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初めての来客と、神獣様の嫉妬
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「……なんだ、これは。俺は、夢でも見ているのか?」
辺境の村で村長を務めるガストンは、自分の目を疑い、何度も瞼を擦った。
目の前にあるのは、昨日まで誰もが近づくことさえ恐れた「死の森」だ。一歩足を踏み入れれば、瘴気によって肺が焼かれ、狂暴な魔獣に食い殺される。そんな呪われた地のはずだった。
だが、今ガストンの視界に広がっているのは、そんな不吉な名前を嘲笑うかのような光景だ。
境界線でも引かれたかのように、冬の銀世界の向こう側に「常春の楽園」が広がっている。
真っ白な雪は消え、青々とした柔らかな芝生がどこまでも続き、宝石のように輝く花々が咲き乱れていた。 ガストンがその目に見えない「線」を一歩越えた、その瞬間。
身体中の古傷が熱を帯びた。長年の戦いで患い、もう治ることはないと諦めていた足の痛みが、その土地を踏んだだけで、嘘のようにスッと引いていったのだ。
(王都の神殿など、比べるのも烏滸がましいほどだ……)
恐ろしいほどの清浄。ガストンは震える足で、その聖域へとさらに一歩を踏み出した。
中央には琥珀色に輝く美しいログハウス。そのテラスから、柔らかなプラチナブロンドを揺らして一人の少女が姿を現した。
「あら。お客様……でしょうか?」
鈴の鳴るような、透き通った声だった。
少女――エリアナは、簡素な服を着ているが、その立ち振る舞いには隠しようのない気品がある。
ガストンは反射的に、騎士としての礼をとりそうになるのを必死に抑えた。
「あ……いや。俺はこの先の村で村長をやっている、ガストンという者だ。この森に、あまりに妙な異変が起きたもので、調査に……」
ガストンがたどたどしく答えると、エリアナはぱっと顔を輝かせた。
「村長様でしたか! ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、エリアナと申します。事情があって、こちらでお世話になることになりました」
彼女が微笑んだ瞬間、ガストンの背筋に、冷や水を浴びせられたような戦慄が走った。
エリアナの後ろから、一匹の小さな黒い子犬が姿を現したからだ。
掌に乗るほどの小ささ。愛くるしい瞳。だが、その子犬がガストンを射抜いた瞬間。
――理解した瞬間、ガストンの思考が止まった。
逃げ場のない、圧倒的な「死」の気配。
それは、かつて戦場で対峙したどんな存在よりも、遥かに高く、深い力の塊だった。
あの子犬は、エリアナの足元に体を擦り付けながら、一切の感情を排した金の瞳をガストンへ向けた。
その瞳が、ガストンを完全に視界から消した。
まるで羽虫か石ころでも見るかのような、絶対的な無関心。だがそこには、一歩でも主への不敬を働けば、この世界ごと消滅させるという静かな宣告が込められていた。
「よしよし、ラピス。村長様を怖がらせちゃダメよ? とっても優しそうな方なんだから」
エリアナが屈み込み、その「世界の終わり」のような気配を放つ子犬を軽々と抱き上げた。
すると、あの子犬は先ほどまでの冷酷な眼差しをどこへやら、とろけるような顔でエリアナの胸に顔を埋めたのだ。 「きゅうん」と甘えた声を出し、彼女の服の裾を小さく噛んで、必死に自分への注意を引こうとしている。
「ふふ、ごめんなさい。この子、ちょっと人見知りで。……あ、そうだ。せっかくですから、お茶でもいかがですか? ちょうど淹れたところなんです」
「い、いや、そんな……滅相もない……」
断ろうとしたガストンだったが、エリアナがテーブルに置いたカップから漂う香りを嗅いだ瞬間、理性が吹き飛んだ。 香りを嗅いだだけで、脳の奥が洗われるような感覚。
「さあ、どうぞ。お口に合うか分かりませんが、田舎は水が綺麗ですから、それなりに美味しいと思うんです」
ガストンは震える手でそれを受け取り、一口含んだ。
その瞬間、ガストンの体内で劇的な変化が起きた。
魔力の中毒症状で黒ずんでいた指先が、見る間に健康的な色を取り戻していく。
これは茶ではない。奇跡そのものだ。
ガストンは、目から熱いものが溢れるのを止められなかった。
長年自分を苛んでいた痛みが、闇が、たった一口のお茶で浄化されていく。
「……あ、あの。エリアナ様。失礼ながら……あなた様は、もしや王都の……」
ガストンが問いかけようとした、その時。
膝の上にいたラピスが、エリアナの首筋に顔を寄せて、わざとらしく彼女の視線を遮った。
そして、ガストンを再びその鋭い瞳で捉えた。
今度は「消去」ではなく「追放」の拒絶。これ以上、我が主に言葉をかけるなという、傲慢なまでの独占欲。
「あらあら、どうしたのラピス? ごめんなさいね、村長様。この子、本当に甘えん坊で……。今日はもう、ラピスが寂しがっているので、この辺りで失礼してもいいでしょうか?」
エリアナは申し訳なさそうに、だがラピスを愛おしそうに抱きしめ直した。
ガストンに、不満など微塵もなかった。
「あ、ああ……。突然押しかけてすまなかった。……エリアナ様。もし、何か困ったことがあれば、いつでも村を頼ってくれ。俺たちは、あなた様を全力で歓迎する」
ガストンは深く、かつての王へ捧げたものよりも誠実な礼をした。
彼は確信していた。
この少女こそが、この国が見放した、だが絶対に手放してはいけなかった本物の救いなのだと。
*
ガストンが震えながら森を去った後。
王都の会議室では、ジークフリート王子が絶叫していた。
「なぜだ! なぜこれほどの騎士団を送って、たった一羽の鳥すら仕留められんのだ!」
「殿下……申し上げにくいのですが、兵たちの魔力が著しく減退しております。まるで、国全体の『活力』がどこかへ吸い取られているかのような……」
その言葉を、誰も否定できなかった。
王子の足元には、贅を尽くしたはずの豪勢な絨毯が、いつの間にか埃っぽく色褪せていた。
かつてエリアナが浄化し続けていたこの国は、今や急速に腐敗し、その輝きを失い続けている。
そんな王都の惨状など、今のエリアナには、冬の終わりの記憶よりも薄いものだった。
彼女は今、自分の首筋に顔を埋めて離れないラピスの、柔らかい耳の後ろを優しく撫でている。
「ふふ、もう、ラピス。そんなに甘えられたら、何もできないわ」
ラピスは満足げに、エリアナの鎖骨に鼻先を押し当て、深い眠りにつく。
彼にとっては、世界が滅びようが、隣の国が焼け野原になろうが、どうでもよかった。
ただ、この温かな腕の中が自分だけの場所であれば、それでよかったのだ。
辺境の村で村長を務めるガストンは、自分の目を疑い、何度も瞼を擦った。
目の前にあるのは、昨日まで誰もが近づくことさえ恐れた「死の森」だ。一歩足を踏み入れれば、瘴気によって肺が焼かれ、狂暴な魔獣に食い殺される。そんな呪われた地のはずだった。
だが、今ガストンの視界に広がっているのは、そんな不吉な名前を嘲笑うかのような光景だ。
境界線でも引かれたかのように、冬の銀世界の向こう側に「常春の楽園」が広がっている。
真っ白な雪は消え、青々とした柔らかな芝生がどこまでも続き、宝石のように輝く花々が咲き乱れていた。 ガストンがその目に見えない「線」を一歩越えた、その瞬間。
身体中の古傷が熱を帯びた。長年の戦いで患い、もう治ることはないと諦めていた足の痛みが、その土地を踏んだだけで、嘘のようにスッと引いていったのだ。
(王都の神殿など、比べるのも烏滸がましいほどだ……)
恐ろしいほどの清浄。ガストンは震える足で、その聖域へとさらに一歩を踏み出した。
中央には琥珀色に輝く美しいログハウス。そのテラスから、柔らかなプラチナブロンドを揺らして一人の少女が姿を現した。
「あら。お客様……でしょうか?」
鈴の鳴るような、透き通った声だった。
少女――エリアナは、簡素な服を着ているが、その立ち振る舞いには隠しようのない気品がある。
ガストンは反射的に、騎士としての礼をとりそうになるのを必死に抑えた。
「あ……いや。俺はこの先の村で村長をやっている、ガストンという者だ。この森に、あまりに妙な異変が起きたもので、調査に……」
ガストンがたどたどしく答えると、エリアナはぱっと顔を輝かせた。
「村長様でしたか! ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、エリアナと申します。事情があって、こちらでお世話になることになりました」
彼女が微笑んだ瞬間、ガストンの背筋に、冷や水を浴びせられたような戦慄が走った。
エリアナの後ろから、一匹の小さな黒い子犬が姿を現したからだ。
掌に乗るほどの小ささ。愛くるしい瞳。だが、その子犬がガストンを射抜いた瞬間。
――理解した瞬間、ガストンの思考が止まった。
逃げ場のない、圧倒的な「死」の気配。
それは、かつて戦場で対峙したどんな存在よりも、遥かに高く、深い力の塊だった。
あの子犬は、エリアナの足元に体を擦り付けながら、一切の感情を排した金の瞳をガストンへ向けた。
その瞳が、ガストンを完全に視界から消した。
まるで羽虫か石ころでも見るかのような、絶対的な無関心。だがそこには、一歩でも主への不敬を働けば、この世界ごと消滅させるという静かな宣告が込められていた。
「よしよし、ラピス。村長様を怖がらせちゃダメよ? とっても優しそうな方なんだから」
エリアナが屈み込み、その「世界の終わり」のような気配を放つ子犬を軽々と抱き上げた。
すると、あの子犬は先ほどまでの冷酷な眼差しをどこへやら、とろけるような顔でエリアナの胸に顔を埋めたのだ。 「きゅうん」と甘えた声を出し、彼女の服の裾を小さく噛んで、必死に自分への注意を引こうとしている。
「ふふ、ごめんなさい。この子、ちょっと人見知りで。……あ、そうだ。せっかくですから、お茶でもいかがですか? ちょうど淹れたところなんです」
「い、いや、そんな……滅相もない……」
断ろうとしたガストンだったが、エリアナがテーブルに置いたカップから漂う香りを嗅いだ瞬間、理性が吹き飛んだ。 香りを嗅いだだけで、脳の奥が洗われるような感覚。
「さあ、どうぞ。お口に合うか分かりませんが、田舎は水が綺麗ですから、それなりに美味しいと思うんです」
ガストンは震える手でそれを受け取り、一口含んだ。
その瞬間、ガストンの体内で劇的な変化が起きた。
魔力の中毒症状で黒ずんでいた指先が、見る間に健康的な色を取り戻していく。
これは茶ではない。奇跡そのものだ。
ガストンは、目から熱いものが溢れるのを止められなかった。
長年自分を苛んでいた痛みが、闇が、たった一口のお茶で浄化されていく。
「……あ、あの。エリアナ様。失礼ながら……あなた様は、もしや王都の……」
ガストンが問いかけようとした、その時。
膝の上にいたラピスが、エリアナの首筋に顔を寄せて、わざとらしく彼女の視線を遮った。
そして、ガストンを再びその鋭い瞳で捉えた。
今度は「消去」ではなく「追放」の拒絶。これ以上、我が主に言葉をかけるなという、傲慢なまでの独占欲。
「あらあら、どうしたのラピス? ごめんなさいね、村長様。この子、本当に甘えん坊で……。今日はもう、ラピスが寂しがっているので、この辺りで失礼してもいいでしょうか?」
エリアナは申し訳なさそうに、だがラピスを愛おしそうに抱きしめ直した。
ガストンに、不満など微塵もなかった。
「あ、ああ……。突然押しかけてすまなかった。……エリアナ様。もし、何か困ったことがあれば、いつでも村を頼ってくれ。俺たちは、あなた様を全力で歓迎する」
ガストンは深く、かつての王へ捧げたものよりも誠実な礼をした。
彼は確信していた。
この少女こそが、この国が見放した、だが絶対に手放してはいけなかった本物の救いなのだと。
*
ガストンが震えながら森を去った後。
王都の会議室では、ジークフリート王子が絶叫していた。
「なぜだ! なぜこれほどの騎士団を送って、たった一羽の鳥すら仕留められんのだ!」
「殿下……申し上げにくいのですが、兵たちの魔力が著しく減退しております。まるで、国全体の『活力』がどこかへ吸い取られているかのような……」
その言葉を、誰も否定できなかった。
王子の足元には、贅を尽くしたはずの豪勢な絨毯が、いつの間にか埃っぽく色褪せていた。
かつてエリアナが浄化し続けていたこの国は、今や急速に腐敗し、その輝きを失い続けている。
そんな王都の惨状など、今のエリアナには、冬の終わりの記憶よりも薄いものだった。
彼女は今、自分の首筋に顔を埋めて離れないラピスの、柔らかい耳の後ろを優しく撫でている。
「ふふ、もう、ラピス。そんなに甘えられたら、何もできないわ」
ラピスは満足げに、エリアナの鎖骨に鼻先を押し当て、深い眠りにつく。
彼にとっては、世界が滅びようが、隣の国が焼け野原になろうが、どうでもよかった。
ただ、この温かな腕の中が自分だけの場所であれば、それでよかったのだ。
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