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第一部:王国追放と聖域保護同盟
第5話 王国の使者と、神獣様のおしおき
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その日、森の楽園はいつになく穏やかな陽光に包まれていた。
「ふふ、今日は本当にいいお天気ね。お洗濯物がよく乾きそうだわ」
私は井戸から汲み上げた水で、シーツを洗っていた。
冷たいはずの井戸水は、私の手に触れると人肌のような心地よい温かさに変わる。洗剤など使わずとも、軽く浸しただけで生地が新品のような輝きを取り戻していくのが、見ていてとても楽しかった。
もちろん、その水が奇跡の聖水だとは、私はまだ知らない。ただ「ここのお水は不思議と汚れがよく落ちるわね」と、田舎暮らしの利点程度にしか思っていなかった。
「きゅうん」
私の足元では、ラピスが洗い立ての端をくわえようとして、じゃれついている。
濡れた手で頭を撫でてあげると、彼は気持ちよさそうに藍色の瞳を細め、私のスカートの裾を軽く噛んで引っ張った。
まるで行き届いた家事よりも、自分と遊ぶ時間の方が優先だと言わんばかりの独占欲。王宮にいた頃には想像もできなかった、誰かに求められ、必要とされる幸福な時間。
「もう、甘えん坊さんね。これが終わったら、とびきり丁寧にブラッシングしてあげるから。ね?」
私は幸せなため息をつき、洗い上がった真っ白なシーツを空にかざした。
眩しい光が、純白の布を透かして、私の視界を真っ白に染め上げた。 その時だった。
ドォン!!
突然、森の入り口付近で爆発音が響き、平和な空気が切り裂かれた。
鳥たちが一斉に飛び立ち、穏やかだった森の空気がびりびりと震える。
心臓が跳ね上がり、私は咄嗟にシーツを抱きしめて立ち尽くした。
「えっ……何? 魔物かしら?」
私が怯えてラピスを抱き上げようとした、次の瞬間。
森の木々を乱暴に切り払い、数名の騎士たちと、見覚えのある豪奢な鎧をまとった青年が、私たちの楽園になだれ込んできた。
「――見つけたぞ! エリアナ!」
その声に、私は息を呑んだ。 見間違えるはずもない。燃えるような赤髪に、傲慢な青い瞳。
かつて私の婚約者であり、私を「無能」と呼び捨ててこの森に放り出した、第一王子ジークフリートその人だった。
「殿下……? どうして、ここに……」
私が呆然とつぶやくと、ジークフリートは、まるで行き倒れの不潔なものを見るような目で私を睨みつけた。そして、周囲の琥珀色に輝くログハウスや、虹色の花々が咲き乱れる庭を見て、憎々しげに顔を歪めた。
「貴様……! 国が危機に瀕しているというのに、こんな場所で呑気に暮らしていたのか! この、出来損ないの聖女め!」
吐き捨てられた罵倒。彼の後ろに控える近衛騎士たちは、一様にひどく消耗した顔をしており、鎧は泥だらけで見る影もない。ここに来るまでに、死の森の本来の猛威に相当な目に遭わされたことが伺えた。
けれど、王子の傲慢さは何一つ変わっていなかった。
「さあ、とっとと支度をしろ! 王都へ戻るぞ! ミラの祈りでは全く足りんのだ。貴様のその無駄に多い魔力で、すぐに結界を貼り直せ!」
謝罪など、微塵も感じられない。あるのは、私を便利な道具として使い潰そうとする、隠しようもない傲慢さだけ。 私は恐怖で足がすくみ、言葉が出なかった。
あの冷たくて暗い、誰からも感謝されずにただ祈りを捧げ続けるだけの牢獄のような日々に、また戻されるのか――。
絶望が私の心を塗りつぶそうとした、その時。
『………………』
私の腕の中で、ラピスが静かに、けれど明確に「変質」した。
愛らしい子犬の姿のまま、彼から放たれたのは――生き物として、そこにいてはいけない“何か”だった。
――ピタリ、と。
風が止まった。
木々のざわめきが、まるで神の宣告を待つように静まり返る。
王子たちの荒い呼吸さえもが、冷たい水に閉じ込められたように停止した。
ラピスの藍色の瞳が、底なしの金色へと変わる。
その瞳がジークフリートを捉えた瞬間、王子の顔から血の気が引き、ガチガチと歯が鳴り始めた。
「ひ、っ……!? な、なんだ、この不気味な獣は……!?」
王子だけではない。後ろに控えていた歴戦の騎士たちまでもが、見えない巨大な手に心臓を鷲掴みにされたように、その場に崩れ落ち、嘔吐き始めたのだ。
「えっ? 殿下? 皆様、どうされたのですか!?」
私は状況が飲み込めず、慌てて彼らに駆け寄ろうとした。
しかし、ラピスが私の服をくわえて、それを制止した。
『主よ。近づいてはならぬ。穢れる』
頭の中に響く声は、いつもの甘えたものではなく、深淵の底から響くような冷徹な響きだった。
ラピスは私の腕から飛び降りると、地面に這いつくばる王子たちの前に立ち塞がった。
小さな子犬のはずなのに、その影は、まるで天空を覆い尽くす巨獣のように大きく、恐ろしく見えた。
ラピスは、王子たちを見下ろし、喉の奥で低く唸った。
ただそれだけで、王子たちの周囲の重力が何倍にも膨れ上がったかのように、彼らの顔が地面にめり込んでいく。
「あ、がっ……!? い、息が……っ!」
「許して、くれ……なんだ、これは、なんなのだ……!」
彼らは知らない。
自分たちが土足で踏み荒らそうとしたのが、この世界の理を司る神獣の「聖域」であり、彼が唯一愛を注ぐ「主」の庭であることを。
神獣の逆鱗に触れた代償は、彼らの魂を砕くほどの重圧となって降り注いだ。
けれど、私には彼らがなぜ突然苦しみ始めたのか、さっぱりわからなかった。
(もしかして、ここまで来るのに疲れてしまったのかしら? 皆様、ひどい顔色だわ)
私は彼らの体調不良を心配し、せめてもの情けとして、近くのテーブルに置いてあった水差しを手に取った。中には、今朝汲んだばかりの、透明で輝くような「井戸水」が入っている。
「あの、殿下。もしご気分が優れないのでしたら、お水をどうぞ。少しは楽になると……」
私がグラスに水を注ぎ、差し出そうとした瞬間。
ラピスが振り返り、私に向かって短く「わん!」と吠えた。
それは「ダメ!」という強い禁止の合図だった。
私はビクリとして、動きを止める。
ラピスは私の足元に戻ってくると、私の視界を遮るように立ち、再び王子たちの方を向いた。
そして、今度は明確な「排除」の意思を放った。
ドォォォン!!
目に見えない衝撃波が、王子たちを襲った。
彼らは悲鳴をあげる間もなく、まるで枯葉のように吹き飛ばされ、森の入り口の向こう側――自分たちが切り開いてきた茨と瘴気が渦巻く、本来の「死の森」へと転がり落ちていった。
「……えっ?」
私はぽかんと口を開けた。
今、何が起きたの? 突然突風が吹いて、皆様が慌てて帰ってしまわれたように見えたけれど。
呆然とする私の足元で、ラピスがいつの間にか、いつもの甘えた声で「きゅうん」と鳴いた。
見上げると、そこには先ほどまでの恐ろしい気配は微塵もない、愛くるしい子犬の姿があった。
彼は「怖かったね、もう大丈夫だよ」と言うように、私の足にすり寄ってくる。
「ラピス……あなたが、追い払ってくれたの?」
私が問いかけると、ラピスは誇らしげに尻尾を振り、落としたシーツをくわえて私の手に押し付けた。
『そんなことより、主よ。ブラッシングの時間だ』
そう言われている気がして、私は思わずクスッと笑ってしまった。
「ふふ、そうね。あの方達も、きっと急用を思い出して帰られたのね。……ありがとう、ラピス」
私は彼を抱き上げ、その温かな毛並みに顔を埋めた。
王子の来訪という悪夢は、ラピスのおかげで、あっという間に過ぎ去った嵐のようだった。
森の向こう側が、急にとても静かになった気がしたが、ラピスが私の耳元で甘い声を出すので、私はただ、穏やかな午後の平穏に身を任せることにした。
「ふふ、今日は本当にいいお天気ね。お洗濯物がよく乾きそうだわ」
私は井戸から汲み上げた水で、シーツを洗っていた。
冷たいはずの井戸水は、私の手に触れると人肌のような心地よい温かさに変わる。洗剤など使わずとも、軽く浸しただけで生地が新品のような輝きを取り戻していくのが、見ていてとても楽しかった。
もちろん、その水が奇跡の聖水だとは、私はまだ知らない。ただ「ここのお水は不思議と汚れがよく落ちるわね」と、田舎暮らしの利点程度にしか思っていなかった。
「きゅうん」
私の足元では、ラピスが洗い立ての端をくわえようとして、じゃれついている。
濡れた手で頭を撫でてあげると、彼は気持ちよさそうに藍色の瞳を細め、私のスカートの裾を軽く噛んで引っ張った。
まるで行き届いた家事よりも、自分と遊ぶ時間の方が優先だと言わんばかりの独占欲。王宮にいた頃には想像もできなかった、誰かに求められ、必要とされる幸福な時間。
「もう、甘えん坊さんね。これが終わったら、とびきり丁寧にブラッシングしてあげるから。ね?」
私は幸せなため息をつき、洗い上がった真っ白なシーツを空にかざした。
眩しい光が、純白の布を透かして、私の視界を真っ白に染め上げた。 その時だった。
ドォン!!
突然、森の入り口付近で爆発音が響き、平和な空気が切り裂かれた。
鳥たちが一斉に飛び立ち、穏やかだった森の空気がびりびりと震える。
心臓が跳ね上がり、私は咄嗟にシーツを抱きしめて立ち尽くした。
「えっ……何? 魔物かしら?」
私が怯えてラピスを抱き上げようとした、次の瞬間。
森の木々を乱暴に切り払い、数名の騎士たちと、見覚えのある豪奢な鎧をまとった青年が、私たちの楽園になだれ込んできた。
「――見つけたぞ! エリアナ!」
その声に、私は息を呑んだ。 見間違えるはずもない。燃えるような赤髪に、傲慢な青い瞳。
かつて私の婚約者であり、私を「無能」と呼び捨ててこの森に放り出した、第一王子ジークフリートその人だった。
「殿下……? どうして、ここに……」
私が呆然とつぶやくと、ジークフリートは、まるで行き倒れの不潔なものを見るような目で私を睨みつけた。そして、周囲の琥珀色に輝くログハウスや、虹色の花々が咲き乱れる庭を見て、憎々しげに顔を歪めた。
「貴様……! 国が危機に瀕しているというのに、こんな場所で呑気に暮らしていたのか! この、出来損ないの聖女め!」
吐き捨てられた罵倒。彼の後ろに控える近衛騎士たちは、一様にひどく消耗した顔をしており、鎧は泥だらけで見る影もない。ここに来るまでに、死の森の本来の猛威に相当な目に遭わされたことが伺えた。
けれど、王子の傲慢さは何一つ変わっていなかった。
「さあ、とっとと支度をしろ! 王都へ戻るぞ! ミラの祈りでは全く足りんのだ。貴様のその無駄に多い魔力で、すぐに結界を貼り直せ!」
謝罪など、微塵も感じられない。あるのは、私を便利な道具として使い潰そうとする、隠しようもない傲慢さだけ。 私は恐怖で足がすくみ、言葉が出なかった。
あの冷たくて暗い、誰からも感謝されずにただ祈りを捧げ続けるだけの牢獄のような日々に、また戻されるのか――。
絶望が私の心を塗りつぶそうとした、その時。
『………………』
私の腕の中で、ラピスが静かに、けれど明確に「変質」した。
愛らしい子犬の姿のまま、彼から放たれたのは――生き物として、そこにいてはいけない“何か”だった。
――ピタリ、と。
風が止まった。
木々のざわめきが、まるで神の宣告を待つように静まり返る。
王子たちの荒い呼吸さえもが、冷たい水に閉じ込められたように停止した。
ラピスの藍色の瞳が、底なしの金色へと変わる。
その瞳がジークフリートを捉えた瞬間、王子の顔から血の気が引き、ガチガチと歯が鳴り始めた。
「ひ、っ……!? な、なんだ、この不気味な獣は……!?」
王子だけではない。後ろに控えていた歴戦の騎士たちまでもが、見えない巨大な手に心臓を鷲掴みにされたように、その場に崩れ落ち、嘔吐き始めたのだ。
「えっ? 殿下? 皆様、どうされたのですか!?」
私は状況が飲み込めず、慌てて彼らに駆け寄ろうとした。
しかし、ラピスが私の服をくわえて、それを制止した。
『主よ。近づいてはならぬ。穢れる』
頭の中に響く声は、いつもの甘えたものではなく、深淵の底から響くような冷徹な響きだった。
ラピスは私の腕から飛び降りると、地面に這いつくばる王子たちの前に立ち塞がった。
小さな子犬のはずなのに、その影は、まるで天空を覆い尽くす巨獣のように大きく、恐ろしく見えた。
ラピスは、王子たちを見下ろし、喉の奥で低く唸った。
ただそれだけで、王子たちの周囲の重力が何倍にも膨れ上がったかのように、彼らの顔が地面にめり込んでいく。
「あ、がっ……!? い、息が……っ!」
「許して、くれ……なんだ、これは、なんなのだ……!」
彼らは知らない。
自分たちが土足で踏み荒らそうとしたのが、この世界の理を司る神獣の「聖域」であり、彼が唯一愛を注ぐ「主」の庭であることを。
神獣の逆鱗に触れた代償は、彼らの魂を砕くほどの重圧となって降り注いだ。
けれど、私には彼らがなぜ突然苦しみ始めたのか、さっぱりわからなかった。
(もしかして、ここまで来るのに疲れてしまったのかしら? 皆様、ひどい顔色だわ)
私は彼らの体調不良を心配し、せめてもの情けとして、近くのテーブルに置いてあった水差しを手に取った。中には、今朝汲んだばかりの、透明で輝くような「井戸水」が入っている。
「あの、殿下。もしご気分が優れないのでしたら、お水をどうぞ。少しは楽になると……」
私がグラスに水を注ぎ、差し出そうとした瞬間。
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それは「ダメ!」という強い禁止の合図だった。
私はビクリとして、動きを止める。
ラピスは私の足元に戻ってくると、私の視界を遮るように立ち、再び王子たちの方を向いた。
そして、今度は明確な「排除」の意思を放った。
ドォォォン!!
目に見えない衝撃波が、王子たちを襲った。
彼らは悲鳴をあげる間もなく、まるで枯葉のように吹き飛ばされ、森の入り口の向こう側――自分たちが切り開いてきた茨と瘴気が渦巻く、本来の「死の森」へと転がり落ちていった。
「……えっ?」
私はぽかんと口を開けた。
今、何が起きたの? 突然突風が吹いて、皆様が慌てて帰ってしまわれたように見えたけれど。
呆然とする私の足元で、ラピスがいつの間にか、いつもの甘えた声で「きゅうん」と鳴いた。
見上げると、そこには先ほどまでの恐ろしい気配は微塵もない、愛くるしい子犬の姿があった。
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私が問いかけると、ラピスは誇らしげに尻尾を振り、落としたシーツをくわえて私の手に押し付けた。
『そんなことより、主よ。ブラッシングの時間だ』
そう言われている気がして、私は思わずクスッと笑ってしまった。
「ふふ、そうね。あの方達も、きっと急用を思い出して帰られたのね。……ありがとう、ラピス」
私は彼を抱き上げ、その温かな毛並みに顔を埋めた。
王子の来訪という悪夢は、ラピスのおかげで、あっという間に過ぎ去った嵐のようだった。
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