42 / 100
第42話「忘れられた存在」怖さ:☆☆☆☆
しおりを挟む
朝の教室はいつもと変わらない風景だった。三年二組の生徒たちが思い思いに過ごしている。雨宮蓮は自分の席に座り、昨日のノートを整理していた。
隣の席の同級生、結城悠真が振り返って話しかけてきた。
「おはよう、蓮」
「おはよう、悠真」
蓮は笑顔で応えた。悠真とは中学時代からの友人で、高校でも同じクラスになった仲だ。昨日も放課後まで一緒にいて、宿題について相談し合った覚えがある。
しかし悠真の次の言葉に、蓮は困惑した。
「えっと……君、誰?」
蓮は笑顔を凍らせた。
「え?」
「いや、その……君、誰なの?僕の知らない人がなんで隣に座ってるんだろうと思って」
悠真の表情は真剣だった。冗談を言っているようには見えない。
「悠真、何言ってるの?私、蓮だよ。雨宮蓮」
「雨宮……蓮?」
悠真は首をかしげた。
「ごめん、聞いたことない名前だなあ。それに、僕の隣の席の人は確か……」
悠真は席表を確認した。そこには確かに「雨宮蓮」と書かれている。
「あれ?雨宮蓮って書いてある。でも僕、君のこと知らないんだよね」
蓮は混乱した。悠真が自分を知らないなんて、そんなことがあるだろうか。
「悠真、昨日も一緒に宿題やったじゃない。数学の問題で困ってた時、私が教えたでしょ?」
「昨日?僕、昨日は一人で宿題やったけど……」
悠真の困惑は本物だった。演技をしているようには全く見えない。
その時、前の席の朝比奈咲良が振り返った。
「おはよう、悠真。今日も早いね」
「おはよう、咲良」
咲良は蓮のことを見て、首をかしげた。
「あれ?その人誰?」
蓮は愕然とした。咲良とも仲が良かったはずなのに。
「咲良、私だよ。蓮。昨日、一緒にお弁当食べたじゃない」
「蓮?ごめん、知らない子だなあ。それに昨日は悠真と二人でお弁当食べたよ」
咲良は本当に困惑しているようだった。
蓮は立ち上がった。他のクラスメイトに聞いてみよう。きっと何かの間違いだ。
「桐生君」
蓮は後ろの席の桐生隼人に声をかけた。隼人とは部活が一緒で、よく話をする仲だった。
「え?僕に話しかけてるの?」
隼人も蓮のことを知らないような表情を見せた。
「私、雨宮蓮。演劇部の」
「演劇部に雨宮さんって人はいないよ。少なくとも僕は知らない」
蓮は青ざめた。演劇部には十人ほどしかいない。全員の顔と名前を知っているはずなのに。
「そんな……」
蓮は教室を見回した。三十人ほどのクラスメイト全員が、蓮のことを知らないような顔をしている。まるで蓮が突然現れた不審者であるかのように。
蓮は担任の夏目先生に相談することにした。職員室に向かう途中、廊下で何人かの生徒とすれ違ったが、誰も蓮に気づかなかった。まるで蓮が透明人間になったかのようだった。
職員室に入ると、夏目先生がデスクで書類整理をしていた。
「先生、おはようございます」
夏目先生は顔を上げた。四十代半ばの女性で、普段は優しい先生だ。
「おはようございます。えっと、どちらの生徒さんですか?」
蓮は衝撃を受けた。夏目先生は三年二組の担任で、蓮のことを一年の時から知っているはずだった。
「先生、私、雨宮蓮です。三年二組の」
「雨宮蓮さん?」
夏目先生は首をかしげて、手元の名簿を確認した。
「確かに雨宮蓮という生徒はいますね。でも……」
夏目先生は蓮の顔をじっと見た。
「ごめんなさい、お顔を覚えていないんです。体調不良で長期欠席されていたのでしょうか?」
「いえ、毎日来てます。昨日も先生と話しましたよね?進路のことで」
「昨日?私、昨日は雨宮さんとお話ししていませんが……」
夏目先生の困惑は本物だった。
蓮は絶望的な気持ちになった。クラスメイトだけでなく、担任の先生まで自分のことを覚えていない。
蓮は保健室に向かった。何か体調に異常があるのかもしれない。記憶に関する病気や、精神的な問題があるのかもしれない。
保健室の白石先生は三十代の優しい女性だった。蓮は時々体調不良で保健室を利用していた。
「先生、おはようございます」
「おはようございます。どちらの生徒さんですか?体調が悪いのですか?」
白石先生も蓮のことを知らないようだった。
「私、雨宮蓮です。時々頭痛でお世話になっている」
「雨宮蓮さん……申し訳ありませんが、記憶にないですね。どちらのクラスの方ですか?」
蓮は説明したが、白石先生は首をかしげるばかりだった。
「少し横になって休まれますか?何かショックなことがあったのかもしれませんね」
蓮はベッドに横になった。しかし休んでも状況は変わらなかった。
昼休み、蓮は一人で校庭を歩いていた。演劇部の仲間に会えば、きっと覚えていてくれるだろうと思った。
部室に向かう途中、演劇部の後輩である一年生の椎名美咲に出会った。
「美咲ちゃん」
蓮は声をかけたが、美咲は立ち止まって困惑した表情を見せた。
「あの……どちら様でしょうか?」
「蓮先輩だよ。演劇部の」
「演劇部の先輩?でも私、存じ上げないんですが……」
美咲は本当に困っているようだった。
「蓮先輩って方は演劇部にいらっしゃいませんよ」
蓮は演劇部の部室に向かった。放課後ではないが、数人の部員がいるかもしれない。
部室に入ると、三年生の部長である天城陽翔がいた。
「陽翔、お疲れさま」
陽翔は振り返って、警戒するような表情を見せた。
「君、誰?部外者は入っちゃダメだよ」
「陽翔、私だよ。蓮。副部長の」
「副部長?うちの副部長は時雨だけど」
陽翔は本当に困惑していた。
「時雨って誰?」
「二年生の時雨琴音。君、本当に演劇部の人?」
蓮は混乱した。時雨琴音という名前は聞いたことがない。演劇部に副部長は蓮しかいないはずだった。
「ちょっと待って、部員名簿を見せて」
陽翔は部員名簿を見せてくれた。そこには確かに「時雨琴音・副部長」と書かれている。しかし「雨宮蓮」の名前はどこにもなかった。
「そんな……私の名前がない」
「君、本当は他の学校の人じゃない?何かの間違いだよ」
蓮は部室を出た。もう何が何だかわからなかった。
放課後、蓮は図書館に向かった。図書カードを確認すれば、自分の存在を証明できるかもしれない。
図書館の司書である宮代先生に声をかけた。
「先生、図書カードを確認していただけますか?」
「はい、お名前をお聞かせください」
「雨宮蓮です」
宮代先生はコンピューターで検索した。
「雨宮蓮さん……該当する記録がありませんね。もう一度お名前を確認していただけますか?」
「あ、雨に宮で雨宮、蓮の花の蓮です」
「検索してみましたが、やはり該当者がいません。図書カードをお作りになっていないのではないでしょうか?」
蓮は絶望した。図書館には毎週のように通っていたのに。
蓮は家に帰ることにした。せめて家族だけは自分のことを覚えていてくれるだろう。
玄関の鍵を開けようとしたが、鍵が合わない。何度試しても扉が開かない。
「おかしいな……」
蓮はインターホンを押した。
「はい」
母親の声が聞こえた。
「お母さん、私、鍵が開かないの」
「申し訳ございませんが、どちら様でしょうか?」
蓮は愕然とした。母親まで自分のことを忘れている。
「お母さん、私よ。蓮よ」
「蓮?すみません、そのようなお名前のお子さんはうちにはおりませんが……」
「そんな……お母さん、私、あなたの娘よ」
「申し訳ございませんが、人違いではないでしょうか。うちには息子が一人いるだけです」
蓮は泣きそうになった。息子というのは弟の悠生のことだろう。しかし蓮の存在は完全に消されている。
「お母さん、お願い、思い出して。私、雨宮蓮。あなたの娘よ」
「申し訳ございませんが、警察を呼ばせていただきます」
母親の声は困惑と警戒に満ちていた。
蓮は家の前を離れた。どこに行けばいいのかわからない。自分の存在を証明する方法が見つからない。
近所のコンビニに入って、何か飲み物を買おうとした。
「いらっしゃいませ」
店員は普通に対応してくれた。商品を選んでレジに持っていく。
「268円になります」
蓮は財布を出して支払った。少なくとも店員には見えているようだ。
しかし財布の中の学生証を見て、蓮は驚いた。写真は確かに自分だが、名前の部分がぼやけて読めない。まるで文字が消えかかっているようだった。
蓮は公園のベンチに座って考えた。一体何が起きているのだろうか。昨日まで普通に生活していたのに、今日になって突然誰も自分のことを覚えていない。
まるで自分という存在が世界から消されているかのようだった。
蓮は携帯電話を取り出した。友達の連絡先に電話をかけてみよう。
悠真の番号にかけた。
「もしもし」
「悠真、私、蓮よ」
「蓮?どちらの蓮さんですか?」
「雨宮蓮。今朝、教室で話した」
「今朝?僕、雨宮さんという人と話した覚えがないんですが……間違い電話ではないでしょうか?」
蓮は電話を切った。やはりダメだった。
その時、蓮は一つの可能性を思い出した。昨日の夜、変な夢を見たのだ。
夢の中で、蓮は暗い部屋にいた。そこで誰かが言っていた。「君は存在しない」と。
その時は単なる悪夢だと思っていたが、もしかするとあれは夢ではなかったのかもしれない。
蓮は夢の内容を思い出そうとした。暗い部屋、誰かの声、そして……鏡があった。その鏡に映った自分の姿が、だんだん薄くなっていく夢だった。
蓮は近くの公衆トイレに入って、鏡を見た。
映っている自分の姿が、心なしか薄く見える。まるで透明になりかかっているような。
「そんな……」
蓮は鏡に手を触れた。確かに手は映っているが、輪郭がぼやけている。
蓮は恐怖を感じた。自分は本当に消えかかっているのだろうか。
夜になって、蓮は学校に戻った。夜間でも警備員がいるので入ることはできないが、外から校舎を見上げた。
自分の教室がある三階の窓に明かりが見えた。誰かがいるようだ。
蓮は回り道をして、裏門から学校に入った。警備員に見つからないよう、慎重に校舎に入る。
三階に上がって、三年二組の教室を覗いた。
教室には一人の女子生徒がいた。蓮と同い年くらいで、見覚えのない顔だった。その生徒は蓮の席に座って、何かノートに書いている。
蓮は教室に入った。
「あの、そこ私の席なんですが」
女子生徒は顔を上げた。美しい顔立ちで、どこか神秘的な雰囲気を持っている。
「あなたの席?」
「はい、雨宮蓮です。今朝からみんな私のことを忘れているんですが……」
女子生徒は微笑んだ。
「ああ、やっと会えましたね」
「え?」
「私、時雨琴音。あなたの代わりです」
蓮は困惑した。
「代わりって、何の?」
「存在の代わりです。あなたがいなくなった分、私がその場所を埋めています」
琴音の言葉に、蓮は背筋が寒くなった。
「いなくなったって、私はここにいるじゃない」
「物理的にはね。でも社会的存在としては、あなたはもう消えています」
琴音は立ち上がった。
「昨夜、あなたは選択したんです。『誰からも覚えられていない方がいい』と」
蓮は記憶を辿った。確かに昨夜、とても辛いことがあった。友達とのトラブルで、家族とも喧嘩して、もう誰とも関わりたくないと思った。
「誰にも覚えられていなければ、傷つくこともない」そう思った覚えがある。
「でも、それは一時的な感情よ。本気じゃなかった」
「でも一度口にした言葉は取り消せません。あなたの願いは叶えられました」
琴音は蓮に近づいた。
「どうですか?誰からも覚えられていない気分は」
「最悪よ。すぐに元に戻して」
「それはできません。あなたがいた場所は、もう私が埋めています」
琴音は蓮の席に座り直した。
「でも安心してください。私があなたの人生を引き継ぎます。あなたの友達も、家族も、みんな私のことを大切にしてくれるでしょう」
蓮は恐怖を感じた。
「それって、私の人生を奪うってこと?」
「奪うのではありません。あなたが捨てたものを拾っているだけです」
琴音の微笑みには悪意がなかった。むしろ親切そうにさえ見える。
「お願い、元に戻して。私、やっぱり覚えていてもらいたい」
「残念ですが、それは不可能です。あなたは選択の結果を受け入れるしかありません」
琴音はノートを閉じて立ち上がった。
「でも、完全に消えるまでにはまだ時間があります。せいぜい数日でしょうけれど」
「消えるって?」
「物理的にもいなくなります。あなたの存在そのものが、この世界から消去されるんです」
蓮は絶望した。
「そんな……」
「さようなら、雨宮蓮。短い間でしたが、あなたの人生を垣間見ることができて興味深かったです」
琴音は教室を出ていった。
蓮は一人残された。自分の席に座り、窓の外を見た。
街の明かりが綺麗だった。昨日まで当たり前だった景色が、今は遠く感じられる。
蓮は泣いた。友達とのトラブルなんて、家族との喧嘩なんて、今思えば些細なことだった。それでも覚えていてもらいたかった。愛されていたかった。
しかし、もう遅い。選択の結果は変えられない。
蓮は教室に一人で座り続けた。誰も自分を覚えていない世界で、消えていく運命を受け入れるしかなかった。
翌朝、三年二組の教室には時雨琴音が座っていた。みんな琴音のことを昔からの友達のように接している。
雨宮蓮という名前は、誰の記憶からも消えていた。
校舎の片隅で、薄っすらとした人影が立っていることに気づく者はいない。
蓮の存在は、まるで朝霧のように薄れていく。
あと少しで、完全に消えてしまうだろう。
蓮は後悔していた。でも、もう誰にも伝えることはできない。
言葉の重さを、蓮は身をもって知った。
しかし、知ったところで、もう何も変えることはできなかった。
隣の席の同級生、結城悠真が振り返って話しかけてきた。
「おはよう、蓮」
「おはよう、悠真」
蓮は笑顔で応えた。悠真とは中学時代からの友人で、高校でも同じクラスになった仲だ。昨日も放課後まで一緒にいて、宿題について相談し合った覚えがある。
しかし悠真の次の言葉に、蓮は困惑した。
「えっと……君、誰?」
蓮は笑顔を凍らせた。
「え?」
「いや、その……君、誰なの?僕の知らない人がなんで隣に座ってるんだろうと思って」
悠真の表情は真剣だった。冗談を言っているようには見えない。
「悠真、何言ってるの?私、蓮だよ。雨宮蓮」
「雨宮……蓮?」
悠真は首をかしげた。
「ごめん、聞いたことない名前だなあ。それに、僕の隣の席の人は確か……」
悠真は席表を確認した。そこには確かに「雨宮蓮」と書かれている。
「あれ?雨宮蓮って書いてある。でも僕、君のこと知らないんだよね」
蓮は混乱した。悠真が自分を知らないなんて、そんなことがあるだろうか。
「悠真、昨日も一緒に宿題やったじゃない。数学の問題で困ってた時、私が教えたでしょ?」
「昨日?僕、昨日は一人で宿題やったけど……」
悠真の困惑は本物だった。演技をしているようには全く見えない。
その時、前の席の朝比奈咲良が振り返った。
「おはよう、悠真。今日も早いね」
「おはよう、咲良」
咲良は蓮のことを見て、首をかしげた。
「あれ?その人誰?」
蓮は愕然とした。咲良とも仲が良かったはずなのに。
「咲良、私だよ。蓮。昨日、一緒にお弁当食べたじゃない」
「蓮?ごめん、知らない子だなあ。それに昨日は悠真と二人でお弁当食べたよ」
咲良は本当に困惑しているようだった。
蓮は立ち上がった。他のクラスメイトに聞いてみよう。きっと何かの間違いだ。
「桐生君」
蓮は後ろの席の桐生隼人に声をかけた。隼人とは部活が一緒で、よく話をする仲だった。
「え?僕に話しかけてるの?」
隼人も蓮のことを知らないような表情を見せた。
「私、雨宮蓮。演劇部の」
「演劇部に雨宮さんって人はいないよ。少なくとも僕は知らない」
蓮は青ざめた。演劇部には十人ほどしかいない。全員の顔と名前を知っているはずなのに。
「そんな……」
蓮は教室を見回した。三十人ほどのクラスメイト全員が、蓮のことを知らないような顔をしている。まるで蓮が突然現れた不審者であるかのように。
蓮は担任の夏目先生に相談することにした。職員室に向かう途中、廊下で何人かの生徒とすれ違ったが、誰も蓮に気づかなかった。まるで蓮が透明人間になったかのようだった。
職員室に入ると、夏目先生がデスクで書類整理をしていた。
「先生、おはようございます」
夏目先生は顔を上げた。四十代半ばの女性で、普段は優しい先生だ。
「おはようございます。えっと、どちらの生徒さんですか?」
蓮は衝撃を受けた。夏目先生は三年二組の担任で、蓮のことを一年の時から知っているはずだった。
「先生、私、雨宮蓮です。三年二組の」
「雨宮蓮さん?」
夏目先生は首をかしげて、手元の名簿を確認した。
「確かに雨宮蓮という生徒はいますね。でも……」
夏目先生は蓮の顔をじっと見た。
「ごめんなさい、お顔を覚えていないんです。体調不良で長期欠席されていたのでしょうか?」
「いえ、毎日来てます。昨日も先生と話しましたよね?進路のことで」
「昨日?私、昨日は雨宮さんとお話ししていませんが……」
夏目先生の困惑は本物だった。
蓮は絶望的な気持ちになった。クラスメイトだけでなく、担任の先生まで自分のことを覚えていない。
蓮は保健室に向かった。何か体調に異常があるのかもしれない。記憶に関する病気や、精神的な問題があるのかもしれない。
保健室の白石先生は三十代の優しい女性だった。蓮は時々体調不良で保健室を利用していた。
「先生、おはようございます」
「おはようございます。どちらの生徒さんですか?体調が悪いのですか?」
白石先生も蓮のことを知らないようだった。
「私、雨宮蓮です。時々頭痛でお世話になっている」
「雨宮蓮さん……申し訳ありませんが、記憶にないですね。どちらのクラスの方ですか?」
蓮は説明したが、白石先生は首をかしげるばかりだった。
「少し横になって休まれますか?何かショックなことがあったのかもしれませんね」
蓮はベッドに横になった。しかし休んでも状況は変わらなかった。
昼休み、蓮は一人で校庭を歩いていた。演劇部の仲間に会えば、きっと覚えていてくれるだろうと思った。
部室に向かう途中、演劇部の後輩である一年生の椎名美咲に出会った。
「美咲ちゃん」
蓮は声をかけたが、美咲は立ち止まって困惑した表情を見せた。
「あの……どちら様でしょうか?」
「蓮先輩だよ。演劇部の」
「演劇部の先輩?でも私、存じ上げないんですが……」
美咲は本当に困っているようだった。
「蓮先輩って方は演劇部にいらっしゃいませんよ」
蓮は演劇部の部室に向かった。放課後ではないが、数人の部員がいるかもしれない。
部室に入ると、三年生の部長である天城陽翔がいた。
「陽翔、お疲れさま」
陽翔は振り返って、警戒するような表情を見せた。
「君、誰?部外者は入っちゃダメだよ」
「陽翔、私だよ。蓮。副部長の」
「副部長?うちの副部長は時雨だけど」
陽翔は本当に困惑していた。
「時雨って誰?」
「二年生の時雨琴音。君、本当に演劇部の人?」
蓮は混乱した。時雨琴音という名前は聞いたことがない。演劇部に副部長は蓮しかいないはずだった。
「ちょっと待って、部員名簿を見せて」
陽翔は部員名簿を見せてくれた。そこには確かに「時雨琴音・副部長」と書かれている。しかし「雨宮蓮」の名前はどこにもなかった。
「そんな……私の名前がない」
「君、本当は他の学校の人じゃない?何かの間違いだよ」
蓮は部室を出た。もう何が何だかわからなかった。
放課後、蓮は図書館に向かった。図書カードを確認すれば、自分の存在を証明できるかもしれない。
図書館の司書である宮代先生に声をかけた。
「先生、図書カードを確認していただけますか?」
「はい、お名前をお聞かせください」
「雨宮蓮です」
宮代先生はコンピューターで検索した。
「雨宮蓮さん……該当する記録がありませんね。もう一度お名前を確認していただけますか?」
「あ、雨に宮で雨宮、蓮の花の蓮です」
「検索してみましたが、やはり該当者がいません。図書カードをお作りになっていないのではないでしょうか?」
蓮は絶望した。図書館には毎週のように通っていたのに。
蓮は家に帰ることにした。せめて家族だけは自分のことを覚えていてくれるだろう。
玄関の鍵を開けようとしたが、鍵が合わない。何度試しても扉が開かない。
「おかしいな……」
蓮はインターホンを押した。
「はい」
母親の声が聞こえた。
「お母さん、私、鍵が開かないの」
「申し訳ございませんが、どちら様でしょうか?」
蓮は愕然とした。母親まで自分のことを忘れている。
「お母さん、私よ。蓮よ」
「蓮?すみません、そのようなお名前のお子さんはうちにはおりませんが……」
「そんな……お母さん、私、あなたの娘よ」
「申し訳ございませんが、人違いではないでしょうか。うちには息子が一人いるだけです」
蓮は泣きそうになった。息子というのは弟の悠生のことだろう。しかし蓮の存在は完全に消されている。
「お母さん、お願い、思い出して。私、雨宮蓮。あなたの娘よ」
「申し訳ございませんが、警察を呼ばせていただきます」
母親の声は困惑と警戒に満ちていた。
蓮は家の前を離れた。どこに行けばいいのかわからない。自分の存在を証明する方法が見つからない。
近所のコンビニに入って、何か飲み物を買おうとした。
「いらっしゃいませ」
店員は普通に対応してくれた。商品を選んでレジに持っていく。
「268円になります」
蓮は財布を出して支払った。少なくとも店員には見えているようだ。
しかし財布の中の学生証を見て、蓮は驚いた。写真は確かに自分だが、名前の部分がぼやけて読めない。まるで文字が消えかかっているようだった。
蓮は公園のベンチに座って考えた。一体何が起きているのだろうか。昨日まで普通に生活していたのに、今日になって突然誰も自分のことを覚えていない。
まるで自分という存在が世界から消されているかのようだった。
蓮は携帯電話を取り出した。友達の連絡先に電話をかけてみよう。
悠真の番号にかけた。
「もしもし」
「悠真、私、蓮よ」
「蓮?どちらの蓮さんですか?」
「雨宮蓮。今朝、教室で話した」
「今朝?僕、雨宮さんという人と話した覚えがないんですが……間違い電話ではないでしょうか?」
蓮は電話を切った。やはりダメだった。
その時、蓮は一つの可能性を思い出した。昨日の夜、変な夢を見たのだ。
夢の中で、蓮は暗い部屋にいた。そこで誰かが言っていた。「君は存在しない」と。
その時は単なる悪夢だと思っていたが、もしかするとあれは夢ではなかったのかもしれない。
蓮は夢の内容を思い出そうとした。暗い部屋、誰かの声、そして……鏡があった。その鏡に映った自分の姿が、だんだん薄くなっていく夢だった。
蓮は近くの公衆トイレに入って、鏡を見た。
映っている自分の姿が、心なしか薄く見える。まるで透明になりかかっているような。
「そんな……」
蓮は鏡に手を触れた。確かに手は映っているが、輪郭がぼやけている。
蓮は恐怖を感じた。自分は本当に消えかかっているのだろうか。
夜になって、蓮は学校に戻った。夜間でも警備員がいるので入ることはできないが、外から校舎を見上げた。
自分の教室がある三階の窓に明かりが見えた。誰かがいるようだ。
蓮は回り道をして、裏門から学校に入った。警備員に見つからないよう、慎重に校舎に入る。
三階に上がって、三年二組の教室を覗いた。
教室には一人の女子生徒がいた。蓮と同い年くらいで、見覚えのない顔だった。その生徒は蓮の席に座って、何かノートに書いている。
蓮は教室に入った。
「あの、そこ私の席なんですが」
女子生徒は顔を上げた。美しい顔立ちで、どこか神秘的な雰囲気を持っている。
「あなたの席?」
「はい、雨宮蓮です。今朝からみんな私のことを忘れているんですが……」
女子生徒は微笑んだ。
「ああ、やっと会えましたね」
「え?」
「私、時雨琴音。あなたの代わりです」
蓮は困惑した。
「代わりって、何の?」
「存在の代わりです。あなたがいなくなった分、私がその場所を埋めています」
琴音の言葉に、蓮は背筋が寒くなった。
「いなくなったって、私はここにいるじゃない」
「物理的にはね。でも社会的存在としては、あなたはもう消えています」
琴音は立ち上がった。
「昨夜、あなたは選択したんです。『誰からも覚えられていない方がいい』と」
蓮は記憶を辿った。確かに昨夜、とても辛いことがあった。友達とのトラブルで、家族とも喧嘩して、もう誰とも関わりたくないと思った。
「誰にも覚えられていなければ、傷つくこともない」そう思った覚えがある。
「でも、それは一時的な感情よ。本気じゃなかった」
「でも一度口にした言葉は取り消せません。あなたの願いは叶えられました」
琴音は蓮に近づいた。
「どうですか?誰からも覚えられていない気分は」
「最悪よ。すぐに元に戻して」
「それはできません。あなたがいた場所は、もう私が埋めています」
琴音は蓮の席に座り直した。
「でも安心してください。私があなたの人生を引き継ぎます。あなたの友達も、家族も、みんな私のことを大切にしてくれるでしょう」
蓮は恐怖を感じた。
「それって、私の人生を奪うってこと?」
「奪うのではありません。あなたが捨てたものを拾っているだけです」
琴音の微笑みには悪意がなかった。むしろ親切そうにさえ見える。
「お願い、元に戻して。私、やっぱり覚えていてもらいたい」
「残念ですが、それは不可能です。あなたは選択の結果を受け入れるしかありません」
琴音はノートを閉じて立ち上がった。
「でも、完全に消えるまでにはまだ時間があります。せいぜい数日でしょうけれど」
「消えるって?」
「物理的にもいなくなります。あなたの存在そのものが、この世界から消去されるんです」
蓮は絶望した。
「そんな……」
「さようなら、雨宮蓮。短い間でしたが、あなたの人生を垣間見ることができて興味深かったです」
琴音は教室を出ていった。
蓮は一人残された。自分の席に座り、窓の外を見た。
街の明かりが綺麗だった。昨日まで当たり前だった景色が、今は遠く感じられる。
蓮は泣いた。友達とのトラブルなんて、家族との喧嘩なんて、今思えば些細なことだった。それでも覚えていてもらいたかった。愛されていたかった。
しかし、もう遅い。選択の結果は変えられない。
蓮は教室に一人で座り続けた。誰も自分を覚えていない世界で、消えていく運命を受け入れるしかなかった。
翌朝、三年二組の教室には時雨琴音が座っていた。みんな琴音のことを昔からの友達のように接している。
雨宮蓮という名前は、誰の記憶からも消えていた。
校舎の片隅で、薄っすらとした人影が立っていることに気づく者はいない。
蓮の存在は、まるで朝霧のように薄れていく。
あと少しで、完全に消えてしまうだろう。
蓮は後悔していた。でも、もう誰にも伝えることはできない。
言葉の重さを、蓮は身をもって知った。
しかし、知ったところで、もう何も変えることはできなかった。
0
あなたにおすすめの小説
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
静かに壊れていく日常
井浦
ホラー
──違和感から始まる十二の恐怖──
いつも通りの朝。
いつも通りの夜。
けれど、ほんの少しだけ、何かがおかしい。
鳴るはずのないインターホン。
いつもと違う帰り道。
知らない誰かの声。
そんな「違和感」に気づいたとき、もう“元の日常”には戻れない。
現実と幻想の境界が曖昧になる、全十二話の短編集。
一話完結で読める、静かな恐怖をあなたへ。
※表紙は生成AIで作成しております。
【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】
絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。
下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。
※全話オリジナル作品です。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる