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第三十四章 ゆえに曖昧な
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コートを羽織りながら、年下の男は言った。
「三限が終わったら戻ってきます」
扉の閉まる音を聴きながら、由比は窓際に座って外を見ていた。
ガラスの向こうには、まだ見慣れぬ景色が広がっている。けれど空の色は、いつも自室で眺めていたそれと同じだ。建物の色も道路の色も、変わらず等しく灰色に沈んでいる。本当に秋は終わるのだろうかと彼は思う。代謝を忘れたようなこの空間で、移ろうものなどあるのだろうか。
彼は気づいている。何も解らないまま断ち切られてしまえば、これ以上血が流れることはないのだということを。
白い指が、窓枠に伸びる。鍵を開けて横へ引くと、冷たい外気が頬を撫でた。空気は乾いて、穏やかだった。灰色の空間で、風だけが辛うじて澄んでいる。彼は瞼を下ろした。そうして呼吸を繰り返した。肺が透明になりそうなほど深く、深く。
何も考えられないのなら、考えずに選べばよいのだ。
変わるのは恐らく、流す血の量だけなのだから。
眼球が一対の薄青い氷に変わった頃、彼は窓を閉めた。
「ただいま。何も変わりありませんか」
「お帰り。こっちは何もないけど、君は随分大荷物だね」
午後三時過ぎに帰宅した黒木は、両手にナイロンバッグをぶら下げていた。かなり重いのか、持ち手の部分が張り詰めている。論文を持って帰ってきました、と黒木は答えた。
「勉強熱心だね」
すると黒木は首を横に振った。
「あなたの書いた論文です、由比さん」
そう言ってバッグの中身を取り出す。入っていたのは、論文のコピーと抜き刷りだった。もう一つのバッグには、雑誌が何冊も詰め込まれている。由比は奇怪な昆虫を見るような目で相手を見つめた。
「どうして」
「ここに置いておきますね。暇だったら読んでください。俺は今からまた大学に戻って、夜まで帰らないので」
取り出した論文をテーブルの横に積み上げながら、男は言う。
「だから、どうして」
「理由なんてありません」
論文を積み終えると、黒木は振り返った。
「強いて挙げるとすれば、あなたに読めそうなものが、これくらいしか思いつかなかった」
二人はそのまま見つめ合っていた。会話が続くことはなかった。やがて黒木は部屋を出て行った。
独りきりになった由比は、暫く微動だにせず宙を見ていた。頭の中で、誰かが何か言っていた。彼は立ち上がり、ベッドに近寄った。枕の横に置かれていた音楽プレイヤーを取り上げ、イヤホンをつけて電源を入れる。再生ボタンを押すと、数秒の沈黙ののちに音楽が流れ始めた。彼は液晶画面の上を滑っていく小さな文字を眺めた。『Pergolesi』『Stabat Mater』。彼は目を閉じた。透明な血、色も温度もない、誰にも見えない血。判断すること、選ぶこと。
床の上で膝を抱き、自身の腕を強く掴む。
残された血の、その最後の一滴を、賭けるとすれば何にだろう。
憎悪。矜持。約束。それとも。
その夜、彼は一通のメールを送った。
『岩波の啄木全集の第十巻を借りてきてくれないか』
黒木は何も訊かず、指定された本を持って帰宅した。
部屋で留守番をしている間、由比は自分の論文を読むようになった。時間をかけて読み返し、それから黒木のノートパソコンを起動し、インターネット上に保管していたファイルを開く。借りた本はテーブルの端に閉じて置かれたまま、イヤホンからはいつも同じ歌が流れていた。
その日も由比は黙って、パソコンの画面の文字を眺めていた。右の中指が、時折マウスのホイールを回す。夕飯はどうしますか、と問われて初めて、彼は部屋の主が帰宅していたことに気づいた。
「ああ、お帰り」
夢から覚めたように数回瞬きをして、彼はファイルを閉じ、パソコンの電源を落とした。今日も上書き保存はしなかった。
「何か作るなら、手伝うよ」
相手の指先には、買い物袋がぶら下がっていた。立ち上がってキッチン・スペースに向かう由比の背中を、戸惑ったような声が追いかけてくる。
「でも、あなたは料理なんてしないでしょう」
「君が教えればいい」
そう言って振り返った由比は、相手の顔を見て不思議に思う。どうしてこの男は、時々ひどく泣きそうな目をするのだろう。
三十分後、二人で作った料理が並ぶ小さな食卓を、二人で囲んだ。上手ですね、と黒木が言って、箸で摘んだ野菜の切れ端を眺めている。恐らく由比が切ったものだ。言われるまま均等に切っただけなのだから、上手いも下手もない。彼はただ一言、そう、とだけ呟いて、箸に触れたものを喉の奥へ落とす。黒木は野菜の切れ端をそっと口に入れ、時間をかけて咀嚼した。
後片付けを終えると、黒木はパソコンのスイッチを入れた。由比は床の上で膝を抱え、相手の斜め前から、その俯き加減の額にぼんやりと視線を投げかけた。黒木の指はキーの上に置かれていたが、コンピューターが立ち上がっても動かなかった。
「どうしたの」
由比が声をかけると、黒木は画面ともキーボードともつかない何処かに視線を彷徨わせ、何度か唇を動かした。
「……由比さんは、俺には才能がないと思っていますよね。確か前に、そんなことを」
語尾が濁り、ぼやけて消える。不透明な沈黙。由比は無意識に自身の中指を探った。それは萎えたように大人しかった。
「そうだね。ないと思うよ」
彼の返答に、黒木は硬いものを飲み込んだような顔をした。そんな男の顔を、由比は一つの風景として眺める。
「でもね、そんなものよりもっと大事なものがある」
「何ですか、それは」
黒木の目が、由比を見据える。強く真っ直ぐな目だ。由比は首を横に振った。
「君にも解っているはずだ」
黒木が由比に向ける眼差しは、いつも彼の瞳の奥にある何かを探しているように見える。見つめ返すと微かに揺れるものの、しかし逸らされることはない。それは冷たいテクストの内に隠された真理を見透かそうとする、ひたむきな眼差し。
だが、そうであるからこそ、黒木の眼差しは誰かが既に見たことのある光景しか捉えられない。真に優れたクリティーク特有の、あの切ないほどの輝きを、自身のテクストに灯すことができない。無数のエクリチュールから成る藍色の闇の中で、その存在は瞬きすらしない凡百の微粒子の一つになる。
けれどそれが何だろう?
「確かに君には才能がないと思う。だけど才能なんて小さなものだよ、他人から評価されるだけだ」
輝きは副産物でしかない。大事なことは、そこではない。
「……でも俺は、その評価が欲しかったんです。だってそうじゃないと、あなたは……」
「俺が、何?」
黒木は無言で頭を振った。額に手を当て、暗い表情で俯いている。訊かないわけにはいかなかった。
「ねえ、今日の君は何処か変だ。大学で何があったの」
「……何も。何もないです」
呻くように答える声。手が微かに震えていた。由比はそれをじっと見た。
「俺は君にたくさん隠し事をしている。だから君に隠し事をするなとは言わない。でもこれだけは約束してほしい。何か不審な出来事があったら、どんな些細なことでもいい、話してくれ。俺はすぐにここを出ていくから」
「本当に何もないんです。お願いですから何処にも行かないでください。今あなたが出て行ったら、もう二度と会えなくなる気がする」
震えていた黒木の手が、由比の手を掴んだ。縋るように握り締められ、彼は困惑した。
「俺に会えなくなるのが嫌なの?」
「嫌に決まってるでしょう」
「だけど俺がいなくなっても、俺が書いたものは残るよ。ほら、こんなにたくさんの論文が、ここに残っているんだから……」
「俺はあなたが好きなんです、論文では意味がない!」
由比は沈黙した。黒木もまた押し黙った。まるで柩の蓋を閉じたように、重い静寂が二人を覆う。行き止まりだった。
翌日も黒木は大学へ行った。由比はまた論文を読み、書きかけのファイルを開いた。だが、画面上の文字は増えることも減ることもなかった。一時間ほどワードの画面を眺めたあと、彼は啄木全集を手に取った。そうしてぱらぱらと頁を捲る。
――論文では意味がない。
昨夜言われた言葉を、声に出さずに繰り返す。論文では意味がない、論文では意味がない。
由比の眼差しが誰も見たことのない光景を捉えることができるのなら、黒木の眼差しもまた、誰も見たことのない由比を捉えているのかもしれない。だがそうであったとしても、二人にはそこから先がないのだ。
共訳不可能な二つの世界、二つの言語。解り合えない、通じない。
玄関で物音がして、彼は本を置いた。ドアが開き、男が飛び込んでくる。
「由比さん!」
「お帰り。どうしたの、そんな大声出して。……黒木君?」
視線を上げた由比は、息を呑んだ。黒木は顔を強張らせ、額に薄く汗を浮かべていた。もう一度彼が名前を呼ぼうとすると、相手は慌てて首を横に振り、何でもありません、と言う。そして、そこにいてくださいと言い残すと、また部屋から出て行った。
彼は黙って床に座っていた。予感が、まるで冷たい蛇のように這い寄ってくる。
十五分後、黒木は戻ってきた。真っ直ぐに流しに向かうと、手を洗い始める。まるで何か致命的な穢れを擦り落とそうとするかのように、時間をかけて念入りに洗う。その後ろ姿に、由比は声をかけた。
「ねえ、何があったの」
黒木は手を洗いながら強く頭を振った。
「何もありませんって。これからご飯を作りますから、由比さんは論文でも読んで……」
「言うんだ、黒木君。言わないなら、今ここを出て行く」
「駄目だ!」
振り向いた黒木は、濡れた手のまま彼を抱き締めた。閉じ込められたようだ、と彼は思う。
「駄目です。あなたはここから出ちゃいけない」
男の体温に包まれて、思考が奇妙に冷えていく。自分でも気味が悪いほど感情を欠いた声が、舌先から零れた。
「何があったんだ」
「信じてくれなんて言いません。あなたはただ、俺を利用してくれればいいんです。今、安全な場所を探しています。あなたを傷つける人間のいない、安全な場所を……」
「答えなよ。何があったか」
「今月いっぱいでいいんです。お願いだから、ここで何も訊かずに待っていてください。絶対に、絶対に安全な場所を見つけてきますから」
黒木は必死だった。親から引き剥がされそうになっている子供のように、由比にしがみついていた。相手のかき口説く声を聴きながら、由比は瞼を下ろした。
「どうして君が俺のためにそこまでするのか、理解できない」
「……理解できなくても構わないでしょう。俺だってあなたのことが理解できません。あなたはただ、俺を利用すればいいんです」
「違う、そういうことじゃないんだ」
「もし俺の存在があなたの心を乱すのであれば、ここにいる時間を減らします」
「え?」
「必要なものは全部俺が買ってきます。顔を合わせずに済むように、荷物は玄関に置いていきますから」
由比は黒木の胸を両手で突き、自分の上半身を相手の身体から僅かに離した。そうして男の目を見て問う。
「だから、どうして君は、君のことを好きになれない俺にそこまで……」
「俺が怖いんですか」
男は無表情だった。その頬は濡れていた。汗のせいではないことは、明白だった。
「あなたには、俺が、化け物に見えるんでしょう」
解りますよ、と黒木は言った。
判らない、と由比は思った。
「由比さん。俺は、あなたを好きにならなければよかったんですか」
二つの世界。二つの思い。決して交わらない。相容れない。
わからない。わからないが、それでも。
頬に光る水滴に、彼は指を伸ばした。そっと拭うと、男の呼吸が詰まるのが分かる。
「怖いよ。君は化け物だけど、ほかの化け物とは違うから」
人と人とは決して解り合うことができない。だが、それが何だろう。言葉では解り合えない、だから言葉には意味がない、そんな悲観主義は無価値だ。決して解り合うことができないからこそ、人と人は言葉を使うのだ。決して理解することができないからこそ、世界を、テクストを、織り続けることができるように。
「ねえ、君は本当に変わってるね。人類最後の日に木を植えるのは、君みたいな人間なんだろうな」
由比の言葉に、黒木は苦しそうに息を吐き出した。
「俺はごく普通の人間だし、人類最後の日には、木なんて放り出して好きな人と一緒にいたい。……その人が是非とも植樹したいというのなら、話は別ですが」
「君が木を植えているところを見るのは、案外楽しいかもしれない」
呟いて、彼は男の背に手を回す。宥めるように背中を摩ると、抱き締めてくる腕の力がほんの少し緩んだ。
「わかったよ。今月までここで世話になる。だから、泣かないで」
そう言って、彼はふわりと笑みを浮かべた。
残りの時間を二人は、何事もなかったかのように過ごした。二人で料理をして、向かい合って食事して、二人で食器を洗った。それから暫く世間話をして、交替でシャワーを浴びた。黒木は普段よりも口数が多かった。何かを忘れようとするかのように、よく喋り、よく笑った。しかしベッドに入ると、急に無言になった。黙って隣に横たわる由比の手を探り、ぎゅっと握る。安心させるためにその手を握り返してやると、暫くしてから押し殺した声が聞こえた。どうやら泣いているようだった。男の微かな泣き声は、いつまでも彼の鼓膜を揺らしていた。
翌朝、黒木が大学へ行くと、由比はボールペンを取って、コピー用紙の裏に文字を書き込んだ。
『君は俺を裏切らないと言ったが、俺は君を裏切ることにした。ここを出て行く。現金を少し置いていくから、受け取ってくれ。俺のために使わせた額には足りないだろうが、今はこれで許してほしい。二月にS大で、啄木について発表することになっている。今準備している最中だ。全然進んでいないけど、まだ時間はあるし、ほかの論文を書くのもやめたから、とりあえず間に合うと思う。もし用事がなければ、発表を聴きに来てもらえると嬉しい。これが俺にとって、最後の研究発表になるから』
大丈夫だ、と彼は思った。
変わるのは、流す血の量だけなのだから。
短い手紙を書き終えると、彼はパソコンを立ち上げた。メールを送るつもりだった。
自分のアパートに戻れない由比には、ここを出たらもう何処にも行くあてがない。そんな不安定な状況なので、S大で開催される研究会の運営に、今から何点か連絡を入れておく必要があった。自らの最後の仕事に選んだこの発表を、何としてもやり遂げたかったのだ。
何も考えずにフリーメールを開いてから、由比は違和感を覚えた。よく見ると、どうやら黒木は自身のIDでログインしたまま放置しているようだった。彼は頭を振った。もっと落ち着くべきだ。夕方まで黒木は帰ってこない。焦る必要はない。自分のIDでログインし直そうと、マウスを握り直した。そのときだった。
受信ボックスのメールの差出人欄に、見覚えのある名前が表示されていた。
彼はその四文字を凝視した。それは文字に見えなかった。まるでどんなに擦っても落ちない穢れのようだった。
『柄島永明』
視界が、世界が、テクストが、彼を嘲笑うように揺れて、軋んで、歪んで、崩れて――。
「三限が終わったら戻ってきます」
扉の閉まる音を聴きながら、由比は窓際に座って外を見ていた。
ガラスの向こうには、まだ見慣れぬ景色が広がっている。けれど空の色は、いつも自室で眺めていたそれと同じだ。建物の色も道路の色も、変わらず等しく灰色に沈んでいる。本当に秋は終わるのだろうかと彼は思う。代謝を忘れたようなこの空間で、移ろうものなどあるのだろうか。
彼は気づいている。何も解らないまま断ち切られてしまえば、これ以上血が流れることはないのだということを。
白い指が、窓枠に伸びる。鍵を開けて横へ引くと、冷たい外気が頬を撫でた。空気は乾いて、穏やかだった。灰色の空間で、風だけが辛うじて澄んでいる。彼は瞼を下ろした。そうして呼吸を繰り返した。肺が透明になりそうなほど深く、深く。
何も考えられないのなら、考えずに選べばよいのだ。
変わるのは恐らく、流す血の量だけなのだから。
眼球が一対の薄青い氷に変わった頃、彼は窓を閉めた。
「ただいま。何も変わりありませんか」
「お帰り。こっちは何もないけど、君は随分大荷物だね」
午後三時過ぎに帰宅した黒木は、両手にナイロンバッグをぶら下げていた。かなり重いのか、持ち手の部分が張り詰めている。論文を持って帰ってきました、と黒木は答えた。
「勉強熱心だね」
すると黒木は首を横に振った。
「あなたの書いた論文です、由比さん」
そう言ってバッグの中身を取り出す。入っていたのは、論文のコピーと抜き刷りだった。もう一つのバッグには、雑誌が何冊も詰め込まれている。由比は奇怪な昆虫を見るような目で相手を見つめた。
「どうして」
「ここに置いておきますね。暇だったら読んでください。俺は今からまた大学に戻って、夜まで帰らないので」
取り出した論文をテーブルの横に積み上げながら、男は言う。
「だから、どうして」
「理由なんてありません」
論文を積み終えると、黒木は振り返った。
「強いて挙げるとすれば、あなたに読めそうなものが、これくらいしか思いつかなかった」
二人はそのまま見つめ合っていた。会話が続くことはなかった。やがて黒木は部屋を出て行った。
独りきりになった由比は、暫く微動だにせず宙を見ていた。頭の中で、誰かが何か言っていた。彼は立ち上がり、ベッドに近寄った。枕の横に置かれていた音楽プレイヤーを取り上げ、イヤホンをつけて電源を入れる。再生ボタンを押すと、数秒の沈黙ののちに音楽が流れ始めた。彼は液晶画面の上を滑っていく小さな文字を眺めた。『Pergolesi』『Stabat Mater』。彼は目を閉じた。透明な血、色も温度もない、誰にも見えない血。判断すること、選ぶこと。
床の上で膝を抱き、自身の腕を強く掴む。
残された血の、その最後の一滴を、賭けるとすれば何にだろう。
憎悪。矜持。約束。それとも。
その夜、彼は一通のメールを送った。
『岩波の啄木全集の第十巻を借りてきてくれないか』
黒木は何も訊かず、指定された本を持って帰宅した。
部屋で留守番をしている間、由比は自分の論文を読むようになった。時間をかけて読み返し、それから黒木のノートパソコンを起動し、インターネット上に保管していたファイルを開く。借りた本はテーブルの端に閉じて置かれたまま、イヤホンからはいつも同じ歌が流れていた。
その日も由比は黙って、パソコンの画面の文字を眺めていた。右の中指が、時折マウスのホイールを回す。夕飯はどうしますか、と問われて初めて、彼は部屋の主が帰宅していたことに気づいた。
「ああ、お帰り」
夢から覚めたように数回瞬きをして、彼はファイルを閉じ、パソコンの電源を落とした。今日も上書き保存はしなかった。
「何か作るなら、手伝うよ」
相手の指先には、買い物袋がぶら下がっていた。立ち上がってキッチン・スペースに向かう由比の背中を、戸惑ったような声が追いかけてくる。
「でも、あなたは料理なんてしないでしょう」
「君が教えればいい」
そう言って振り返った由比は、相手の顔を見て不思議に思う。どうしてこの男は、時々ひどく泣きそうな目をするのだろう。
三十分後、二人で作った料理が並ぶ小さな食卓を、二人で囲んだ。上手ですね、と黒木が言って、箸で摘んだ野菜の切れ端を眺めている。恐らく由比が切ったものだ。言われるまま均等に切っただけなのだから、上手いも下手もない。彼はただ一言、そう、とだけ呟いて、箸に触れたものを喉の奥へ落とす。黒木は野菜の切れ端をそっと口に入れ、時間をかけて咀嚼した。
後片付けを終えると、黒木はパソコンのスイッチを入れた。由比は床の上で膝を抱え、相手の斜め前から、その俯き加減の額にぼんやりと視線を投げかけた。黒木の指はキーの上に置かれていたが、コンピューターが立ち上がっても動かなかった。
「どうしたの」
由比が声をかけると、黒木は画面ともキーボードともつかない何処かに視線を彷徨わせ、何度か唇を動かした。
「……由比さんは、俺には才能がないと思っていますよね。確か前に、そんなことを」
語尾が濁り、ぼやけて消える。不透明な沈黙。由比は無意識に自身の中指を探った。それは萎えたように大人しかった。
「そうだね。ないと思うよ」
彼の返答に、黒木は硬いものを飲み込んだような顔をした。そんな男の顔を、由比は一つの風景として眺める。
「でもね、そんなものよりもっと大事なものがある」
「何ですか、それは」
黒木の目が、由比を見据える。強く真っ直ぐな目だ。由比は首を横に振った。
「君にも解っているはずだ」
黒木が由比に向ける眼差しは、いつも彼の瞳の奥にある何かを探しているように見える。見つめ返すと微かに揺れるものの、しかし逸らされることはない。それは冷たいテクストの内に隠された真理を見透かそうとする、ひたむきな眼差し。
だが、そうであるからこそ、黒木の眼差しは誰かが既に見たことのある光景しか捉えられない。真に優れたクリティーク特有の、あの切ないほどの輝きを、自身のテクストに灯すことができない。無数のエクリチュールから成る藍色の闇の中で、その存在は瞬きすらしない凡百の微粒子の一つになる。
けれどそれが何だろう?
「確かに君には才能がないと思う。だけど才能なんて小さなものだよ、他人から評価されるだけだ」
輝きは副産物でしかない。大事なことは、そこではない。
「……でも俺は、その評価が欲しかったんです。だってそうじゃないと、あなたは……」
「俺が、何?」
黒木は無言で頭を振った。額に手を当て、暗い表情で俯いている。訊かないわけにはいかなかった。
「ねえ、今日の君は何処か変だ。大学で何があったの」
「……何も。何もないです」
呻くように答える声。手が微かに震えていた。由比はそれをじっと見た。
「俺は君にたくさん隠し事をしている。だから君に隠し事をするなとは言わない。でもこれだけは約束してほしい。何か不審な出来事があったら、どんな些細なことでもいい、話してくれ。俺はすぐにここを出ていくから」
「本当に何もないんです。お願いですから何処にも行かないでください。今あなたが出て行ったら、もう二度と会えなくなる気がする」
震えていた黒木の手が、由比の手を掴んだ。縋るように握り締められ、彼は困惑した。
「俺に会えなくなるのが嫌なの?」
「嫌に決まってるでしょう」
「だけど俺がいなくなっても、俺が書いたものは残るよ。ほら、こんなにたくさんの論文が、ここに残っているんだから……」
「俺はあなたが好きなんです、論文では意味がない!」
由比は沈黙した。黒木もまた押し黙った。まるで柩の蓋を閉じたように、重い静寂が二人を覆う。行き止まりだった。
翌日も黒木は大学へ行った。由比はまた論文を読み、書きかけのファイルを開いた。だが、画面上の文字は増えることも減ることもなかった。一時間ほどワードの画面を眺めたあと、彼は啄木全集を手に取った。そうしてぱらぱらと頁を捲る。
――論文では意味がない。
昨夜言われた言葉を、声に出さずに繰り返す。論文では意味がない、論文では意味がない。
由比の眼差しが誰も見たことのない光景を捉えることができるのなら、黒木の眼差しもまた、誰も見たことのない由比を捉えているのかもしれない。だがそうであったとしても、二人にはそこから先がないのだ。
共訳不可能な二つの世界、二つの言語。解り合えない、通じない。
玄関で物音がして、彼は本を置いた。ドアが開き、男が飛び込んでくる。
「由比さん!」
「お帰り。どうしたの、そんな大声出して。……黒木君?」
視線を上げた由比は、息を呑んだ。黒木は顔を強張らせ、額に薄く汗を浮かべていた。もう一度彼が名前を呼ぼうとすると、相手は慌てて首を横に振り、何でもありません、と言う。そして、そこにいてくださいと言い残すと、また部屋から出て行った。
彼は黙って床に座っていた。予感が、まるで冷たい蛇のように這い寄ってくる。
十五分後、黒木は戻ってきた。真っ直ぐに流しに向かうと、手を洗い始める。まるで何か致命的な穢れを擦り落とそうとするかのように、時間をかけて念入りに洗う。その後ろ姿に、由比は声をかけた。
「ねえ、何があったの」
黒木は手を洗いながら強く頭を振った。
「何もありませんって。これからご飯を作りますから、由比さんは論文でも読んで……」
「言うんだ、黒木君。言わないなら、今ここを出て行く」
「駄目だ!」
振り向いた黒木は、濡れた手のまま彼を抱き締めた。閉じ込められたようだ、と彼は思う。
「駄目です。あなたはここから出ちゃいけない」
男の体温に包まれて、思考が奇妙に冷えていく。自分でも気味が悪いほど感情を欠いた声が、舌先から零れた。
「何があったんだ」
「信じてくれなんて言いません。あなたはただ、俺を利用してくれればいいんです。今、安全な場所を探しています。あなたを傷つける人間のいない、安全な場所を……」
「答えなよ。何があったか」
「今月いっぱいでいいんです。お願いだから、ここで何も訊かずに待っていてください。絶対に、絶対に安全な場所を見つけてきますから」
黒木は必死だった。親から引き剥がされそうになっている子供のように、由比にしがみついていた。相手のかき口説く声を聴きながら、由比は瞼を下ろした。
「どうして君が俺のためにそこまでするのか、理解できない」
「……理解できなくても構わないでしょう。俺だってあなたのことが理解できません。あなたはただ、俺を利用すればいいんです」
「違う、そういうことじゃないんだ」
「もし俺の存在があなたの心を乱すのであれば、ここにいる時間を減らします」
「え?」
「必要なものは全部俺が買ってきます。顔を合わせずに済むように、荷物は玄関に置いていきますから」
由比は黒木の胸を両手で突き、自分の上半身を相手の身体から僅かに離した。そうして男の目を見て問う。
「だから、どうして君は、君のことを好きになれない俺にそこまで……」
「俺が怖いんですか」
男は無表情だった。その頬は濡れていた。汗のせいではないことは、明白だった。
「あなたには、俺が、化け物に見えるんでしょう」
解りますよ、と黒木は言った。
判らない、と由比は思った。
「由比さん。俺は、あなたを好きにならなければよかったんですか」
二つの世界。二つの思い。決して交わらない。相容れない。
わからない。わからないが、それでも。
頬に光る水滴に、彼は指を伸ばした。そっと拭うと、男の呼吸が詰まるのが分かる。
「怖いよ。君は化け物だけど、ほかの化け物とは違うから」
人と人とは決して解り合うことができない。だが、それが何だろう。言葉では解り合えない、だから言葉には意味がない、そんな悲観主義は無価値だ。決して解り合うことができないからこそ、人と人は言葉を使うのだ。決して理解することができないからこそ、世界を、テクストを、織り続けることができるように。
「ねえ、君は本当に変わってるね。人類最後の日に木を植えるのは、君みたいな人間なんだろうな」
由比の言葉に、黒木は苦しそうに息を吐き出した。
「俺はごく普通の人間だし、人類最後の日には、木なんて放り出して好きな人と一緒にいたい。……その人が是非とも植樹したいというのなら、話は別ですが」
「君が木を植えているところを見るのは、案外楽しいかもしれない」
呟いて、彼は男の背に手を回す。宥めるように背中を摩ると、抱き締めてくる腕の力がほんの少し緩んだ。
「わかったよ。今月までここで世話になる。だから、泣かないで」
そう言って、彼はふわりと笑みを浮かべた。
残りの時間を二人は、何事もなかったかのように過ごした。二人で料理をして、向かい合って食事して、二人で食器を洗った。それから暫く世間話をして、交替でシャワーを浴びた。黒木は普段よりも口数が多かった。何かを忘れようとするかのように、よく喋り、よく笑った。しかしベッドに入ると、急に無言になった。黙って隣に横たわる由比の手を探り、ぎゅっと握る。安心させるためにその手を握り返してやると、暫くしてから押し殺した声が聞こえた。どうやら泣いているようだった。男の微かな泣き声は、いつまでも彼の鼓膜を揺らしていた。
翌朝、黒木が大学へ行くと、由比はボールペンを取って、コピー用紙の裏に文字を書き込んだ。
『君は俺を裏切らないと言ったが、俺は君を裏切ることにした。ここを出て行く。現金を少し置いていくから、受け取ってくれ。俺のために使わせた額には足りないだろうが、今はこれで許してほしい。二月にS大で、啄木について発表することになっている。今準備している最中だ。全然進んでいないけど、まだ時間はあるし、ほかの論文を書くのもやめたから、とりあえず間に合うと思う。もし用事がなければ、発表を聴きに来てもらえると嬉しい。これが俺にとって、最後の研究発表になるから』
大丈夫だ、と彼は思った。
変わるのは、流す血の量だけなのだから。
短い手紙を書き終えると、彼はパソコンを立ち上げた。メールを送るつもりだった。
自分のアパートに戻れない由比には、ここを出たらもう何処にも行くあてがない。そんな不安定な状況なので、S大で開催される研究会の運営に、今から何点か連絡を入れておく必要があった。自らの最後の仕事に選んだこの発表を、何としてもやり遂げたかったのだ。
何も考えずにフリーメールを開いてから、由比は違和感を覚えた。よく見ると、どうやら黒木は自身のIDでログインしたまま放置しているようだった。彼は頭を振った。もっと落ち着くべきだ。夕方まで黒木は帰ってこない。焦る必要はない。自分のIDでログインし直そうと、マウスを握り直した。そのときだった。
受信ボックスのメールの差出人欄に、見覚えのある名前が表示されていた。
彼はその四文字を凝視した。それは文字に見えなかった。まるでどんなに擦っても落ちない穢れのようだった。
『柄島永明』
視界が、世界が、テクストが、彼を嘲笑うように揺れて、軋んで、歪んで、崩れて――。
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言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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