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第四章 空と大地の交差

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 仕事用の机が一つと来客用件普段は助手が仕事をするテーブルが一つ。後は仕事で使う資料が治められた小さな棚があるだけの簡素な部屋の中に小さな声が響いた。


「……あまり、こう言うことは言いたくないのだけど」


 顔を上げれば片手に書類の束を持ったアーデルハイトが、それをこちらに見せつけるようにして立っている。

 きっちりと揃えられた前髪にショートカットの金髪美少女は、若干呆れたような、そこに加えて少しばかり申し訳なさそうな表情でヨハンの方を見ている。


「書類の不備がぱっと見ただけでも三つ。それからの他の資料にも」

「……すまん。今修正する」


 その手から書類を受け取って、彼女が記しを付けたところに目を通していく。重要書類と言うわけではないが、その小さな失敗は少しずつここイシュトナルに損害を重ねていくことに繋がる。


「……少し休んだら?」

「仕事は山積みだ。そんな暇はない」


 戦後処理に、今後のことを顧みての人材の募集。それから各種雑務などヨハンの仕事は山積みになっている。

 特に、オルタリアとの関係は今が大事な時期だ。慎重に事を進めていく必要がある。


「あ、またミス」

「……む」


 そう指摘されて手が止まり、諦めて椅子の背もたれに深く寄りかかる。

 天上の方を見上げながら、ぐっと身体を伸ばした。


「不安な気持ちは判るけど……」


「なんの手掛かりもないんだ。戦争にかまけてダンジョン探索を後に回していたことがこんな影響を出すとは」


 先日、カナタが行方不明になったとの知らせがサアヤから入った。

 以来ゼクスを中心とした調査隊に行方を探させているが、今のところ成果は上がっていない。

 何せ何処でどのようにして行方が判らなくなったのかが全く判らないのだ。

 ダンジョンの探索を冒険者達に任せていた現状では、彼が自主的に制作した地図しかその中を確認する手段もない。

 積極的にそれらの地図を買い取ってはいるのだが、それを組み合わせても満足な全体像一つ見えてこないのが現状だ。

 不安は焦りに繋がる。

 理性では今動きべきではないと理解しているのだが、だからと言って何もしないわけにもいかない。

 その苛立ちから、仕事でもミスを連発するようになってしまっていた。


「焦っても始まらないわ。今は少し落ち着いて、情報を待ちましょう」

「……そうは言ってもだな」

「らしくない。そんなにあの子が大切?」

「……お前に俺の何が判る」


 そんな人間ではない。

 何が起ころうと超然的に構えていられたのは、そこにギフトと言う力があったからだ。

 それを失ったヨハンは、今はただの無力な人間の一人に過ぎない。先日、それを嫌というほどに重い知らされた。

 だから、今のヨハンはアーデルハイトが知る人物ではない。だからこそ、焦りもあってか不意に出てしまった一言ではあったのだが。


「ご、ごめん……なさい」


 彼女は、そう受け取られなかったようだ。怒りをぶつけられたと勘違いして、しゅんと肩を落としてしまった。


「……いや、すまん。苛立ちをぶつけてしまった。だが本当に、手段がないというのは不安になるし、何より恐ろしい」


 その言葉を聞いて、アーデルハイトは一瞬、ぽかんと口を開けたまま固まった。

 ヨハンが恐ろしいというのを聞いたのは初めてのことだ。

 そして、何となくではあるが理解した。

 彼は今、ギフトを失ったことを自覚した。その上で足掻かなければならない、その他の大勢と同じ人間の一人であることを。


「わたしも、少し配慮が足りなかったかも。でも怖くてもわたしがいるわ」

「……子供の力を借り過ぎるわけにもいかないだろう。ただでさえ、お前には世話をかけっぱなしなのに」

「……むぅ」


 子供と言われて頬を膨らませるアーデルハイト。


「だが、実際助かっている。こうして少し話をしてくれただけでも、随分と気が楽になった」

「そう? なら、ご褒美を貰ってあげてもいいわ」

「……すまんが、なにも持っていないぞ」

「この程度のことでそんな大層な要求はしないわ」


 そう言って、アーデルハイトは屈み気味に頭を差し出す。

 それを見てヨハンはなんとなく察したが、果たしてそれをしたところで彼女に何の得があるのかと、数秒ほど真剣に考えてしまった。


「どうしたの?」

「いや、本当にこれでいいのか?」

「ええ。減るものではないし、いいでしょう?」

「……まぁ、それもそうか」


 アーデルハイトの頭に手を伸ばす。

 指先にさらりとした絹のような手触りが触れると、その感触が伝わっているのか、アーデルハイトは小さく身体を震わせる。

 そしてその掌が前頭部に付けられる数舜前。

 ばしんと、ノックもなく派手な音を立てて扉が開かれた。


「神聖なる執務室で! 女の子とイチャイチャするのはよくないと思います!」


 肩で扉を押し開いて猛スピードで部屋に飛び込み、くるくると回転しながら咄嗟に手を引っ込めたヨハンとアーデルハイトの間に滑り込んだ上にテーブルの空いた床に珈琲とお菓子が乗っかったお盆を乗せたのは、肩口で切り揃えられた黒髪の女性でありイシュトナル本部の顔役でもあるサアヤだった。

 よくもまぁあれだけの動きをしてお盆に乗せた珈琲が零れなかったものだと、そこは素直に感心する。

 イチャイチャしていたかどうかは別として、部屋の外から中の様子を伺う方法はなかったはずなのだが……。


「ヨハンさん! ここはお仕事をする部屋です!」

「いや、それは判っているが……」


「別に遊んでいるわけではないわ。ちょっとしたご褒美を貰おうとしていただけよ。余計な邪魔が入ったけど」

 じろりと、アーデルハイトがサアヤを睨む。


「お仕事ですから仕方ないですよ。大人は簡単ではないんですよ、お手伝いのアーデルハイトさん」

「……ふぅん。別にいいけど。わたしは、貴方にはできないことをしたから」

「なっ! できないことって何ですか! そんな『彼の全てを判ってる女』みたいな顔をしても無駄ですよ! 女が思ってるほど男の人は単純じゃないんですよ!」

「……サアヤ。少し静かに。それから女のお前がそれを言うか」


 ちなみに男は女が思っている以上に単純で簡単だと、ヨハンは思っている。まぁ、そればかりは男女ともにお互い様だろうが。


「あ、ごめんなさい」

「……別に、そんなに無理しなくてもいいぞ」

「判っちゃいました?」


 彼女がヨハンを元気づけるために空元気でここに入ってきたことぐらい、一目見れば理解できる。

 それがばれていたことが悔しくて、しかし同時に何処か嬉しくて、サアヤは複雑な表情をしていた。


「用が済んだのなら出ていってもらえる? まだ仕事が済んでいないの」


 先程休めと言った口で、アーデルハイトがサアヤに冷水を浴びせかける。なんとなく、二人の間にある空気に不穏なものを感じ取った成果だった。


「いいえ、お知らせはまだあります。ヨハンさん、カナタちゃんが行方不明になっていたときに一緒にパーティを組んでいたうちの一人が、イシュトナルに出頭してきました」


 途端真剣な顔つきになり、サアヤはそう言った。


「本当か?」

「はい。エトランゼの男性で、名前はカルロさん。時間があるのならすぐに面会できますけど」

「頼む。アデル、すまないが」

「ええ、判っているわ。仕事の方は任せておいて」


 アーデルハイトも即座に自分がやるべきことを理解して、二つ返事で了承する。

 ヨハンは居ても立っても居られず、椅子から立ち上がって部屋を出ていこうとする。


「あ、ヨハンさん!」


 そこをサアヤに飛び留められた。


「なんだ?」

「珈琲、冷めちゃいますよ」

「冷めても飲めるが」

「美味しい時に呑んでもらってこそ、煎れた甲斐もあります。落ち着く意味も兼ねて、それを飲み終えてから参りましょう」


 笑顔でそう言いながら、木製のカップを手渡すサアヤ。

 確かに彼女の言う通り、あの勢いで行っていたら感情のままに行動してしまったかも知れない。

 相手が何を思って、どのような目的があるのかも判らないのだ、落ち着かなければならない理由は幾らでもある。

 ゆっくりと一杯の珈琲を飲みながら、頭の中で様々な可能性を巡らし、自分の中で回答の当たりを付けておく。

 横目でサアヤを見れば、ヨハンがそうなることが判っていたのだろうか、再度こちらに緩く微笑みを向けてくれた。


「……むぅ」


 そしてアーデルハイトは面白くなさ半分、関心半分の複雑な表情をしていた。
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