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第13話「瞳に映る影」怖さ: 怖さ:☆
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# 第13話「瞳に映る影」
大河内翼が鏡越しに自分の目を見詰めた時、そこに映ったのは誰もいないはずの背後の光景だった。
十一月の夜。翼は洗面所で歯を磨きながら、何気なく鏡の中の自分の瞳を覗き込んだ。黒い瞳孔の奥に、小さく部屋の様子が反射して見える。
しかし、そこに映っているのは現実の部屋とは違っていた。
翼の背後には誰もいないはずなのに、瞳の中には人影が立っている。背の高い男性のシルエット。顔は見えないが、確実にそこにいる。
翼は慌てて振り返った。
背後には何もない。洗面所の扉があるだけだ。
もう一度鏡を見ると、瞳の中の人影は消えていた。
「見間違いかな……」
翼は首をかしげたが、気にしないことにした。
翌日の朝、翼は駅のトイレで手を洗いながら鏡を見た。またしても、自分の瞳の中に人影が映っている。
今度は女性のようだった。ロングヘアの細い体型。やはり背後に立っている。
翼は振り返ったが、個室のドアがあるだけで誰もいない。
会社でも同じことが起こった。給湯室の鏡、エレベーターの反射する壁、同僚のメガネ。あらゆる反射する表面で、翼の瞳の中に人影が映る。
そして人影は日に日に増えていく。
一人、二人、三人。一週間後には、十人以上の人影が翼の瞳の中に立っていた。
翼は眼科を受診したが、視力も眼球の状態も正常だった。
「ストレスかもしれませんね」
医師はそう診断したが、翼には心当たりがない。仕事も順調だし、人間関係にも問題はない。
しかし人影は増え続けた。
二週間後、翼の瞳の中は満員電車のような状態になっていた。無数の人影がひしめき合っている。
そして翼は気づいた。人影たちが、こちらを見ていることを。
瞳の中の小さな世界で、人影たちが翼を見上げている。まるで翼を観察しているように。
ある夜、翼は勇気を出して鏡に向かって話しかけてみた。
「君たちは誰なの?」
瞳の中の人影たちがざわめいた。口は見えないが、何かを話し合っているような動きをしている。
そして一人の人影が前に出てきた。
年配の男性のように見える。その人影が口を動かした。
「やっと気づいてくれた」
声は聞こえなかったが、口の動きで言葉が分かった。
「僕たちは君の記憶の中の人たちだ」
翼は困惑した。
「記憶?」
「そう。君が忘れてしまった人たちの記憶」
別の人影が前に出てきた。今度は中年女性のようだ。
「君は昔から、人の顔を覚えるのが苦手だっただろう?」
確かにその通りだった。翼は人の顔を覚えるのが非常に苦手で、何度会った人でも思い出せないことがよくある。
「僕たちは、君が忘れてしまった人たちだ」
三人目の人影が説明する。
「電車で隣に座った人、コンビニの店員、道ですれ違った人。君は僕たちの顔を見ても、記憶に残せない」
「でも僕たちは確実に存在していた」
「君の瞳には映っていた」
「だから僕たちは、君の瞳の記憶の中に住んでいるんだ」
翼は理解し始めた。自分が覚えていない無数の人々が、瞳の奥に蓄積されているのだ。
「なぜ今になって見えるようになったの?」
「君が僕たちを必要としているからだ」
最初の人影が答えた。
「君は最近、孤独を感じているだろう?」
翼は驚いた。確かに最近、一人でいることが多く、寂しさを感じていた。
「僕たちは君が出会った全ての人だ。君は一人じゃない」
「どんなに忘れっぽくても、僕たちは君の中にいる」
人影たちが口々に話しかけてくる。
「あの時、電車で席を譲ってくれてありがとう」
「コンビニで笑顔で挨拶してくれて嬉しかった」
「道で困っている時、声をかけてくれたよね」
翼は涙が出てきた。自分では忘れてしまったやり取りを、彼らは覚えていてくれる。
「君はとても優しい人だ」
「だから僕たちは君を見守っている」
「一人だと思わないで」
それから翼の生活は変わった。
人影たちが見えることを恐れるのではなく、彼らとのコミュニケーションを楽しむようになった。
朝の鏡で「おはよう」と挨拶し、夜は「お疲れさま」と声をかける。
人影たちも、翼の日常を一緒に過ごしてくれる。仕事で嫌なことがあった時は慰めてくれるし、嬉しいことがあった時は一緒に喜んでくれる。
そして翼は、現実の人間関係も大切にするようになった。
今まで覚えられなかった同僚の名前を、メモを取って覚える努力をした。コンビニの店員さんには積極的に挨拶をし、道ですれ違う人にも軽く会釈をするようになった。
すると不思議なことが起こった。
瞳の中の人影たちが、だんだん鮮明になってきたのだ。最初はぼんやりとしたシルエットだったが、次第に表情や服装が見えるようになった。
そして翼は気づいた。人影の中に、現実で知っている人がいることを。
同僚の田中さん、よく行くコンビニの店員さん、近所の散歩中のおじいさん。みんな翼の瞳の中にもいる。
つまり、翼は彼らの顔を忘れていたわけではなかったのだ。記憶の奥にちゃんと残っていて、瞳の中で生き続けていた。
半年後、翼の瞳の中の人影たちは完全にカラーで見えるようになった。そして彼らは翼に最後のメッセージを送った。
「もう大丈夫だね」
「君は僕たちを忘れなくなった」
「現実でも、ちゃんと人とつながれるようになった」
「だから僕たちは卒業するよ」
翼は寂しくなった。
「いなくなっちゃうの?」
「いなくならない。今度は君の心の中にいる」
「瞳の中ではなく、記憶の中に」
「君が人と出会うたび、僕たちも一緒にいる」
人影たちが手を振っている。
「ありがとう、翼」
「君に出会えて良かった」
「これからも、たくさんの人と出会ってね」
光に包まれて、人影たちが消えていく。
翼の瞳は、再び普通の瞳に戻った。
しかし翼は一人ぼっちではない。
心の中に、無数の出会いの記憶がある。
そして今日も新しい人と出会い、新しい記憶を作っている。
翼の瞳に映る世界は、愛に満ちている。
忘れてしまいそうな小さな出会いも、すべて大切な思い出として、翼の心に刻まれている。
人は一人では生きていけない。
でも一人でもない。
無数の出会いに支えられて、今日も翼は歩いていく。
大河内翼が鏡越しに自分の目を見詰めた時、そこに映ったのは誰もいないはずの背後の光景だった。
十一月の夜。翼は洗面所で歯を磨きながら、何気なく鏡の中の自分の瞳を覗き込んだ。黒い瞳孔の奥に、小さく部屋の様子が反射して見える。
しかし、そこに映っているのは現実の部屋とは違っていた。
翼の背後には誰もいないはずなのに、瞳の中には人影が立っている。背の高い男性のシルエット。顔は見えないが、確実にそこにいる。
翼は慌てて振り返った。
背後には何もない。洗面所の扉があるだけだ。
もう一度鏡を見ると、瞳の中の人影は消えていた。
「見間違いかな……」
翼は首をかしげたが、気にしないことにした。
翌日の朝、翼は駅のトイレで手を洗いながら鏡を見た。またしても、自分の瞳の中に人影が映っている。
今度は女性のようだった。ロングヘアの細い体型。やはり背後に立っている。
翼は振り返ったが、個室のドアがあるだけで誰もいない。
会社でも同じことが起こった。給湯室の鏡、エレベーターの反射する壁、同僚のメガネ。あらゆる反射する表面で、翼の瞳の中に人影が映る。
そして人影は日に日に増えていく。
一人、二人、三人。一週間後には、十人以上の人影が翼の瞳の中に立っていた。
翼は眼科を受診したが、視力も眼球の状態も正常だった。
「ストレスかもしれませんね」
医師はそう診断したが、翼には心当たりがない。仕事も順調だし、人間関係にも問題はない。
しかし人影は増え続けた。
二週間後、翼の瞳の中は満員電車のような状態になっていた。無数の人影がひしめき合っている。
そして翼は気づいた。人影たちが、こちらを見ていることを。
瞳の中の小さな世界で、人影たちが翼を見上げている。まるで翼を観察しているように。
ある夜、翼は勇気を出して鏡に向かって話しかけてみた。
「君たちは誰なの?」
瞳の中の人影たちがざわめいた。口は見えないが、何かを話し合っているような動きをしている。
そして一人の人影が前に出てきた。
年配の男性のように見える。その人影が口を動かした。
「やっと気づいてくれた」
声は聞こえなかったが、口の動きで言葉が分かった。
「僕たちは君の記憶の中の人たちだ」
翼は困惑した。
「記憶?」
「そう。君が忘れてしまった人たちの記憶」
別の人影が前に出てきた。今度は中年女性のようだ。
「君は昔から、人の顔を覚えるのが苦手だっただろう?」
確かにその通りだった。翼は人の顔を覚えるのが非常に苦手で、何度会った人でも思い出せないことがよくある。
「僕たちは、君が忘れてしまった人たちだ」
三人目の人影が説明する。
「電車で隣に座った人、コンビニの店員、道ですれ違った人。君は僕たちの顔を見ても、記憶に残せない」
「でも僕たちは確実に存在していた」
「君の瞳には映っていた」
「だから僕たちは、君の瞳の記憶の中に住んでいるんだ」
翼は理解し始めた。自分が覚えていない無数の人々が、瞳の奥に蓄積されているのだ。
「なぜ今になって見えるようになったの?」
「君が僕たちを必要としているからだ」
最初の人影が答えた。
「君は最近、孤独を感じているだろう?」
翼は驚いた。確かに最近、一人でいることが多く、寂しさを感じていた。
「僕たちは君が出会った全ての人だ。君は一人じゃない」
「どんなに忘れっぽくても、僕たちは君の中にいる」
人影たちが口々に話しかけてくる。
「あの時、電車で席を譲ってくれてありがとう」
「コンビニで笑顔で挨拶してくれて嬉しかった」
「道で困っている時、声をかけてくれたよね」
翼は涙が出てきた。自分では忘れてしまったやり取りを、彼らは覚えていてくれる。
「君はとても優しい人だ」
「だから僕たちは君を見守っている」
「一人だと思わないで」
それから翼の生活は変わった。
人影たちが見えることを恐れるのではなく、彼らとのコミュニケーションを楽しむようになった。
朝の鏡で「おはよう」と挨拶し、夜は「お疲れさま」と声をかける。
人影たちも、翼の日常を一緒に過ごしてくれる。仕事で嫌なことがあった時は慰めてくれるし、嬉しいことがあった時は一緒に喜んでくれる。
そして翼は、現実の人間関係も大切にするようになった。
今まで覚えられなかった同僚の名前を、メモを取って覚える努力をした。コンビニの店員さんには積極的に挨拶をし、道ですれ違う人にも軽く会釈をするようになった。
すると不思議なことが起こった。
瞳の中の人影たちが、だんだん鮮明になってきたのだ。最初はぼんやりとしたシルエットだったが、次第に表情や服装が見えるようになった。
そして翼は気づいた。人影の中に、現実で知っている人がいることを。
同僚の田中さん、よく行くコンビニの店員さん、近所の散歩中のおじいさん。みんな翼の瞳の中にもいる。
つまり、翼は彼らの顔を忘れていたわけではなかったのだ。記憶の奥にちゃんと残っていて、瞳の中で生き続けていた。
半年後、翼の瞳の中の人影たちは完全にカラーで見えるようになった。そして彼らは翼に最後のメッセージを送った。
「もう大丈夫だね」
「君は僕たちを忘れなくなった」
「現実でも、ちゃんと人とつながれるようになった」
「だから僕たちは卒業するよ」
翼は寂しくなった。
「いなくなっちゃうの?」
「いなくならない。今度は君の心の中にいる」
「瞳の中ではなく、記憶の中に」
「君が人と出会うたび、僕たちも一緒にいる」
人影たちが手を振っている。
「ありがとう、翼」
「君に出会えて良かった」
「これからも、たくさんの人と出会ってね」
光に包まれて、人影たちが消えていく。
翼の瞳は、再び普通の瞳に戻った。
しかし翼は一人ぼっちではない。
心の中に、無数の出会いの記憶がある。
そして今日も新しい人と出会い、新しい記憶を作っている。
翼の瞳に映る世界は、愛に満ちている。
忘れてしまいそうな小さな出会いも、すべて大切な思い出として、翼の心に刻まれている。
人は一人では生きていけない。
でも一人でもない。
無数の出会いに支えられて、今日も翼は歩いていく。
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