遺品整理屋の私が依頼されたのは、三年前の「私の死体」の掃除でした

ソラ

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無感情な掃除人

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死の匂いは、熟しすぎた果実に似ている。
甘ったるく、粘り気があり、鼻腔の奥に媚びついて離れない。普通の人間なら、その臭気を一度吸い込んだだけで胃の中身をすべてぶちまけるだろう。

だが、神代(かみよ)エマにとっては、それが日常のスパイスだった。

「……本日も、お疲れ様でした」

エマは、防護服のラバー手袋を脱ぎ、静かに一礼した。
そこは、築四十年の木造アパートの一室だ。数日前まで、ここには「人間」がいた。今は、畳に染み付いた赤黒い人型のシミと、無数の羽虫の死骸、そして生活の残骸があるだけだ。
孤独死。死後二週間。

腐敗が進み、遺体から漏れ出した体液が床下にまで達していた。他の業者が「手に負えない」と断った物件だったが、エマはたった一人で、たった数時間で、部屋を無機質な空間へと戻してみせた。

彼女が手に持っているのは、特殊な薬剤と、使い古されたスクレイパーだけではない。
遺品整理屋——通称「クリーナー」。
それが彼女の職業であり、同時に、この世界と繋がる唯一の細い糸だった。

「エマちゃん、終わったかい?」

アパートの廊下で待っていたのは、清掃会社『ホワイト・アーク』の社長、白金(しらがね)だった。白髪を綺麗に整えた老紳士で、この凄惨な現場に不釣り合いなほど柔和な笑みを浮かべている。

「はい。汚染箇所はすべて除去しました。異臭についても、オゾン脱臭機を明日まで回せば、明後日には不動産業者が入れる状態になります」
「相変わらず完璧だ。君の仕事は、もはや芸術の域だよ」

白金はハンカチで額を拭きながら、感心したようにエマを見つめた。
エマは、感情の動かない瞳で、自分の指先を見つめる。  
彼女には過去がない。  
三年前、記録的な豪雨による土砂崩れの現場で、彼女は発見された。記憶を失い、身元を証明するものは何一つ持っていなかった。
『神代エマ』という名も、入院先の病院で、担当医が便宜上つけたものだ。彼女の脳は、三年前以前の記録を、あたかも最初から存在しなかったかのように拒絶していた。

自分が誰なのかを知りたいという欲求は、不思議と湧かなかった。  
それよりも、目の前の死を片付けることに没頭しているときだけ、彼女は「自分が存在している」というかすかな感触を得ることができた。

「……社長。次の案件はありますか?」
「おやおや、少しは休んだらどうだい? 今日はもう三件目だろう」
「休んでも、することがありませんから」

エマの言葉は、自虐ではなく純然たる事実だった。  
彼女の家には、家具がほとんどない。死者の部屋を片付けるように、自分の生活も徹底的に整理し、無機質に保っていた。まるで、いつ自分が消えても、誰にも迷惑をかけずに「整理」できるように。

白金は少し困ったように眉を下げたが、やがてポケットから一通の黒い封筒を取り出した。

「実はね、君を指名しての依頼が来ているんだ。それも、かなりの特級案件だよ」
「私を、指名?」

エマは眉を動かした。  
この業界で指名が入ること自体は珍しくないが、彼女はまだキャリア三年の若手だ。ベテランを差し置いて彼女を選ぶのは、特殊な事情がある場合に限られる。

「依頼主は、匿名を希望している弁護士だ。場所は港区の高級タワーマンション。家賃は六桁を下らないような、本物のセレブの部屋だよ。……そこで、一人の女性が亡くなった」

白金から手渡されたタブレット端末に、そのマンションの外観が映し出された。  
ガラス張りの外壁が夕日に反射し、眩しく輝いている。エマが先ほどまでいた、カビと腐敗臭の漂うアパートとは対極にある世界。

「孤独死ですか?」
「いや、公式には『病死』とされている。だが、遺品整理については『神代エマにしか任せない』という強い要望があった。……そして、もう一つ条件がある」

白金は、エマの目を真っ直ぐに見据えた。

「警察の鑑識が入る前に、部屋の『あるもの』を整理してほしいそうだ」

その言葉の意味を、エマは即座に理解した。
それは、隠蔽だ。
死者の尊厳を守るためか、あるいは、生者の不都合を消すためか。クリーナーという職業には、時としてそうした「裏の仕事」が舞い込む。

「承知しました。現場へ向かいます」

エマは迷いなく答えた。
彼女にとって、それが善か悪かは重要ではない。
ただ、そこに「死」があり、片付けるべき「痕跡」があるなら、彼女の役目は一つだ。

 ——だが、この時のエマはまだ知らなかった。
その豪華なマンションの扉の向こうに、自分自身の「失われた過去」と、この世で最も残酷な「真実」が待ち受けていることを。

港区、二十八階。
電子ロックを解除し、重厚な扉を押し開けた瞬間、エマの足が止まった。

「…………っ」

喉の奥が熱くなり、激しい眩暈が彼女を襲った。
匂いだ。
そこには、死の匂いなどしていなかった。
代わりに漂っていたのは、目が眩むほど芳醇な、アールグレイの香り。
そして——彼女が、誰にも教えたことのないはずの、彼女自身が愛用している香水の匂いだった。

エマは震える手で、リビングの壁にあるスイッチを入れた。  
点灯したシャンデリアが照らし出した光景に、エマは声を失った。

壁一面に、写真が貼られていた。  
それも、すべて盗撮されたものだ。  
コンビニでパンを買うエマ。  
雨の中、バスを待つエマ。  
そして、血まみれの部屋で、無表情に床を拭くエマ。

そして、部屋の中央に置かれたキングサイズのベッド。  
そこには、一人の女性が横たわっていた。  
まるで眠っているかのように穏やかな顔立ち。だが、その肌は陶器のように白く冷たくなっている。

エマは吸い寄せられるように、ベッドのそばへ歩み寄った。  
死体の顔を覗き込む。

「……うそ……」

そこに横たわっていたのは  
自分と全く同じ顔をした、もう一人の「神代エマ」だった。

呆然と立ち尽くすエマの視界の隅で、ベッドサイドのテーブルの上に置かれた一通の書類が揺れた。  
そこには、公的な書式でこう記されていた。

【死亡診断書】  氏名:神代エマ  死因:心不全(※脳機能停止による)  
        日付:三年前、十月十四日

三年前。  
それは、彼女が「神代エマ」として発見された、その日だった。

「……私が、死んでいる……?」

ガタガタと歯の根が合わないほどの震えが、エマを襲う。
その時、静まり返った室内で、パチリと小さな音が響いた。
部屋の入り口に、一人の老人が立っていた。
清掃会社の社長であり、エマの恩人であるはずの白金だった。

「……驚いたかい? だが、これはまだ『整理』の始まりに過ぎないんだよ、エマ」

白金の声は、先ほどまでとは打って変わって、氷のように冷徹だった。
エマは、自分が手に持っていたクリーニング用の洗剤ボトルを、知らず知らずのうちに強く握りしめていた。
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