に、全てが理解できた。
 ビルの脇に停車していた、見慣れぬワンボックスカー。あそこから見張られていたのだ。姉と、父と、母に。
 きっと義兄を探す電話があったときには既に、彼らは東京にいたのだろう。由比を疑い、彼の自宅に義兄が訪れると予想して、あの暗いスモークフィルムの内側に潜んで待っていたのだ。本当に、馬鹿な真似をする。しかし恐ろしい偶然だ、いったい何の確証があって……、そこまで考えて、彼は心の中で頭を振った。いや、解っている。義兄の登場も、姉と両親の行動も、全ては仕組まれたことなのだ。
 由比以外の人間は、一様に呆然としていた。しかし、一人が漸く我に返った。由比の父親だ。
「お前……!」
 拳を固めた父親が、由比と義兄ににじり寄る。義兄は慌てて由比の体内から性器を抜いた。一度中で達していたせいで、蕾から血の混じったどろりと濃い液体が零れる。
「ま、待ってください。誤解です。俺はただ……」
 股間のものを晒したまま、義兄は弁解しようとした。そんな必要はない、と由比は思った。この茶番がどんな幕切れを迎えるのか、彼には分かっていた。案の定、父親の拳は義兄ではなく由比に向けられた。
「きゃあああ! お父さん!」
 馬乗りになって息子を殴りつける夫の姿に、由比の母親が悲鳴を上げる。しかし止めには入らない。
「男の癖に……男の癖にお前は……!」
 殴られながらも、由比の目は揺らがずに笑い続けていた。そして彼の暗い瞳孔へ向けられる父親の眼差しの、その無様な震えを捉え続けていた。
 彼は知っていた。
 父親が保守的なホモフォビアだということ。そして自分が、父親のセクシャリティを覆しかねない存在だということも。
 だから由比は東京に向かったのだ。人々が個と個の集合体以上の繋がりをもたない、そんなしがらみのない大都会なら、異物であっても生き残れると、信じたのだ。
 けれど結局、それは無駄なことだった。
 今こうして父親は、欲望とすり替えた暴力を彼にぶつけている。姉は気づいただろう。母親も知ってしまっただろう。当人同士だけが無言のうちに感じ取っていた、父の息子に対する歪んだ愛憎を。
 父、母、姉、義兄、そして由比。この場にいる人間全てが、罠にかけられたのだ。由比誓という一人の人間を破滅させるためだけに。
「――父さん。やめて」
 呟くように、姉が言った。
 乾いた声に、振り上げられた父親の拳が宙で凍る。
「……おしまいよ。もう、何もかも」
 由比は床に倒れたまま眼球を動かした。辛うじて上方に、姉の姿が見えた。
 姉の白い顔には、表情がなかった。姉を見上げる彼の顔にもまた、表情がなかった。この瞬間、二人の姉弟は、まるでそれぞれがそれぞれの精巧な複製のようだった。
「……姉さん」
 彼の声も、顔同様、異様なほど無機質だった。
「チカ君……」
 姉弟は静かに見つめ合った。互いの瞳に、互いの瞳が浮かぶ。まるで鏡に鏡を映したような、無限の牢獄が彼らの瞳の間に続いていた。
 父母も、義兄も、誰もが呼吸を忘れていた。
 沈黙を破ったのは、姉だった。
「私、何処で間違えたんだろうね、チカ君」
 姉は微笑んだ。いつか彼が浮かべるものと同じ、表情のない笑みだった。そしてその瞬間、魔法が解けたかのように、姉弟二人だけの空間は消えた。
 父親は、軟体動物のような動きでずるりと由比の身体から下りた。それから無言で彼の腕を掴んで無理やり立たせ、ドアの外まで引きずっていった。
「お前はもう俺の息子じゃねえ。この部屋も解約する。何処へでも行って独りで死ね」
 壊れた人形のように息子の身体を放り出し、相手を睨みつけるその目はしかし、敗者の怯えに満ちている。この男はもう駄目だ、と由比は思った。義兄も同じだ。
「姉さん。一つだけ、いいかな」
 だから由比は父親を無視して、その背後にいる姉に呼びかけた。
「添嶋秋長――柄島永明とは、もう関わらない方がいい」
 義兄が小さく息を呑む。しかし姉は黙っていた。その黒い目は、不思議なほど凪いでいた。
「全部あの男の指示だったんだろう。いや、何も言わなくていい。俺には分かるから」
 彼は微笑した。
「あの男のことは忘れるんだ。たとえほかの誰が覚えていても、姉さんだけは忘れるんだ。もう間違えたくないのなら」
「チカ君」
「姉さんはまだ間に合うよ。俺と違って」
 姉は何も言わなかった。彼にももう、話すべきことは残っていなかった。これが訣別の瞬間なのだ。そう互いに理解し合っていた。
 父親が、無言のままドアノブに手をかける。徐に扉が閉まっていく。由比はそれをやはり無言のまま見つめた。だがそのとき、父親の陰に母の姿を認めた。母親は床に座り込んで何か言いながら泣いていた。その一断片が、最後に彼の耳を掠めた。
「……産んでごめんね、誓……」



 夜風はまた一段と冷たく厳しいものになっていた。
 行く場所をもたない足は、振り子の玩具のように惰性で動き続けている。
 エレベーターの前の廊下で、無意識に拾ってしまったコートと鞄。それらがひどく邪魔だったが、手を放そうとすること自体億劫だった。
 今ではよくわかる、と彼は思う。わからなかったのが不思議なほどだ。
 自分は最初から、勝ち目のない戦いに身を置いていたのだ。あの男が現れるよりも、あのテクストが成立するよりも、ずっと前から。
 何処とも知れない場所で、ガードレールにもたれ、ぼやけた夜空を見上げる。視線は下げない。見下ろせばきっと、地面に血溜まりができているから。
 それは色も匂いも温度さえも欠いた血液だ。どれほど大量に流れたとしても誰も気づかない、流した本人にしかわからない、透明な血。
 思えば今まで、自分はこの透明な血を流しながら生きてきたのかもしれない。
 いつか誰かに言われた言葉が、血に染まった唇の隙間から零れ落ちる。
「ヴァルネラブル……」
 それが、由比誓の本質だったのだ。
 不意に、手から力が抜けた。コートと鞄が落下したような気がした。しかしわからなかった。
 もう耳鳴りは感じなかった。あるいは全てが耳鳴りだった。
 これでいいのかもしれない、と彼は思った。
 自分は悪足掻きをしすぎたのだ。二十六まで騙し騙し生きてきた。よくやった方だろう。もう充分なのではないだろうか。
 悲しくはない。情けなくもない。ただ一つ口惜しいのは――。
「――由比さん」
 彼の冷えた頬に、微かな笑みが滲んだ。
「どうしてなんだ」
 わからない。
「どうして君が、ここにいるんだ」
 目の前に立つ男に向かって呟くと、男もまた呟いた。
「馬鹿ですから」
 二人はそのまま黙っていた。向き合う彼らの間を、夜のざわめきだけが通り抜けていく。
 先に口を開いたのは、由比だった。
「何故だろうね、黒木君」
 相手の背後に広がる街の光を瞳孔に浮かべ、温度も湿度もない言葉を綴る。
「俺はただ、生き延びようとしただけなんだ。本当に、ただそれだけだった」
 あるいはそれは、ただの独り言かもしれなかった。しかし彼には自分の言葉がはっきりと聞こえた。
「来てください」
 男の言葉も、本当は独り言なのかもしれなかった。けれどその言葉もやはり、彼の耳にしっかりと届いた。だから彼は新たな言葉を織った。
「駄目だよ」
 彼の身体の中で、口だけが動いていた。瞬きすらしなかった。
「いいから来てください」
「駄目だ」
「あなたが壊れていくのを、黙って見ていろというんですか」
「そうだ」
 低く答えると、黒木は虚を突かれたように小さく息を吸った。しかし一瞬唇を引き締めてから、強い眼差しを彼にぶつけた。どうしようもなく真っ直ぐな、歪みのない視線。
「俺はあなたを救いたい。あなたの中の化け物を、この手で殺すことになるとしても」
 由比は笑わなかった。ただ哀れなほど滑稽な男だと思った。由比の中に化け物が棲んでいるのではなく、由比そのものが化け物だということを、この期に及んでまだ理解していない愚かな男。幸福な結末は愛し合う二人の間にしか用意されないことも知らないで、破滅のシナリオを編んでいる。可哀想な男。哀れな存在。Pity's akin to love……駄目だ、切り捨てなければならない。
「このまま関わり続ければ、君はいずれ俺を恨むことになる」
 拒絶のための言葉に、しかし何も知らない男は静かに微笑した。
「いいじゃないですか、それで」
 あるいは。
「たとえ俺に恨まれても、由比さんは傷つかない。そうでしょう?」
 あるいは何もかも呑み込んで、それでも構わないというのだろうか。
「来てください。俺のことを、何とも思っていないのなら」
 そう言って黒木は笑った。深く、確かな、血の通った笑みだった。
「君は……」
 どんな言葉が必要だろう。
 今、この胸を支配している何かを言い表すためには。
「……君は、本当に、馬鹿だ」
 大きな掌に凍えた中指を包み込まれて初めて、彼はそれが震えていたことに気づいた。
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