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第9話「抜けない鍵」怖さ:☆☆☆
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一ノ瀬拓海が古いアパートの空き部屋に足を踏み入れたのは、家賃の安さに惹かれてのことだった。
月三万円。都内でこの値段は破格だ。不動産屋の神谷は「ちょっと特殊な部屋で」と言葉を濁していたが、拓海は気にしなかった。
四畳半の狭い部屋。古い畳と色あせた壁紙。確かに築年数は相当古そうだが、一人暮らしには十分だ。
「ここにします」
拓海は即決した。
翌日、荷物を運び込んで鍵を受け取った。古い真鍮製の鍵で、持つとずっしりと重い。
夜になって、拓海は部屋の鍵を閉めようとした。鍵穴に鍵を差し込み、右に回す。カチリという音がして、確実に施錠された。
しかし鍵を抜こうとすると、動かない。
「あれ?」
拓海は鍵を左右に回してみたが、抜けない。まるで鍵穴と一体化してしまったようだ。
仕方なく、拓海は鍵をつけたまま眠ることにした。明日、大家さんに相談してみよう。
翌朝、拓海は再び鍵を抜こうとしたが、やはり動かない。それどころか、鍵を回すことすらできなくなっていた。
拓海は大家の宮代に連絡した。
「鍵が抜けないんです」
「ああ、それね」宮代は当然のように答えた。「その部屋はそういう仕様なの」
「仕様って……」
「鍵を一度差し込むと、抜けなくなるのよ。だから家賃が安いの」
拓海は愕然とした。
「それって、部屋から出られないってことですか?」
「いえいえ、そんなことないわ。鍵は閉めなければいいの」
「でも防犯上……」
「大丈夫よ。この建物、もう住人はあなただけだから」
拓海は不安になった。住人が自分だけということは、何か問題がある建物なのかもしれない。
昼間は鍵を開けたまま外出し、夜は鍵をかけずに眠る生活が始まった。しかし防犯面での不安は拭えない。
三日目の夜、拓海は壁に奇妙な文字があることに気づいた。
畳を上げて掃除をしていると、床板に何かが刻まれている。古い文字で、かなり薄くなっているが、読める部分もある。
『昭和五十二年 山田太郎 ここから出られない』
『昭和五十九年 佐藤次郎 鍵が抜けない 助けて』
『平成三年 田中三郎 もう五年もここにいる』
拓海は血の気が引いた。過去の住人たちが残したメッセージだ。そして全員が、同じ問題に直面している。
鍵が抜けない。
拓海は急いで外に出ようとした。しかしドアノブを回しても、ドアが開かない。
「え?」
さっきまで開いていたはずなのに、ドアがびくともしない。まるで外側から鍵をかけられているようだ。
拓海は鍵穴を確認した。鍵は確実に開いている方向に回っている。それなのにドアが開かない。
窓を試してみたが、こちらも開かない。サッシが錆びついているのか、全く動かない。
「おかしい……」
拓海は携帯電話で大家に連絡しようとしたが、圏外だった。固定電話もない。
その夜、拓海は床板のメッセージをもっと詳しく調べた。
『平成十年 鈴木四郎 分かった 鍵を抜かないと出られない』
『平成十五年 高橋五郎 でも鍵は抜けない どうすれば』
『平成二十年 伊藤六郎 工具を使ったが駄目 鍵が溶けているみたい』
拓海は戦慄した。みんな、同じ結論に達している。鍵を抜かないと部屋から出られない。しかし鍵は抜けない。
さらに読み進めると、より詳しい情報があった。
『鍵は部屋の魂と結合している』
『この部屋は人を閉じ込めるために作られた』
『唯一の脱出方法は……』
そこで文字が途切れている。
拓海は必死に続きを探した。壁の隅、天井の裏、押し入れの奥。そして畳の下の最も古い板に、最後のメッセージを見つけた。
『大正十年 建築者 橘一郎 この部屋は呪いの実験場 住人の魂を集めるため 脱出方法は魂の交換 新しい住人が来れば古い住人は解放される』
拓海は理解した。この部屋は、住人を閉じ込めて魂を奪う仕掛けなのだ。そして新しい住人が来るまで、前の住人は出られない。
つまり、拓海が入ったことで、前の住人は解放されたということだ。
では、拓海はいつ解放されるのか。
次の住人が来るまで。
拓海は絶望しかけたが、メッセージを読み返すうちに、希望を見つけた。
『昭和五十二年 山田太郎』から始まって、最新は『平成二十八年 佐藤花子』まで。約四十年間で、十数人の住人がいた。
つまり、数年に一度は新しい住人が来るということだ。
拓海は待つことにした。
一か月、二か月、半年。拓海は部屋から出られないまま過ごした。不思議なことに、食べ物と水は毎日補充される。まるで部屋自体が拓海を生かそうとしているようだ。
拓海は時間を潰すため、前の住人たちのメッセージを整理し始めた。それぞれの人生、部屋での体験、脱出への試行錯誤。
やがて拓海は気づいた。ここに書き残された人々は、みんな孤独だった。家族や友人から見放され、社会から取り残された人たち。
そして拓海自身も、そうだった。
家族とは疎遠になり、友人もほとんどいない。この部屋に来たのも、安い家賃以外に理由はなかった。
『この部屋は、孤独な魂を求めている』
拓海は新しいメッセージを床板に刻んだ。
『孤独でなくなれば、部屋から出られるのかもしれない』
拓海は前の住人たちのメッセージに返事を書き始めた。
『山田太郎さんへ あなたの苦しみ、分かります』
『佐藤次郎さんへ 一人じゃありません』
『田中三郎さんへ あなたの五年間、無駄ではありません』
一人一人に、心を込めてメッセージを書いた。
すると不思議なことが起こった。
部屋の空気が温かくなったのだ。まるで大勢の人に囲まれているような、安らかな感覚。
拓海は理解した。前の住人たちの魂が、まだここにいるのだ。拓海の言葉を待っていたのだ。
『みなさんへ 一緒にここから出ましょう』
拓海が最後のメッセージを刻み終えた時、鍵穴から光が漏れ始めた。
鍵が、ゆっくりと抜けていく。
そしてドアが開いた。
拓海は外に出た。久しぶりの外の空気は、甘く感じられた。
振り返ると、部屋の窓に大勢の人影が見えた。前の住人たちが、拓海に手を振っている。みんな笑顔だった。
拓海は深く頭を下げた。
翌日、拓海は不動産屋に鍵を返しに行った。
「もうあの部屋を使うことはないでしょう」
神谷は意外そうな顔をした。
「どうして?」
「みんな、一緒に出て行ったから」
神谷には意味が分からなかっただろう。しかし拓海は確信していた。
あの部屋はもう、誰も閉じ込めない。
孤独な魂たちは、ついに解放されたのだから。
後日、そのアパートは取り壊されることになった。
建設作業員が床板を剥がすと、無数のメッセージが見つかったという。
しかし最後に刻まれた文字は、これまでと違っていた。
『ありがとう』
『さようなら』
『もう一人じゃない』
作業員たちは不思議に思ったが、拓海には分かっていた。
孤独だった魂たちが、ついに安らぎを得たのだ。
拓海は新しいアパートで、新しい生活を始めた。
今度は、人とのつながりを大切にしながら。
あの部屋で学んだことを、決して忘れずに。
月三万円。都内でこの値段は破格だ。不動産屋の神谷は「ちょっと特殊な部屋で」と言葉を濁していたが、拓海は気にしなかった。
四畳半の狭い部屋。古い畳と色あせた壁紙。確かに築年数は相当古そうだが、一人暮らしには十分だ。
「ここにします」
拓海は即決した。
翌日、荷物を運び込んで鍵を受け取った。古い真鍮製の鍵で、持つとずっしりと重い。
夜になって、拓海は部屋の鍵を閉めようとした。鍵穴に鍵を差し込み、右に回す。カチリという音がして、確実に施錠された。
しかし鍵を抜こうとすると、動かない。
「あれ?」
拓海は鍵を左右に回してみたが、抜けない。まるで鍵穴と一体化してしまったようだ。
仕方なく、拓海は鍵をつけたまま眠ることにした。明日、大家さんに相談してみよう。
翌朝、拓海は再び鍵を抜こうとしたが、やはり動かない。それどころか、鍵を回すことすらできなくなっていた。
拓海は大家の宮代に連絡した。
「鍵が抜けないんです」
「ああ、それね」宮代は当然のように答えた。「その部屋はそういう仕様なの」
「仕様って……」
「鍵を一度差し込むと、抜けなくなるのよ。だから家賃が安いの」
拓海は愕然とした。
「それって、部屋から出られないってことですか?」
「いえいえ、そんなことないわ。鍵は閉めなければいいの」
「でも防犯上……」
「大丈夫よ。この建物、もう住人はあなただけだから」
拓海は不安になった。住人が自分だけということは、何か問題がある建物なのかもしれない。
昼間は鍵を開けたまま外出し、夜は鍵をかけずに眠る生活が始まった。しかし防犯面での不安は拭えない。
三日目の夜、拓海は壁に奇妙な文字があることに気づいた。
畳を上げて掃除をしていると、床板に何かが刻まれている。古い文字で、かなり薄くなっているが、読める部分もある。
『昭和五十二年 山田太郎 ここから出られない』
『昭和五十九年 佐藤次郎 鍵が抜けない 助けて』
『平成三年 田中三郎 もう五年もここにいる』
拓海は血の気が引いた。過去の住人たちが残したメッセージだ。そして全員が、同じ問題に直面している。
鍵が抜けない。
拓海は急いで外に出ようとした。しかしドアノブを回しても、ドアが開かない。
「え?」
さっきまで開いていたはずなのに、ドアがびくともしない。まるで外側から鍵をかけられているようだ。
拓海は鍵穴を確認した。鍵は確実に開いている方向に回っている。それなのにドアが開かない。
窓を試してみたが、こちらも開かない。サッシが錆びついているのか、全く動かない。
「おかしい……」
拓海は携帯電話で大家に連絡しようとしたが、圏外だった。固定電話もない。
その夜、拓海は床板のメッセージをもっと詳しく調べた。
『平成十年 鈴木四郎 分かった 鍵を抜かないと出られない』
『平成十五年 高橋五郎 でも鍵は抜けない どうすれば』
『平成二十年 伊藤六郎 工具を使ったが駄目 鍵が溶けているみたい』
拓海は戦慄した。みんな、同じ結論に達している。鍵を抜かないと部屋から出られない。しかし鍵は抜けない。
さらに読み進めると、より詳しい情報があった。
『鍵は部屋の魂と結合している』
『この部屋は人を閉じ込めるために作られた』
『唯一の脱出方法は……』
そこで文字が途切れている。
拓海は必死に続きを探した。壁の隅、天井の裏、押し入れの奥。そして畳の下の最も古い板に、最後のメッセージを見つけた。
『大正十年 建築者 橘一郎 この部屋は呪いの実験場 住人の魂を集めるため 脱出方法は魂の交換 新しい住人が来れば古い住人は解放される』
拓海は理解した。この部屋は、住人を閉じ込めて魂を奪う仕掛けなのだ。そして新しい住人が来るまで、前の住人は出られない。
つまり、拓海が入ったことで、前の住人は解放されたということだ。
では、拓海はいつ解放されるのか。
次の住人が来るまで。
拓海は絶望しかけたが、メッセージを読み返すうちに、希望を見つけた。
『昭和五十二年 山田太郎』から始まって、最新は『平成二十八年 佐藤花子』まで。約四十年間で、十数人の住人がいた。
つまり、数年に一度は新しい住人が来るということだ。
拓海は待つことにした。
一か月、二か月、半年。拓海は部屋から出られないまま過ごした。不思議なことに、食べ物と水は毎日補充される。まるで部屋自体が拓海を生かそうとしているようだ。
拓海は時間を潰すため、前の住人たちのメッセージを整理し始めた。それぞれの人生、部屋での体験、脱出への試行錯誤。
やがて拓海は気づいた。ここに書き残された人々は、みんな孤独だった。家族や友人から見放され、社会から取り残された人たち。
そして拓海自身も、そうだった。
家族とは疎遠になり、友人もほとんどいない。この部屋に来たのも、安い家賃以外に理由はなかった。
『この部屋は、孤独な魂を求めている』
拓海は新しいメッセージを床板に刻んだ。
『孤独でなくなれば、部屋から出られるのかもしれない』
拓海は前の住人たちのメッセージに返事を書き始めた。
『山田太郎さんへ あなたの苦しみ、分かります』
『佐藤次郎さんへ 一人じゃありません』
『田中三郎さんへ あなたの五年間、無駄ではありません』
一人一人に、心を込めてメッセージを書いた。
すると不思議なことが起こった。
部屋の空気が温かくなったのだ。まるで大勢の人に囲まれているような、安らかな感覚。
拓海は理解した。前の住人たちの魂が、まだここにいるのだ。拓海の言葉を待っていたのだ。
『みなさんへ 一緒にここから出ましょう』
拓海が最後のメッセージを刻み終えた時、鍵穴から光が漏れ始めた。
鍵が、ゆっくりと抜けていく。
そしてドアが開いた。
拓海は外に出た。久しぶりの外の空気は、甘く感じられた。
振り返ると、部屋の窓に大勢の人影が見えた。前の住人たちが、拓海に手を振っている。みんな笑顔だった。
拓海は深く頭を下げた。
翌日、拓海は不動産屋に鍵を返しに行った。
「もうあの部屋を使うことはないでしょう」
神谷は意外そうな顔をした。
「どうして?」
「みんな、一緒に出て行ったから」
神谷には意味が分からなかっただろう。しかし拓海は確信していた。
あの部屋はもう、誰も閉じ込めない。
孤独な魂たちは、ついに解放されたのだから。
後日、そのアパートは取り壊されることになった。
建設作業員が床板を剥がすと、無数のメッセージが見つかったという。
しかし最後に刻まれた文字は、これまでと違っていた。
『ありがとう』
『さようなら』
『もう一人じゃない』
作業員たちは不思議に思ったが、拓海には分かっていた。
孤独だった魂たちが、ついに安らぎを得たのだ。
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