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第一部:王国追放と聖域保護同盟
第9話 商人の王と、世界で一番贅沢な取引
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その日、森の聖域はかつてないほど「騒がしい」空気に包まれていた。
いつもの穏やかな鳥のさえずりを遮るように、森の境界線の外側から、何十人もの人間が放つ熱気と、馬のいななき、そして車輪が軋む音が聞こえてきたのだ。
「あら。今日はなんだか、とっても賑やかね。ラピス、また誰か迷い込んでしまったのかしら?」
私は、キッチンで大根の面取りをしていた手を止め、窓の外を眺めた。
足元では、ラピスが不機嫌そうに喉を鳴らしていた。彼はここ数日、私のブラッシングにご執心で、その至福の時間を邪魔されるのを何よりも嫌う。
「きゅう……ぐるるる」
ラピスは私の足首に自分の尻尾をぎゅっと巻きつけ、「行かなくていい」とでも言うように甘えてくる。そのあまりの可愛らしさに後ろ髪を引かれつつも、私はエプロンの汚れを払い、テラスへと出た。
境界線の向こう側には、昨日の盗賊たちとは似ても似つかぬ、壮麗な一行が立ち止まっていた。
銀色に輝く馬車。整然と並ぶ、白銀の鎧を纏った護衛たち。
そしてその中心には、仕立ての良い漆黒の外套を羽織る、一人の青年が立っていた。
名をセドリック・ヴァレンタイン。二十代という若さで大陸の流通を掌握し、世俗では「商人の王」と畏怖される男だ。
「……信じられん。死の森の奥深くに、これほど純度の高い聖域が実在したとは」
青年は、長いまつ毛に縁取られた琥珀色の瞳を見開き、呆然とこちらのログハウスを見つめていた。
彼は、自らの商会を率い、時には皇帝すら交渉のテーブルに引きずり出す知略の持ち主である。だが、そんな彼ですら、この地に満ちる「密度の違い」に言葉を失っていた。
「代表。あそこをご覧ください。あの女……今、あんな伝説級の秘宝を、洗濯バサミ代わりに使っています……!」
セドリックの側近が、震える指先で私のテラスを指し示した。
私はちょうど、昨日干した布を取り込もうとしていたところだった。
「あ、いけない。この石、重いから片付けるのが大変なのよね」
私は、風に飛ばされないよう布の上に置いていた『真紅の心臓』と『古龍の逆鱗』を、よいしょ、と持ち上げて、テラスの隅にある木箱の中に放り込んだ。
その瞬間、セドリックの中で、これまで培ってきた常識の土台が音を立てて崩壊した。
国を三つ買えると言われる神話の遺物が、あそこの少女の手元では、単なる「便利な道具」に過ぎないのだ。
「……失礼。私はセドリック・ヴァレンタイン。この森に起きている奇跡を聞きつけ、馳せ参じました。森の主とお見受けしますが、少々お時間をいただけますか?」
セドリックは、商人としての最高位の礼をとった。
「まあ。わざわざこんな辺境まで、お疲れ様ですわ。私はただ、ここで静かに暮らしているエリアナと申します」
私は困惑しながらも、彼をテラスへと招き入れた。
ラピスは私の後ろで、毛を逆立てながらセドリックを睨みつけている。
私が昨日井戸から汲んだ「綺麗な水」で淹れたお茶を差し出すと、セドリックは茶器を覗き込み、一瞬、呼吸を忘れた。
彼は覚悟を決めたように、その茶を一口含んだ。
その瞬間。彼の身体を巡る魔力回路が浄化され、過労で蝕まれていた全身の細胞が、まるで春の雨を得た花のように瑞々しく蘇っていく。
(……この少女自身が、世界の理を書き換える『神域の源泉』なのか)
商人の王としての本能が、激しく警鐘を鳴らす。
同時に、この圧倒的な価値を「手に入れたい」という、抑えようのない欲望が鎌首をもたげた。
だが、セドリックはすぐには口を開かなかった。彼は商人だ。目の前の存在が、金貨や権力という言葉が一切通じない「異質の存在」であることを、その肌で感じ取っていた。
「エリアナ様。単刀直入に申し上げます。あそこの木箱にある石と、そのお水を、私に譲っていただけませんか?」
一瞬の沈黙。セドリックは自らの中にある「商人の論理」と、この場の「神域の論理」を天秤にかけた。
「……代価として、私の持つ全商会、いや、ヴァレンタイン家の全財産を差し上げてもいい。あなたを、この世界の誰よりも豊かにすると約束しましょう」
それは彼なりの、誠実な、しかし不遜な「商談」だった。 だが、その提案が終わるよりも早く。
――ドォォ、ン。
空気が、一瞬にして液体のように重く沈んだ。 ラピスが、私の足元から一歩、前へ出た。
愛らしい子犬の姿のまま、ラピスはただ、その金の瞳でセドリックを射抜いた。
そこに言葉はなかった。
ただ、セドリックの脳内には、巨大な顎が自分の喉元に添えられたような、原初的な絶望が叩き込まれた。
『これ以上、不浄な取引を持ちかけるならば。貴様の築いたすべてを、塵へと還そう』
声なき意思が、商人の王の精神を完膚なきまでに粉砕した。
「ひ……っ、あ……」
セドリックは椅子から転げ落ちるように床に跪いた。
彼はようやく理解した。この少女を「買う」ことも、彼女の持つものを「取引」することも不可能なのだと。
彼女は世界そのものに愛されており、その隣には、主を穢す者を許さぬ絶対的な守護者がいる。
セドリックの中で、激しい葛藤が起きた。
全てを投げ打ってでも手に入れたいという商人としての「欲」。
それ以上に、この輝かしい聖域の一部でありたい、この少女の役に立ちたいという、魂の底からの「敬畏」。
やがて、彼は震える手で地面を掴み、深く頭を垂れた。
「……も、申し訳ございません。エリアナ様。……私は、あまりに愚かでした」
セドリックは、冷や汗を拭いながら、ようやく立ち上がった。
もはや、彼に「買い叩こう」という不遜な考えは一欠片も残っていなかった。
「……もし、お許しいただけるのであれば。私はあなた様の『御用聞き』として末席に加えていただきたい。商談ではなく……ただ、あなた様がこの地でより豊かに暮らすための、手伝いをさせてほしいのです」
商人の王が、一人の少女に、無条件の忠誠を誓った瞬間だった。
*
セドリックは、その後、震える足で森を去っていった。
彼は持ち帰るはずだった秘宝の代わりに、一生忘れることのない「畏敬」をその胸に刻んでいた。
「報告しろ……。エリアナ様は、この世界の法だ。彼女が何をしようとも、我々はただ、頭を下げて奉仕するだけだと……」
一方で、エリアナを捨てた王国。
王宮の宝物庫では、ジークフリート王子が空っぽな棚を叩き、狂ったように叫んでいた。
エリアナがいなくなったことで、国全体の魔力が減退し、王家の家宝として祀られていた秘宝までもが、その輝きを失い、ただの瓦礫へと変わってしまっていた。
城壁は脆くなり、庭園の泉は干上がり、王都全体を薄暗い影が覆い始めている。
だが、ジークフリートにはそれを止める術などなかった。
彼が送った密使も、兵も、誰一人として戻っては来ないのだから。
*
「ラピス、今日のご飯は、村の皆様からいただいた根菜のシチューよ」
私は、テラスでふて寝をしているラピスの背中を優しく撫でた。
セドリック様が、帰り際に「せめてこれだけでも受け取ってください」と、泣かんばかりに懇願していった小さな小瓶。
中には、世界で最も高価とされる「神龍の涙」という名の香辛料が入っていた。
「これ、とってもいい香り。シチューがもっと美味しくなるわね」
パラパラと、数粒を鍋に振りかける。それだけで、森にはとろけるような、天国のような香りが漂い始めた。
「きゅうん!」
ラピスは満足げに、私の腕の中で一鳴きした。
外の世界でどれほど地位のある人が来ようとも。
どれほど国が衰退しようとも。 この聖域の平穏と、お鍋から立ち上る温かな湯気。
そして、ラピスの幸せそうな一鳴きがあれば、それで十分だった。
私は、ラピスの温かな毛並みに顔を埋め、柔らかな夕暮れの時間に身を任せた。
いつもの穏やかな鳥のさえずりを遮るように、森の境界線の外側から、何十人もの人間が放つ熱気と、馬のいななき、そして車輪が軋む音が聞こえてきたのだ。
「あら。今日はなんだか、とっても賑やかね。ラピス、また誰か迷い込んでしまったのかしら?」
私は、キッチンで大根の面取りをしていた手を止め、窓の外を眺めた。
足元では、ラピスが不機嫌そうに喉を鳴らしていた。彼はここ数日、私のブラッシングにご執心で、その至福の時間を邪魔されるのを何よりも嫌う。
「きゅう……ぐるるる」
ラピスは私の足首に自分の尻尾をぎゅっと巻きつけ、「行かなくていい」とでも言うように甘えてくる。そのあまりの可愛らしさに後ろ髪を引かれつつも、私はエプロンの汚れを払い、テラスへと出た。
境界線の向こう側には、昨日の盗賊たちとは似ても似つかぬ、壮麗な一行が立ち止まっていた。
銀色に輝く馬車。整然と並ぶ、白銀の鎧を纏った護衛たち。
そしてその中心には、仕立ての良い漆黒の外套を羽織る、一人の青年が立っていた。
名をセドリック・ヴァレンタイン。二十代という若さで大陸の流通を掌握し、世俗では「商人の王」と畏怖される男だ。
「……信じられん。死の森の奥深くに、これほど純度の高い聖域が実在したとは」
青年は、長いまつ毛に縁取られた琥珀色の瞳を見開き、呆然とこちらのログハウスを見つめていた。
彼は、自らの商会を率い、時には皇帝すら交渉のテーブルに引きずり出す知略の持ち主である。だが、そんな彼ですら、この地に満ちる「密度の違い」に言葉を失っていた。
「代表。あそこをご覧ください。あの女……今、あんな伝説級の秘宝を、洗濯バサミ代わりに使っています……!」
セドリックの側近が、震える指先で私のテラスを指し示した。
私はちょうど、昨日干した布を取り込もうとしていたところだった。
「あ、いけない。この石、重いから片付けるのが大変なのよね」
私は、風に飛ばされないよう布の上に置いていた『真紅の心臓』と『古龍の逆鱗』を、よいしょ、と持ち上げて、テラスの隅にある木箱の中に放り込んだ。
その瞬間、セドリックの中で、これまで培ってきた常識の土台が音を立てて崩壊した。
国を三つ買えると言われる神話の遺物が、あそこの少女の手元では、単なる「便利な道具」に過ぎないのだ。
「……失礼。私はセドリック・ヴァレンタイン。この森に起きている奇跡を聞きつけ、馳せ参じました。森の主とお見受けしますが、少々お時間をいただけますか?」
セドリックは、商人としての最高位の礼をとった。
「まあ。わざわざこんな辺境まで、お疲れ様ですわ。私はただ、ここで静かに暮らしているエリアナと申します」
私は困惑しながらも、彼をテラスへと招き入れた。
ラピスは私の後ろで、毛を逆立てながらセドリックを睨みつけている。
私が昨日井戸から汲んだ「綺麗な水」で淹れたお茶を差し出すと、セドリックは茶器を覗き込み、一瞬、呼吸を忘れた。
彼は覚悟を決めたように、その茶を一口含んだ。
その瞬間。彼の身体を巡る魔力回路が浄化され、過労で蝕まれていた全身の細胞が、まるで春の雨を得た花のように瑞々しく蘇っていく。
(……この少女自身が、世界の理を書き換える『神域の源泉』なのか)
商人の王としての本能が、激しく警鐘を鳴らす。
同時に、この圧倒的な価値を「手に入れたい」という、抑えようのない欲望が鎌首をもたげた。
だが、セドリックはすぐには口を開かなかった。彼は商人だ。目の前の存在が、金貨や権力という言葉が一切通じない「異質の存在」であることを、その肌で感じ取っていた。
「エリアナ様。単刀直入に申し上げます。あそこの木箱にある石と、そのお水を、私に譲っていただけませんか?」
一瞬の沈黙。セドリックは自らの中にある「商人の論理」と、この場の「神域の論理」を天秤にかけた。
「……代価として、私の持つ全商会、いや、ヴァレンタイン家の全財産を差し上げてもいい。あなたを、この世界の誰よりも豊かにすると約束しましょう」
それは彼なりの、誠実な、しかし不遜な「商談」だった。 だが、その提案が終わるよりも早く。
――ドォォ、ン。
空気が、一瞬にして液体のように重く沈んだ。 ラピスが、私の足元から一歩、前へ出た。
愛らしい子犬の姿のまま、ラピスはただ、その金の瞳でセドリックを射抜いた。
そこに言葉はなかった。
ただ、セドリックの脳内には、巨大な顎が自分の喉元に添えられたような、原初的な絶望が叩き込まれた。
『これ以上、不浄な取引を持ちかけるならば。貴様の築いたすべてを、塵へと還そう』
声なき意思が、商人の王の精神を完膚なきまでに粉砕した。
「ひ……っ、あ……」
セドリックは椅子から転げ落ちるように床に跪いた。
彼はようやく理解した。この少女を「買う」ことも、彼女の持つものを「取引」することも不可能なのだと。
彼女は世界そのものに愛されており、その隣には、主を穢す者を許さぬ絶対的な守護者がいる。
セドリックの中で、激しい葛藤が起きた。
全てを投げ打ってでも手に入れたいという商人としての「欲」。
それ以上に、この輝かしい聖域の一部でありたい、この少女の役に立ちたいという、魂の底からの「敬畏」。
やがて、彼は震える手で地面を掴み、深く頭を垂れた。
「……も、申し訳ございません。エリアナ様。……私は、あまりに愚かでした」
セドリックは、冷や汗を拭いながら、ようやく立ち上がった。
もはや、彼に「買い叩こう」という不遜な考えは一欠片も残っていなかった。
「……もし、お許しいただけるのであれば。私はあなた様の『御用聞き』として末席に加えていただきたい。商談ではなく……ただ、あなた様がこの地でより豊かに暮らすための、手伝いをさせてほしいのです」
商人の王が、一人の少女に、無条件の忠誠を誓った瞬間だった。
*
セドリックは、その後、震える足で森を去っていった。
彼は持ち帰るはずだった秘宝の代わりに、一生忘れることのない「畏敬」をその胸に刻んでいた。
「報告しろ……。エリアナ様は、この世界の法だ。彼女が何をしようとも、我々はただ、頭を下げて奉仕するだけだと……」
一方で、エリアナを捨てた王国。
王宮の宝物庫では、ジークフリート王子が空っぽな棚を叩き、狂ったように叫んでいた。
エリアナがいなくなったことで、国全体の魔力が減退し、王家の家宝として祀られていた秘宝までもが、その輝きを失い、ただの瓦礫へと変わってしまっていた。
城壁は脆くなり、庭園の泉は干上がり、王都全体を薄暗い影が覆い始めている。
だが、ジークフリートにはそれを止める術などなかった。
彼が送った密使も、兵も、誰一人として戻っては来ないのだから。
*
「ラピス、今日のご飯は、村の皆様からいただいた根菜のシチューよ」
私は、テラスでふて寝をしているラピスの背中を優しく撫でた。
セドリック様が、帰り際に「せめてこれだけでも受け取ってください」と、泣かんばかりに懇願していった小さな小瓶。
中には、世界で最も高価とされる「神龍の涙」という名の香辛料が入っていた。
「これ、とってもいい香り。シチューがもっと美味しくなるわね」
パラパラと、数粒を鍋に振りかける。それだけで、森にはとろけるような、天国のような香りが漂い始めた。
「きゅうん!」
ラピスは満足げに、私の腕の中で一鳴きした。
外の世界でどれほど地位のある人が来ようとも。
どれほど国が衰退しようとも。 この聖域の平穏と、お鍋から立ち上る温かな湯気。
そして、ラピスの幸せそうな一鳴きがあれば、それで十分だった。
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